第一話 アウリールとの日々
肌寒くなり始めた、十一月一日の朝だった。目を覚ました第二王子シュツェルツは、十一歳になったばかり。大きく伸びをすると、毛布を押しのけて身体をずらし、天蓋のついた寝台の端に腰かける。前には空の椅子が置かれていた。
そのままシュツェルツは、ある人物を待った。そわそわしながら、室内履きを突っかけた足をぶらつかせていると、扉をノックする音が聞こえてきた。
「入れ」
シュツェルツが即座に応えると、ゆっくりと扉は開いた。
「失礼致します、シュツェルツ殿下」
現れたのは、涼しげな若草色の瞳が人目を引く、女性のように柔和な顔立ちをした美しい若者だった。
シュツェルツはいつもと変わらぬ彼の顔を見て、ほっとした。
「アウリール」
シュツェルツが名前を呼ぶと、侍医のアウリール・ロゼッテはほほえみ、寝台脇まで歩み寄ってきた。中背で所作も美しい彼は、こうして近くで見ても、背の高い美女のように見える。椅子に座ると、アウリールはいつものように尋ねた。
「おはようございます。お加減はいかがですか」
アウリールの声は、澄んでいて柔らかい。
シュツェルツはにこりとした。
「変わりないよ」
「お手を失礼致します」
アウリールは断りを入れると、シュツェルツの片手を丁重に取り、脈を見始めた。そのあとで安心したような顔をする。
「確かに、異常はないようです。今日もご勉学にお励みなさいませ」
勉学、と聞いて、シュツェルツは渋い顔をした。本を読むのは好きだが、勉強は嫌いだ。
普段からしきりに勉強を勧めてくるアウリールに意趣返しをしてやろうと、シュツェルツは頭を巡らせた。
やがて、とびきりのいたずらを思いつくと、満面に笑みを浮かべる。
「ねえ、アウリール、髪を伸ばしてみる気はない?」
「髪……でございますか?」
アウリールは反問しながら、用心深げな表情を作った。シュツェルツの「よい」性格を熟知するがゆえに、警戒しているのだ。
シュツェルツは言葉を重ねた。
「そう。君が髪を伸ばせば、きっと、今よりずっとかっこよくなると思うんだ」
アウリールは、短い薄茶色の髪をちょっと触った。
「かっこよく……」
アウリールは、その女性的な面差しを気にしており、外見をからかわれることを何より嫌う。そんな彼を喜ばせる言葉が「凛々しい」とか「精悍」であることを、シュツェルツは知り尽くしていた。
だが、簡単に引っかかるアウリールではない。彼はなおも慎重に問いかけてきた。
「ですが、髪を伸ばすと、その……ますます間違われるのではないですか?」
シュツェルツは、とぼけて答えた。
「何に?」
アウリールは口ごもる。
「……お分かりでしょうに。みなまで申し上げさせないで下さい」
「大丈夫。全然そんなことないよ。それどころか、長い髪を無造作に束ねてごらんよ。戦場の騎士みたいで、絶対、精悍に見えるって」
アウリールの口元がわずかににやけた。
「戦場の騎士……」
「そうだよ。女の子にだって、今よりもてるようになるって」
アウリールは咳払いをする。
「まあ、それはともかく。髪を伸ばす件、検討させていただきます」
(勝った!)
