第三十六話 狩り日和
夏の午後特有の明るさの中、突如豊かで厚みのある音が大気を震わせた。
鹿の雄が高らかに自らの偉大さを宣言する時の声に似ているが、音の厚みこそあれ、ライカの耳には感情が薄いと感じる響きである。
「何の音かな?」
「角笛ね。あれって中央から持ってきたのよ、ここらじゃあんな角のある動物なんていないしね。聞いた話によると牛の角らしいけど、あんな大きな角がある生き物なんて怖くてとても飼えないわよね。中央ではミルクや肉用に養ってたりするらしいけど、どうやって育てているのかしら」
「あれが角笛なんだ、本物は初めて聞いたな。そうやって養うために危なくないように角を切っているのかもしれないよ?」
ライカはミリアムの説明に、かつて読んだ本に出て来た狩り笛の一節を思い出してそれを現実に聞く事に感動を覚えながら、ミリアムの疑問に対しては自分の推測を話す。
「あ、そうか。角を切るからその角を加工して角笛にしたのかもしれないわね」
「お、角笛って事は狩りが終わって帰ってきたんじゃないか?どっちが勝ったのかな?」
「心情的には警備隊の連中を応援したいよな」
客達が気もそぞろにざわめき出して、さかんに勝ち負けがどうのという言葉が飛び交う。
「あなたたち、そんなに気になるなら勢子に参加すりゃよかったでしょう。お裾分けも貰えるんだから、いい肉が食べられたのに」
「馬鹿言え、さんざん走りまわされた挙句、下手すりゃ間違えて射られちまうかもしれんのだぞ?そうでなきゃ猛り狂った熊やら山豚やらに逆にやられるかもしれん、そこまでして良い肉を手に入れなくてもここで美味い飯は食えるじゃないか」
「む、意気地がないわねって言おうと思ったのに、さりげなくうちを褒めてくれたわね。怒るに怒れないじゃない」
「いやいや、ミリアムに怒ってもらうのもまたそれはそれで楽しいけどな」
違いないと、ガラガラ声の笑い声が響き。
それを聞いた男達が食器を弾き飛ばして野次を飛ばす。
ライカは慌てて落ちた食器を拾うと、それ以上破損の危険に晒されないように裏に下げた。
「あの人達、お酒も呑んでないのに出来上がってるわ。狩りに連れて行ってもらって少々血抜きをするべきだったわね」
ミリアムがいささか顔を引き攣らせながらぼやく。
「そ、それは少々怪我でもした方がいいって事?」
ライカが恐る恐る尋ねると、ミリアムはにっこりと笑って返事をしなかった。
ここのところ暑い日が続いているので、どうやら誰もかれもが変な風に気持ちに変調を来たしているらしい。
食器類を裏の洗い桶に纏めると、ライカは冷や汗を拭いて溜息をついた。
そうして食器を洗っているライカの耳に、やや遠いながらも人々のざわめきが聞こえてくる。
客達の話題にもあったように城組の狩りが終わって凱旋して来たのだろう。
獲物が多ければ街の人間にも振る舞いがあるので、『街の人達も盛り上がってしまって女の子や子供たちは遠慮なしに贔屓の兵士に群がるしでなかなか前に進めなくなるのよね』とはミリアムの話だった。
今朝早くに彼らが出立する時も、進めない程ではないが、道に集まった街の人々から励ましの言葉が投げられていたものだ。
「狩りか」
ライカはあちらにいた時、食べる為に狩りをしなければならなかったが、人間社会ではそれぞれに役割分担しているおかげで自ら調達しなくても他の仕事で得た報酬で食料を手に入れる事が出来る。
人間社会が多様で、生きるのに必然ではない事にこだわりを持って生活をしていけるのは、この仕組みのおかげだろうとライカは思っていた。
それでも自分で獲物を狩らない生活というものは何か物足りない感じもする。
そんな埒も無い事を考えていると、大通りの方から一際大きな歓声が聞こえた。
何か大物が獲れたのかもしれない。
「ライカ、これもお願い。洗い終わったのは持っていくわね」
「あ、うん」
ミリアムはライカの気がそぞろな事に気付いて微笑んだ。
「なに?狩りの凱旋が気になるの?ライカもやっぱり男の子ね」
「男とか女とか関係あるものなの?歓声には女の人の声も多いみたいだけど」
「女が興味があるのはどの男が一番勇敢で良い男かって事よ。狩りそのものには全然興味なんかないわ。でも男の子ってああいう危ない事をやって怪我をしたりするのが名誉だとか思うものですからね」
「いや、怪我したいとは思わないけど」
「どうだか」
ふふふと笑ってみせると、ミリアムはライカの背を軽く叩く。
「いいわよ、見に行ってらっしゃい」
「え?」
「ライカは狩りの隊列を見るのって初めてでしょう?血生臭くて汗臭いから十分に堪能して来るといいわ」
「ええっ?でも別にそんなに見に行きたいって訳でも」
