第三十一話 早春の森で
「こんにちは」
冬の間はあまり来れなかったので、かなり久しぶりに、ライカは治療所に顔を出した。
いつも何かしら忙しそうな場所なのだが、今日はまた何か皆忙しそうである。
「あ!ライカちゃん、良い所へ!良かったら手伝ってくれないかしら?」
元気の良い声はこの治療所の助手の女性、スアンだ。
「何?手伝える事なら手伝うけど」
「ほら、今、春芽が出る時期でしょう?薬草園のじゃなくて野生の薬草を摘みに行く所なの」
「一人で?今の時期は狼が飢えてるから危ないって警備隊の人が言ってたよ」
「南側のあまり奥深くない所で摘むから大丈夫よ」
「いやいや、薬草採取って自分が気付かない内に絶対奥に行っちゃうからさ、誰か付いて行くから待ってて、スアン」
彼女の気楽とも取れる言葉を遮るように、奥から声だけが聞こえて来た。
この声もライカには覚えがある。
スアンと同じ助手で、男性のニクスだ。
「無理でしょ?持病の関節が痛くなったとか熱を出した赤ん坊とかひっきりなしだし。こういう季節替わりの時季は体調崩す人が多くて大変なんだから。そんなに心配しなくても、本当に近場で、今じゃないと薬効が落ちるのだけ採って来るから」
言って、カゴを持ち、彼女はさっさと外へと向かう。
「あ、俺、ついて行きますから大丈夫です」
ライカは彼等の会話に、自分のやるべきことを見出して、そう宣言すると、慌てて彼女の後を追った。
「待った!女子供だけで、って、おおい!」
「ニクスまずい、昨日凍ったとこでこけたって人来てるけど、すんごい腫れてるよ、先生は?」
「あ、折れてるか、傷から何か障りが入ったか、先生は赤ん坊の方診てて手が離せないよ」
この時期雪は見なくなるが、朝方地面が凍り、うっかり足を滑らせる人が急増する。
そして、気温が急激に変化するようになって、元々体の弱い者が体調を崩すことも増えるのだ。
当然、そんな慌しい治療所に二人を追うことの出来る者など居ようはずもない。
「スアン、待って、俺も手伝うけど籠持って来てないよ」
「大丈夫よ、大きめの籠持ってきたし、この時期採れる薬草はまだまだ少ないの。それだけ貴重でもあるんだけどね」
「そっか、じゃ、その籠に纏めて入れれば良いんだね」
「ええ、でも薬草に似てても実は違う物も多いから、入れる前に私に見せてね」
「うん」
城門を問題なく潜り、真っ直ぐ大通りを抜け、やがて見える街の門ではいつものように検問の警備兵が佇んでいる。
その顔にライカは見覚えがあった。
「こんにちは!」
「あ?おう、あんときの坊やか。街を出るのか?そっちの人は見覚えがあるな、ああ、先生んとこの」
この日の検問は風の班らしく、そこにいたのはライカが以前ちょっとした事件に巻き込まれた時にお世話になった相手である。
確か露天商のホルスに何か装飾品を買わされていた人だ。
「こんにちは、ジル。ちょっと薬草を摘みに行ってきますね」
「いや、ジルじゃなくて、俺の名前ジャスラクスですよ。なんでみんな班長の真似するんだろう」
後半はぼやきである。
「こんにちは、スアン。しかし、女子供だけで森へ入るのは危険ですよ」
そんな中、もう一人の警備隊の兵士が挨拶と注意をして来た。
「こんにちは、カイ。南側の泉の手前までです。そんなに遠くまで行きませんよ」
「ふむ、いや、やはりそれはいけません。うちのを一人付けますから一緒に連れて行ってください。まぁ荷物持ちぐらいにはなるでしょう」
「ケインズ、お前、もうその呼び名で良いのか?まあいいけどな」
ジルことジャスラクスは呼び名など気にもしていないような相棒に呆れたような羨ましいような顔を向けた。