これでアウリールは、ますます女性っぽい外見になって、今以上に「女みたい」と言われるようになるに違いない。普段、自分に対して勉強しろと口うるさいから、そんな目に遭うのだ。
シュツェルツは満足し、内心でにんまりした。
と、出し抜けにアウリールが身を乗り出す。
「それはそうと、殿下。先程から気になっていたのですが、寝癖がついておいでですね」
「寝癖?」
「さようでございます。どれ、わたしがお直し致しましょう」
そう言うと、アウリールはブラシを探し始めた。
アウリールに髪をとかしてもらうのは、なんだか恥ずかしい。
シュツェルツは慌てて彼を止めにかかる。
「やめてよ。それって、女官の仕事だよ」
アウリールはにっこりと笑った。
「殿下ともあろう方が、ご婦人にみっともないお姿をお見せになるのですか?」
「う……」
女官たちの前では格好をつけていたい心理を巧みに突かれ、シュツェルツは返す言葉もなかった。
アウリールが棚の上に置かれていたブラシを片手に戻ってくる。
「ほら、ブラシが見つかりましたよ。この椅子におかけになって、じっとしていらして下さい」
アウリールに促され、シュツェルツは仕方なく、椅子に腰かけることにした。うしろから、髪にブラシをかけられるくすぐったい感触がする。
しばらくして、アウリールの手が止まった。
「はい、直りましたよ」
シュツェルツが振り返ると、アウリールと目が合った。彼の眼差しはとても優しい。シュツェルツはわけもなく面映ゆくなり、視線をそらした。
「……今日も、一日付き合ってもらうよ」
アウリールの仕事は、侍医としてのものだけではない。シュツェルツのお供をするという、本来なら侍従が務めるはずの役目も果たしているのだ。彼をとりわけ気に入っているシュツェルツが、直々に申しつけた職務だった。
「御意」
アウリールは綺麗に笑むと、右手を左胸に当て、恭しく頭を下げた。
*
シュツェルツの家である幻影宮は、渡り廊下で繋がれた五つの宮殿に分けられている。シュツェルツを含めた王族たちが生活しているのが、東殿と呼ばれるこの宮殿だ。
身支度を終えたシュツェルツは、アウリールを連れて食堂へと向かった。彼と一緒に朝食を摂るためだ。最初のうちは昼食だけだったアウリールとの食事も、今では三食に増えた。家族と食事をしないシュツェルツにとっては、大切な時間だ。
アウリールがうしろから話しかけてくる。
「ところで、殿下。今日はわたしが殿下に初めてお目通りした日なのですよ。覚えておいでですか?」
(全然、覚えてなかった……)
シュツェルツは軽く動揺しつつ、憎まれ口を叩いた。
「そんなの、覚えているわけないよ」
「そうですか? わたしはよく覚えておりますよ。あの日は日曜日の出勤でしたしね」
アウリールの返答に乗っかる形で、シュツェルツは話題をそらすことにした。
「あの頃のアウリールは週の休みがなかったもんね。大変だったでしょ?」
「いえ、そうでもありませんでしたよ。主な仕事といえば、朝晩の拝診とカルテの記入くらいでしたからね。まとまったお休みもいただけましたし」
「そうはいっても、あの頃の僕はよく風邪を引いたからね」
いつものようにおしゃべりしながら、シュツェルツとアウリールは見慣れた長い回廊を歩く。すると、曲がり角から、女官たちを従えた一人の女性が姿を現した。シュツェルツの母王妃だ。
シュツェルツを緊張が襲う。わずかな期待を込めて丁重に一礼し、母に近づいていく。
「母上、おはようございます……」
シュツェルツと同じ漆黒の髪と繊細な美貌を誇る母は、こちらとは距離を置いて立ち止まった。シュツェルツによく似たその顔には、かすかな苛立ちがにじんでいる。
「おはよう、シュツェルツ。悪いけれど、今急いでいるの。アルトゥルの具合が悪いから、看病に行かなければならないのよ」
母が口にしたのは兄である王太子の名だった。
シュツェルツの胸がぎゅっと痛んだ。母の関心が、自分ではなく兄に向けられていることが悲しかった。
(いつものことだ)
シュツェルツは精一杯笑顔を作って見せた。
「そうでしたか。お呼び止めして申し訳ございません」
母は軽く頷くと、兄の部屋へ向け、去っていった。
肩に優しく手が置かれ、シュツェルツは振り向く。アウリールが気遣わしげな顔をして、たたずんでいた。
「殿下、どうかお気になさらず。さ、食堂に参りましょう」
アウリールには分かっている。シュツェルツが母に愛されていないことを。それだけでなく、父王にも目を向けてもらえていないことを。
父には遊んでもらったことも、温かい言葉をかけてもらったこともない。父にとって、自分は病弱な兄が死んだ場合の代替品でしかないのだ。
両親との関係が原因で、シュツェルツはアウリールが現れるまで、誰にも心を開けずにいた。
二年前。アウリールと出会ったばかりの頃だったら、自分はきっと彼の手を振り払っていたことだろう。だが、今のシュツェルツには、肩に置かれたその手が心強い。
あの時は、彼が自分にとってこんなにも重要な存在になるなんて、考えてもみなかった。それまでシュツェルツは、他人と深いかかわりを持とうとしなかったから、アウリールとも、ただすれ違うだけの関係で終わるに決まっていると、信じて疑わなかったものだ。
そんなシュツェルツに対し、アウリールはどこまでも親身に振る舞い、閉ざしていた心の扉をそっと開けたのだ。
もし、彼を失ったら、どんなに悲しいだろう。
シュツェルツは、信頼する侍医に微笑で応えた。
「うん。今日の食事は何かな」
……これより一時間もしないうちに、もうひとつの大切な出会いが待ち受けていることを、この時のシュツェルツは知る由もなかった。