第四十二話 若き竜は空に在る
『兄君殿には我が目障りでありましょうな』
地上種の翼竜であるアルファルスは、その長い首をもたげて未だ肉眼では見えざる竜舎の遥か上空にて佇むサッズの気配に向けて声を掛けた。
自らの領域を侵す同族の同性に激しく怒りをぶつける種族である彼等において、それは極々穏やかな呼び掛けだったと言えよう。
ただ、実の所、アルファルスにとっては同族に領域を侵されること自体はさして攻撃的になる理由にならない。
なぜなら人の飼育下にあるということは、自身の意思に関係なく、同じように人と暮らす同族と同じ空間を分け合う必要に晒される場合があるということだからである。
サッズの気配に威嚇の叫びを上げたのは、それが単純に脅威だったからだ。
主に害を為さないと判明すれば、その存在は彼の攻撃心を刺激しない。
そうやって人の都合に馴らされるということが飼い慣らされるということなのだとアルファルスは思っている。
人である半身と我が命を分けたことによって、優先順位が書き換わったアルファルスには、それは受け入れる事の容易い決まり事だった。
だが、偉大な前時代の種族であるサッズは、そのような堕落を厭って自分に挨拶するのは嫌なのだろうと、アルファルスは考えていたのである。
しかし、サッズの方は当然ながらそんな細かい事情を知るよしもなかったし、知ろうとも思ってはいなかった。
『……俺は地上の習いは知らないし、そのことで誰かを蔑む程誇り高い訳でもない。ただ、挨拶というものが嫌いなだけだ』
『なるほど』
『挨拶などを行って当然あるべき諍いを妨げようとする柔和さは、俺には唾棄すべきものにしか感じられん』
『本来あるべき争いを行わないのは柔弱さの表れ、と感じられるということですか。ふむ』
アルファルスは密かに笑ってみせる。
当然本来は目視が出来るような距離ではないが、その意識は相手に伝わった。
『嗤うなら礼儀を無視した若造である俺をこそ嗤うべきではないか?なぜお前は自分を嗤う?』
サッズの言葉に、アルファルスは穏やかに返した。
『眩しいのですよ。未だ幼き竜の御子よ。あなたにせよ、弟君にせよ、屈託のない真っ直ぐさが羨ましい』
『ふん、年寄りは皆同じようなことを言う。馬鹿馬鹿しい。過ぎしとは言え己の通ってきた道だろうに』
『むしろ、だからでしょう。……ところで、我が巣穴へ訪ねて来てはいただけないのですかな?狭く、面白みのない寝屋ですが、世話をしてくれている者達が心を尽くして用意してくれる物なので、我自身ではそう悪くはないと思っているのですが』
『むぅ、口が達者なのもうちの年寄共と変わらないな。生きた周期、年月は、お前は俺とそう変わったものではないはずなのに、やはり年数がどうであろうと年寄りは年寄りだ』
随分な言われようだが、実際は、アルファルスは竜としてそう年寄りという訳でもない。
人間で言えば壮年といった所だろうか、アルファルスは百五十年は生きると言われる地上種の大型竜なのだが、百年近くの生を既に刻んでいた。
同じ百年近い歳月を雛として過ごす前時代の竜から見れば、むしろ若いぐらいに感じるはずだ。
だが、小さな虫と人の寿命を比べても意味がないように、それぞれの感性は自らの種族の年代に沿って成長するものである。
『何事もその有り様にあった経験の仕方というものがありますからね。単純に年月で測れるものでもないでしょう』
アルファルスの言葉に招かれるように、ふわり、と、扉を閉め切られた屋内であることを何の障害ともせずに、サッズはその身を竜舎の中へと降り立たせた。
実は空気抜き用に、高い位置にある窓は終始開いているのだ。
なのでサッズにしてみれば、そこは開かれているのと同じである。
高さ的には人間がよじ登るのはほぼ無理な場所にあるし、竜が抜け出せるような大きさでもない。
例えそこに上がる方法があったとしても、そもそも普通の人間は竜舎に忍び込もうと思いすらしないであろう。
「なるほど、街中よりここの方が空気がマシだ」
「生き物が密集した環境はどうしても独特の臭気が漂うものですからね」
