第五十八話 城の奥
雨はまだまだ止まない。
ライカが長年住んでいた場所は、この地より気候の変化が穏やかで、数日纏まって雨が降るという事がなかった。
雨や嵐は一晩もあれば行き過ぎたし、三日あればその内必ず一日は陽が照っているのが当たり前。
対してこの地は、嵐の時季を過ぎて夏になってからは全く雨が降らなかったが、降れば降ったでいつまでも降り続くのだ。
あの地が竜王達によって創られた地である事を差し引いたとしても、場所が変われば気候も大きく変わるものだという事をライカは実感した。
「毎日来なくてもいいのですよ」
出産を控えた妊婦のむくみを取る為にその手足を解しながら、療法師であるユーゼイックは苦笑してみせる。
ライカは体調を整える成分のお茶を淹れてその女性に手渡していた。
「ここに来ると俺も気分が良いのでつい」
治療所は常に香が焚かれていて良い香りが漂っているが、街中は雨によって普段より篭った匂いが強い。
住居や店舗の庭や広場等は排泄の場であるし、雨のせいで不浄消しの効果が無いのだからどうしようもない事ではあった。
しかし、ライカは匂いに敏感で悪臭は体調不良にすら直結する。
そもそもライカがハーブを自宅で栽培したいと思ったのはその為だ。
「ライカはいつも香草袋を持ち歩いてますよね。本当にハーブが好きなのですね」
「ええ、良い香りが身近にあると落ち着くんです」
むしろ無いと落ち着かないという方が正しい。
「そうですか」
尚も笑い混じりにそう言うと、ユーゼイックは出産を控えた女性の背にクッションを足し、編み物を続けるように促した。
「それでは今度はこちらを少し手伝っていただけますか?」
治療時、手指を常に暖めておく為の湯を張った桶を持って、複雑に交差する廊下へと出る。
ライカも女性に挨拶をするとその後に続いた。
この治療所は最初の基本となる小さい建物があり、それが手狭になる度に注ぎ足しをしたおかげで妙に複雑な構造になっている。
廊下がやや傾斜している上に斜めに交差していて、そこを歩く人間の方向感覚を狂わせるのだ。
おかげで、ライカは患者の治療部屋から離れた事だけは分かっていたが、どっちの方向へと向かっているのかは自信がない。
「今の時期は雨が続きますので乾燥薬が不足しがちです。なので、頻繁に生の薬草を使う事になるのですが、これも殆どはある程度乾かして使います」
ユーゼイックは一つの扉の前で立ち止まった。その前でライカに桶を手渡すと、扉を開ける。
開きの扉の先に更に引き戸がある。厳重というより密閉を重視した為の造りのようだ。
シンとした暗いその部屋は雑多な、しかしそれぞれが強く主張する匂いで満ちていた。
空気が動かないその場所にはどこにも光が見えない。
ユーゼイックは直ぐには中へと踏み込まず、戸口でその場に備えられたランプに火を入れる。
しばし続くカチカチという硬い火打ち石の打ち合う音を聞きながら、ライカは夜目の利く目で部屋を見渡してみた。
そこには様々な物、束ねられた草や何かの角の一部、石、毛皮のようなもの、そういった物が造り付けの棚にずらりと並んでいる。
何かを待つかのような、静謐で独特の気配がそこにはあった。
(薬倉庫かな?)
考える内に灯が灯り、室内を狭い範囲で照らし出した。
「外で少し待っていてもらえますか?」
「あ、はい」
ユーゼイックは静かな足取りで、部屋の空気を乱さないように注意深く歩いて奥へと進み、何かを手に取って戻って来た。
ふ、とランプを吹き消すと、元通りの場所へと戻す。
そのまま内側の引き戸を慎重に閉め、外扉もきっちりと閉じた。
そして廊下の窓を引き上げると雨日の僅かな明るさの下でそれをライカに見せる。
「これは何か分かるかな?」
茶色の塊。
微かに鼻腔に香りを吸い込むと、咳き込むような異臭がある。
「この匂いは毒出し草ですね」
それは日陰の湿った場所に生える草で、よく火傷の薬として使われる便利な草なのだけれども、あまりに強烈な匂いなので普段は嫌われものの草だった。
貰った本には確か沼地草の名前で載っていたはずである。
しかし、この地域には沼地などはない。
ここで生きる者にはしっくり来ない名前で、しかも分かり難い。
なので、ライカはあえてこの辺でずっと使われている方の名前を言った。
「そう。これは民間では火傷の薬として有名ですが、他に名前の通り毒素を体から排出される作用がある薬草です」
「はい」
ユーゼイックも共通目録の名前には全く拘る事なく地域での名前を元に話を進める。