「でも、怒られませんか?」
「いやいや、俺らの仕事は街の人間を守ることですよ?本分を果たすまでですから問題ありません。それにうちの班長は細かいことは気にしませんし」
「まあ」
話題の主を知る全員の顔に笑いが浮かぶ。
「ってことは班長さんはいないんですね」
ライカが少し見回して聞いた。
「あの人、仕事の現場にいることの方が珍しいですからね。まあなぜか事件が起きると何時の間にか現れるから別に良いんですが」
「さすが班長さんですね!」
「待った、変な風な憧れを持っちゃだめだよ、坊や。あの人はダメな大人の見本だ」
ライカが感心した声を上げると、すかさずジャスラクスがそれを止める。
「街の治安を守る者としてはそんな間違いを未来ある少年に起こさせる訳にはいかんからな」
スアンがそれをクスクス笑いながら聞いていた。
そんなことを言い合っている間に、カイと呼ばれた男が詰め所へと行って一人の男を連れて来る。
「こんにちは、スアン。しかし、君の所も無茶させるな、城の南側の森じゃダメなのかい?」
「あ、ロンさんこんにちは。街の中の森のはまだ早いわ。日当りが良い外の森の方が早いはずよ。昨日森に山菜を探しに行った人からもう何種類かの芽が出てるって聞いたの」
「そうか。まぁ治療所の薬は俺たちが一番使わせてもらってるしな。出来る限り協力させていただきます」
見ると彼の背にはマントが無い。
「マントはどうしたの?」
スアンも気になったのかすかさず指摘した。
彼等兵士の装備は敵味方を判別する為の一つの目安であり、責務を負う証でもある。
普通許可なく装備を省くことは禁じられているはずなのだ。
「森に入るのにマントは邪魔だろ?上もいないんだし、外して来た」
「さすがはオルタ班ね」
変な感心の仕方をしたスアンが呟き、ジルことジャスラクスが一つ咳払いをしてみせた。
あの飄々とした班長のせいだけではなく、こういった奔放な者ばかりなので彼らの班の評判は決して変わらないのである。
森の入り口は一見、なんということもないまばらな木立だ。
果ての森と言われるこの深い森も、その入り口は明るく美しい。
雪が消えてしっとりとした黒い土が一面に広がり、その間にまるで無造作に撒き散らしたかのように淡い緑が芽吹いていた。
この街は森に近接しているが、実は街からしばらくは木々が全くない。
万が一山火事になった時に街に火が来ないように、ある一定の範囲に木が生えないように管理されているのだ。
貴婦人の泉へと続く道は、人が三人程並んで歩けるぐらいの幅で杭が打ち込まれ、ある程度人が歩きやすいように整備されている。
それは花の丘まで続く、街の外から人を寄せる目的で領主様が作り上げた山歩きの道だ。
この道は街の人間にも開放されているので、そのおかげで街の人間はあまり山歩きに慣れていない者も手軽に森へと必要な物を採りに行けるのである。
「くれぐれも道が見える範囲から外れないようにしてくださいね。泉周辺はみんなが思うより森の奥になるんですよ。この道があるからつい錯覚しがちですけど」
「そうですね。あの辺りは街よりちょっと高い場所にあるみたいです。生えている草木が高山の物だし」
ライカがそれに応じ、うなずいてそう答える。
「へえ、さすが大工のおじいちゃんの孫ね。木にも詳しいんだ」
「あ、いえ、高い山とかで小さい頃遊んでたんで」
「山の中に住んでたのかぁ、そういえば、隠れ里だったわよね」
「え?」
「あ、ごめんね、ナイショよね」
ライカはキョトンとスアンを見て、言われた内容を頭で吟味した。
(あれ?俺、育った場所について誰かに話したっけ?)