「いいからいいから、どうせお客もあっちに取られて少ないんだから私一人で十分よ。いってらっしゃい」
有無を言わさずに押されてしまい、ライカはそのまま道へと押し出された。
食器を抱えたミリアムが小さく手を振って店内に消える。
「ええっと、まぁいいか」
実際集団で行う狩りというものに興味がない訳ではない。
それに、ライカはもうずいぶんと警備隊の人達を身近に感じるようになってきていて、城の守備隊との狩り競争の結果も少し気になってはいたのだ。
これはなにもライカばかりではなく、普段接しているだけに街の住人の殆どは警備隊贔屓なのである。
せっかくの心使いを無駄にする訳にもいかず、ライカは大通りへと急いだ。
「風の隊のお兄さん!その白テンの毛皮を譲ってくれたら七夜いい夢を見せてあげるわよ」
「うおい!そのデカイ熊の牙と爪と肝はうちが買い取るからな!勝手に処分するんじゃねぇぞ!」
「うわ~!凄い凄い!お肉だぁ~」
通りに近付くにつれて人々の入り混じった呼び掛けの声や歓声がはっきりと聞き分けられるようになってくる。
どうやら大物が獲れたらしい。
「でも、熊って肉は癖があるんだよね、この時期は脂肪は少ないけどその分固いし」
自分の所の食堂の主人ならどういう調理をするのだろうと考えて、ふと気がそれた時に、ぼすっと何かがぶつかって来た。
「お?」
「にいちゃん!」
見ると、そこにいたのはレンガ地区でライカが絵本を読む時に来ている子供の一人である。
「お?一人で来たのか?見物?」
「うん、警備隊のやつらが守備隊に負けたみたい。ざまぁみろだ!」
「あー、そうなんだ」
レンガ地区はよく警備隊との小競り合いを起こす人間が多く、この地区だけでは警備隊の評判もガタ落ちだ。
「てめぇ!なんだ!その言い草は!」
そこへいきなり声が掛かった。
声の感じからするとライカやこの少年のようにまだ大人になる前の少年のもののようだ。
「警備隊は街を守っているんだぞ!街の住人なら応援するのが筋ってもんだろ!」
相手はライカよりやや背が低い、年齢もいくらかは下だろうと思われる少年だった。
だが、レンガ地区の子よりはふた回りぐらい体が大きい。
「はん!ばっかじゃねぇの。やつらはこの街を仕切ってるだけだろ。いいように踊らされてんじゃねぇよ!」
打てば響くように言い返すレンガ地区の子は、まだそう大きくもないのに恐ろしく口が回った。
そういえば集まってくる子供達の中で、この子が一番やんちゃな子だったなとライカは思い出す。
ライカがそんな事に感心している間に、少年達は激しい睨み合いを始めていた。
どちらかというとレンガ地区の小さい方の子が強気に押しているように見える。
「そうか、お前、あのきったねぇレンガの家ばっかりのゴミ溜めのガキだな。うちの父ちゃんがあそこに住んでるのは悪い奴らばっかだって言ってたけど本当だぜ!」
「なんだと!お前らこそ後からノコノコやってきて我が物顔で街をセンキョしやがって!お前らの方が悪い奴らじゃねぇか!」
「ちょっと、やめないか」
ライカはあまりに酷い言葉の応酬に、慌てて二人を引き離そうとした。
しかし、警備隊贔屓の少年はライカをもギロリと睨むとツバを吐いて見せる。
「うるせぇよ!てめぇもこのゴミ虫の仲間かよ!てめぇら糞を食うような連中は明るい場所に出て来るんじゃねぇよ!」
「そんな酷い事を言うのは止めるんだ。同じ街の住人じゃないか、一緒に生きていかなきゃならない仲間なんだぞ」
「ばっかか!てめぇらが街の仲間なもんか!街を悪くするだけじゃねぇか!」
「それはこっちのセリフだ。兄ちゃんどいてて、頭の悪い奴は一度悪い頭をカチ割ってやんなきゃ治らねぇってアニキも言ってたよ」
「アニキってノウスンか、すごい教えだな」
レンガ地区の少年は相手の隙をつくと、その膝を蹴り上げた。
あまりにも素早い動きだった為、ライカも相手の少年も防ぐ事も出来ず、相手の少年は悲鳴を上げて膝を抱え込んだ。
「いてぇ!てんめぇ、もう勘弁しねぇぞ!ぶっころしてやる!害虫は退治しねぇとな」
少年は目を剥くと、拳を固め、振りかぶった。
その体格差からいってもまともに当たったらただではすまない。
ライカは慌ててレンガ地区の子を庇う。
「あー、君たちは何をやってるのかな?」
その切迫した状況をものともしないのんびりとした声が、その口調にも関わらず、そこに込められた不思議な威圧感でその場の動きを縫い止める。
振り向いた先に知った顔を見て、ライカはほっと息をついた。
「げっ!風の隊の馬鹿班長」
レンガ地区の少年が呟いて後じさる。どうやらこっちも顔を知っていたらしい。
