第三十二話 狼の群れ
『ふうん、狼の狩りってのを初めて見たけど、中々頭使ってるじゃないか。こっちで声を出して脅しておいて、実働部隊はあっち側か』
狩りの緊張の中、三頭で群れの全体指示を受け持つ指揮組の中で、他の狼より一回り体躯の大きな狼が、突然響いた声に冬毛の名残で真白い全身の毛を逆立てて身構えた。
彼がこの群れのボスであり、最も強い雄の個体なのである。
『おいおい、いくら見た目がこれだからって、俺に牙を剥くのか?いや、群れを作る動物ってのは自分自身の危険には鈍いもんなのかな?』
狼のボスは、頭上の人間モドキに本能的な危険を強く感じていた。
しかし、その一方で、自分達に理解出来る言葉を綴る人間の姿をしたその存在に興味を覚えてもいる。
狼は好奇心の強い生き物だ。
時折、特に食料にする訳でもない小動物を延々となぶる事があるが、それも彼等の好奇心の表れである。
彼等もまた人間と同じく、知恵があるばかりに脈々と受け継がれた危険への警告を聞き逃す生き物なのだ。
『ナニモノ ダ? ナニ ヲ シテイル』
『お、本当に言葉が通じるんだ。いい加減なヨタ話と思ってたけど、結構本当なのかもしれないな、物好きな竜王の話も』
『ナニヲ ワカラヌコトヲ イッテイル』
『悪い。うん、ちゃんと話すべきだよな。うちの末っ子にも良く怒られるんだ。相手の話を聞けってさ』
樹上にいた、青銀の髪の人間の少年(当然ながらサッズだったが)は、体の重さがまるで無いもののように地上に降り立つ。
『お前等が狙ってる獲物はうちの末っ子なんだよね。悪いけど他を当たってもらえないかな?』
『ナラバ オマエガ エサ ニ ナルト イウノカ?』
『取引と来たか、物を考えてる奴等だな。だけど、他の地上種の生き物よりバカだぜ?俺がなんだか分からないのか?』
言葉と共に、周囲の空気が軋むような気配と、キーンと聴覚に痛みを覚える異常が起こった。
同時にビリビリと全身に痺れが走るような何かを感じ、狼達は一斉に飛び退き、中にはキューンと鼻を鳴らして、戸惑いを表す者も出る。
『オチツケ、ミダレルナ!』
ボスの一括にそれらの及び腰がぴたりと収まる。
『へぇ、群れのボスってのは凄いね』
『コノ ケハイ。 ハハ カラ キイタコトガ アル。フカイ フカイ ムカシ オオソボノ マタ オオソボノジダイニ ソラ ヲ マッテイタ リュウ ノ シュゾクダナ』
群れを率いる白い雄狼は、そう言いながらも逃げる事なく、それどころか腰を下ろして、サッズをじっと見詰めた。
『キサマガ リュウ デ アロウト、ココハ ワレラノ モリ。カリ ハ ワレラノ イノチ ヲ ツナグ カテ。ソレヲ ユズルコトハ ナラヌ』
サッズは流石に目を丸くして相手を見た。
とうてい敵うべくもない相手と知っているはずだが、この堂々とした交渉は大した度胸である。
『シカシ、ミウチヲ マモル キモチハ ワカル。ナラバ ヨソモノノ ソチラガ ナニカヲ ユズルベキダ』
『へぇ、言うじゃないか。でもさ、ここはお前等の縄張りじゃないはずだぜ?縄張りに特有のニオイがしないぞ?』
狼のボスはその獣の顔でニィと笑う。
『ホウ、ワカル ノカ? ナカナカニ アタマノヨイ ケモノ ヨ』
『言うね』
サッズも笑った。
この肝の太さはライカを狙われたという腹立たしさとは別に、サッズを面白くさせた。
彼もまた、知恵のある獣の常で、気持ちが動けばそこに興味が出る。
そもそも竜というのは感情の起伏が激しい生き物で、成体になれば徐々にその一部を封印していくのだが、まだ子供の彼は、素の感情を剥き出しのままに保持していた。
そのため、この狼という生き物に強く興味を引かれたのである。
『で、止めるの?戦うの?』
それでも当初の目的が一番だ。
サッズははっきりと聞いた。
『ワカッタ、 ダガ ワレワレ ハ コチラガワデ カリ ヲ スル。ムレノ コドモ ガ ダイジナラ、エモノガ フエル ジキ マデハ チカヅケルナ』
『なるほど、それが取引ね。しかしそもそもお前達の縄張りですらない場所であれこれ指図される謂れはない。こっちはこっちで好きにするからそっちも好きにするが良いさ。ただし身内に害を成せば俺はお前の一族を喰らい尽くす』
『……』
狼のボスは納得したともしてないともとれない静かな佇まいで、しばしサッズを見ていたが、おもむろに天を仰ぐ。
-…ウルゥルゥゥウウ…
細く長い遠吠え。
それはこの場合引き上げを意味する。
狼達はいっそ堂々としたボスを先頭に、流石に他の者はサッズの方をオドオドと見ながら森の奥へと消えていった。
「あ、」
「どうしたの?ライカちゃん」
狼の遠吠えに怯えながら、周囲に気を配りつつ急ぎ足で道を進んでいた三人だったが、再び聞こえた遠吠えに、ライカが立ち止まって顔を上げたのを見て、スアンが不安そうに尋ねる。
「ほら、狼の声が遠ざかっているみたい」
「ん?」
護衛に付いてきて、おそらく一番状況を厳しく感じていた警備隊の青年は、傍らの少年の言葉に自らの耳を澄ましてみた。
確かに啼き交わす狼の声は少しずつ遠ざかっているようである。
「狙いはこっちじゃなかったのかな?どちらにしろ油断する訳にもいかん。急ごう。二人とも転ばないように注意してください」
彼等はそのまま足早に森の中の、ほぼ山道ともいえる道を辿った。
(さっきサッズの意識が触れたな)
ライカは先程、狩りの歌を高らかに歌う狼の声に緊張した瞬間、街にいるであろうサッズの意識が、巡る輪の片鱗の煌きのように自分に触れたのを感じていたのである。
おそらくは、ライカの身に起こっていることを察知して、何か手を打ってくれたのではないかと思われた。
(色々やりすぎてなければ良いけど)
酷い騒ぎが起こってないということは、穏便に済んだという印だ。と、ライカはまるで自分に対して釈明するようにそう思い。
それに自ら気付いて苦笑する。
「ほらほら油断しない」
ついつい足が止まってしまったライカの背を、警備隊の青年、ロンの手が軽く叩いた。
「あ、はい、すみません」
ライカは謝って、感謝の言葉の代わりににこりと笑うと、街へと帰る歩を進める。
「この状況で笑えるってのは、お前も見た目と違ってそうとう肝が太いな」
呆れたように言われたのへ「そんなことないですよ。警備隊の人がいるから安心しているだけです」と応えたライカの言葉を、スアンが、「確かに。礫場の事故の時だって全然怖がらないで活躍したんですよ」などと斜めに褒めて繋いで、彼らの間で話が盛り上がった。
なんだかんだ言っても、皆、本能のどこかで危険は去ったことに気付いていたのだ。
あの気まぐれで我が侭な家族が自分の危険には神経質なぐらいに対処することを知っているライカは、サッズが何食わぬ顔で家に帰って来たら、今日のことを根掘り葉掘り聞き出してやろうと、嬉しい気持ち半分、心配な気持ち半分で心に誓ったのだった。