第九十八話 灼かれる夜
砦からの騎士が戻り、夕方の食事の準備の頃になっても、まだ商隊の一群はざわついていた。
いや、むしろ、集落から商品の売り込みのついでに噂の確認に来る者が増えてしまい、その落ち着きの無さは範囲を広げて門前の集落地にまで飛び火したようである。
「実に、小気味のいい話ですな!」
少し小太りの、庭飼いの鳥を売りに来た商人は、商隊の人間から当時の様子を聴き漁ると、唇が歪んでいるせいでなんとなく醜悪に見える笑みを浮かべて、いい機嫌で卵をおまけに付けて去っていった。
「ちっと、まずいかもな」
ゾイバックはその後姿を苦々しげに見送って、誰ともなしに吐き捨てるように言った。
「因縁付けて来るかね?連中」
カマドを組んでいるせいで屈み込んでいたカッリオが、そのゾイバックの言葉に反応して問い返す。
「どうかな?恥の上塗りってことにもなりかねねえし、そもそも口止めして行かなかった騎士様方が悪い。なんてったって不可抗力の災害の出来事を話しただけだからなぁ、別に誰もあえて騎士様達を悪し様に言ったりはしてねえし」
「お貴族様ってのは自分に都合の悪いことは全部記憶ごと自分の都合の良いように作り変えて、それが当然だと思い込める連中だぞ。正当な主張なんぞ汁物の具にすらなりゃあしねぇさ」
「まぁ流石に昼の今夜ってこたぁねぇと思うが、明日はうちの大将も早々に出立するだろうな。そんくらいは賢いだろ」
「ったく、やっかいな土地柄だあな、ここはよ」
二人の、この小集団のリーダー格の年配者達のやり取りを、仲間の若い組も耳を澄まして聞いていた。
その『若い組』に含まれているライカとサッズも、別に聞きたい訳では無かったが、カブと芋の皮を剥いて鍋に放りこみながら、聞くとは無しに聞いている。
ちなみに皮を剥いているのがライカで放り込んでいるのがサッズだ。
だが、この二人は、一番若くて経験が浅いからという理由以上に、人間の身分による格差という物に実感が無いせいで、彼らの言葉が示唆している物に対して理解の及ばない部分が多々あった。
「具体的に、どうまずいことになっているんでしょうか?どうも断片的にしかわからなくって」
仕方なく、ライカは仕事仲間の中で一番親しいと言っていい相手であるマウノに尋ねることにする。
しかし、この人選は全く不正解だった。
「いや、どっちかというとこっちのほうが聞きたいよ。騒ぎの中心は君たちだったそうじゃないか?」
オドオドとしながらも、困惑したようにそう返す彼の言は、確かに尤もではある。
「勝手にやってきて勝手に騒いで行ったのは、騎士様とか言う連中だぞ。俺達に何かわかる訳ないだろ」
サッズが言い放つが、その言い様が攻撃的に思えたのか、マウノはすくみ上がって顔を引き攣らせた。
「すみません、あんまり俺たち、その、身分の上の人に対する礼儀とかよくわからなくて。でも、サックが言ったのも本当なんです。あの人達、騎士様達は急に来たと思ったら、例のつむじ風が起こって、馬から落ちた騎士様達の鎧が壊れて」
ライカが説明していると、サッズが思い出して笑い出した。
「あれは傑作だったな。あの混乱ぶり」
「ちょっ、サック」
彼等のあけすけな言い方に、マウノは益々顔を強ばらせると、慌てて小声で嗜める。
「ダメだよ、気を付けないと。身分の違いは秤の違いって言うことわざがあってだね。身分が違えば不平等なのが当たり前なんだ。貴族がそうと決めれば俺たちに対して出来ないことなんか無いんだよ。出来るだけ注意するに越したことはないんだ」
マウノは元々の山育ちの純朴さが透けて見える真摯さで彼等に忠告した。
年貢を徴収される側に生まれ育った彼にとって、身分の差は絶対的な物であり、恐ろしいものでもある。その暗黙のルールを破るということは、彼からすれば命を捨てるような物なのだ。
「はい、気を付けます。ありがとうございます」
その心からの諌めに、ライカは軽く頭を下げて礼を言う。
「俺も実際にどうなのかはよくわからないんだけどね。ここの住人と壁の中の貴族中心の街の人間との間には、積み上げられた確執があるらしいんだ。だからちょっとしたことが火種になってすぐに騒ぎになる。これはあくまで噂だけど」
マウノは潜めていた声を更に潜め、言葉を継いだ。
「この街の周辺で商人を襲う盗賊は、『正規の騎士の剣筋をしている』と言われているんだ。だから、商隊はみんなここと王都の間で夜を迎えるような真似はしない。『相手』が顔を隠せない場所で野営をして、明るい内に王都に辿り着くようにするんだそうだ」
遠回しで、ぼかした表現だが、マウノは要するにこの辺りでは騎士が盗賊の真似事をすると言っているのである。
マウノは若手のほんの下っ端で、ライカ達が居なければ最も経験の浅い一員だ。その彼すらがそう口にするからには、それはそれだけ広く囁かれている噂だということだろう。
しかし、ライカは、その話が不思議だった。
教わった知識では、貴族というのは民を守る為に存在する者という話である。