班長はいつもの隊服ではない丈夫そうな皮の防具の上下を着ていて、明らかに狩りの帰りだった。
しかしそれにしてはまったく汚れていない。
「実はだな、お前たちも知っているとは思うんだが、今日は狩りで走り回って俺も疲れているんだ。だから面倒はごめんでな。良かったら手を煩わせないで欲しいんだ」
「あ、す、すいません、風の隊の班長さん!こいつらがあんまり酷い事を言うもんでついカッとなって。それに先に俺を蹴ったのはその小僧なんですよ」
最初に文句を付けてきたのはその少年なのだが、彼の訴えも間違いではないのでライカは反論せずに事の成り行きを見守る事にした。
班長は大げさに溜息を付くと首を振る。
「俺たちはだな、喧嘩騒ぎが起こると当事者全員を牢にぶち込むことにしているんだ。どうせどいつもこいつも相手が悪いと言うんだし、それなら纏めて反省してもらう方が手間がいらないだろ?」
その言葉に、少年は声を呑んで固まる。
見るとレンガ地区の子供もふくれっ面をしているが何を言うでもなく大人しくしていた。
「まぁでも俺も疲れているし、ちょっとはしゃぎすぎただけのガキを捕まえたりするつもりはないんだが、どうなんだ?喧嘩なのか?ちょいと羽目を外しすぎたのか?」
「あ、あの、はしゃいだだけで……」
ガクガクと顎を震わせながら、少年が聞き取り難い言葉でそう言い訳をする。
班長は彼にうなずくと、そのまま視線をライカ達に向けた。
「お前達はどうなんだ?」
彼はライカの顔を見るとちょっと目を見張ったが、そのままそう尋ねる。
「そうですね、その人がそう言うならそうなんでしょう」
正直ライカは、相手の少年が先ほど言い放った相手を踏みにじるような言葉にまだ引っ掛かりを覚えてはいたが、せっかくの班長の気遣いが分らない訳でもない。
ここは彼に合わせる事にした。
レンガ地区の子は何も言わなかったが、一つうなずいて事を収める意思を示した。
「そうかそうか。まぁここの所暑いし、狩りの興奮で大人達も大騒ぎしているが、あんまりはしゃいで怪我なんかしないように注意するんだぞ」
風の隊の班長、ザイラックがにこやかにうなずくと、少年は「はい」と答えて、すぐにまるで自分が追われている獣のように走り去る。
「狩りは残念だったみたいじゃないか」
去った少年にはもう興味がない様子で、レンガ地区の少年は今度は班長に向かって煽るように言った。
このおっかない人相手に凄いな、と、ライカは深く感心してしまう。
「うむ、鍛錬不足かもしれんな。もっと部下達をビシビシ鍛えないとな」
ザイラック班長も大真面目にそう応えた。
少年は相手が気にも留めないと理解して舌打ちをすると、踵を返してそのままその場を離れようとする。
「あ、家まで送るよ」
この場は収まったが、この子供を一人で帰すのは不安だったので、ライカは少年の後を追った。
「坊主、あんまり無茶はするんじゃないぞ」
ライカが振り返ると、班長はニヤニヤと笑っている。それへニコリと笑って見せると、ライカは軽く頭を下げた。
「班長は嫌いじゃないんだね」
すっかり大人しくなったレンガ地区の子供と手を繋いで、ライカはそう話しを向けてみた。
「まぁあいつは馬鹿だけど、俺らをバカにしたり悪口を言った事は一度もないからな。父ちゃんが捕まった時も文句を言いに言ったら話を聞いてくれたし」
「そうなんだ」
ライカは今まで実感がなかったが、元々の住人の彼らと後から移住してきた住人との間にかなり深い確執がある事を今回の件で実感していた。
相手の少年が放ったのは、同じ仲間に向けるにはあまりにも酷い罵りの言葉だ。
「でも、油断しちゃ駄目だぜ。ヤロウが一番タチが悪いんだ。どんなに力自慢でもあっさり取り押さえられちまうし、隠れて襲撃しようとした大人もいたんだけど、ものの見事に返り討ちにあっちゃったし」
「そうなんだ」
この子達がずっとあんな罵りを受けていたのだとすると、それはあまりにも酷い話だとライカは思う。
人と人は助け合ってこそ大きな力を持てると聞いていたのに、なぜそういう確執が生まれるのか、ライカには理解が出来なかった。
「兄ちゃん」
「ん?」
「俺のせいで新参の連中に悪口言われるんじゃないかな?ごめんね」
「大丈夫だよ、気にしなくていいよ。それよりまた本を読みに行くからちゃんと聞きに来るんだぞ?」
「うん、今度はさ、化け物退治の話を読んでよ。女どもと来たら誰と誰がくっついて幸せになりましたとかいう話ばっかりねだりやがるし」
「あはは、でも家主はセヌだから、セヌが良いって言ったらね」
「ちぇ、いいよ、なんとか説得しとく」
「がんばれ」
ライカは微笑むと、少年の小さな肩をぽんと優しく叩いたのだった。