第百八十一話 急がば回れ
雨雲の中は凍える程寒くて、全身を叩く水の塊が息を奪う。
だが、それを切り裂き飛ぶ時、それら全ては爽快感に変わった。
急ぐ旅なら空を行けばいい。
そんな単純な理由から飛んだ二人だったが、久々の自由は、二人の心に更なる充足を求めさせた。
地上は雨である。
土砂降りではなく、さわさわと降る銀糸のような雨。
雲は白く薄く、その向こうに陽の光を透かしていた。
ライカとサッズはその雲の上をまるでトビウオが水面を掠め飛ぶように飛ぶ。
いや、正確には、空を飛ぶサッズの足に掴まったライカは、守りの障壁を外してもらって飛ぶ感覚を一緒に楽しんでいた。
ライカはサッズの背に乗ることはあまり無い。
なぜかというと背中は飛ぶ為に耐えず躍動する筋肉の集中する場所であるからだ。
要するに安定しないのである。
それに背中の風はただ流れるものだが、腹下の風は複雑に絡み合い、面白いというのも理由の一つかもしれなかった。
『お前全身濡れそぼって、川に落ちた小動物みたいになってるぞ』
サッズがからかうように笑い含みで言う。
ライカもサッズも昔からちょっとした無茶な飛び方が好きだったが、お互いに加減を心得ていて、体調に影響を及ぼすようなことはしないように注意していた。
『まだそんなに体は冷えて無いから大丈夫だよ。太陽の熱が強いからこの程度でやっと涼しいぐらいだ』
そう答えたライカは、サッズの翼の皮膜越しに強い初夏の日差しをちらりと見て、微笑んだ。
既に雨の領域は抜け、雲は青空の中を泳ぐ僅かな物だけになってしまっている。
『今どの辺りだっけ?』
『街との位置関係ならちょっと北東って感じだ』
『全然わからない説明をありがとう』
『聞き方が悪いから正しい答えが出ないんだよ』
『サッズって時々自分を省みないことを堂々と言うよね』
ライカとサッズの二人は、ダイダボ一家と別れた後、人の気配の薄い場所まで歩いて、そこからサッズが竜体に戻って飛んだ。
目撃されて噂になると面倒が起きるような気がした彼らは、より人の気配が無いほうへと回り込んで行き、今となっては眼下には岩と木しかない状態になっている。
どんな場所からでもサッズならば目的地との間の位置関係はわかるので、二人は到着という一点についてはさほど心配はしていなかった。
だが、エールの存在しない空を長々飛ぶのはサッズの体力的に難しい。
そのせいでかなりの頻度で地上に降りているため、距離を稼いでいる実感が薄いのが難ではあった。
何しろ風景がほとんど変わり映えしないのだ。
おかげで二人は段々退屈になって来ていた。
サッズは本日三度目となる休憩を取りに眼下の森へと突っ込んだ。
丁度良い空間もなかったので遠慮無しに木々を踏み倒しながら、サッズはライカの周囲に風による障壁を展開する。
地上で解かれた障壁が周囲の風を呼んで、丁度いい具合にライカの体を乾かした。
飛んでいく水分が熱を奪って、ライカは小さくぶるりと震えると、くしゅんと一つくしゃみをする。
「大丈夫か?」
「うん、すぐまた暖まるよ。それにしてもこの辺は深い森だね。山岳地帯だし、もしかして果ての山脈と繋がっているのかな?」
「さあ、でもまだ海の近くまでは来てないようだぞ」
「そっか、まだここは東の方だって言ってたね」
大きな竜の飛来による驚きにしばし絶えていた周囲の音が少しずつ戻り、鳥達のさまざまな声がせわしなく交わされ始める。
大方、この異形の生き物は何だろう?という問い掛けを互いにし合ってでもいるのだろう。
「しかしなんだ、人間の集落を避けるととんでもない大回りになるっぽいぞ。連中はどこにでも巣を作ってるからな」
「う~ん、それでも歩くより飛ぶほうが早く着くよね」
「まあ、な。街から王都まで十日掛かったか?あれよりはずっと早いのは確かだ」
ライカは物入れから小さい壺詰めの塩漬け野菜を取り出してサッズに分けた。
「なんか狩るか?」
竜体では何の足しにもならなそうなそれを人の身になって齧り、サッズは侘しげに提案をする。
「駄目だよ、狩りをするなら半日は使うし、飛んでる意味が無いだろ?そのために少し多めに食料も水も分けてもらったんだし、短い感覚で食事するようにしてるんだろ」
「ふ~ん、ライカさあ」
「なに?」
サッズはマジマジとライカを見ると、少し笑った。
「すっかり人間らしくなったな。まだ見えない未来を見て、焦ってる」
ライカはサッズの言葉に少し苦笑する。
「そうだね、確かにそうかも。でも、ただ何もせずにそれが現実になるのを見るぐらいなら、空回っても良いからそれが現実にならない未来を見たいんだよ」
「そういうのは不思議で面白いな。俺は結構好きだぞ」
「前は理解出来ないとか気持ち悪いとか言ってたくせに」
「それは違うぞ。あれはまだ来ない未来を恐れる余り、それから逃れようと無駄にあがいている人間が理解出来なかったからだ。そうやって何かを勝ち取るために予測を利用するのなら、人間の見る幻想にも意味はあるのかもしれないなと思ったのさ」
「お、サッズが難しいことを言った。何か悔しい」
「お前な」
二人は顔を見合わせて笑うと、サッズは竜体に戻り、ごろりとなぎ倒された木を枕に横たわった。
「ちょっと寝る」
「あ、俺も」
横たわったサッズの上によじ登ると、ライカは日当たりの良い場所を探し当て、頭が木々の影に、体がひなたになるように調節すると、動物がそうするように体を内側に向けて丸めるようにしてしばしの眠りを貪る。
先程まで騒がしくしていた鳥達も、それらが自分達に害の無い物だと理解したのか、今は普通のさえずりに戻っていた。
背の高い木々の隙間を縫って降り注ぐ光は、サッズのまだ幼い滑らかな鱗を透かして、深い水の中を覗きこむようなきらめきを与えている。
突然の竜の狼藉によって切り取られた森の一角から遮る物もなく落ちる光は、より強く青い空の輝きをその身に帯びさせてもいた。
大型の獣は元より竜のその気配を恐れて近づかず。
彼らをそうと認識する者が存在しない深い森の中で、若い竜と人間の兄弟は、しばしの休息にまどろむのだった。