例えそれが建前だとしても、建前であるからこそ守るべき評判があるはずだ。
それなのに、この話はあまりにもわりやすすぎる。
壁の向こうで見えない相手。それは確かにライカ達に対する態度からも、素行の良くない者も多いのだろう。だが、二つの異なる立場の者が対立していて、片方だけが悪し様に言われるという事実には、なんとなく作為が見えるような気がするライカだった。
だが、この場では、ライカ達は単に通り掛かっただけに過ぎない。
どちらの集団にも全く因縁は無く、深く関わることが出来るような話ではないのだ。
疑問を抱きつつも、ライカとしては今回の件に纏わる様々な噂を耳にして、それを記憶する以外、何もやるべきことは無かったのである。
その夜半に、火事があった。
ライカ達の商隊の野営地での話ではない。
ウーロスの街の門の前、人々が勝手に作り上げた、小さくて簡素な集落での出来事だった。
「テントを畳め!馬車をもっと東に移動するぞ!」
怒号のような命令が飛び、ライカとサッズも敷布を手に立ち上がる。
夜の、深く沈む暗闇にぽかりと浮かぶ、赤く、白い、火と煙が、その支配する場所だけを鮮やかな影として暗闇の中から鮮明に切り出して見せている。
透かし見える光景の中には、武器を手に走りまわる人の姿がある。
なんとなくライカが街門を見ると、ぴたりと閉ざされたその前に、整然と並んだ兵の姿が、こちらは自分達の焚いた篝火によって照らし出されていた。
「混乱と破壊と欲望。守ろうとする者と奪おうとする者、それを見ている者がいるな。だが、火を消そうとしている者などいないぞ」
サッズが、火事の周囲を指してそう言い。
次に、街門を示した。
「あっちには強い緊張がある。苛立ちと憎しみに近い何か。火事より人間に警戒してるな」
「全くわからないね」
「人間は複雑すぎるんだ」
「こら、お前ら!」
荷物を抱いて二つの形の違う火を見ていた彼等に、ダミ声が叩き付けられる。
二人は思わず耳を押さえて振り向いた。
商隊の長、ショソルが馬に乗って彼等を見下ろしている。
「早くこっちに来い!一刻も早くここから離れろ!間違ってもあっちに行くんじゃないぞ!」
頷いて移動を始めた二人を見送り、彼の愚痴が続いて聞こえた。
「ったく、こんな時に化け物どもは楽しく火事場見学ときてる。騒ぎに紛れてこっちに何かあったらどうしやがる気だ。こっちはせいぜい人間らしく扱ってやってるんだ。仕事をちゃんとしやがれってんだ!」
ライカは素早くサッズに目線を送る。
サッズはそれを受けて了解の印に顎を引いた。
「連中の気配は火事場の近くにあるぞ。チッ、気味が悪いのに気配をすっかり覚えちまった。くそっ!」
「何かしてる?」
「いや、例の変態的な歓喜は感じないな。おそらく『ただ見ている』だけだな」
二人はしばしの間彼方へと視線を向けていたが、そこにはただ、火とそれに照らされた人の姿があるだけで、それが何かを物語ることは無かった。
― ◇ ◇ ◇ ―
「お前ら!怪しい奴らは構わないから全部ひっくくれ!」
「おい!てめえら!その荷物はなんだ!なにしてやがる!」
「誰か!火を消してくれ!あそこに俺の商売道具が全部あるんだ!」
「ギャアアア!」
「てめぇ!やりやがったな!」
そこはまさしく修羅場であった。
庇護者を持たない弱者が身を守る為に作り上げた自警団と、常に他者の懐を狙っている略奪者、為す術も無い被害者と、血の気の多い男達。
全てが混ざり合い、無残な現実の絵を描いていた。
それは全て不満と怒りに転化され、一つの方向へと向かう。
決して開かれない門の向こうへと。
「いいねいいね、この匂い。人が魂に忠実に生きようとする匂いだ。他者を利用し、苦しめ、その分自分が楽しもうとする実に真っ当な心根だ。懐かしいな」
「うう、あ」
「なんだ?ブルってるのか?ああ?火が怖いのか?怖くて怖くて仕方ないんだな?他人をその分壊したくなるんだ?さすがは糞のような虫の心意気だな!貴様は最悪だ!虫のムカリ!肉虫め!なんだ?怒ったのか?虫も怒るのか?ああ、怖い怖い」
狂ったような笑い声。
影に潜むにしてはひっそりとはしておらず、やたらに明らかな存在の彼等は、しかし、誰にも気づかれることなく影から影に移動する。
「だが、この場所はお前以上の糞だな。反吐が出る。俺の獲物には成り得ない。全く美しくないし、優しくもない。臭いだけだ」
影はひょいと門の前に立つ兵士達を見る。
「ご立派な騎士様ならちょっと遊んでみたかったんだけどねぇ。しかし、お偉い騎士様達は自分達が『堕とされている』ことに気づいているのかな?立派な貴族様。名誉も沢山、金も力もたあ~くさん。しかして高みにいる者は、そもそも足元が見えないものだからねぇ」
クスクスと、地を引っ掻くような笑い声が響き、争いのさなかにいた男が一瞬、ぎょっとしたように闇を覗った。
だが、そこに何も見出すことは出来ず、そして、戦いの最中に逸れた意識は彼を闇の中にひきずり倒す。
その夜、燃え上がった火は夜明けまで消えずに燻っていたのだった。