第十一話 パンと商人
ライカの食堂での仕事は一日を通してのものではない。
朝の準備と昼と夕方のかきいれ時の給仕、それがこの店での仕事の全てで他の時間は自分で勝手に過ごす事が出来た。
しかし、時にはそれ以外にお使いを頼まれる事もある。
「市場の粉屋さんに行って麦粉と雑穀粉を4袋ずつ注文してきてもらえないかしら。やっと入荷したみたいなの。これでパンやパイや焼菓子が作れるわ」
ミリアムが随分と嬉しそうに言ったので、ライカはそれを楽しみにこそすれ面倒などとは思わなかった。
ただ、そういえば、自分がこの街に来てから穀物類の入った食べ物を見た覚えがないなという感想が頭に浮かんだのみである。
「この辺では穀物は取れないんだね」
「地面を掘るとすぐに岩盤の部分が出て来る土地柄なんで基本的に作物を作るには向かないらしいわ、余分に貯蔵出来る程中央から回っても来ないしね」
実の所、この街は国の中央から離れている上に農作地域からも牧畜地域からもかなり遠い。
その上狩猟で獲物を獲ろうと思っても、長年の戦で食料となる動物の生態系がズタズタになっていて、国の方策としてその状態を回復させる為の厳密な狩りに対する制限もあった。
地上以外の猟場にしても、その懐に無限の実りを持つと謳われる海は遥かに遠く、川は地表に細いものが一つと、地中にややしっかりとしたものが一つ。
その上、硬い岩盤の上を走る地表の川は流れが速いため、そこに棲む魚は少なく住人全体を養うには足りなかった
この街の生命線とも言える森は、深く果てもない程に広がってはいるが、そのほとんどが針葉樹林で、油や木材には不自由はないものの、果実の採れる樹はあまりない。
正にここが西の最果ての辺境だという証のように、酷く食料事情の悪い土地だった。
本来は多くの人を養うには足りない場所なのである。
実際、戦が終わった時点では、ここはまだどの国の庇護も受ける事なく、廃墟に棲まう幽鬼のような住人に満ちた、見捨てられた地だった。
それがなんとか他の街と遜色ないぐらいの生活の場として機能出来るようになったのは、王国の統治下に入った事と、現在の領主の采配が大きい。
この国の最大の特徴は、商取引の為に整備された流通網にある。
前王と、その夫人であり現国王の母に当たるリエスンの実家が手を結び作り上げた商組合という組織は、柔軟で強固であり、端々までの密な連携を誇った。
それは成長する生き物ででもあるかのようにたちまちこの辺境をも飲み込んで、交易する物さえあれば年間を通して住民に飢えをもたらさないシステムを構築したのである。
そして、領主は交易の為の特産物の生産に力を注ぎ、今やここならではの商品をいくつか確立させていた。
現在は更に国家政策としての道の整備の為、国からの潤沢な予算と補助を与えられているので、なんとかそれなりの豊かさを維持出来ている。
おかげで、遠くから運搬せねばならない穀物や肉が、季節による輸送の困難等の事情で途切れる事はあっても、長期保存出来る野菜や加工食料品が確実に確保出来ているため、欲しいものが欲しい時にないという事はあっても、少なくとも飢えの心配は現在のこの街には無かった。
とは言え、やはり満たされればより欲深くなるのは人の性。
流通がほぼ途絶える冬を越して後、人々の活動が活発になって来ると、このバクサーの一枝亭の客からは、ひと季節の間消えうせた熱々のパンや、さくりとしたパイ等への要望が日々高まり続けていたのである。
「パンか、そういえば俺、食べた事無かったな」
ライカはミリアムに、というより自分に確認するように呟いた。
聞いたミリアムは少し目を丸くしたが、山間部や他の国ではパンを全く焼かない土地もあるとの噂を聞いた事もあった彼女は、その事自体に疑問は抱かなかったようである。
「それじゃ、粉が届いたら美味しいパンを食べさせてあげるからお願いするわね。注文終わったら昼までどこかでのんびりしてていいからね」
「分かった。それじゃまた、パン、楽しみにしとくね」
ライカは店を出ると早速市場へと向かった。
すっかり馴染みになった市場の通りでは、歩く彼にそこらから声が掛かる。
ただ、まだほの暗い朝方という事もあって買い物客の通りは少なく、開けている店も食品関係がいくらかある程度だったが。
「ライカ坊、ミリアムに山羊の燻製肉が入ったって伝えておいてくれないか?」
肉屋がこの季節には少ない商品を、なんとか見栄えよく吊り下げながらそう頼めば、斜め前の店舗から花屋が香り高い花を上手い具合に纏めたものを勧める。
「この街の食堂に花が無いのは寂しいのを通り越して罪悪ってもんだよ、ひと束どうかね?」
そんな声に、
「店の事はミリアムかおかみさんに聞かないと分からないから、とりあえず後で聞いておくね」
などと応じながらも、その度にうなずいたり、伝言を引き受けたりして立ち止まる事となるので、ゆっくりとしか進めない。
別に急がねば間に合わなくなるようなお使いでもないし、自分が行くべき場所への通り道でもある為、ライカも気にせずに一々それぞれに対応していた。
目指す粉屋は中央広場のやや手前にあり、扱う物も多く、市場の中ではかなり大きい店舗である。
