プロローグ
床に書いた魔法陣から音もなく煙があふれ、あっという間に部屋中を埋め尽くす。
「ちょっと! なによこれ!」
「私が聞きたいぐらいですよ!」
私が文句を言いながら窓を開けると、クラーラも私に呼応したように反対側の窓を開けたようだ。森の中央にひっそりと建つ我が家に新鮮な空気が舞い込む。しばらくの間煙が生成されつづけたので、ちょいとばかし休憩することにした。
煙を吸い込んだが苦しくとも何ともないので、害はないらしい。私は身体を下ろして床に座り、壁にもたれかかるようにして瞳を閉じた。
「マリー、おやつの時間になってしまいましたよ。マリー」
クラーラに身体を揺すられた私が目を覚ますと甘くていい匂いがした。思いのほか疲れていたらしい身体を「よいしょっと」と上げて、クラーラが引いてくれたイスに座る。
「……眠いわ」
「酷い顔をしてますからね」
しょぼしょぼする目をこすると棘のある言葉が返ってきた。お菓子とお茶を前にして不機嫌になれるクラーラはすごい。甘味を冒涜する所業だ。私にはできない。
「もう徹夜はやめてください。いつまで若いつもりなんですか?」
「は、はあっ!? あんた年を取らないからっていい気になってんじゃないわよ!」
……前言撤回。いかにあり得ない行為でも、やらねばならぬときがある。
「大声を出しても三十になった事実は消えませんよ。若さを失っていくことから目をそむけるより、加齢を受け入れて――」
「嫌よ。嫌。私はいつまでも若く美しくありたいの」
私の美意識はだれにも否定させないんだから! それに三十は全然若いでしょ!
「……まあ、無理にとは言いません。お茶にしましょうか。冷める前にいただきましょう」
そう言ってクラーラは、主である私の返答を待たずにカップを口に運んだ。
私はじっとクラーラを見る。金色の癖っ毛をした彼女は私の最高傑作だ。初めは『人とほとんど変わらない人形を作ってみたい』と思ったところから始まった。それから何年かして、彼女が出来上がった。いまのように食事はとれなかった。瞬きすらできず、口も動かず、関節を曲げることもできなかったクラーラ。それがいまは初対面の人であれば怪しまれることすらないところまで来た。
「やっぱ私って天才だわ」
「……いきなりどうしたんですか?」
「なんでもない」
奇異なものを見る目をしているクラーラにはわからないだろう。「私、もっと人間らしくなってみたいです」と彼女自身が言ったときに、私のなかで彼女が人形から人間になったのを。
窓から入ってくる優しい光が部屋を照らす。私が眠る前に散らかっていた部屋はクラーラによってきれいにされていて快適だ。よく晴れた空に、木々が静かに揺れる穏やかな風。清潔な部屋。憂いも穢れもない変わらない時間がゆったりとすぎていく。
楽しかったおやつの時間が終わって、また研究に戻ろうとしていた私はクラーラに止められてしまった。
「今日はもうお休みになられてください。たまには気分転換も必要ですよ」
「気分転換と言われても……」
私は自他ともに認める研究家であり、研究バカだ。これ以外のことはあまりする気になれない性質だ。
「いつもと違うことをすると、新しいものを発想できるそうですよ」
「……今度は何の本を読んだの?」
「なんでもいいではありませんか」
クラーラは物静かな生活を好むようで、私の世話から解放されているときはおとなしく本を読んでいることが多い。どういった本を読んでいるのかはなかなか教えてもらえない。たぶん恥ずかしいのだろう。
そして、読んでいる本に影響を受けやすい。
私が研究をあきらめて、「あなたがおすすめする本を一つ持ってきてくれる?」と微笑みかけると、クラーラは驚きながら顔を上気させて「わかりました」と笑った。
……いつまでもあの可愛らしい顔でいられるなんてずるい!
クラーラが自分の部屋に戻っている間に、私は昨日からの研究成果を探す。きちっとした性格のクラーラは、成功作と失敗作、それと成功しているのか失敗しているのかわからないものと仕舞う棚を分けている。今日のは私が成功とも失敗とも言ってないので、『わからない』の棚にあるはずだ。
思い通りにあったそれを手に持ってじろじろと見渡す。
「……うん、いいんじゃない?」
つぶやいたところでクラーラが戻ってきた。
「マリー、研究は……」
「もう終わったわ」
クラーラから本を受け取って、私は「じゃーん!」と研究成果を彼女の目の前に突き出した。彼女の細い身体がビクンとする。
「ついにできたわよ!」
「……これはなんですか?」
「これはあなたに涙を与えるものよ」
クラーラがわかりやすいくらい目を輝かせながら身を乗り出した。それを見て私の心が満足でいっぱいになった。研究者冥利に尽きる。
眠くなったときや悲しいとき、うれしいときなどに人は涙を出す。でもクラーラはその経験がなかった。人間に一歩でも近づきたい彼女にとって、涙は大きな一歩になるだろう。
「早く! 早くつけてください!」
「あなたが眠ったらつけてあげるわよ」
「いますぐ寝ます!」
「ダメよ。晩ご飯を作ってないでしょ。いっしょに食べる約束も守ってもらわないと」
クラーラは不満気に口を尖らせたけど、すぐにうんうんとうなずいて、鼻歌を歌いながら晩ご飯の支度にとりかかった。いつもよりだいぶ早くから支度を始めたのを見るに、今日は豪勢なものが出てくるに違いない。
私はあまりうまくない口笛を吹きながら、クラーラに渡された本を読んだ。私の好みに合わせて選んでくれたのか、すごく面白いお話だった。たまにはこういうのも悪くない。
やがてできた予想以上に気合の入った晩ご飯を美味しくいただき、クラーラが寝静まったあとにちゃんと研究成果を身体の内部に取り付けてあげて、私は眠りについた。いつもよりもあったかくて、心地いい眠りだった。
翌朝、頑張って泣こうとしているクラーラを微笑ましく見ながら朝食をとっていると、ドンドンと扉を叩く音が聞こえてきた。