ライカはここに来て以来自分の育った場所の話はしていないはずである。
それなのにまるで何もかも知っているように話す彼女の言葉はライカにはとても不思議だった。
しかし、こんな道中で軽い調子で話すようなことなのだから、別にそれが何か問題になる訳ではないのだろうと納得して、ライカはあまり気にしないことにした。
「この辺で良いんじゃないか?本当に泉まで行ってたら帰りは遅くなっちまうぞ」
「そうね。うん、大丈夫。こっち側に黒松があるし、この木の根元に良いのがあることが多いの。ええっとね」
彼女はきっちりと巻いたブーツで、やや傾斜のある整備されていない森の中へと踏み込むと、ぐるりと見渡した。
「あった。ライカ、これ、この淡い色の若い芽のやつ。それとこっちの小さい緑の花みたいなの」
「分かりました。じゃ、探しますね」
しゃがみ込んでうろうろする二人をしばし興味深げに見守っていたロン(本名はロドリアン)だったが、ゆっくりと周りを見回し、周囲の気配を探るように辺りを往復し始める。
春先の、さえずりを覚えたばかりの鳥の声や、かさりと小さな音で動き回る虫達。
人間達が無言になると、森はたちまち静かな騒がしさといった、それぞれの生活の音と普段の風景を取り戻す。
幾度かうっかり崖に近付こうとしたスアンを注意するロンの声と、それに礼を言う彼女の声が空気を乱したのみで、後はごくごく静かに穏やかに、彼等の作業は続いた。
「じゃ、これも」
「うん、もう間違いが全然無くなったね。ライカは覚えが早くて助かるわ」
「お嬢さんにお坊ちゃん、そろそろ帰路に着いた方が良い時分ですよ」
採取に夢中な二人にロンが声を掛ける。
「あら?もうそんな時間?」
「太陽もたまには見ましょうよ。全く、俺が付いてなかったら暗くなるまでいたんじゃないですか?」
「あはは、冗談よ。私ももうそろそろって思っていました」
「スアン、これとかは薬じゃないんじゃないですか?茹でて食べると美味しいけど」
「春先の山菜はとても元気が出る食べ物なのよ。病気や怪我を治すばかりが治療者の仕事ではないわ。普段からみんなが元気で暮らせるように体に良いものを食べてもらうのも立派なお仕事なのよ」
「なるほど、療法師って凄いですね!」
「いやいや、騙されるな、これはきっとこいつらが食う分だ」
ロンが会話に加わりまぜっかえす。
「ちゃんと患者さんにも出しますよ」
それはどうやら図星だったらしかった。
籠は満杯とはいかなかったが、それでもほがらかに笑い合いながら彼等は帰路に着いた。と、
唐突に、「オオォオォォン…―」という、独特の尾を引く獣の声が辺りに響く。
「狼!?」
全員が、ひやりとした何かに唐突に触れたかのように飛び上がって緊張し、周囲を窺った。
狼の縄張りは街の北側であり、こちら側は熊はいても狼はあまり見掛けない。
見掛けるとしたら狩りを行うために遠出をしている時だ。
竜と狼双方を知る誰もが言うことだが、狼の歌は竜のそれと似ている。
そのため、ライカは、その歌が正に狩りの歌であることに気付いた。
「ち、森を抜けるまで小半刻か。やつらの狙いがこっちじゃないことを祈るしかないな」
狼は群れで狩りをする生き物だ。
人間は一対一ですら彼等と戦えるかどうか怪しいものなのに、大きな群れに襲われたらひとたまりもない。
しかも彼等は狩りが上手く、人間の狩りは彼等のそれを参考にして始まったとすら言われているぐらいなのだ。
「とにかく急ごう。奴等は滅多なことじゃ人間を襲わない。最近は森の獲物も増えてきているし、他の何かを狩っている可能性の方が大きい」
三人は慌てて道へと戻ると、街の方向へと急ぎ足で引き返し始める。
うっかり声を立てて狼の注意を引くことを恐れて、それ以上交わされる言葉もなく、それぞれの足音のみが周囲へと響いていた。
ゥウオオオオオオン…-
近付いている。
三人は同じ認識に、互いの目を見交わした。