星屑スターダム
3
風の強い日のことだった。飛行機が空を突き抜けるような轟音とその巨大な風圧には、有無を言わさない緊迫した雰囲気があった。白いちぎれ雲がとどまることを知らず流れてゆく。もうすぐたくさんの雨が降るらしかった。
わたしとセシルくんは、他のクラスメイト二名とカルテットを組んで第一音楽室のグランドピアノを背に並んだ。先生が鍵盤を叩いて初音を示してくれる前に、ごうと風がうなって窓をがたがたと揺らした。わたしも二名のクラスメイトも少し怯むが、セシルくんはアンニュイな笑顔を浮かべたまま右手の指をぱちんと鳴らした。わたしたちはそれが合図であるかのように、すっと背すじを伸ばしてぐらつきそうな身体を保った。
☆
それは音楽の授業の一環でのことであった。そこに至るまでには、実に色んなことがあった。
わたしは特進クラスではじめて友だちができた。セナという眼鏡の優しげな女の子と、ルイという黒髪の男の子である。特進クラスは総じて規律をしっかり守るタイプの生徒がかき集められていて、派手な格好や性格の生徒はいない。ぎりぎりのグレーゾーンをいく生徒は校内に一定数いるが、みな普通クラスに振り分けられている。リズのようにお化粧をしたりピアスをあけたり髪を染めているのは、グレーゾーンとして曖昧に受理されていた。
ルイは、わたしの席からみて右隣りに座っている。セナは、わたしの前だ。挨拶をしているうちに自然となかよくなった。二人とも、とても頭のいい優秀な生徒だった。
わたしの学校の自由ではないところの一つに、芸術系の授業は全部必須というところがある。美術と音楽と芸術全般という三つの授業があり、それらはすべて履修しなければならなかった。芸術全般とは、舞台や芸術史、文学などを取り扱う殆ど座学のようなものだ。この授業はとにかく眠くて、眠くなる授業を順に並べ替えるとしたら、真っ先にこの授業に手が伸びるだろう。それほどに、なんだか気の遠くなる授業だった。
そして今日の芸術全般の授業においても、わたしは例外なく当てのない舟を漕いでいた。授業も中腹まで差し掛かったころ、わたしはルイに肩を小突かれ目を覚ました。
そろそろ順番がくるぞ。
彼は音を漏らさず唇だけを動かしてわたしにそう伝えた。手元のプリントに目を移すと、ルイはすぐに指差して次にわたしが当たるであろう設問の番号を教えてくれた。軽い会釈でルイにお礼を言うと、わたしはすぐにその設問に取り掛かった。わたしのプリントはよく見たら真っ白で、半分まで行われた授業がずっと筒抜けだったことがよく分かる。
わたしは無事あたり触りない回答を行うと、そっと椅子に座りなおして再度ルイに会釈をした。ルイは微妙に笑ってそっぽを向いた。
音楽の実技試験が課されたのは、その翌々日のことだったと思う。先生はプリントも配らず口頭で試験の概要を説明した。手元のメモ書きをほんの二十部ほど刷れば事足りるのに、なぜか先生はいつもそれをしない。
試験の内容は以下のとおりである。四人で混声四部の曲を一曲歌い上げること。メンバーは先生がくじ引きで決めた。課題曲は短め。一週間猶予がある。評価はハーモニーの正確性や曲としての完成度を問う。
わたしは、偶然にもセシルくんとセナとルイと一緒になった。こういった偶然は存外侮れないもので、わたしたち四人の関係性はこれをきっかけに仲の良い共通の友人に格上げされた。「偶然じゃないさ」とセシルくんなら言うだろう。「最初から決まっていたことなんだから」
わたしたちは、放課後の空き教室で、まず音を取ることから始めた。小さなキーボードを音楽室から拝借し、はるばる別の教室まで運んできたのだった。
一人一パート担当しないといけないので作業自体は個人個人でやらなければならないが、一時間ほどもするとさすがにセシルくんは音を取りきってしまったので、ルイの音取りを手伝っていた。まず、ルイは音符を読むのに精一杯だったから、セシルくんが代わりに鍵盤を叩いてやっていた。長年ピアノを習っているセナも音を取りきったらしく、
「進んでる?」と、わたしに尋ねてくる。
その問いには「あと少しかなぁ」と答えた。
わたしは、歌うことにかなり不慣れである。音痴ではないと周りは言うけれど、目立つことに後ろ向きということもあって、今までの人生は歌うという行為に対しても距離を取りがちになっていた人生だった。そういうこともあって、わたしはパート分けをするときアルトを志望した。正直低音はまったく響かないが、ソプラノを歌うわけにはいかなかったのだ。
「セナはさすが、音を取るのが早いね」
「ソプラノは音が簡単だから……それより、フェイのほうが大変だよね。アルトって音取りも苦労するし、歌っているうちに分からなくなってくるし」
セナは眼鏡の奥で優しげな目をしてわたしを気遣ってくれた。わたしからしたら嫌な役を引き受けてくれたセナのほうが大変なのだけれど、セナはそうは思っていないらしい。わたしはありがとう、大丈夫、と言って、音取りに戻った。あと半分なのだけれど、その半分はやたら険しい道のりに思えた。
かつ、かつ、と小気味良い足音が後方から聴こえる。セナは「お疲れさま」とわたしの後方へ声かけた。後方の人物はセナと同様の言葉を、華麗とも言えるテナーボイスで返す。わたしは鍵盤を押す手を止めた。
「進捗はどうかな? 始めのほうだけでも合わせられたらと思うんだけど」
わたしは後ろを振り返った。セシルくんが、長い睫毛に縁取られた大きな目をぱちぱちとさせていた。セナはわたしを気遣ってか「うーん……」と言ったままはっきり返事をしない。わたしは一秒ほど考えたあと、「合わせよう」と言った。我ながら、この場面に一番あう回答をしたものだ、と思った。
「オーケー、その場でいいから、みんな声を出してあわせていこう」
セシルくんは自分のキーボードや荷物が置いてある席まで戻って、ペンケースからペンを取り出して、とんとんと机を叩き出した。一泊につき一回叩いているらしい。それぞれがキーボードで初音を確認し、セシルくんの合図を待った。
いち、にい、さん、はい。
それを見計らってわたしたちは自分の音を鳴らした。セナの声はきれいだけど小さく、セシルくんの声は高らかだけどわざと控えめにしていて、ルイの声は大きかった。わたしの声は、機械みたいだと自分で思った。
「んー……」
セシルくんが合唱をとめ、笑顔を浮かべたまま考え込む。
「音外してもいいから、一回思い切り歌ってみようか」
いち、にい、さん、はい。
全員で大きな声で歌う。今度は、セナの声だけが埋もれてしまう。
「じゃあ、ルイとぼくはもう少し音量を下げよう」
いち、にい、さん、はい。
「ここのハーモニーの和音、ちょっと気にしてみて。この音ね」セシルくんはジャーンと鍵盤を鳴らした。「じゃあいくよ」
いち、にい、さん、はい。
「そしたら、次からここは……」
そんなことを一時間ほどやって、その場はお開きとなった。音楽室へキーボードを返しに行って、薄く夕闇がかった空を見つめながらわたしたちは丘の下り坂をくだった。
丘をくだったあとは、全員がばらばらの方向へと散った。わたしたちは本当に、東西南北にそれぞれ分かれるようにして帰路を行った。