TS100ものがたり 05:映画館
ある暇な日、久しぶりに映画でも行こうかと一人で近くの映画館にでかけた。自分の賃貸マンションから10分ぐらいのところに今では珍しくなった昔ながらの映画館がある。大型ショッピングモールのせいで衰退した商店街の中に、シネマコンプレックスによって同じく衰退した古い映画館はあった。看板建築というのか、仰々しく街路からそそり立つ壁面には、かつて映画の看板が掲げられたのだろうが、いまではべニア板が打ち付けられているだけだ。一見すると廃業しているようにみえ、少し前まで実は私もそう思っていたのだが、出入りする人を見かけ、以前はいってみたら営業していることがわかった。ハリウッドの話題作ではなく、往年の名画だったり、どこにあるのかよく分からない国の映画だったりを上演しているようだった。私も別に見たい映画があるわけではなく、何となく一度入ったこの映画館の雰囲気が心地よく、休日の特にすることもない午後、行きたくなったのだ。日が傾きかけ、少しづく赤みを帯びている頃映画館の入り口に着いた。
ドアを押して中の薄暗いロビーに入る。相変わらず人気がない。入り口のすぐわきにあるカウンターに向かう。いた…。とてもこんな場所にいるとは思えない、若い女性の姿がそこにあった。私が好きなのは単にこのうらびれた雰囲気だけではない。いや、むしろこのチケット売り場の女性こそが目当てだったのかもしれない。薄暗い売り場の長い黒髪の彼女はまるで幽霊のような妖艶な雰囲気があった。丁寧に綺麗なブックカバーをかけられた文庫本を下ろすとこっちを見た。
「いらっしゃいませ」澄んだ声でそういう。
「どうも・・・・」私は軽く会釈をする。
「次の回のチケットでいいですか?」彼女は束になった入場券を手に取り言う。
次の回?正直いったい何の映画を上映しているのかも分からなかった。まぁ、何を見ても同じといえば同じだ。正直ここにきた目的の殆どは彼女に会えたことで達成されている。
「じゃあそれで…」
「1,800円になります」
千八百円ね…といつも財布を入れているポケットに手をやり、その感覚がないことに気が付く。あれ…、と思い、上着の内ポケットや他の場所も見てみるが見当たらない。はっと気が付く。そう言えば、財布を仕事で使っているショルダーケースから移し替えた記憶がない。あぁ、しまったぁ…と思う。これから戻るのか。それなら寧ろもう帰るか…。
「ごめんなさい、ちょっと財布を家に忘れてきて…」
私は映画館を出ようと背を後ろに向ける。
「ちょっと待ってください」彼女の声が背中に響く。「もしこのキャンペーンに参加いただけるなら無料になるんですが…」
こんなうらびれた映画館でキャンペーンなどという想定外の言葉が出てきたので、少々度胆を抜かれた。カウンターに向き直る。
「こちらのドリンクを飲んでいただいて、結果を教えてくだされば、今日のチケットはいりません」
彼女はカウンターにスポーツドリンクのような小さな茶色い小瓶を置く。特にラベルもない。試供品…というか、試作品のような雰囲気があった。こんなキャンペーンを行っているなんて示すものはどこにもない。唯一、料金表の横に「ひな祭り 女性のお客様 無料」という張り紙がしているだけだ。
そう言えば今日は3月3日、ひな祭りなんだな…。スーパーでもちらし寿司を必死に宣伝していた気がする。映画が終わったら帰りに駅前のスーパーで買って今日の夕食にするかな…。そう思いながら、目の前に差し出されたビンの蓋を開け飲んだ。
まずくはないが、正直おいしくはないというか薬品のような味がした。少なくとも味を目当てに買うような商品ではない。ということは疲労回復効果とか消化促進とか、別の効用があるのだろうか。ラベルのなにもないこのビンからその効用を読み取ることはできなかった。
「もう開演まで時間があまりありませんので、質問には映画が終わったら答えてください」
どうもこの変なスポーツドリンク一本飲むだけで本当に映画がタダになるらしい。もう始まると言ったが一体何時から始まるのか。それ以前にいったい何の映画のチケットを買ったのかも自分では分かっていなかった。
