第五十五話 狩りの夜
それが起こったのは明け方近くだった。
光が吸い込まれたような深い闇の中から意思を持った気配が近付いてくる。
『狼かな』
押し殺していても、舌なめずりするような狩りの気配は濃厚にひたひたと押し寄せていた。どうやらそれがライカを目覚めさせたものらしい。
ライカは傍らで転がっているサッズに心声を掛けたが、サッズの方は睡眠から覚める気配もない。
サッズからすれば危険とは程遠い状態なのだから当然といえば当然の話なのだろう。が、とりあえず人間に過ぎないライカとしては、やはり不安にもなる。
隊商の一団は上役が幌付きの馬車の中で寝ていて、それは宿営地の三方を囲むように留められている。
馬番、鍛冶整備の担当者や用心棒達はその馬車の傍らの内側に布を張ってその下で眠っていた。
四方の最後の一方では、その開いた空間のやや内側で火が焚かれ、それの周囲で他の荷運び人や雑用夫がごろ寝をしているのである。
ライカ達は当然ながら最後の一団の中にいた。
気配はその焚き火の向こう側から押し寄せて来ていて、間にある火のせいで、こちらからは(多分あちらからも)目視がしづらい状態になっていた。
火には番が付く。
交代制で、夜明け近くは体力のある若い者が担当する場合が多いらしく、今回も二十五歳という若さのマウノが、多少うつらうつらしながらも座って番をしていた。
ライカ達二人は、最初の夜という事で今回は当番を免除されている。
こちらを窺っている相手も攻めあぐねているのだろう。
焚き火の向こうの気配は飢えを感じさせたが、その一方で躊躇いも見える。
『この分なら諦めるかな?』
ライカがそう思った時、背後の、馬車の一角で別の気配が動いた。
ひやりとした独特の空気から、それが前日に森で出会った得体の知れない相手の気配だと分かる。
それは、馬車と馬車の隙間をするりと抜けると、闇の中に消えていった。
ふとサッズが目覚める。
『あいつ、狩りをする気だな』
『狼相手に人間が狩り?』
ライカの心声にはまさかの色があった。
人間という生き物は体の構造がとことん戦いに向いていない生き物である。
弱点の腹部を何の覆いもなく常に正面に晒す生き物だという事だけをとってみても、その体の信じられないような脆弱さが分かるというものだ。
しかし、
『……さっそく始めたようだぞ』
サッズが何か含みがありそうな複雑な響きの言い方をする。
『なに?』
『いや、……腹が減ったな。と』
どうやら他者の狩りを感じて、血に「飢え」を覚えたらしかった。
サッズは人間の世界へ来て以来、彼にとってのまともな食事を摂っていない。
一番大事な成長期に、それはあまり良い事とはライカには思えなかった。
『行ってくれば?』
『ん?』
『人間は狼を狩って食べる訳じゃないらしいし、1頭ぐらい掠め取っても気にしないだろ』
『んー、そうだなこういう機会は滅多にないだろうし、ちょっと1頭絞めて来るか』
『かち合わないようにね』
『かち合う方が無理だ。目の前にいても気付かれやしないし』
そう言い残して、傍らから気配が消える。
ライカは見えない闇の中で微笑んでもう一度目を瞑った。
(それにしても狼の群れを相手に人間一人で狩りをするなんて出来るんだろうか?班長さんあたりなら問題なさそうだけど、あの人は頼まれてもやらなさそうだよな)
焚き火の向こうには既に静寂が戻っている。
体が揺れている火の番の青年の背を見ている内に、ライカは何時の間にか眠りに落ちた。
「起きろ!朝だぞ!」
大人の男の野太い呼び声に目を覚ますと、横で背伸びをしているサッズに気付き、ライカは目を向ける。
「おはよう、少し水の匂いがするね」
「ああ、おはよう。うっかりそのままやっちまって、川に飛び込んで流して来た」
血の事か匂いの事か分からないが、のんびりと背伸びをするサッズは満足した顔をしていた。
「服を脱いで行けば良かったのに」
「そうなんだよな、考え付かなかった」
とはいえ、本来ならびっしょりと濡れているはずだが、乾かすのはお手の物である。
現在のサッズの見た目には既に問題は無かった。
「ガキども、薪が足りねえ。もう少し拾って来い。あんま時間掛けるんじゃねぇぞ」
「あ、はい」
「はいはい」
サッズは機嫌が良いので上から物を言われても今日は一々イライラしないで動き出す。
一人一人がそれぞれの分担へと散って行き、緩慢ながら仕事を始める様子は、まだやっと射した朝日の中で、まるで単色の影絵のように見えた。
朝露に濡れる森の中にまともな薪になるような枯れ木は少なかったが、時間がないのでそこは裏技を使わせてもらう事にして、ライカはサッズに頼んだ。
「サッズ、俺が集めた木の枝から水気を抜いて」
「なるほどね。考えたな」
「さっきのサッズを見て、ね」
ライカは笑う。
そんな裏技のせいで薪になる枯れ枝は割りと早く集まった。
朝の急がしい時間の事だから、いくら早くても文句はないだろうが、あまり早いと何か疑問を持たれるかもしれない。
ライカはついでに少しだけ昨夜の痕跡を探した。
「あ、死体がある」
「放りっぱなしかよ。まぁ何かの餌になるんだろうから良いんだろうけどよ」
サッズは言いながらその死体を探る。
竜族は他者の倒した獲物を横取りしたりはしないので、彼にとってこの死体は餌ではなくただの死体でしかないのだ。
「傷が無いな。骨が折れている訳でもない」
「どうやって殺したんだろう?」
「さぁ?牙もない人間のやる事なんか見当も付かないな。そもそも襲ってきた訳でもなければ、食いもしないのに、何で皆殺しにしたのか訳が分からん」
「群れ全部?」
「ああ、俺がやったの以外」
何かひやりとしたものを感じて、ライカはその死体から身を引いた。
「理解の出来ないものってちょっと怖いな」
「別に理解なんかしなくて良いだろ?何かしてくるようならそれに対処すれば良いだけだ」
「俺は人間で弱いから、どうしてももしものことを考えてしまうんだよ。領主様が言ってたようにそれはあまりいいことじゃないのかもしれないんだけどね」
「起こってもいないことなんか考えても無駄以外の何物でもないからな。そんなことよりそろそろいいんじゃないか?」
「ああうん、戻ろうか?」
横たわり、命の営みを終えた一頭の狼の死骸から離れ、二人は野営地へと戻った。
陽は既に世界に光を満たし、風景は色付いている。
野営地からは三筋程の煙が上がり、食事の用意が始まっているようだった。
「薪急がなくっちゃ」
「昨夜の分だってすぐになくなるような量じゃなかったんだからそう急ぐ必要はないだろ。俺らが取りに行かされたのは予備の分じゃないのか?」
「それでも料理には一番薪を使うからね。誰だって食べる物に支障があればイライラするものだし」
「俺はもう大丈夫だぞ」
「やっぱりお腹が空いてたから他人にそっけなかったんだね」
「それは違う。俺は機嫌が良くても他人と関わるのは嫌いだ」
「わかりやすくてありがとう」
野営地はすっかり朝の喧騒に包まれている。
二人は両手に抱えた(サッズは片手でクルクル回していた)薪を持ち直すと、急ぎ足でその中へと戻って行ったのだった。