《後編》 聖なる月夜に一雫の蒼を
やっとの思いで駅前ロータリーへ辿り着いた聖。片隅へ自転車を停め、光の中を泳ぐように駆けた。そうして駅の改札へ続く階段を上り、ペデストリアン・デッキへ抜けた。
人々の群れをかき分け、彼女の姿だけを必死に求める。
「すみません。通してください」
思うように進めない。いつもより多い人波に苛立ちながら、聖は目的の場所へと急いだ。
そこかしこで、楽器の音色と歌声が響いていた。このペデストリアン・デッキには普段からストリート・ミュージシャンが集い、競い合うようにパフォーマンスが行われている。今夜はクリスマス・ライブがあるのだと、彼女がずっと楽しみにしていたことを覚えていた。
デッキの一画に設けられた並木通り。そこへようやく辿り着いた聖だったが、そのまま動くことができなくなっていた。
並木の木陰。彼女が指定席としていた場所で、ついにその姿を見つけたからだ。
どうにかここまで来たものの、今更、何をいえばいいのかわからない。謝罪の言葉すら上手く見つけられない。喉は乾き、蓄積されてきたはずの言語は凍り付いてしまったように、何ひとつ浮かんで来ない。
それでも、自分の心が彼女を求め続けていることだけははっきりとわかっていた。
欠けてしまった自身のピース。それを埋めることができるのは彼女しかいない。それがわかっているからこそ、これまでの一年、聖は苦しみと後悔を味わい続けてきたのだ。
「陽奈……」
呻くように言葉を絞り出す。一年ぶりに呼んだその名が、懐かしさを帯びて響いた。
それが聞こえたのかはわからない。抱えたギターをチューニングしていた彼女が不意に顔を上げ、ふたりの視線が交錯した。
よろめくような足取りで、一歩ずつ近付いてゆく聖。その様子を見つめる陽奈の顔は、戸惑いで覆い尽くされていた。
「俺が間違ってた。本当にごめん」
今の聖には謝罪することしかできなかった。
「本当ははっきりわかってたんだ。俺がガキなんだってことは……」
言葉を求めて、唇を噛み締める聖。見上げた空には綺麗な満月が浮かんでいた。
「リストラされて、ヤケになって、一歩ずつ夢に近付いてる陽奈に、置いていかれるのが怖かったんだ。励まされれば励まされるほど気持ちが焦って、どうしていいのかわからなくなってた」
聖は心のどこかで、陽奈を対等の存在だと考えていた。
空へ浮かぶ満月のように、暗闇にぼんやりと浮かぶだけ。互いに寄り添い合わなければ存在を示すことすらできないのだと。
しかし、彼女は堅実に光を集め、輝ける場所へ向かって歩み始めていた。聖の支えが、存在がなくとも、その名の通り自分の力だけで輝けるほどの逞しさを身に着けていた。
自分だけが前に進めていない。そんな惨めさと焦りが聖へ重くのしかかり、その心を更に暗い場所へと引きずり込んでいた。
聖は足元を確認するように、ためらいを含んだ歩調でゆっくりと陽奈へ近付いた。しかし、あと数歩というところで不意に足が止まる。
彼女がこの場所でスカウトされ、大人気シンガー蒼月陽奈となるのは数ヶ月後。だが、自身が介入することで彼女の未来が変わってしまうのではないか。そんな不安が聖の中で渦巻いた。しかし、この想いを止める術が見つけられないのも事実だ。
言葉を発することも、足を進めることもできない。そんな彼に愛想を尽かしたのか、気を取り直した陽奈はギターを抱え直した。
ふと現実に帰った聖は、辺りを見回した。すると周囲は既に、陽奈の歌を目当てにしたギャラリーで埋め尽くされている。
自分が邪魔者のような気がして、聖は慌ててギャラリーの中へ飛び込んだ。既に、陽奈との間には深い溝ができているのだと思い知らされた。
氷の街などと名付けた殻へ閉じ籠っている間に、聖の存在は世間から隔離された所へ置かれていたのだろう。まるで自分が浦島太郎にでもなったような気分を味わっていた。
うなだれた聖の耳へ、陽奈の声が懐かしさを伴って届けられた。
「皆さん、今日はありがとうございます。クリスマス・イヴということで、カップルも多いですね。今夜は、恋人たちが幸せになれる歌を。シングル・ベルの方には、私から愛を込めて。精一杯歌わせて頂きますので、短い間ですが楽しんでください」
声援と暖かな拍手に迎えられ、陽奈のライブが始まった。聖にとって一年ぶりに生で聴く歌声。それが心へ沁み入り、熱を灯してゆく。
陽奈の選曲は有名なクリスマス・ソングが中心だった。自作の曲は歌わず、あくまでクリスマス仕様で通そうとしているようだ。
人だかりから離れた聖はベンチへ腰掛け、月夜に響く陽奈の歌声に耳を傾けていた。