まぁ、劇場は当然一つしかないのだし、席だって当然自由だ。一先ず劇場に入る前にトイレに行こうと、依然行って知っていた劇場横のトイレに入る。
トイレも昔ながらの青い細かいタイルが包み、籠ったアンモニア臭のするもの。小便器二つと和式便器が一つあるだけだった。トイレも学校のトイレのように、貯水槽のようなものが上にあり、時間が来ると自動洗浄する仕組みになっていた。チャックを下ろし小便器の前に立っていると、ブ~と間の抜けたサイレン音が響き渡る。早く劇場にいかないと…という思いがある一方、さっきの変なスポーツドリンクのせいか、強い尿意があった。しかししたいのにでない。映画も始まっちゃうし、どうしようと逡巡しているとやっと尿が出始めた。ただ今度は止まらない。普段の放尿の時間を遥かに凌駕する時間、放尿が続いた。それも次第に勃起し始め、まるで搾り取られるように出続けた。最後の方は、尿というより精子の様で、白っぽい液体を含んでいた。出し切ると陰嚢がまるで搾り取られた後の滓のように痛んだが、とにかく映画が始まってしまうと、急いで劇場に入った。
軽く劇場を見まわすと、ちらほら人の頭のようなものが見える。少しは入っているようだ。スクリーンを見ると、地域の自治体のお知らせを流している。初めてここに入った時は驚いたが、一般の予告編ではなく、役所や公共団体のお知らせを流すのがこの映画館の特色らしい。
席に着いたときには、長ったらしい予告編もなく、いきなり映画の本編が始まった。
『あの夏の僕』
ここで自分は初めてこれから見る映画の題名を知った。邦画だった。こんな映画聞いたことがない。しかしこうやって全く知らない映画を突然見るというのも新鮮な体験だ。今の時代、予告編やネットやテレビの特集で、本編を見る以上に内容を知ったうえで本編を見るということも少なくない。
情緒的なオープニングから始まる。小学校低学年のような男女。男の子はどちらかというと内気で気の弱い性格。逆に女の子の方はお転婆で男勝りの少女のようだった。二人は幼馴染で二人で遊ぶことも多い。ある日、家の近くの土手で男の子が言う。
「男なんだからスポーツの一つぐらい学べって親がうるさいんだ。だから来週から柔道クラブに行かされることになっちゃったんだ」
「えー、いいなぁ。あたしなんか、サッカークラブに入りたいっていったら、女の子なんだからもっとお淑やかになりなさいってピアノ教室に行かされてるのよ」
「いいなぁ、僕、女の子ならよかった」
「あぁ、あたしも男の子だったらなぁ…」
夕日をバックに黄昏る二人。うーん、よくあるパターンの幼馴染恋愛ものかな?という気がする。男勝りの女の子と気の弱い男の子。そんな二人が、成長を通して結局は結ばれるというパターンではないかな…と勘繰る。
それはよしとして問題は自分の体だった。さっきから股間が痛い。尿が変な風に出たのか、特に睾丸のあたりがずきずき痛む。たまったものではないと思いつつ映画を見続ける。
柔道なんかとてもではないができない男の子。相変わらず男勝りの女の子。そんな彼女が親の仕事の関係で転校することが決まる。夏祭りでの淡いデート。そして別れ。典型的なシーンが流れていくが、それよりも股間が…。
月日が経ち大学時代。大人の男に成長した主人公はかつての女々しい面影はなくなっていた。就職活動で、会社の説明会で行われたグループワークである女子学生と一緒になる。名前を隠して行うグループワークの中で次第に接点を見出し、説明会終了後、主人公は彼女に声をかける。
うーん、たまらない!!もう、股間がいたくて映画どころではない。両方ともゆっくりと握りつぶされているような痛みがある。周囲を見ると同じ列には誰もいないし周囲も観客はいない。止むに止まれずズボンから股間に手を入れた。触ったところでどうにもならないが、陰嚢は縮こまり体の中に入っている。それでもどうしようもない痛みが体の中から全身に響く。
