第6話 魔物との戦い
――怖い。
ただただその感情だけが坂田優斗を支配する。
今坂田優斗の目の前にいるのは化け物そのものだった。
「うあああ!」
その姿を目にした坂田優斗は化け物に背を向け逃げ出した。
生き物は危険に晒された時『闘争』か『逃走』かを本能的に体が決めるというが、普通の人間なら間違いなくこの化け物から逃走することを選ぶだろう。
教室を飛び出した坂田優斗は旧校舎の廊下を全速力で走る。目指すのはただ一つ、旧校舎の外――誰か人がいる場所だ。
とにかく誰かに助けを求めたかったのだ。
「くそ! 何なんだよアレは!」
とにかく走る。振り返る暇もなく、いや振り返りたくなかった。あの恐ろしい姿を再び見たくなかった。
「にがサない」
おぞましい声が後方から聞こえる。だが声でどのくらいの距離かを大体把握することができた。大丈夫だ、まだ遠く追いつかれていない。
そして坂田優斗の前方には旧校舎の出口扉が見えていた。
扉を出たらまず校庭に行こう。あの化け物はきっと人目を避けるだろう。もうすぐだ、もうすぐで逃げられる。
そう、出口はもうそこに――、
「おいおい嘘だろ!?」
思わずそう声を上げる。なぜなら出口扉はまるまる凍りついていて、ビクとも動く気配はなかった。
その氷は溶ける気配もなく、冷気を放ち出口扉を固く凍りつかせている。
甘かった。ここまで坂田優斗はずっと、あの化け物の手のひらで踊らされていたのだ。
「旧校舎に入っタ時、アなたに気づかれないよウに魔法で扉を凍結さセておきました」
不気味なその声とギシギシと廊下を歩いてくる音が後方から聞こえる。その音はだんだん大きくなっていることにすぐ気付いた。
「じゃあ窓から逃げ――」
窓から逃げる。ここは旧校舎の一階だ。窓から脱出することは本来なら容易だった。
そう本来ならば。
しかし一階の窓全てがまるまる凍結させられていて出口扉同様、開けることは到底できそうになかったのだ。
そうしているうちにも化け物は徐々に近づいてきている。
「あなたがこコに来るまで時間がありマしたので、一階と二階の窓は全テ凍らサせていただキました。三階の窓は開けることがでキますが地面との高さは六、七メートル。その高さから飛び降りたら無事デは済まないでしょう」
もはや逃げ場はなかった。旧校舎から出らことができない。その衝撃から思考を止めてしまった坂田優斗を化け物は待つ時間を与えてはくれない。
――どうする!?
そう考えている間にも、化け物は少しずつ近づいてきている。
逃げることができないのなら、戦うしか生き残る手段はないのか。
背中から感じる恐怖を受け止めながら、坂田優斗はゆっくりと後ろを振り向く。
見えたのは旧校舎の廊下。何もない古臭い廊下の奥に黒い姿の化け物が少しずつこっちに近づいてきている姿だ。その距離は二十メートルくらいはあるだろう。
「くそ、やってやる! そうだ坂田優斗! 普段退屈な毎日にうんざりしてたじゃねえか!」
坂田優斗は自分を鼓舞する。手足は恐怖で震えているが、その心は戦う姿勢を見せた。
――正面きって戦えばきっと、あの化け物に殺られる。
坂田優斗はそう考えていた。いや、考えなくても感じていた。今まで見たことのない生物を相手にする恐怖心が、その直感を際立たせる。
――何か役に立ちそうなものは?
