第百話 王都遠望
一枚岩のようなそそり立つ両壁の間を、どうやって敷いたのかわからないぐらい幅の広い道が抜けていく。
明らかに岩を削った箇所があったが、それはおよそ人の仕業とは思えないスケールだった。
その道を行く間は、馬車の車輪の音が周囲の岩肌に響きわたって音の雨のように降り注ぎ、言葉など聞き取れないような状態になってしまっていた。
そのせいで一行から会話が失われていたが、その岩を削った道もやがて終わると、続く緩やかな斜面に緑の低木が自然にはありえない密度と単独性を持って植わっている。
大気にはその緑の低木のものらしい独特な香りが満ちていて、ややキツめだが、爽やかなその香りが、旅人の疲れをわずかながらも癒しているようにも感じられる。
その木々の間で立ち働く人の姿が何度も見掛けられ、やはりそれが人の手で栽培されている物なのだと理解できた。
「商人さん、お帰りなさい」
「只今帰りました、良い日和ですね」
なぜか人々は口々にお帰りと声を掛け、商隊の内の御者や馬上の男達もそれを当然のように受け応える。
「この辺の人達は、出掛けた商隊を全部覚えていたりするんでしょうか?」
何度かのやりとりの後に、一連の流れに感心したライカは、近くにいたカッリオにそう聞いてみた。
「まさか。なんでまたそんなことを思ったんだ?」
「だって、みなさん『おかえりなさい』って声を掛けて来るし、どことなく親しげですよね」
「ああ」
カッリオは納得したように頷くと、にやりとしてみせる。
「ありゃあ、王都の人間独特の歓迎なんだそうだ。我が家のように旅人を迎えるんだとかなんとかいう考えらしいぞ」
「へぇー、面白いですね」
「王都は面白いさ、色んな意味でな。僻地から初めて出て来た人間には刺激が強すぎるぐらいだ。こんなことでいちいち感心してちゃ身が持たないぞ」
彼のどこか自慢めいた口ぶりに、しかし、ライカは素直に胸を踊らせた。
低木の斜面が途切れると、今度は色々な野菜らしき葉が地面の上に見える畑が点在し、柵で囲われたそれらの周りをのんびりと幾種類かの動物が動き回っている。
そこにある野菜は余りにも多彩で、ライカにはもうそれらが何という野菜なのか、どういう動物なのか、はっきりとはわからなかった。
わずかに数種類の葉物野菜と根野菜に見覚えがあるぐらいで、動物はヤギらしきものと犬はわかったが、それ以外にもいる。
それらの動物も野生ではなく、きっと家畜と呼ばれるものの何かなのだろうと想像するぐらいでしかない。
この周辺になると、道を行き交う人も格段に多くなり、年若いライカや、どこか肉体労働にそぐわないサッズに、優しく声を掛けたり、こっそりと干し果やよくわからない菓子のような物をくれる人もいた。
逆に、同じような、あるいはもっと年若い、それこそ子供のような働き手達の中にはどこか挑戦的に声を掛けて来る者もいる。
王都の住人であると思われる彼等は、総じて人懐っこく、朗らかで血色が良い。
それはこれから行く都の豊かさをそのまま表しているようだった。
やがて彼等の目前に、一面の淡い緑の大地が広がった。
そのあまりの広大さに、ライカはもはや言葉を無くす。
何しろ、その緑は全て同じ種類の若芽であり、すなわち、その一帯が全てなんらかの畑である事を示していたからだ。
土と緑の香りに、僅かながら堆肥の臭いが溶け込んでいるが、先の農園地帯に比べればその異臭は遙かに薄く、ライカはもとよりサッズも悪臭にのた打ち回る羽目は免れた。
それらの彼方、地平にまた岩山の連なりが見え、広大に思えるこの地が、低い山々にぐるりと囲まれた窪地であることが見て取れる。
だが、実際にはその岩山に視線が届く前に、初めてこの地を訪れた者は、その手前に周囲と色合いを異にする人工の建築物群が大地を埋め尽くして存在することに気が付くのだ。
いくつかの特徴的な背の高い建物と、似通った背の低い建物、遠くからでもその広さが計り知れない、巨大な人の集落地、王都。
人という種の可能性、その全てを体現するその広がりに、人はただ声を無くしてその光景を見るのである。
「さて、わかってるとは思うが、お前ら!こっからは絶対に道を外れるなよ!道を外れて何があっても誰も同情しちゃあくれないからな!」
いつものがなり声が響き、商隊全体に広がったどこかぼうっとした空気を引き締めた。
「どういうことですか?」
ライカの問いに、ゾイバックは面白がるような笑いで応え、カッリオは舌打ちを返す。
見兼ねたマウノが彼等が離れた後にこっそりと耳打ちしてくれた。
「道を進むとわかるけど、この辺の土地は『見た目』通りじゃないんだ。凄く不思議だけど平坦に見えても大きく段差があったりするんだよ。噂によると魔法が掛かってるとか言われてたりして」
「魔法?」
訝しげにライカが問うと、「いや、俺も信じちゃいないけどさ」とマウノは笑って、彼等から離れて自分のポジションに移動する。
ライカはその問うような視線をそのままサッズに向けた。
人が魔法と呼ぶものと、先代の種族が使う力はどこか隔たったものだが、何か異常があるのならサッズが気づくだろうと思ったのだ。
