《前編》 氷の街
『さようなら』
遠ざかってゆく彼女の背中を見ながら、聖は動くことができなかった。
その光景は、隠し絵のように意識の奥底へ紛れた。そうしてふとした瞬間、いたずらに心へ差し込む光の屈折により、不意に浮かび上がっては彼を苦しめ続けている。
彼女が去って一年。また冬を迎えて、聖は思う。きっとあの日に、自分の時間は止まってしまったのだと。それはさながら、氷の街に閉じ込められた自身の姿を想起させていた。
「おっと」
赤信号を認めた聖は、慌ててスクーターのブレーキをかけた。横断歩道をゆく大勢の人々を眺め、カップルの姿に舌打ちを漏らす。
今日はクリスマス・イヴだ。冷え込みの厳しくなってきたこんな夜でも、道行く彼らの心は温もりで満たされているのだろう。
「浮かれてんじゃねぇよ」
つぶやきは雑踏にかき消される。その現実から逃げるように顔を上げた先には、ビルに備え付けられた大型の街頭ビジョンがあった。
画面の中では、ギターを抱えたひとりの女性歌手が、華やかな衣装を纏って歌っている。
「見て、蒼月陽奈だ。歌は上手いし、可愛いし、羨ましいよねぇ」
「知ってる? 彼女って元々は、そこの駅前で演奏してたストリート・ミュージシャンなんだって。シンデレラ・ストーリーだよね」
街頭ビジョンの前には、若者の人だかりができていた。彗星の如く現れた期待の大型新人は、今や時の人として話題を攫っている。
彼女を目にして、聖は不意に自らの姿を見下ろした。真っ赤なサンタクロースの衣装。乗っているのはソリではなく、ピザ屋のロゴが付いたジャイロ・キャノピーだ。
「こんな格好で配達なんて、恨むぜ店長」
このまま戻って、店舗に突っ込んでやろうか。心の中で毒づいた途端、面白がっている店長の顔までもが思い浮かんできた。
『今日は、おまえの晴れ舞台だな』
開店前のミーティングで差し出されたのは、今、聖が着ているサンタの衣装だった。
『今日のデリバリー担当はこれを着るようにって、本部からの通達だ。うちの店をしっかりアピールしてくれよ』
スタッフを見渡していた店長の目が、再び聖へ注がれた。
『特に、三田聖。おまえの名前は、今日のためにあるようなもんだ。しっかり頼むぞ』
周囲の失笑を受け、聖はいたたまれない気持ちになった。クリスマスが近づく度に名前をからかわれるのは、昔からの恒例だった。
「あいつからも、毎年いじられたよな……」
ため息をついた聖の心へ、対向車のライトが差し込んだ。こんな時にも隠し絵が浮かび、古傷を抉られる。心の奥が悲鳴を上げる。
だが、感傷に浸る間もなく、背後からのクラクションが先へ進むことを急かした。
「わかってるよ」
不機嫌に言い捨てる聖。そうして過去の幻影を振り切るように、アクセルを捻って走り出した。
☆☆☆
スクーターを止めた先は、カフェ・ルポゼという名の喫茶店。聖は入ったことはないが、雑誌にも取り上げられ、地元でも隠れた名店として知られている。
「喫茶店のくせにピザを注文するって、どういうことだよ」
オーダーを受けた三枚のピザを手に、不満顔をした聖が店舗の入口へ進んでゆく。
すると、ドアを押し開けながら、ひとりの女の子が飛び出してきた。
ドアの上部に取り付けられた鈴が小気味よい音を奏で、それに釣られたように、女の子は満面の笑みを浮かべる。
「サンタさんだ。サンタさんが来た」
「え? あ、いや……サンタじゃなくて」
聖の返しに、女の子は不思議そうな顔で首を傾げた。
「サンタさんじゃないの?」
「残念だけど違うんだ。ごめんね」
「じゃあ、なんでサンタさんのお洋服を着てるの?」
「それはその……」
完全に否定しようとした聖だったが、下手な言い訳をして、幼子の夢を打ち砕くようなことはしたくないと考えていた。
「僕はサンタの見習いなんだよ」
「みならい、ってなあに?」
「それはつまり……」
「サンタさんになるために、お勉強してるってことだよ」
いつの間にか女の子の隣へ、三十代中頃の男性が立っていた。その助け舟を得て、聖はほっと安堵の息を漏らしていた。
「お勉強すれば、サンタさんになれるの? 未希もサンタさんになりたい」
「いっぱいお勉強して、もっと大きくならないと難しいよ。みんなのプレゼントを運ぶから身体も鍛えなくちゃならないし、ソリに乗る練習もあるんだぞ」
「未希、がんばる」
「じゃあまずは、いっぱい食べて、いっぱい寝ること。練習はそれからだ。わかった?」
「はーい」
元気よく手を挙げた女の子を見て、聖は思わず吹き出してしまった。こんなに穏やかな気持ちになったのは久しぶりのことだった。
「ほら。寒いから、お店の中に戻ろう」
女の子の背中を押す男性と目が合い、聖は互いに笑みを交わした。
「ピザのご到着。待ってましたっ」
聖が入るなり、歓声に迎えられた。
店内はクリスマスの装飾が施され、貸し切りパーティの真っ最中だった。
呆気にとられる聖の元へ、ミドル・エプロンを付けた店員と思しき女性が駆け寄ってきた。
「ありがとうございます。ピザ、中央のテーブルに置いてもらえますか?」
聖は二十六歳だが、目の前の女性もそう変わらない年齢に見えた。突然に現れた同年代女性に、聖は緊張を隠せない。
