第三十五話 嵐が過ぎて
―…カンカン、カーン、カーン
すっかり風の音を聞かなくなり、今まで大地がうなりを上げるようなその音に慣れていた耳が静寂を拾って不安を覚え始めた頃に、いつもの刻限を告げるのとは調子が違う鐘の音が響き渡った。
「ほう、どうやら神々の熱い愛の語らいが終わったようじゃぞ」
木っ端を削って何かを作っていたライカの祖父ロウスが、その手を止めて言う。
その手元をうとうとしながら見ていたライカは、思わず聞き返した。
「この鐘の音?」
「うむ、もう出ても大丈夫という合図じゃな。ふむ、それとどうやら今は早朝じゃったらしいぞ」
「えっ?」
驚くライカをそのままに、ロウスは手元のものを床に置くと、木槌を手に取り立ち上がった。
コンコンと軽く木同士が打ち合う音がして、嵌め込まれた壁の補強が外されていく。
ライカは慌ててそれに駆け寄ると、祖父の手から、外した一抱えもある木材を受け取って床に並べた。
家の壁という壁から全てを外し、それをまた祖父が家具に組み直すのを手伝い、全てを終えるのに半刻程も掛かったが、それが終わると、ライカは二階の自分の部屋に上って窓を開け放った。
階下で祖父もまた窓を開けたらしく、淀んでいた家の中の空気が、外からなだれ込んだ新鮮な空気に押し流されて行くのを感じる。
窓から見る景色は、祖父の言った通り、今が早朝である事を示して白々と光を纏い、空は洗われたかのようなひたすらな青を覗かせていた。
「すごい、綺麗だ」
その色の美しさに思わず感嘆の声を上げたが、返して地上を見ると、それどころではない事に気付いて愕然とした。
目に映る限りの風景の全てに違和感がある。
むしろ、壊れていない物はない。と、言った方が早いであろう光景が広がっていた。
「うわあ、大変だ」
慌てて階下に下りると、祖父は既に外に出ていた。
「ジィジィ、何をすればいい?」
「とりあえず家の外壁を点検して、壊れた所を見つけたら報告じゃ、修理はわしがやるんで、お前は庭と通りの片付けを頼むぞ」
「分った!」
家の点検を終えて、散らばっている物を片付けていると近所の人が、青々とした葉を茂らせた大人二人でやっと抱えられるような折れた木を引き摺ってやって来た。
「おはようライカ坊、無事の季変わりおめでとうさん。じぃさんいるかい?」
「おはようございます。じぃちゃん、呼んで来ますね」
ライカが外壁の壁板を張り直していた祖父を呼んで戻ると、その男性は小さく手を上げて引き摺ってきた木を示した。
「すまんが、こいつを片付けられる程度にバラして欲しいんだが」
「おお、分った。しかしまた大物じゃの」
「まったくだ。こいつのせいで家の壁の半分がやられたよ」
「そりゃまた難儀じゃな。我が家が終わったら手伝いに行こうか?」
「そうしてくれると助かる」
納屋から手斧を出して来て、手早くその折れた木を薪程度に解体すると、庭の片付いた一画に並べる。
「乾いたら薪に使うとええじゃろ」
「助かったよ、しかしまぁここにもでかい岩が転がってるな」
「後で男衆を集めてもろうて街の外に転がし出すしかないじゃろうな」
「警備隊に頼みたい所だが、連中引っ張りだこだから無理だろうな」
「ふん、わしらの稼ぎで食ってるんじゃからこういう時は多少の無理は通してもらって当たり前じゃがな」
「はは、全くだな」
ライカは祖父が解体した木の枝の一本を手にすると、じゃまな場所に居座っている岩の下に差し込んで持ち上げるようにして転がした。
「こりゃ、ライカ。危ないから程ほどにしておくんじゃぞ、下手な方向に転がると危ないからの」
「うん、とりあえず端の方に少し動かしておくだけだから」
勢いをつけて転がさないように加減をしながら岩をどかすと、ライカは祖父と話し込んでいる近所の男性に声を掛けた。
「リエラさんところ、嵐の最中に壊れたみたいだけど、大丈夫だったかどうか知りませんか?」
「ああ、トゥザイルんところか、奴はちょいと腕を痛めたらしいが、女房と子供に大事はなかったようだぜ?それこそ警備隊の連中が一家を城に避難させたらしい」
彼は更に肩をすくめると溜息をついた。
「うちもそのでかい木が飛び込んできやがったんで風の合間に城に避難してな、そこで会ったよ」
「そうだったんですか、良かった」
ほっとした所に、
「ライカぁ!」