スクリーンに目をやると、十年来の再開を喜ぶリクルートスーツ姿の主人公とヒロイン。あぁ、これで結ばれるのね…、悪いけど自分は今それどころでは…と思っていると、話の展開が変わってきた。
「いまは女子、売り手市場なんだろ、羨ましいな」という主人公の一言から彼女の雰囲気が変わり、「そういえば昔、女の子になりたいって言ってたわよね。今でもそう?」と挑発してくる。「なれるもんならね」と言ったが最後、彼女は一緒に来て…と主人公を彼女の通う大学に連れていく。なんだ、この展開は?普通の恋愛ドラマを期待していた私は意外な展開に痛みから注意が逸れる。巨大な建物の研究室に連れ込まれた主人公。白衣を着た女性研究員に紹介される。
「博士、女になりたい男性を連れてくればいいって言っていましたよね」
「そうだけど…、君、本当にいいの?」
「いや、これはいったい…」謎の機械や実験動物たちのカサカサという音が響く研究室を見まわして言う。
「なによ、今更、男らしくない!」
「いや、確かにそうはいったけど、ここはなんなんですか?」
ホラッとばかりに博士の方を見る彼女。博士はまぁいいかといった感じで研究室の所員を集める。女ばかりであるがさすがに取り囲まれると威圧感がある。
暫く画面に見入っていてふと気が付くが、さっきまでの股間の痛みが嘘のように消えている。代わりに、陰茎への奇妙な引っ張られるような感覚と股間の痒みが襲ってきているが。
女たちに囲まれた主人公は半ば強制的に部屋の奥にあるベッドのような金属の台へと促される。なんか、映画変わっていない?と思うほどの急展開だが、さらに女たちに「もうそんな服はいらない」と引き千切られるように脱がされていく。
いきなりアダルトビデオのような展開になり始めた。なんなのだ、この映画は。さらに自分の胸が熱くむず痒くなってくる。
主人公は言われるがまま、ベッドに寝かされ股間には掃除機の先のようなチューブがペニスを包み込む。そして搾乳機のような機械も彼の両乳首に吸い付くように装着された。
外そうとするが、作動を始めたそれはどうやっても取れない。もしむりにでも取ろうものなら男性器ごともぎ取られそうだった。
「さぁ、あなたの男をもらうわよ」もう一段スイッチを深く入れるとさらに大きな機械音響く。そして主人公の悲鳴虚しく、何か異物を吸い尽くした掃除機ような嫌な音が響く。レバーをさっきと逆の方向に入れると、機械音が小さくなりその機械はぽろりと外れた。そこには中身を失い皮だけになった陰茎と陰嚢の残骸があった。あまりにありえない設定にも関わらず妙にリアルなその映像は、男性にとっては間違いなく衝撃的なものだった。
「精巣も、陰茎も、前立腺も、みんなきれいさっぱり頂いたから」衝撃に追い打ちをかけるような彼女の言葉が冷たい。そしてもう一つのスイッチが入れられる。それによって何かが、両乳首を伝って彼の体内に注ぎこまれているのは誰が見ても間違いなかった。
主人公は慌てて股間からその両乳首にぶら下がる機械へと注意を写し、引っ張りぬこうとするがとてもそうはいかない。それどころか、引っ張ると、乳首を頂点に風船のような塊が盛り上がっていった。
慌てて手を放す。
「胸だけじゃないわよ。あなたの体に送り込まれた液体が、どんどんあなたの体を女にしていくわ」
その言葉通り、彼の筋肉質な体は次第に柔らかくしなやかに変わっていく。そしてただの皮だけになった股間も、その皮の真ん中が割れ、あるべき形に戻るかのように変形していく。彼にはもうなすすべがなかった。大きく膨らんだ乳房の先に吸い付く機械を取り払うことも股間の変化を止めることもできない。ただ泣きそうな目で哀願しながら、女になっていく自分を受け入れるしかなかった。
なんなのだ…この映画。最初の純愛映画でもアダルト映画でもなく、ただの特殊な性癖向けの異常な映画と化している。ただそのリアルさは、映像的な凄さというより、イスラム過激派の捕虜の殺害映像を見ているような、非現実的ではあるが現実的な、いやなリアルさであった。
両乳首についた機械が季節を終えた葉っぱのようにはらりと落ちた。そこには完全に女性の姿になった主人公がいた。細く高い声で「どうして…」と繰り返している。
