《中編》 魔法の蝋燭
「これ、あげる」
未希が差し出したのは、一本の蝋燭。
「僕にくれるの?」
正面へしゃがんだ聖は、呆気にとられた顔でそれを摘まんだ。バースデーケーキに添えられるような、何の変哲もない赤い蝋燭。特別な意味があるとも思えなかった。
「それは魔法の蝋燭なの。火を点けて、それが全部なくなると、凄いことが起きるの」
「魔法の蝋燭か。ありがとう。サンタがプレゼントを貰うんじゃ逆だよね」
聖は苦笑しながら立ち上がり、サンタ衣装の上着ポケットへそれをしまった。
「蝋燭なんて、どこから持ってきたの?」
「未希の魔法で作ったの。えいやーって」
花連に満面の笑みで答え、未希は駆け出して行った。
その後ろ姿に、奈々は顔をほころばせる。
「相変わらず、不思議ちゃんですね」
「そうね。でも、素直で凄く良い子よ」
聖は、花蓮の横顔へ過ぎった陰を見逃さなかった。自身の心へ陰があるように、眼前の女性にも同じ匂いを感じていた。
「花蓮さん、ラブラブで羨ましい。守時さんとも、結婚間近じゃないかって聞いてますけど」
「それは、ほら……流れに身を任せることにしているから。未希ちゃんのこともあるし、色々とね」
「じゃあ、俺はこの辺で」
聖は頭を下げ、素早く背を向けた。
客の込み入った事情に付き合っている場合ではないし、興味も持てなかった。
店を出た途端、ひんやりとした夜の空気が聖の体へ纏わり付いた。背後から漏れてくる、喧騒と暖かな光。それが余計に、目の前へ広がる現実との落差を実感させる。
再び、氷の街へ戻ってきたのだ。やはり自分にはこの場所がお似合いだ。そんなことを思いながらスクーターへ跨ると、頭上には綺麗な満月が輝いていた。その真円が、ピザの形と重なる。
誰かがピースを手に取る度に、円を失って歪になってゆくピザ。今の聖の心もまた、必要なピースを失い、円を保てなくなっていた。
失ってようやく思い知った。自身の心が円を保っていられたのは、彼女の存在があったからなのだということに。
どこでピースを失ったのか。それは、聖にもはっきりとわかっている。
苦労の末、ようやく手にした内定。大学時代から付き合っている彼女も自分のことのように喜んでくれ、ついに同棲を決意した。
しかし、不況の煽りを受け、入社からわずか一年でリストラされてしまったのだ。
『また頑張ろう。私もバイト増やすから、お金のことなら心配しないで』
彼女の言葉すら何の慰めにもならなかった。社会から爪弾きにされたような疎外感と怒りで、聖の心は急速に熱を失っていった。
次の勤め先が見付からず、食い繋ぐためにアルバイトで生計を立てる日々。彼女と身体を重ねても、決して満たされることはなかった。そんな毎日の中で聖の心は擦り減り、次第に疲弊していった。
『いつまでも、夢ばっかり見てんじゃねぇよ』
あの日、彼女へ向けたのは言葉の刃。
『夢を持つのは悪いことなの?』
挑んでくるような彼女の目に苛立った。
『いい加減に、現実を見ろって言ってんだよ』
『私だって、ちゃんと考えてる』
聖も八つ当たりだとわかっていた。
しかし、一度滑り出してしまったら、容易に止まることはできなかった。氷の斜面を滑り落ちるように、後はただ落ちてゆくだけ。
心ない言葉の数々で彼女を押さえ込み、その心を容赦なく切り刻んでいた。
『さようなら』
彼女は、心から流れる血の涙を拭うこともしなかった。リュックとキャリーケースに収まるだけの荷物を持ち、聖の前から去った。
取り返すことのできない後悔に満ちた日々。どこまでも滑り落ちた聖は、氷の街へと迷い込んでいた。
☆☆☆
バイトを終えた零時過ぎ、暗闇と寒さが支配するだけの、ひとりきりの部屋へ戻った。
エアコンの電源を点け、部屋の鍵をテーブルの上へ放る。ジャンパーを脱いだ時、ポケットから落ちた何かに気付いた。
「これ……」
未希から貰った蝋燭だった。
「魔法の蝋燭、か」
こんな自分でも、クリスマス気分に浸りたいという願望か。はたまた氷の街で凍えた余り、暖を求めたからなのか。
気付けばライターを手にして、灰皿の中で真っ赤な蝋燭が火を灯していた。
「どんな凄いことが起きるって?」
苦笑を漏らして腰を落ち着け、冷蔵庫から出したビールを一気に煽った。僅かに開いたカーテンの隙間から、満月がくっきりと見えた。
『私ね、昔から月を見るのが好きなの』
生まれたままの姿で、窓辺に立つ彼女。惜しげもなく晒された肢体を、柔らかな月光が照らし出していた。
薄闇の中、均整の取れた妖艶なシルエットを眺めるのが聖は好きだった。