聞きなれた声を聞いてそちらを見た。と、ミリアムが凄い形相で駆けて来るのが見える。
「やれやれ、坊、家の手伝いはあっちが終わってからになりそうじゃぞ」
苦笑しながらロウスがそう言って、ライカの背中を叩いた。
「え?」
戸惑うライカの所へ飛び込んで来たミリアムは、その手を掴むと、有無を言わさず引き摺って歩き出した。
「あ、おじいちゃんおはよう。良い季変わりですね。ライカ、借りて行きますね」
「やれやれ、うちも人手がいるんじゃがな」
「それじゃあ、また!落ち着いたらご飯食べに来てね」
ぼやくようなロウスの言葉をさらりと無視すると、ミリアムはそのままライカを引き摺って行った。
「え?ちょっと、ミリアム?」
しばしの呆然とした状態から我に返ると、ライカは彼女の引き攣った顔を見上げた。
「いいこと、どんなに酷い状況になっても音を上げるのは無しよ。最後までちゃんと戦うのよ」
「え?何?戦うって何と?」
ほとんど走っている状態の彼女にやっと歩調を合わせて、ちゃんとした説明を求めるが、爛々と目を輝かせ、何かに挑むような表情の彼女の顔に言葉が詰まる。
「見れば分るわ」
いくばくかの緊張と混乱の末に辿り着いた場所を見て、ライカはミリアムの言葉を理解した。
バクサーの一枝亭の食堂は昼と夕方に店を開けるが今は早朝だ。それなのにまだ閉まった状態の店の前に人が集まっている。
そしてそのほとんどが、ひと季節洞窟で冬眠していた熊のようなありさまのむさくるしい男達だった。
「な、なに?あれ」
「嵐の間、まともに食ってなかった連中が押し寄せて来てるのよ。地獄絵図が始まるわよ」
「うわぁ」
理解と共に戦慄がライカに走る。
「弱音を吐くのは全てが終わってからよ」
「ちょ、ミリアム。怖いから、目が据わってるから」
クスクスとどこか空虚な笑い声が聞こえた。
「馬鹿ね、ライカったら。怖いのはこれからよ」
そう、ミリアムは正しかった。
―◇ ◇ ◇―
「匂いが、なんか意識が遠くなって」
「倒れたら殺してでも起こすわよ」
「いや、殺されたら起きないから、きっと」
すさまじいまでの異臭が食堂に充満していた。
本来は料理の食欲を誘う匂いに満ちているはずの場所なのだが、何日も暗所に篭っていた男達にはすっかり異臭が染み付いていて、料理の匂いなどかき消されてしまっている。
匂いに敏感なライカは、ほとんど意識が飛びそうになっていた。
「肉だ!肉を出せやこら!」
対する男達もよほど鬱憤が溜まっているのか言動が危険な状態になっている。
聞けば煎り豆や干し芋などを数日食い繋いでいたらしい。
飢えは人を獣に近い状態にいとも容易く戻すのだ。
「肉が欲しければ自分で狩って来なさい!文句を言う人に出す食事はないわよ!」
「あ、そうかもう狩りが解禁なんだね」
「腹が減ってふらふらなのに狩りになんか行けるか!なんか食わせろや!」
「だったら大人しく出された物を食べなさい!嵐の直後に材料がある訳ないでしょう」
母のように姉のようにぴしりと諭すミリアムが、その獣寸前の男達をなんとか客としての状態に留めていた。
ライカはそれに深く尊敬の念を抱く。
「あまり食べてない後に肉料理とかの重い物は体に毒ですよ、まずはスープをどうぞ」
もはや注文を取ってどうのという状態ではないので、本日のメニューは定食一択だ。
ミリアムに諭されて大人しくなっている所へ、ライカが穏やかな口調で話しかけながら前菜のスープを運ぶ。
「あったかい食いもんだ、ありがてぇ」
中には感極まって泣きながら食べている者すらいた。
実に薄ら寒い光景である。
ライカとて到底万全の状態ではない。
なにしろ嵐の間ずっと光の入らない状態の家の中にいたため、時間の感覚が狂って朝を夜だと思っていたのだ。
その為昨夜は寝ていない。
既に頭は飽和状態に近かった。
だがその状態で尚も笑顔を忘れないのは、短い経験ながらも接客業としての職業意識がライカを支えているからだろう。
「ミ、ミリアム」
それにしても限度はある。
夕方になっても一向に減らない野獣のような客にとうとうライカが悲鳴を上げた。
「泣き言は終わってからって言ったでしょう?」
応えるやたら恐ろしい笑顔の少女に、更に思考が凍りつく。
(もうものを考えるのはやめよう)
ライカはほとんど条件反射だけでその日の仕事をこなしたのだった。