「彼、いえ彼女にあたしのリクスーを着せてあげて。女の子として就職活動したいみたいだから。あたしはこれからあなたの男をもらって男になるよの」
勝ち誇ったような微笑みでスーツのボタンを外し始める彼女。主人公は何とか抵抗しようとするが周りの女性たちに押さえつけられる。全裸になった彼女を前に、さっきまで着ていた服を着せていく。ショーツにブラジャー、パンティストッキングが当然のように生まれたばかりの彼女の体を包む。そして細身のブラウスにタイトスカートが着せされていく。もはやさっきまでのように自由に足も開けなくなった主人公は半べそをかきながらその台から降りた。そして代わりに全裸の彼女がその台に横になる。自ら股間にさっきまで主人公の股間にあったチューブを当てるとスイッチを入れた。
さっきとは逆の効果が彼女の体を包む。乳房は空気の抜けた風船のように縮み、柔らかかった体は筋肉質に変わっていく。チューブを通して何かが彼女の体に送り込まれている。
一体、この映画は一体何なんだ…。なぜ、こんな気味の悪い映画を見ているのだ…。
「お客様!お客様!!」
女性の声が響く。私は驚いて目を開ける。目の前にはあの、受付の女性がいる。場内はすっかり明るくなっている。スクリーンの前には幕が下りていた。夢?そうか、夢か。それでこのとんでもない展開に納得がいく。きっとどこかで寝てしまい、あの訳の分からない変身シーンは自分の夢だったのだろう。
眼の前にかかる髪を払う。髪?そんなに髪が長かっただろうか。
「ごめんさない。寝てしまって…」声が裏返って高くなってしまう。何度か咳払いをするがその声も高かった。
「大丈夫ですか?」
喉を押さえながら頷く。あれ、どうもいつもの喉仏のでっぱりを感じない。それに髪。前髪もそうだが、後ろ髪も驚くほど伸びている。肩にかかるぐらいだ。さすがに動揺を隠せない。
「落ち着いて下さい」彼女がなだめるように言う。
邪魔な髪の毛と格闘しながら自分の体を見る。服が、どうもぶかぶかになっている。そして何より違和感のある胸部。恐る恐る服の上から手を当ててみると、神経過敏になっている乳首の感覚と確かな膨らみを感じる。襟を広げて自分の胸を見てみる。そこにはだらんと膨らんだ胸とその上に大きな乳輪と乳首が鎮座していた。隠すように胸元を閉じる。
「いかがですか?女性になったお気持ちは?」明るい笑顔を浮かべた彼女が尋ねる。
「じょせい?」あの映画のシーンを思い出す。そしてさっきまでの股間の痛みも・・・。慌ててズボンの上から股間に手を当てる。ブカブカの布の下には、いつもの触感はない。ただ股間に、今までなかった感覚が生まれている。
「まさか、本当に…」私は子犬のような瞳で彼女を見る。
「あの薬の効果です。アンケートを取らせていただいていいですか?」
薬…。あの受付で飲んだスポーツドリンクか。こんなこと聞いていない。いや聞いたって信じないだろう。まさか、まだ夢の中なのか。今日はひな祭りで女性は無料。この薬で女性になったから、無料になったってことか?夢にしては妙に辻褄があっている。
彼女から渡されたボードとボールペンを無意識のまま受け取る。自分の手ではないような、細く長い指。ブカブカの服の袖は掌の半分ぐらいまで隠している。
この状態でアンケートに回答するなんて馬鹿げている。
「そんなことより、元には戻れるんですか?」ボードを隣の席に置き、相変わらず高い声をできるだけ低くして尋ねる。
「戻れますよ」さらっと言う。安心感が体全体を包む。「男性になる薬をご購入いただけば」
「え?それは、今、買えるの?」
「買えますよ。一千万支払っていただければ」
「ちょっとまって、今なんて?」動揺していて上手く聞き取れなかったのだと思い、もう一度確認する。
「一千万円で販売しています。」
「一千万!?」甲高い声で叫んでしまう。なんで女になる薬はただでその逆は一千万なのだ。いや、むしろそういう悪徳商売なのではないか。
「一千万なんて高すぎる!!」