ここから消えてしまおうか。そんな考えも頭を過ぎったが、久し振りに聴いた生歌の心地良さが勝り、その場を動くことができなくなっていた。
☆☆☆
「今日、最後の曲になってしまいました」
楽しい時間ほど過ぎ去るのは早い。陽奈の言葉に釣られるように、ギャラリーからは悲鳴のようなブーイングが湧き上がった。
その波が過ぎ去るのをじっと待ち、陽奈は大きく息を吸い込んだ。
「最後は私の原点であり、代表曲です。聴いてください。聖なる月夜に一雫の蒼を」
陽奈の奏でるギターが、ゆったりと幻想的なメロディを紡いだ。それを聞いた聖は弾かれるように顔を上げ、即座に立ち上がっていた。
聖の動きへ合わせたように、光の祝福が並木へ降り注いだ。イルミネーションが一斉に点灯し、蒼白い光の粒たちが木々を彩る。背後に佇む満月と混ざり、荘厳な光景が陽奈のシルエットを浮かび上がらせる。
周囲が歓声を上げる中、聖は言葉をなくして立ち尽くしていた。だがそれは、別れを告げられた時の自分とは逆の感情。暴力的とも思える歓喜の渦が、身体の中で暴れていた。
全身の血液が沸騰しそうなほどの興奮と感動。身体が武者震いを起こしていた。
「これが、蒼月陽奈の本領か」
月夜に浮かぶ、陽奈の肢体が蘇る。三日月に跳ねる吐息のような優しい歌声。それが今、美しい旋律に乗り、聖の鼓膜を、心を、激しく揺さぶっている。
『この曲はね、聖のために作ったんだよ』
照れ臭そうにはにかんだ陽奈の顔が蘇る。
『私が辛い時、いつも傍にいて励ましてくれたでしょ。そんなあなたへ、感謝と愛おしさを込めた曲なの』
恥ずかしさを誤魔化すように、弦を爪弾く。
『曲のタイトル? まだ決まってないの』
すり減ってゆくような日々の中で、聖はすっかり忘れてしまっていた。
会社員とストリート・ミュージシャンという二足のわらじ。思うように結果が出せず、荒んでいたのは陽奈も同じだった。そんな彼女を支え、元気付けたいという想いも手伝って、聖は同棲を持ちかけたのだ。
その甲斐もあってか、陽奈は次第に調子を取り戻し、彼女の歌声を目当てにするギャラリーも着実に増えていった。
リストラにあった聖を甲斐甲斐しく支え続けたのは、ひとえに当時の恩を返したいという陽奈の強い想いからだった。
そんな彼女の熱演を見つめる聖。その瞳から、自然と涙が零れた。
「なにが氷の街だ」
それは、卑屈になった聖の心が生み出した幻。ヤケになって癇癪を起こした幼稚な自分が、立て籠もって好き勝手に振る舞うための、薄氷で作られた工作に過ぎなかった。
「俺は大バカ野郎だ」
聖の中に込み上げた熱が、氷の街を飲み込んだ。終演に伴うギャラリーの歓声が嵐となり、薄氷の工作は跡形もなく崩れ去る。
そうしてギャラリーが、ひとり、またひとりと立ち去り、聖の視界にようやく陽奈の姿が捉えられるようになった。
聖は改めて陽奈へと歩み寄ってゆく。どのような結果になろうとも、後悔は微塵もなかった。
「プロも顔負けの凄いライブだった。圧倒されたよ。特に最後の曲は鳥肌ものだった」
「あなたがいたから、気合が入り過ぎちゃったみたい。明日、声が枯れてるかも」
照れ笑いを浮かべ、喉をさする陽奈。
そんな彼女が愛おしくなり、笑みを零した聖だが、すぐに神妙な顔つきへ変わった。
「俺がこんなこと言える立場じゃないのはわかってる。でも、俺には陽奈が必要なんだ。許してもらえるなら、もう一度やり直したい」
聖が見守る中、立ち尽くした陽奈の瞳へ涙が滲む。
「もう、ダメなんだと思ってた……どれだけ待たせるのよ」
顔をほころばせた陽奈が、倒れ込むように聖の胸へ飛び込んだ。
その細い身体をしっかりと抱き止めた聖は、この温もりを二度と離すまいと心に誓う。
「本当に悪かった。俺もしっかり前を向いて頑張るよ」
照れ笑いを漏らす聖。
陽奈はそんな彼の存在を確かめるように、ジャンパーへ顔をうずめたまま身じろぎもしない。
「間に合ってよかった」
その一言だけをぼつりとこぼした。
「なにが?」
極上の笑みを浮かべた陽奈が、不思議そうにしている聖の顔を見上げる。
「私にとって最高のクリスマス・プレゼント。サンタさん、ありがとう」
「サンタじゃなくて、三田だからな。三田」
毎年繰り返されていた、微笑ましく懐かしいやり取りが甦る。
「聖に言ったんじゃないもん」
「は? なに? 純真無垢な乙女かよ?」
「永遠の乙女ですけど。悪い?」
ふくれっ面の陽奈を見て、盛大に吹き出す聖。ふたりの笑い声が夜空へ跳ねる。
その頭上には、優しい光を湛える綺麗な満月。
地上で輝くイルミネーションが、月夜へ夢幻的な蒼の光を添えていた。
聖なる月夜に一雫の蒼を。