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彼の王国  作者: ニカ
5/5

ゆらぐプール・サイド

4


 詩人は早死にをするというが、それはどこまで本当のことなんだかわかったものではない。早死にをした人がたまたま有名になっただけかもしれないし、取り分けもともと早死にしそうな人が決まって詩を書きたがるだけなのかもしれない。どれが真実というわけでもないのだろう。唯一事実と言い切っていいことがあるとすれば、一定数の詩人は結構早めに死んでしまった、ということに尽きる。

 美しい言葉を並べてきた偉人に対してわたしがこのように思いを馳せるようになったきっかけは、先ほどの授業で先生がふとその話に触れたからである。とくに初耳というわけではなかった。詩人は早死に、はよく聞く話で、噂はかねがねといったところだったが、なぜ詩人だけなのだろうと考えるまでに至ったのは今回が初めてであった。

 わたしは、「詩人は早死に」という言葉を、そろそろこの言葉を連発するとバチか何か当たってしまいそうだが、思い浮かべてみると、とても美しい言葉をきれいな声で吐き出す薄命な麗人がぼんやりと輪郭を露わにしてくるのだった。それはとてもピントの合わない写真のようであったが、その写真の中にわたしはセシルくんを見ていた。セシルくんが詩を嗜むかどうかはわからないけれど、わたしはなぜだか、彼は早くして死んでしまうのではないかと、そう思ったのだった。

 すでに切り落とされ命を失った花を花壇の煉瓦のふちに追いやるセシルくんの、きれいでうつろな瞳。

 それはわたしの想像内のぼんやりとした彼の虚像の中で、やけに鮮明な色をもっていた。



 わたしは学校内の図書館で夏休みの課題図書を探していた。この休暇で、近現代の文学を五冊読まなければならない。年代さえ守られていればどの本を読んでも自由だったので、わたしはできるだけ有名どころの本を借りたかったが、希望の本はすでに他の生徒に貸し出された後だった。夏季休暇中であっても貸出期間は二週間のため、休暇の中腹くらいになれば真面目な生徒は返しに来るだろうが、確たる約束ではなかった。いつだって、これからのことで確実なことなんて、そうない。ただ一つ確実なのは、人はいつか死ぬ、くらいのものではないだろうか。


 わたしは結局一冊だけを借りてその場を後にした。海外の作家の書いた本だった。背表紙の表題に惹かれ手に取り、真ん中あたりをおもむろに開いたら、素敵な言い回しが洒落た訳で記載されていたので、借りることにした。

「きみはそんな理由で、窓から飛び降りたっていうの? 靴下も履かないで」

 その台詞に至るまで、一体どのような事の顛末があったのだろう。読む前に予想してみるが、大体の場合において、そのシーンの雰囲気は読む前と読んで辿り着いた際とでは大きく異なる。


 意外な取り合わせではあるが、図書館とプールはすぐそばにあった。図書館は四階にあって、四階にはその図書館とプールしかなかった。プールの真上は、空だ。つまり、この建物は六階まであるが、プールのある箇所だけ四階が最上階なのだった。

 このプールは水泳部専用のプールだが、水泳部の活動がないときは一般の生徒でも入る事ができる。白い壁で取り囲まれていて、水の張っている部分は鏡のように空模様を映していた。

 わたしはその水面が見たくて、ふらりとついでのつもりでプール・サイドに寄ってみたのだ。透明なガラスのドアに手を掛けると、そこにはセシルくんがいた。わたしは、一瞬開けることを躊躇する。ただし、耳のいいセシルくんに勘付かれてしまったわたしは、プール・サイドへ足を踏み入れざるを得なくなってしまった。彼はわたしのたてた僅かな物音に注意を向け、その音の主がわたしだとわかると、小さく手を振ってきたのだった。


 じりじりと熱い白い床の上を進むと、白い制服に身を包んだセシルくんが「きみも涼みに来たの」と言った。本当はプールの水面の揺れをただ眺めるためだけに訪れたのだけれど、まあ似たようなものかと思ったので、わたしは肯定した。

「あついね」

 当たり障りのない言葉をセシルくんに投げかけた。セシルくんは微笑を浮かべて何も言わなかった。セシルくんは本当に暑さを、肌にぴりぴりと這うような熱を、感じているのだろうか。彼は汗をかいていない。でも、涼みに来たと言っている以上、わたしの疑問はすでに答えが出ているようなものだった。

「水面を見てると眠くなるね」

 セシルくんはぼんやりと頬杖をついて言った。頷いて、わたしも静かに揺れる水面を見つめた。

「フェイちゃんは知ってた? 水面や炎の揺らめきは、1/fゆらぎといって、不規則で予測不可能なものなのさ」

「言われてみれば、確かに」

「それを見て眠くなるのは、人も1/fゆらぎで出来ているから。だから、響き合うのかもしれない」

 セシルくんは手を水面に差し入れ、ゆっくり弧を描いた。わたしはセシルくんの白くてやや大きい手を見て、そのあと自分の小さくて指の細い手を見た。同じく生きているのに、あまりにも不揃いな出来だった。


 厭きたところでセシルくんは立ち上がって、プールを見下ろした。落ち葉の一枚でさえも浮かんでいない大きな鏡に、セシルくんの色素の薄い影が落ちた。

 わたしも一緒になって立ち上がると、セシルくんは急遽わたしの手を取る。不揃いな手と手が重なりわたしは反射的に身を強張らせてしまうが、彼はお構いなしに繋がれた手を引いた。くらり、とプールに落ちそうになって、わたしはすんでのところで踏みとどまり、セシルくんの手を逆に引いた。

「おどろいた?」

 彼は笑った。

「ぼくはプールに落ちるつもりで、きみの手を引いたんだよ」

「本が、だめになる」わたしは狼狽えながら言った。このまま飛び込めば確かに本はだめになるが、さして決定的な断り文句でもないのに、どうしても混乱のせいでこの言葉しか出てこなかった。

 セシルくんは丁寧に本を奪い取って、プール・サイドに置いた。

「これでいい?」

 セシルくんは再びわたしの手を取った。

 セシルくんが話すように、不規則なものが不規則なものを好むのだとしたら、それはなんて混沌とした世界なのだろうと思う。でも、わたしたちは間違いなくその世界で息をしていたし、混沌と自覚せざるを得ないそれは、きっと見る角度を変えてみたら案外単純なつくりだったりするもののような気がした。

「おいで」

 確約など何処にもないが、当てのある直感は幾らでもあった。



 自室のアイボリーがかった白いシーツを窓辺に干してしまうと、それはカーテンのように風にゆられ、遮光したり光を招いたり慌ただしく働いた。わたしはその脇で、濡れずに済んだ本を開いて読んでいる。

 小説の中の彼が靴下も履かず窓から飛び降りたのは、捕まえた蝶々が窓から逃げてしまったからだった。その彼は、貴重な珍しい蝶々だったから仕方のないことなのだ、と言っている。しかし彼はその代償として、左足の骨折に見舞われている。


 わたしがプールに落ちたとき、身体を纏う布が次々に乾きを失い、水と一緒になるのを肌に感じた。セシルくんの金髪が目の前で揺らめき、そのきれいな双眼と鉢合わせになる。彼の肌は、空の色合いを吸収した水の中だということも相俟って、少し青みがかったように見えた。

 わたしの身体は、揺らいでいる。

 セシルくんの身体も、揺らいでいる。

 大きなうねりを持ってわたしたちを包み込んだプールは、わたしたちの声も酸素も吸い込んで、静かにただひとつになった。

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