「別にほしくなければお買い上げいただかなくていいんですよ」彼女は当然のように言い放つ。しかし、彼女と違い私は元々男だ。この体じゃ今まで築いてきたものをすべて失うことになる。そう。そうだ。会社だって、預金だって、今までの経歴だって、性別という最も基本的な部分が変更されてしまったら、すべての同一性を失う。仮にローンを組もうにも、消費者金融から借りようにも、なにもできないのだ。今いる賃貸マンションだってばれたら追い出されるかもしれないし、だからと言って実家に戻ることもできない。体の変化に加えて、自分がこのままでは失うものの大きさに背筋が凍りついた。
「そんなの滅茶苦茶だ。映画代は払うから、元に戻してくれよ」声を張り上げて言う。甲高い声は劇場内によく響く。彼女は首を横に振る。
「いくらなんでもあり得ない!警察に言うぞ!!」私は頭に血が上って叫ぶ。
「いいですけど。信じてもらえますかね?」彼女は余裕の表情で言う。もしかしたらこういうことは初めてではないのかもしれない。いや、こういう詐欺を繰り返しているのか。可愛い顔してとんでもない女だ。しかし彼女のいうことはその通りだった。いきなり交番に行って、女にされましたと訴えて信じてはもらえないだろう。まず医者に行って本当は男なのに女にされたと証明してもらわなければ。しかし、そんな証明できるのか?よく分からないが、胸は本物の乳房のように見えるし、股間からは恐らく男性器はきれいさっぱり無くなっている。そして、多分、女性器が出来上がっている。染色体とかホルモンレベルとかを調査すれば、もしかしたらなにか分かるかもしれないが、望みは薄い気がした。
「今、どんなに頑張っても300万しかない。それで何とかしてくれ」こんな詐欺に300万払うのも気が引けるが、そんなことは言ってはいられない。今ある全預金額を提示した。
「いいえ、ダメです。値引きはしません」彼女は首を振る。
「じゃあどうしろって言うんだよ。この体じゃ今まで通り働けないし、お金だって借りられないだろ?新しい仕事を探すにも、戸籍も住民票も経歴も何もなければ探せないだろ?」
「別にそういうものがなくても、女性なら受け入れてくれる仕事はありますよ」彼女は思わせぶりに笑う。確かにアルバイトならそこまで経歴や本人確認は行われないはずだ。ただバイトでそこまで稼ぐのには何年かかるか。いや、彼女の言葉には、もっと奥がある。水商売や風俗業のことを言っているのだろう。そういう仕事なら、むしろ自分が誰なのか明かしたくない女性たちが多く集っている気がする。しかし、男に戻るためとは言ってもそんな仕事をすることは、到底考えられないことだった。
「それか、うちの研究室の事務員募集中なんで、データを取らしてくれるならうちで働いてみます?」
聞くところによると、彼女は大学院の学生で、性分化と性転換の研究をしている研究室に属しているらしい。この映画館ではアルバイトをしているそうだ。結局私に残された選択肢はそれしかなかった。正直、この仕事を続けて一千万ためられるとは思っていなかった。毎月頑張っても2万円。残り七百万をためるのに30年近くかかってしまう。50代の中年で戻っても何の意味もない。ただ、その研究室にいれば、何らかの機会に戻る薬を頂戴できるかもしれない。
そんな淡い期待を胸にしながら、今日も研究室に通っている。時間が経つにつれ、体も変化に慣れてきて何も感じなくなってくる。そして時間が経つにつれ、元々の自分の生活も壊れていく。風の噂に元々いた会社では行方不明として退職扱いにされたと聞いた。元々の人生が取り返しのつかないほどに壊れていく。そして男としての心も次第に壊れていく。毎日出勤前、化粧台の前でメイクをするたびに、上手くなっていく自分がいる。スカートをはくことも、ハイヒールで歩くことも難なくこなせるようになっている自分がいる。そして何よりも恐ろしいのは、女性に対する魅力を感じる心が減退し、無意識のうちに男性への関心が強くなっていることを実感するときだ。
たった1,800円の映画代をケチったばっかりに、こんな目に会うなんて。
一年たったひな祭りの日、その映画館は潰れてしまっていた。
おしまい