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彼の王国  作者: ニカ
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はじまりのはじまり

1


 彼のことを「夢かわいい」と評価した女の子は、じきに転校してしまった。


 わたしたちの通う学校は、えらく華々しいところにあった。芳醇な薔薇の咲く裾野をまとった高台に、絵に描いたような様式の建物が大きく構えている。これがわたしたちの通う校舎だった。まるでシンデレラに出てくるお城のようだ、と入学者募集要項には書かれている。校舎へ辿り着くまでに、赤や黄色や青や白などの花畑が続き、その道の向こうに広がる空は大抵晴れ上がっていた。みな白い制服を着て、その可愛らしい小道をにこやかに歩いている。それが毎朝わたしが見る光景である。

 そんな夢みたいな場所に、夢みたいな王子がいた。彼を、友だちの女の子は「夢かわいい」と言った。わたしは、その子から何のためらいもなくでてきた「夢かわいい」を一先ず耳の中に押し込めると、そのあと頭の中で十回くらい繰り返した。夢かわいい、夢かわいい、夢かわいい……。

 なんともメルヘンチックな響きだった。


 そもそも男性に、可愛いなんて軽々しく言ってもいいものなのだろうか? といった疑問は取り敢えず据え置きとしておくことにする。



 わたしが彼を初めて見たのは入学した年の六月だった。ロックンロールしか聴かないはずの友だちのリズが急に合唱部の部室へ行こうと言い出したことがきっかけであり、それはうんざりするくらい湿気の帯びた憂鬱な曇り空の放課後であった。わたしは突然の申し出に、書きかけの文章のつづきを綴るのをやめてリズを見た。黒髪に赤いメッシュを入れたリズは、得意げなマスカラの先にわくわくとどきどきを乗せた表情をしていた。

「急にどうしたの。部活の掛け持ちでもするの」

 わたしが尋ねると、リズは「知らないの?」と目を大きく見開いて言った。知らないよと言ってわたしは再び宿題をするためにノートへ向かい合おうとすると、リズは「ちょっと待った」と言わんばかりにわたしの肩を勢いよく掴んだ。

「セシルくんを観に行くんだよ!」

 リズは目をきらきら輝かせてそう言った。いつもはギターリフのことや今にも波に乗りそうなインディーズのバンドのことを喋ったりとか口数が減ったときにはドラムの声真似をして裏拍をとって遊んでいるはずの友だちが、このときばかりは夢見るお姫様のような素敵な目をしていたことにわたしは驚いた。

「セシルくん……?」

 そして、わたしは今では自分でも驚くべきところなのだが、セシルくんのことを存じ上げなかった。そのセシルくんが、まさに「夢かわいい」王子様のことだったのである。


 彼は合唱部に所属しているらしかった。テナーのトップ(テナーの中で二声に分かれるとき、高音を担当するほうである)でソロも歌えて、わたしが知るころにはちょっとしたアイドルのような存在となっていた。彼の高音はとてもよく伸びて、ゆるめにかかるビブラートが美しくて高尚だった。かといって合唱の中で悪目立ちすることもなく、彼が合唱に寄り添うように、もしくは合唱が彼に寄り添うように、唄う声はきちんと曲としてまとめあげられていた。

 これも後から知ったことなのだけれど、セシルくんの評判が拡がるのは光の矢の如く早々で、彼目当てに合唱部に見学にくる生徒が日々後をたたなかったという。セシルくんははじめから合唱部に入ると決めていて、入学式の次の日くらいに入部を決めたらしい。精力的に部活動に取り組んでいたためか、新入生歓迎のミニ・コンサートにも彼は歓迎する側で参加した。おそらくそこで彼が披露されたことによって、彼の人気に火がついたのだろうと思われる。


 わたしはリズに引き摺られ半ば渋々教室を後にし、きれいな内装の校内を腕を引かれ歩いた。リズはどんどん赤絨毯の階段を上に登っていく。合唱部の活動している音楽室は、ちょうど第一校舎内の一番上にあった。

 音楽室はまるでセシルくんのためだけに用意されたかのように、用意周到に整えられていた。音が上に響くように天井は高く、木の床はワックスがけがなされぴかぴかしていた。窓の外には大きめのバルコニーというか、空中庭園的なものが広がっていた。様々な花が咲いていて、石像なんかも置いてあった。一階にある美術部の部室とは比べものにならないくらい、そこは天国のようだった。

 合唱部の部員たちはグランドピアノの周りに集まり発声練習をしていた。入り口付近に椅子が並べられていて、そこには観客がすでに腰を落ち着かせてきゃあきゃあと話を弾ませている。観客のほとんどが、頬を紅潮させた女の子だった。わたしとリズはかろうじて空いていた後ろの席になんとか並んで座ることができた。

 発声練習の最中に、とある男性がピアノ周辺の輪から脱し、観客席に居る人々に呼び掛けた。

「ミニ・コンサートは一曲だけの披露になります。それが終わったら椅子を片付けますのでご了承ください。入部希望の方だけ申し出ていただければと思います」

 その男性は、のちのち指揮者だったということが分かるのだが、とにかく面倒臭そうにそうわたしたちに告げた。きっとわたしとリズのように、入る気もないのにセシルくん目当てで観にくる生徒が絶えないからだろうと思った。それは決して悪いことだらけでもないことだったと思うけれど、こうもびったり入り浸りされると練習にならないのだろう。

 発声が終わり、席の前に部員たちが列をなして並んだ。セシルくんは真ん中にいた。テナートップの立ち位置とはそういうものである。彼が足音を鳴らして真ん中に辿り着いた時、客席から小さな歓声が上がった。彼の金髪は照明に晒されさらに煌々と輝いていた。

 先ほどわたしたちに諸注意を述べた男子生徒は合唱と客席の隙間に割って入るように堂々と乗り込んだ。彼が間もなく腕を振り上げ、セシルくんは口を開いた。


 ぼくは君がみあげている君の空をみてみたい


 そんな言葉の連なりで演奏は始まった。アカペラで入り、「見てみたい」と言い終わりそうなところでピアノ伴奏が入る。恋に落ちる瞬間を捉えたかのような、とてもドラマチックな入りだった。


 君のまなざしの海にぼくの目を晴天の難破船のように静かに沈ませながら君の空の青をぼくの吐息で白くくもらす一瞬のためにそれだけのために何度でも君のいじわるな一瞥につまづいてみたい


 駆け抜けるように宝石のような言葉が次々と高く響き天井まで登っていく。わたしは釘づけになったようにそれに耳をそばだて、そして時どきセシルくんのほうを見た。身体を揺らし朗々と歌い上げているその姿はとても自然で、それは彼のあるべき姿なのだとわたしは錯覚した。もっともわたしはこのときが彼との初対面であり、彼にとってはもっと後にわたしとの初対面がやってくるのだけれど、とにかく彼の姿といえば歌ったところしか見ていないのにわたしはこれが彼の立つべき場所なんだと勝手に納得して勝手に強く感銘を受けた。そして、それはあながち間違いでもなかった。


 曲が静かなピアノの旋律で締め括りを迎えると、客席からは立ち上がっての拍手喝采が起こって、わたしとリズもつられて席を立った。椅子の脚が床に擦れて鈍い音がした。やがて拍手が止むと、わたしたちは指揮者にその場を追い出され、その美しい園を後にした。

作中の歌詞は「恋唄・空」作詩 日原正彦

/作曲 信長貴富 より一部抜粋

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