「段差はあるぞ、普通に。俺の『目』にはこの先は平坦に見えないし、それにあの、王都か?あそこも一風変わって見える」
言われて、ライカは改めて王都までの遮る物などない風景を見直してみたが、注意して見てもそこは平地に見えた。
「段差?」
「見てみろ、道がゆるやかに蛇行してるだろ。そこを曲がったら右手側を見れば一目瞭然さ」
ライカには、その道すら真っ直ぐに見えたが、やがて王都側が左手側に見えるようになり、その状態で今通ってきた道があるはずの右手側を見ると、確かに段差がある。
しかも、それは気付かない程僅かなものではなく、ライカの肩ぐらいまではある大きなものだった。
その直下には溝があり、澄んだ水がそれなりの深さで流れている。
双方を合わせればライカの背丈程もあるのではないだろうか?そんな段差に近づくまで気付かなかったことに、ライカは驚いた。
「じゃあ、この先も?」
「ああ、この先もだ」
本当に魔法なのか?と驚愕するも、しかし何処かそれに納得行かない思いを抱きながら、ライカは段差があることを前提に王都までの道程を見る。
そうしてすらなかなか違いを把握出来なかったが、暫く注意して、やっと違和感を見付け出すことが出来た。
畑の周囲に木々や石、畑を巡る細い道が配置されているのだが、それらが一つの方向から見ると互いに重なりあって平坦に見えるような工夫がなされている。
それがわかったからといってその仕組みが完全に理解出来た訳ではないが、これは広大な大地を使って見た目を騙す一つの仕掛けなのだとライカはなんとなく納得した。
ライカの祖父が木材を組み合わせて仕掛けを作るのを得意としているが、おそらくはああいった技術の一つなのだ。
「でも、確かにある意味魔法だよね」
人の言う魔法とは、法則を用いた技術であるとセルヌイから聞いている。
書物に記載されているいくつかのそれは、気が遠くなるような実験の結果見出された法則をなぞることで、自然には有り得ない結果を常に出そうとする物だった。
「ふ~ん、よくわからんがお前の目には平坦に見えるってことだよな」
「うん」
竜であるサッズの視覚は人とは違う複合視覚で、おおよそ三つの視覚で世界を見ている。
人には見えない物も彼等にははっきりと見えるし、逆に人だからこそ見てしまう錯覚を彼等が見ることはない。
「ちょっと、その視界を貸してみろ。面白そうだ」
「え、ちょっと、サッズ?」
あの、頭にぎゅうぎゅうと重い物が詰め込まれるような圧迫感を思い出し、ライカは身構えたが、実際に覚えた違和感は一瞬視界がブレただけだった。
(今ちょっと第二の視覚が被ってた気がした)
ライカは不思議に感じてその感覚を追おうとしたが、
『あの時は言葉を覚えるために知識のより分けをしたから潜っただけで、視界を借りるだけなら輪を辿ればすぐだからそんなに変な感じはしないだろ?』
と、サッズの説明が入り、それを中断する。
サッズがライカの住む人の街へ来た時、人の世界の言葉や常識を学ぶためにライカの知識を取り込んだことがある。
負担があることがわかっていたので寝ている間にやったのだが、やはり巨大な竜の存在を入れるには人の頭が狭すぎたのか、ライカには多少の苦しみの記憶があった。
だから、今回少し身構えてしまったのだが、そのどこか拗ねたような心声を聞いて、ライカは苦笑と共にサッズに謝る。
『ごめん』
そもそも問題の知識を習得した時も、サッズは他人を傷付けたくないというライカの希望を容れてくれたのであって、責められる謂れは何もないのだ。
『なるほど、単純な視覚も面白いな。ちょっとバランスが狂う感じがするけど』
「転ばないようにね」
好奇心が強いのはいいが、今は仕事中でもある。
大事な荷を預っているのだから、最後の最後でポカをするようなことは避けて貰いたいのだった。
フッとライカの頭のどこかに僅かに掛かっていた負担が消える。
「大丈夫だ。俺もそこら辺りは学習してるぞ」
「あはは、サッズが学習だって。俺、とんでもない天災が起こるんじゃないかって心配だな」
「ライカ、お前ってやつは」
ぎゅむっと、油断していたライカの頬が摘まれる。
「いはい、あにすうんらよ」
「俺の傷付いた心を癒してるんだ」
「君たち本当に仲が良いよね」
呆れたのか感心したのか、再び寄ってきたマウノがそう言って手振りで二人を引き離す。
「さっきも言ったけど、ここいらは知らない人には危険なんだから、注意して進んだ方がいいよ」
「ごめんなさい」
「わかった注意する」
ライカとサッズはそれぞれに返事をして、マウノに礼をすると、再び王都へと続くやたら広い道を辿り出した。
そうして平常行動に戻ってみて気づくと、それまでの様子を通り掛かった夫婦らしい二人連れに笑われている。
ゴホンと、似合わない咳払いをして、気を取り直したライカは、もう一度王都を望んだ。
端がどこなのかよくわからないほど広々とした都は、どこか蜃気楼のようにも見える。
「ここまで来ちゃったんだなぁ」
不思議な感慨に囚われた気持ちの一方で、ライカはなぜかふと、祖父が夜に削っていた木片の柔らかい香りとその削り屑を炉にくべるパチパチという優しい音の響きを唐突に懐かしく思い出したのだった。