「色々な治療に有用な薬ですが、この葉は水分を含んだ状態だと効能が弱い。なのでこの時期は多めに摘んで時間を掛けて水分を抜くようにしています」
彼の手の中のそれはどうやってその状態にしたのか、かさかさに乾いてるのではなく、固く丸まって石のようになっていた。
「それで、これを摘んできてもらいたいのです。実は、これは薬草園ではなく、ここの西奥の畑の周りに自生しているんです。おかげでちょっと遠出になるためなかなか頻繁に採りに行けなくて、忙しさにかまけている内にすっかり在庫が減ってしまったのですよ」
「そうなんですか」
「君は畑の場所を知らないだろうから行きはスアンに案内させましょう。帰りは一人で大丈夫でしょうか?」
「あ、はい。道を覚えるのは得意ですから」
「そうですか、頼もしいですね」
微笑み、先へと進むユーゼイックの後を付いて歩きながら、ライカは内心で、城の道よりもこの建物の内部構造を覚える方が少し時間が掛かりそうだな、と付け足した。
廊下の先に布で仕切られた熱気のある空間が見える。
布を掻き分けて中へと入ると、治療所の助手の人たちがなにやら作業をしていた。
熱いお湯を大鍋に沸かして、布を煮ている人や、乳鉢と乳棒を使って何かを磨り潰している人など様々だ。
「スアン」
「あ、先生、何か御用ですか?」
呼ばれて、布を高い場所に渡した紐に干していた女性が仲間から抜けて一人やって来た。
「すまないが彼を奥の野菜畑に案内してあげてくれませんか?毒出し草の採取を頼んだので場所を教えてあげて欲しいのです」
「はい、承りました」
女性はにっこりと笑うとエプロンで手を拭い、ライカの先に立って裏口を示した。
「こちら側の扉から出ると畑に近いの」
「あ、はい。先生、行って来ます」
彼女に従って行きながら、ライカはユーゼイックに挨拶をし、彼から籠を受け取る。
「よろしくお願いします」
ユーゼイックはうなずいてそれを見送った。
外の雨はそれが痛いと感じる程には酷くないが、服を濡らしてその感触をたちまち不快なものに変えてしまう。
「それにしてもお城の敷地は広いですね」
「え?」
雨音で聞き逃したのか、スアンは振り返ると聞き返した。
「お城は広いなと思って」
ライカは先ほどより声に力を込めて言い直す。
「ああ、私達はもう慣れちゃったけど、広いわよね。こっちの方には森もあるのよ」
そう言って右手で示す先には、今は雨でよく見えないが、小道が途中で途切れて、岩と木立が美しく門のように配置されていた。
「知らない場所に迷い込むと出口が分からなくなりそうです」
「実際迷子になる人も結構いるのよ。注意してね」
「はい」
畑に辿り着くまで小さな庭を二つ程通り抜けた。
途中に鳥小屋や家畜小屋があり、小さめの井戸もある。
小さな白い鈴のような花が咲いた低木の小道を通り、その先に立派な畑が並んでいた。
「かなり広いですね。お城の中の畑だからもっとこじんまりとしたものだと思っていました」
「いざとなったら城の人と街の人の食料を賄わなければならないから、それなりに備えがあるらしいわ」
「いざとなったら?」
「また戦になったりしたら、ね」
少し表情を曇らせて彼女は告げる。
その表情を見て、もしかしたら彼女にも多くの大人達のように戦の時代の記憶があるのかもしれないと、ライカは思った。
「誰かいるみたいですよ」
雨を透かして、畑を背景に動く人影がある。
「ああ、養育院の子供達よ」
「養育院?」
「ほら、あそこに塔があるでしょう。あそこが養育院、親がいない孤児達を預かって育てている場所なの」
「ここにそんな場所がある事を知りませんでした」
「そうでしょうね、あの子達絶対城から出ないもの」
溜息を吐きながら言うその口調に、何か沈んだ響きがあった。
その意味は今のライカには分からない。
「行きましょう。顔見せしておかないと畑泥棒と間違われたら困るでしょう」
その暗い響きを振り払うように、彼女は朗らかにライカに笑い掛けた。
濡れた土の匂いと、その中に混ざる肥料の匂い、微かにそれを彩る野菜の青い匂いが、大地の豊かさを示すように漂う。
その中から微かに聞こえる声が子供の存在を確かなものとして示していた。
(養育院って確か街に来た頃に聞いたな。王様や貴族が自費を投じて孤児を育てる為に建てた施設とか)
という事はこの施設は領主様の建てたものと言う事になるのだろう。
それなら城の敷地にあるのは納得出来る話だ。
「マァイヤ!」
スアンは人名らしきものを大きな声で呼ばわる。
彼女の声に応えるように動いた人影は、領主と似て異なるが、やはり彼と同じように見た者に違和感を与える姿をしていた。