『なぁ、歌ってくれないか?』
彼女がそっと漏らした、吐息のような歌声。それが三日月に乗って夜空へ跳ねる。
母親の子守唄のように、安らぎを感じる彼女の声が好きだった。その歌声を独占しているということが、聖をとても誇らしげな気持ちに浸らせていた。
「俺が願うのは、ひとつだけ……」
喉の奥から言葉を絞り出す。握られたビール缶が、悲鳴のような音を立てて潰れた。
「もう一度だけでいい」
祈るように頭を垂れる聖。テーブルへ額を打ち付ける鈍い音が響いた。
☆☆☆
いつの間にか眠っていたことに気付き、聖は慌てて顔を上げた。
辺りを見回すと、外は相変わらずの暗闇。しかし、サイドボードに置かれたデジタル時計は二十時を示している。帰宅したのは零時過ぎだったはずだ。
「なんで? 丸一日も寝てたのか?」
慌てて立ち上がった瞬間、室内の異変に気付いた。凍り付いたように動きを止めながらも、嗅覚だけはせわしなく活動を続けている。
一年ぶりに感じる懐かしい香り。聖は胸が締め付けられる想いを味わっていた。
彼女が好んで使っていた香水。ほのかに甘い、フローラルな残り香が漂っている。
「まさか、あいつが来たのか」
驚きと期待を抱えながらも、ふと現実へ立ち戻る。彼女はもう手の届かない存在だ。こんな所へ、自分の下へ来るはずがない。
彼女の幻影を追う余り、その香りが蘇っただけだろう。そう思いながら頭を振るう。
そうして再び顔を上げたが、やはり違和感の全てを拭い去ることはできなかった。
照明を点けた記憶がないのに、煌々とした明かりが室内を照らしている。そして、テーブルの上に置かれた、ふたつのマグカップに目を留めていた。
彼女とふたりで買った色違いのペアカップ。聖自身が既に捨て去ったはずのそれが、なぜか存在している。
「どうなってるんだ?」
いよいよ夢を見ているとしか思えなかった。氷の街でついに凍死の瞬間を迎え、幻を見ているのかもしれない。
壁に手をついた瞬間、そこに掛けられたカレンダーが目に付いた。何気なく目にしたそれを、思わず二度見してしまう。
「は?」
なんとも間抜けな声が漏れた。なぜか、そこに書かれた西暦は一年前のもの。
テーブルの上に置かれた、テレビのリモコンを取った。電源を入れた先でも、報道番組のアナウンサーが一年前の西暦を口にしている。
「現実……なのか?」
その瞬間、聖の頭の中で光が弾けた。
一年前、二十時、残り香。
それら全てが、ひとつの記憶と結び付く。
『さようなら』
彼女が聖の前から去ったのは、一年前のこの時間。もしも本当に時間が戻ったのだとしたら、ここは彼女が出て行った直後の自室に間違いなかった。
ハンガーに吊るされたジャンパーを掴み、テーブルに置かれた部屋の鍵を取り上げる。着の身着のまま、慌てて部屋を飛び出した。
アパートの駐輪場から自転車を引き出そうとした聖だったが、肝心の鍵を忘れたことに気付いて舌打ちを漏らした。
戻っている時間が惜しい。仕方なく、走ってゆくことに決めたその時だ。
「あれ? 三田君、何してるの?」
自転車に乗って近付いて来たのは、仕事帰りの隣人、広世青羽だった。スーツを着こなすその姿は、聖が憧れている存在そのもの。
広世と顔を合わせる度、アルバイトという自身の立場に引け目を感じてしまう聖。一歳しか変わらないという事実が余計に彼を苦しめ、現実をまざまざと突きつけられる。
自分はまだまだ青い時代を生きている。そんな風に思い知らされてしまうのだ。
「広世さん、自転車を貸してもらえませんか。後で必ず返しますから」
「え? まぁ、いいけど」
「ありがとうございます」
引ったくるように自転車を借り、無我夢中でペダルを漕いだ。彼女の行き先はわかっている。向かうのはあそこしかない。
夜の闇を切り裂くような勢いで、がむしゃらになってペダルを漕いだ。この奇跡のようなチャンスを無駄にできない。ただその一心で、必死に彼女の姿を追い求めた。
あの未希という女の子は何者なのか。この時代にいるはずの自分はどこへ行ったのか。そして、自分がいなくなった未来の世界はどうなったのか。
考えてもわかるはずのない疑問ばかりが頭を過ぎり、ついに考えることを放棄した。今はただ、目の前のことに集中すればいい。自身へ向けて、強く言い聞かせていた。
住宅街を颯爽と走り抜けると、駅前の煌々とした光の群れが見えてきた。それはまるで彼女の内から放たれている、眩しいオーラのように思えた。
私はここにいる。生きているのだと、存在を主張するような眩い光。そこに触れたいと、少しでも近付きたいと、聖は心から願った。