竜舎と他の畜舎との大きな違いはその屋内に漂う香りだ。
竜をただの獣の一種と思う人間のほとんどはその棲み処を獣臭いものと想像するが、竜は匂いに敏感な獣であり、その世話にハーブは欠かせない。
下手をすると貴族の住居よりも竜舎の方が心地よい香りに包まれているなどということすらあるのだ。
「あ~、混沌の末、未だ雛たる者、サッズという。狩場を荒らす気はない」
その口上は、とても挨拶とは思えないようなものだが、サッズからすればこれが精一杯の譲歩らしい。
「ご挨拶痛み入る。我は欠けたる翼、人の雄たる主持つ身、アルファルスと思し召せ」
何かを待つような沈黙。
どちらからも動かないそのひと時に、言いようの無い静寂が落ちる。
サッズがその沈黙を破って挑みかかるように告げた。
「男の身に触れるつもりはない」
「ご随意に」
感覚部の接触による挨拶を拒絶したサッズに、アルファルスは笑い含みに答えると、人の子でありながら竜の子であるライカとの、その性質の違いがあまりにも微笑ましく思えて、更にククッと喉を鳴らして笑う。
それを咎めるでもなく横目で見て、サッズは息を吐いた。
「ライカがお前の半身に世話になってるようだ」
「我も何か出来ることがあれば御子の力となろう。弟君には早速の御挨拶をいただいているのだからな」
「さすが人間と付き合いが長いだけあって嫌味が上手いな」
「まさか、嫌味など畏れ多い」
明らかに余裕負けをしているのを悟れない程サッズも愚かではない。
チッ、と、それこそ人間のように舌を打つと、早速身を翻した。
「色々と邪魔したな。我が無礼は若さゆえと侮っていただければ幸いだ」
大気が渦を巻き、室内にも関わらず一陣の突風が吹く。
沈殿していた香りが掻き回され、土の香が一瞬だけ強く香った。
次の瞬間にはその場からサッズの姿は失せている。
「若いというのもなかなかに難儀なものだ」
自らも覚えがある感覚に、むしろ微笑ましいものを感じながら、アルファルスはこの狭い街に現れた、若いというにはまだ幼き、偉大な天上の時代の竜の御子達を思った。
「変化の無いまま終わると思っていた余生だが。物事というものは分からないものだな。我が魂の伴侶の言う通りだ。まことあやつは賢きことよ」
アルファルスはゆったりと身体を横たえ、それこそ下の御子の均した藁の香りと、絶妙にそこへ混ぜ込まれたハーブの少し甘い香りを嗅ぎながら、満足に笑んで眠りを呼び込む。
(このような寝床をずっと提供してもらえるならそれはそれで嬉しかったかもしれんが)
結局一度きりとなった贅沢を思い、人間と絆を結び戦場を翔けた地上の時代の翼竜は、半身が既に微睡む意識の流れの奥へと沈んでいった。
(全く、守勢に在る奴はああやって掴ませない)
サッズは少々の苛立ちを感じながら空を駆けていた。
彼とてまだ未熟なりとも若い男である。
時には自身の力を試して戦いを経験したいという欲求があるのだ。
誰彼構わず喰らい付いていく赤い馬鹿兄のようになる気は毛頭ないが、あのアルファルスが経験を積んだ戦士であることは、まだ経験の乏しい彼であってもすぐに分かる。
それと戦って自分の程度を知りたいという欲求は、さほどおかしなものではないはずだ。
しかし、いかに挑発した所であの相手が自分とは決して戦わないことも明らかではあった。
セルヌイにしろあのアルファルスにしろ、守りたい者を得ている竜の意思の不動さはサッズにどうしようもない焦りを抱かせた。
自身に何かを守りきるだけの力があるのか?という答えのない問い。
競う相手がいなければ空を行くその翼の速さすらわからないのだ。
サッズがその視線を下ろすと、地上に僅かに光が見える。
城の門の内側の篝火、いくつかの客を入れている店、そして……、天井に窓を持つ小さな家の灯り。
その窓の横、暗い屋根に座って自分を待つ馴染んだ姿を見て、サッズは温かい気持ちと共に、たちまちに消えていくそれまでの焦りを感じて、自らのお手軽さにさすがに自分でも思わず苦笑いを浮かべてしまったのだった。