サンタクロースの衣装という締まらない姿。この場から一刻も早く去りたいという気恥ずかしさを抱え、指定されたテーブルへ急いだ。
「勤労青年、ご苦労」
ピザを降ろすなり、突然に肩を抱かれた聖。三十中程の男性から酒気を帯びた息をかけられ、思わず顔をしかめてしまう。
「ちょっと、やめなさいよ」
「世良、飲み過ぎだぞ」
連れの仲間から次々に声を掛けられ、聖を捕まえたままの男性は不機嫌を露わにした。
「美咲も岩見も文句があるのか? こんな日に働いてくれている若者を労って、何が悪いっていうんだ? イエス・キリストも泣いて喜ぶってんだよ。なぁ?」
困惑する聖へ同意を求めながら、赤ら顔の世良はピザのひとつを勢いよく開封した。
「ほら。君も食え」
「いえ、俺は仕事中なんで」
「いいから、いいから。キリストも、オッケーっていってっから」
「世良、おまえは大人しくしてろ」
体格の良い岩見が、世良を背後から羽交い締めにして抑え込んだ。そんなふたりへ駆け寄るのは、聖が入り口で会った男性だ。
「守時、悪いけど水を貰ってきてくれ」
「わかった」
「ちょ、待てよ」
守時がカウンターへ向かうと同時に、世良はそのまま、店の端に並べられた椅子へと連れて行かれてしまった。
「お仕事の邪魔をしてごめんなさい」
「いえ、大丈夫ですよ」
詫びる美咲へ、聖は乾いた笑みを返した。
今ここにいる自分を、既に完成された空間へ入り込んでしまった不協和音のように感じていた。一刻も早くこの場を立ち去りたい。今はその気持ちしかなかった。
それに加えて、世良の言葉が突き刺さったのも事実だ。聖自身、ピザ屋のアルバイトという現状に満足しているわけではない。
この現状を突き崩したい。そう渇望しながら、心の内で悶える日々が続いていた。
「なんだか災難でしたね」
世良の下へ向かう美咲と入れ替えに、店員の女性が聖へ追い付いてきた。
「まぁ、こんな日だし、羽目を外したくなるのもわかりますよ」
苦笑を交わしながら、たどたどしく会計を進めていた時だった。
「奈々ちゃん、待って。会計は割り勘にしようっていったじゃない」
先程の女の子を連れて、また別の女性がやってきた。その美しさに見惚れた聖は、自分が放心状態であることに気付いていない。
「大丈夫。今日はマスターの奢りですって。花連さんはパーティを楽しんでください」
「でも、悪いわよ」
花連が申し訳なさそうにしていると、奈々は店の奥にあるカウンターへ、悪戯めいた視線を向けて微笑んだ。
「花連さんは、マスターが趣味で小説を書いてるって聞いてますよね」
「ええ。小説を書こう、だっけ? ネット上で公開しているって聞いたけど、きちんと読んだことはなくて。未希ちゃんは絵本を貰ったことがあるけど、すごく素敵な話だった」
花連は足下へ視線を向け、自身のスカートを掴んでいる未希の髪を撫でた。
「カウンターに座って、マスターと話してる男の人、知ってますか?」
ふたりの会話に釣られて、聖もカウンターへ目を向けた。するとそこには四十歳前後と思しき男性が座り、マスターへ食ってかかりそうな勢いで話し込んでいた。
「このお店でたまに見かけるわね。常連さんって聞いてるけど」
花連の一挙手一投足に釘付けの聖は、完全に帰るタイミングを失っていた。そんな彼に構わず、奈々は話を続ける。
「三井さんっていうんですけど、あの方も同じサイトで小説を書いているんです。マスターとどっちが早く人気者になれるか競っているんですけど、なんと先日、ついに三井さんの作品が、サスペンス・ジャンルで年間ランキング一位を獲ったんです」
「私にはよくわからないけど、きっと凄いことなのよね」
興奮気味の奈々の様子を見て、花連は状況を察したらしい。未希はそんなふたりのやり取りを不思議そうに見上げている。
「それはもう大変なことなんですよ。このピザも、マスターからのお祝いを兼ねているんです。三井さんの大好物らしいので」
「そうだったの。みんなでお祝いしないとね」
「それが、そうでもないんですよ」
笑顔を浮かべた花連に向かい、奈々は渋い表情で言葉を続ける。
「三井さん、こんなんじゃ満足できないって。どうやら、本気でプロを目指しているみたいなんです。ふたりともそれなりの力量があるとは思いますけど、どうですかね……」
気難しい顔をする奈々。聖はその横顔を伺いながら、遠慮がちに口を開いた。
「差し出がましいようですけど、あの歳でも夢中になれることがあるって、素敵なことじゃありませんか? 格好いいですよ」
聖の瞳へ揺らぐ羨望の輝き。それを機敏に感じ取ったのは、この場でただひとりだけ。
「サンタのお勉強、大変なの?」
「え?」
未希から切なげな視線を向けられ、聖は戸惑いを露わにしていた。その様子を見た花連が、思わず笑みをこぼす。
「サンタのお勉強って、なあに?」
「あのね、お勉強をしないとサンタさんになれないって、パパとこの人が言ってたの」
「この人じゃなくて、お兄さんね」
花蓮から微笑みを向けられ、聖はますます取り乱し、心のやり場を失ってしまった。
「あの……俺、そろそろ行かないと」
「待って」
逃げ腰の聖をこの場へ留めようとするように、未希が慌てて声を上げた。