廊下の奥から少しずつ近づいて来る化け物から視線を外し、辺りを見渡す。
だが既に誰もいない、取り壊し予定の旧校舎の廊下には武器になりそうな物も、盾になりそうな物も無かった。あるのは何もない廊下と教室のみ。
「教室……よし!」
坂田優斗は何かを思いついた。それを実行するべく一番近い教室に駆け込む。
教室に入るとすぐに三脚の椅子を用意し、教室の入り口から離れた場所に待機する。
化け物は恐らく坂田優斗を追って教室に入ってくる。そして教室に入ってきた化け物に椅子を投げつける。坂田優斗が考えたのは子どもでも考えつくような作戦だった。
だが、これが今の坂田優斗が考えつく最善の戦い方でもあった。
間も無くして坂田優斗の思い通り、化け物が教室のドアを開けた。化け物の歩く速度も速いわけではない。かなり遅めで十分に狙うことができる。
「にがサない、喰う。にガさない、喰う」
不気味な声で囁きながら近づいてくる化け物に坂田優斗は一脚の椅子を持ち上げ、狙いを定める。
その化け物の姿を見ればすぐに恐怖が湧いてくる。気がつくと呼吸と心拍数が上がっていた。
だがどんなに怖かろうと、今は戦うしかない。
「オラァ!」
坂田優斗は化け物に椅子を投げた。
しかし、椅子は化け物には当たらず教室の壁に直撃する。
「くそっ!」
声を上げ、すぐに二脚目の椅子を構える。そして再び化け物に狙いを定め、投げた。
しかし今度こそ命中するかと思われたその椅子は、化け物の頭から生える黒い触手によって受け止められていた。
触手で受け止めたその椅子を床に落とすと、化け物は口腔内から三つ目の眼球を突出させ――、
「捕まエた」
そう言うのだった。
坂田優斗の右足を一本の黒い触手が絡み付いていた。その触手だけ他の触手と比べて長かった、故に捕まってしまう距離まで近づかれてしまったことに坂田優斗は気付くことができなかった。
「このっ!」
触手を解こうと絡まっている右足に手を伸ばす坂田優斗だったが、すぐに他の触手が坂田優斗に向けて伸び、左足にも絡みつく。
「喰う、喰いたい、人間」
化け物はそう言うと坂田優斗の両足に絡みつけた触手で、獲物を自らへと引き寄せた。
化け物に引き寄せられる坂田優斗はまさしく絶体絶命だった。しかし、彼は諦めていない。
三脚目の椅子を手に持ち、引き寄せられるまま化け物の口腔内から突出した眼球に狙いを定め――、
「くらいやがれっ!」
椅子の脚を、その眼球に突き刺した。
その瞬間、触手の足に絡みつく力が弱くなり坂田優斗は化け物から距離を取る。
化け物はというと椅子の脚が直撃した口を両手で抑えて苦しんでいた。
「目ガァ! 目ガァ! ヨクモヨクモヨクモヨクモォオオオ!」
その苦しんでいる姿を見るにかなりのダメージが入ったようだった。口から飛び出ているとはいえ目玉を突かれたら誰だって痛がる。
「てめえのその口から飛び出した目ん玉、それが弱点ってパターンか! こちとら洞察力に関してはゲームで鍛えてんだ、それっぽい弱点なんてお見通しだぜ!」
苦しむ化け物に坂田優斗はそう声を上げる。この時、勝機が見えた気がした。
しかし化け物は苦しみながらも四本の触手で坂田優斗に襲いかかる。
その触手はまるでパンチのように坂田優斗の腹部を殴りつけ、坂田優斗を教室の壁に押し付けた。
「喰ってやる、髪の毛一本残さズ!」
先ほどと比べて化け物は明らかな殺意を向けていた。
すぐに逃げなければ。そう思っても体は動かない。腹部を殴られた強烈な痛みで坂田優斗は腰を床に落としてしまっていた。それは今までで味わったことのない強烈な痛みだった。
動けない様子を見抜いた化け物はゆっくりと歩き出し、そして坂田優斗の目の前まで近づいた。
――その時だった。
「ギャアアアアアアアアアアア!!!」
突然化け物が燃え上がった。炎が化け物の体を包み込み、化け物の黒い皮膚をどんどん溶かしていく。
「こレは魔法!? これほドの炎でわタしだけを燃ヤす精密さ! 一体ダレなの!?」
燃え上がる化け物は後ろを振り向き、廊下へと視線を向けた。
「名はセレソ。さようなら、醜い魔物さん」
廊下からそう声が聞こえてくると、再び炎が化け物の体を包み込み、燃え上がった。
燃え上がる化け物から坂田優斗が腰を落としたまま離れると、その炎の威力はさらに上がり、化け物を燃やし続ける。
「ワタしはまだ、こんなトころで終わレない!」
そう化け物は言い残すと教室の窓を触手で砕き割り、燃えたまま窓の外へ飛び込んだ。
「……逃した。でもまあ、あの程度の魔物ならまたすぐに見つけられるわね」
そう言いながら声の主――セレソが教室に入ってきた。その以外なセレソの正体に坂田優斗は思わず唖然とする。
「お前……お前がセレソなのか?!」
教室に入ってきたセレソの正体は肩まで伸びた黒髪を揺らす赤い眼鏡をかけた女子生徒――桜井美言だった。