粉屋とは言うが、ここの店はまだ挽いてない穀物や豆も扱っていた。そのまま売る事もあるし、頼めばそこから挽いてもくれるのだ。
「おはようございます」
ライカは手の平を上に向けるしぐさと同時に挨拶をしてみせる。
これは商人のやる仲間同士の挨拶で、最初、目にしたそのしぐさが何かわからずに祖父に聞いてみたところ、祖父はそれを商人の所作と呼んだ。
互いの幸運を祈る印でもあるが、実際は単に慣習のようなものだと教えてくれたのである。
商売人というものは験を担ぐというか、吉凶を気にするというか、やたら細かく色々な場合の作法を定めていて、それをやらないからと客に煩く言ったりはしないものの、そういう細かな所作の出来不出来でその日一日の吉凶を占ったりするのだ、と。
そして、彼ら商人は特に挨拶を始まりの印として大事にしているのだというのだった。
「おはようさん」
上を向けた手を返すしぐさで挨拶を返し、店の主人が顔を出す。
別にライカは商人ではないのでこんなしぐさで挨拶をする必要はないのだが、ついそれを真似てやってみせた所、商人が今日は験が良いとニコリと笑ったので、以降なんとなく毎回行うようになってしまったのだ。
商売の世界に片足すら突っ込んでいないのに、何も分からないまま交わす挨拶は、くすぐったいような思いをライカに与えた。
だが、それは決して悪い気持ちではない。
あえて言えば、未知の世界で一つの謎を手に入れたような、冒険の地図の端っ切れを手にしたような、そんな気分だろう。
その未知の世界の住人たる店の主人は、ライカに対しながらも何人かいる働き手に指示を出して、商品の入ったタルを並べている。
ミリアムの所でもそうであるように、どこの店も開店前、直後のこういった準備には一番神経を使うものらしい。
「パクサーの一枝亭に配達をお願いしたいのですが」
「はい、伺いましょか」
主人はいかにも商売人らしい愛想のいい笑顔を見せた。
注文を告げると、快く用件を引き受けて、目元だけで見せる笑顔を更に深くする。
彼ら、生粋の商売人を見る度にライカはある種の不思議を感じた。
ライカは、一度として彼らの嫌な顔を見た事がないのである。
彼等商売人はいつ見ても常に薄く微笑みを浮かべているのだ。
一般の物売りとは違い、組織を背景に持つ商売人という人々は一様に笑顔を貼り付け、それをほとんど崩さない。
噂によると怒鳴る時も笑顔だとすら囁かれていた。
人というのは疑念が深いもので、そうなるとまた、今度はその笑顔は偽りのものであり、裏に隠された計算高さを隠す為の仮面だとも噂されたりもする。
しかしながら、彼らの真価は客にそう思わせながらもそれを逆手に取り、逆にそれ程計算高いからこそ、時々の感情に流されず取引上での間違いを犯さない相手だという風に思わせてしまっている所だ。
そういう目に見えない部分の無意識の駆け引きを、彼らは軽々と常態として行っているのである。
と言っても、ライカなどは、具体的にそういう複雑な部分を理解している訳ではない。
ただ単に、彼らが辛抱強く、交わす約束は信頼出来るものだという事を、その常に揺るがない態度から汲み取って感心してしまうだけなのだ。
「よそはともかく、この国の商売人達は確かに複雑な連中じゃの。何しろ貴族以上に王家と密接に繋がっておるからのぅ」
祖父が彼らの習慣を教えてくれた時に評して言っていた言葉を、ライカは思い浮かべもするが、王家と密接だから普通と違うという理屈がライカにはさっぱり分からない。
ただ、なにかよく分からないが凄いらしいという、子供がよくやるような理屈の丸呑みをして、ライカは商人達を意識の特別な場所、英雄や冒険者を置く憧れという気持ちの近くへと配置していたのだった。
そんな訳で、用件を終えて立ち去る背中に商人が、
「またのお越しをおまちしてま」
との決まり言葉を投げて、胸に左手を押し当てて頭を下げた行為一つも、ライカには少し特別で心弾む出来事であった。
店の用事を済ませたライカは、現在はお気に入りの場所になった大木が生える市場の中央広場へと向かった。
ライカは単純というべきか、大きな物が好きだったので、大木が影を作るその場所は、特別な、心が安らぐ場所となっていた。
その場所には、朝の内はバタバタとしている家人の隙をついて手伝いを抜け出した商家の子供達がちょくちょく顔を出したりもするので、彼らと一緒に何かをやるのも一つの楽しみでもある。
それに、その近くを店開きの場所に決めているらしい、装飾用の小物を売っている男とそのロバとも、すっかり仲良くなっていたので、邪魔にならない程度に彼らと話したり、ロバを良い草の生える草地に連れて行ったりするのも楽しかった。
なので、そこに楽しい事以外が待ち受けているとはライカは思ってもいなかったのである。
しかし、やがて進む内に、先の方で何か激しい言葉が飛び交っているのが聞こえて来て、思わずその足を速める事となった。
「…て…だろうが!」
「……」
「お…!…」
端々に聞こえる言葉は意味を成さないが、不穏な響きに満ちている事だけは分かる。
微かに恐怖の匂いと興奮の匂いが漂っているのも嗅ぎ取れた。
そして、その内の一人の声に聞き覚えがある事にも気付く。
ライカは大して考える事もなく、その明らかな揉め事の中へと頭から突っ込んで行ったのだった。