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百合子

 もう後戻りはできない。

そう実感した途端、逃げたくなった。

これは性分だろうか。

大事な場面になると、途端に逃げたくなるのだ。

ここに自分がいるべきではない気がして。

でも、実際そうなのだろう。私なんて存在は、この世界とは相容れない。

棒立ちになりながら、ポロリと流れ出てしまった涙を袖で拭いた。

そしたら涙はもう出てこなくなった。

幼馴染3人を再度見返す。

彼らはポカンと口を開けて、私を見ていた。

何一つ理解できないという顔だ。いや、理解できるはずもないだろう。

けれど、彼らに説明なんて出来やしない。

レオンに振り返る。

彼もまた、現状を理解しきれていない様子だった。

戸惑いを、変わらず私に向け続けている。

けれど、彼にはこれだけ言っておきたかった。


「戸惑わせて、ごめん。でも、私、ユリだから。本当だから」


弁解のような言葉に、彼は戸惑いを隠せないままただ頷いた。


「あとは、私と彼らの問題なの。だから、ごめんね」


視線を逸らし、私がそう言うと、彼は気付いてくれたのか、はたまたこの場所から離れられるよい理由を見つけて、それに飛びついたのか、慌てた様子で私に言った。


「いや、俺もいきなり話しかけてごめんなさい。また、いつか会えたらその時ゆっくり話しましょう。・・・それじゃあ、俺もう行かなきゃ」


そう言って、彼は一歩二歩と足を動かし、私から離れた。

その顔には曖昧な笑みが浮かんでいて、その笑みが何を意味しているのか、私には分からない。分かりたくもない。

彼は離れつつ、前のように、私に手を振った。

馬車の中から手を振った私と、馬車の外から手を振った彼との別れを思い出す。

変わらない。別れ方は、前と変わらない。いや、前よりちゃんと挨拶して、別れられた。

なのに、もう会えない気がする。

思い込みじゃなくて、この別れで、お互いどこか気まずいままで、二度と今日みたいに話しかけてくれない気がした。

けれど、それもまた仕方ないことなんだろう。

これが、私がやってしまったことの結果なのだ。

手を振り返し、彼がこちらを見なくなったところで、手を下ろす。

彼の姿はすぐに人ごみにまぎれて見えなくなった。


「で、どーゆうことなんだよ」


レオンが去った後をボーっと見ていたら、そんな不機嫌そうな声が聞こえた。

声に慌てて振り向けば、ジェーンがこちらを睨んでいる。

機嫌が悪い、と言えばそれっきりだろうが、彼の表情はそれだけじゃない。

燻っている怒りのようなものが、見えた気がした。


「お前、何?初対面の人に偽名使ったの?そんな趣味あるとは思わなかったわ。しかも、俺達の前でも嘘つき続けるなんて、お前がそんな奴だったなんて、傷つくぜ」


「違う」


彼らには、何一つ伝わっていなかった。

それならよかったじゃないか。そういうことにしておけば。

そうすれば、私は頭のおかしい女じゃなくて、趣味の悪い女になるだけだ。

でも、名前についてだけは、私は決して肯定したくなかった。

だって、私は百合子でいたいと、強く願ってしまったのだから。


「わ、私は本当に百合子なの」


再度、勇気を持って告げる。

理解してくれなくてもいい。本気にしてくれなくてもいい。

そうなんだ、と軽く受け流してくれないだろうか。一度だけでいい。

認めてくれないだろうか。

そうすれば、私はゆりこでいられる。


アリッシアの高い声が響く。

戸惑いの色が抜けない、わざと作ったような声だ。


「もう!ラピスったら、私たちにまでその名前使うの?もしかして嘘ついてたのがばれちゃって後に引けなくなってるとか?まぁ、やってることは褒められたことじゃないけど、私たちにまで嘘つかなくていいのに」


アリッシアが苦笑を浮かべた。


「だから、違うの。嘘じゃないの」


私の一言に彼女の笑みは固まる。


「・・・・ねぇ、ラピス。なんでそんな嘘をつくの?今までずっと一緒にいたのに、そんなの信じる訳ないじゃない?」


そう問う彼女の顔には、再び戸惑いが浮かんでいた。

いや、戸惑いじゃない。あれは、傷ついた顔だ。

彼女の表情に、私の胸が痛んだ。私は、彼女を傷つけてしまった。

けれど、今まで笑われてきた私の傷に比べれば、大したことがない気がした。

今まで黙っていたジンが、口を開けた。


「ラピスは、ユリコって呼ばれたかったの?」


ドキっと胸が鳴る。

いや、百合子と呼ばれることを重んじている訳じゃない。

私は、私が百合子であることを認めてほしいだけ。

百合子わたしがここにいることを認めてほしかっただけ。


「わっ私は、私を百合子だって認めてくれれば、いいだけで」


別に、百合子と呼んで欲しくて、こんな強情になっているわけじゃない。

そりゃあ、百合子って呼んでくれたら、きっと嬉しいだろうけれど。


ジンは困ったように眉尻を下げて、笑った。

まるで言い訳の聞かない子供に言って聞かせるような。


「ねぇ、ラピスは大事なことを何一つ俺達に話してくれてないよね?」


その言葉に、胸を打たれたような衝動が走る。

図星だった。


「な、何を?」


ジンは目を伏せ、ため息をつく。


「何でラピスをユリコだと認めてほしいのか。ユリコとは一体何なのか。それを話してくれないと、俺達にとってラピスはラピスだし。いきなりユリコだと認めろなんて言われても、困っちゃうよ」


彼は続ける。


「それに、他人を巻き込むのは感心しない」


ここで私は初めて、理不尽な怒りを彼に覚えた。

彼らが何も知らないのは私が話さないから。

彼らが困っているのは、私が自分勝手なことを言っているから。

そう、こんなことになっているのは、私がやったことの結果だ。私が悪い。

でも、今まで私がどんな思いをしたのか。

どんな思いで愛の言葉を言っていたのか。

どんな思いで郷愁レオンに縋ったのか。

何も知らないで、他人を巻き込むのは感心しない、なんて、言わないでほしかった。


「・・・じゃあ私は、レオンが黒髪黒目だったから話しかけたとか、実は愛の言葉を言うのが嫌で仕方なかったこととか、そういう、みんなには到底理解できないことを、話せばよかったの!?」


この世界では普通のことが嫌だと、前の世界での記憶があることなんて言ったら。

そんなことを言えば、みんなから変な目で見られることは分かり切っていた。

だって、みんなは最初から、この世界の住人じゃない。

だから、私の苦しみなんて、分かるはずがない。理解できるはずがない。

私は笑われながら、そう思っていた。

みんなを見下していた。


そう、見下していたのだ。


初めて気付いた事実に、興奮がサッと冷めた。

驚いている彼らから、顔を逸らす。

自分の中にこんな感情が潜んでいたなんて。

今まで気づきもしなかった最低な自分に驚く。

そして暴露してしまった自身の感情と居心地の悪さによって強くなっていく、逃げ出したい衝動が私を誘惑し、息が浅くなる。

そして私はその衝動に押されるまま。都合の悪い時逃げるのは、きっと性分なのだろう。

その場から駆け出した。


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