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彼の王国  作者: ニカ
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睫毛と花びら

2


 セシルくんにとってのわたしとの初対面は、わたしたちが二学年にあがったころの夏ごろだったとわたしは思っている。わたしとセシルくんは、二学年から偶然に同じクラスとなった。もともと隣の隣の隣のクラスにいたセシルくんは特進クラスの優待生で、わたしはその隣の隣の隣の普通のクラスの女子生徒だった。ところがわたしは一学年の年度末の試験で奇跡のような高得点を叩き出し、この度セシルくんのいるクラスへ振り分けられることになったのだった。わたしはその試験に向けてそれなりに勉強したので、本当はそれなりの結果になるはずだったのだけれど、たまたまヤマが当たりまくってしまったのだ。わたしには高得点をコンスタントに取れるほどの知能はない。

 ただ、それをきっかけにわたしはもう少しがんばって勉強してみようかなという気持ちにさせられた。相変わらず成績は特進クラスの中では後ろから数えたほうが早いのだが、それでもわたしは鈍い頭を働かせなんとか着いて行こうとしている。


 ところで、この学校は単位制である。自分の意志で授業を選択できるのである。そのため、わたしは特進クラスでホームルームや一部の補修を受けたものの、それ以外はリズや他の友だちと授業を受けたりご飯を食べたりして過ごしていた。なんとも自由な学校である。

 そんなわけでわたしは、普通クラスに残った友だちと行動を共にしている。

「セシルくんって普段どんな感じなの」という友だちの質問はかれこれ七十四回目にもなった。

「べつに、普通だよ」というのがわたしのお決まりの返事だった。

 同じクラスになって、季節は夏になったけれど、セシルくんとわたしの間柄はせいぜい顔見知りといったところだった。そもそもセシルくんはわたしのことを認知しているのかも怪しい。彼の席の周りには常にクラス問わず女の子の取り巻きがいて、彼は退屈する瞬間がなさそうだった。誰が差し出しているのか分からないが、毎日違う花束が鞄の横に所在なく置かれている。彼がその花をどうしているのか、わたしは知らない。風呂に浮かべてるのかな、と数学の授業のとき彼の背中を眺めながらふと思ったりした。本当にそれだけである。



 初夏の太陽がさんさんと降り注ぐよき日の放課後に、わたしは軽音楽部のライブに誘われた。リズの所属するバンドが新曲を披露するので、それを見に行く約束だった。音楽が好きな美術部の友だちを校舎脇の石像の前に誘い合わせている。どこで待ち合わせてもいいのだけれど、普段勉強をしている校舎と軽音楽部が活動を行っている古い別校舎の間にその石像が都合よくあったのだ。わたしは定刻より早く着いて、その石像の前で直射日光を景気よく浴びた。

 光が射すそんな真っ白い眼前の世界に目を細めていると、目の前で小さく金色が揺れたので、わたしは細めた目を元の大きさに戻した。その金色の正体は他ならぬセシルくんで、彼はわたしのすぐ横を通り、そばの花壇の前で跪いた。その一連の動作は、わたしが近くにいることをあまり考えていないようで、まさに「人目を憚らず」ともいえるものだった。

 彼は後手に持っていた花束をおもむろに胸の前に掲げ、丁寧にその薄紫色のリボンを解いた。そして、白いヴェールをゆっくりと外し、丁寧な所作とは裏腹に地面に向かって無配慮に落とした。茎の先にまとわりつく輪ゴムを外してそのまま手首へ収めると、その茎を一本一本ばらして、花を花壇へ一本、また一本と置いていった。黄色の薔薇だった。

 わたしはそんな彼の所作から目が離せなくなっていた。勝手に足が動いて、電光に吸い寄せられる羽虫のようにふらふらと彼のそばへ寄っていき、気づけばすぐ隣にまで達してしまった。彼は片膝をついたままでわたしに顔を向けた。彼がわたしに視線を寄越したのは、わたしの知る限りこれが初めてのことだった。真正面から見る彼の瞳は、幾分大きかった。

「その花束ってさ」

 わたしはそこまで口走ってから、喋るのを止めた。だれかに止められたわけではない。これ以上言ってはいけない気がして、極めて自発的に止めたのだった。

 セシルくんは長い睫毛を瞬いて、きょとんとした表情を浮かべた。その後彼は薔薇を見遣って、手の先にあるその黄色い花弁をそっと撫でて、「かなしいね」と言った。

「こんなことをしても、花は枯れていく一方なのに」

 彼は物憂げに薔薇を見つめ続けた。わたしはしゃがみこんで、その薔薇の一つを手に取った。その茎はひどくしなやかだった。

 彼の目線は花壇の薔薇を離れ、わたしの手に移った薔薇へと向けられていた。大きくゆっくりと瞬きをしたあと、彼はポケットから薄紫色のリボンを取り出してわたしの手首へ結び付けた。

「とても素敵だ」

 セシルくんの行動と言動にわたしはしばし絶句してしまう。そんなわたしをよそにセシルくんは立ち上がってその場を去ってしまった。わたしはしゃがんだまま、そのリボンと薔薇を交互に見比べた。ふくらはぎとふともものあいだに挟まれた膝裏には、じんわりと汗をかきはじめていた。



 わたしはその薔薇をそのあとどうしたのかというと、逆さに吊るしてドライフラワーにしてしまった。彼の言うとおり、それは枯れていく一方なのだ。それを止めることはできない。わたしも、セシルくんも、たとえ神様であっても。

 わたしはややこしい数式をノートにとりながら、左斜め前のセシルくんの背中を眺めた。セシルくんの足元には、アメジストのような美しい花束がある。わたしは、その花の行方を知っている。

「ねえ、セシルくんの合唱また聴きに行こうよ」

 リズは、授業のあとわたしをそう誘った。わたしは美術部の活動があるから、と言って断った。残念ね、とリズは言って、一部分だけ燃える情熱のように染め上げられた赤い髪を揺らし、別の友だちの元へ駆けて行った。

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