悲鳴
朝、朝日が部屋に差し込む中で、私は久しぶりに胃もたれというものに苦しめられることになった。
昨日から引き続く不調にうんざりしながら腹を摩り、溜息を吐く。
のそりと起き上がると、胃の中までぐるりと動く気がした。
辛い。
寝不足もあり、きっとジンの試合を見に行くほどの元気は今の私にはないだろう。
私はますます自分にうんざりしながらも、寝間着から着替えることにした。
私が宿屋で休むことを言ったらジェーンは目を真ん丸にして驚いた。
その右手に持っているフォークの先には目玉焼きがぶらさがっている。
それを見ただけで、なけなしの食欲も消えていった。
ジェーンは「どうして」と尋ねる。
私は腹を摩りながら、「胃もたれ」と簡潔に答えた。
できたら、今すぐにでも部屋に戻って休みたい気分だ。
私がそう言うと、「ふうん」と頷き、珍しいものを見るかのような目つきで私を見る。
そして「部屋に戻れば?」と言ってきた。
「余裕が出てきたら見に来ればいいし。早く治せよ」
不思議なことにジェーンの言葉が今までになく、優しく感じられる。
天変地異の前触れか。
急に大人びて見えたジェーンに若干の感動と涙腺の緩みを感じながら、ありがたく戻ることにした。
きっと、ジンの試合には行けないだろうから、詳しくはまたあとで聞こう。
そう思いながら、私はベッドに横たわった。
意外と、一休みしたら動き回れる程度に回復した。
思っていたよりあっけなくて、あれ?と驚くが、ありがたいことに変わりはない。
時間は昼。
まだ、ジンは出ていないだろうか。
そんなことをぼんやり考えるが、やはり闘技場まで行く元気はなかった。
なぜなら、あんなに人がいる場所に行けば、確実に迷うからだ。
それで後で馬鹿にされるのも癪である。
まあいいや、どうせ、後で詳しく聞けばいいと思っていたし、と思い直す。
それにどちらかといえば街の探索の方がずっと好きだ。
街の中ならアリッシアと何度も来たことがあるし、迷子になることもない。
ジンたちには悪いけれど気晴らしも兼ねて、私は街の中を歩くことにした。
闘技大会の最中といえど、街の中はそれなりに人で溢れていた。
私たちの街にはない華やかさと活気に、気分が高揚する。
気持ち悪さも消えて、私は気分よくいくつかの店を巡る。
そして最後には、街の端っこにある広場まで来てしまった。
この広場では馬車の乗り換えや、たまに市が開かれているときがある。
市場は私たちが来た時からずっと、人で溢れていた。
その中を歩きながら、露店を見て回った。
一通り見た後には、足がすっかり疲れてしまっていた。
どこかで休みたいと視線をめぐらすが、やっと見つけたベンチもこれだけの人がいれば席が埋まっている。
私は小さく息を吐きながら仕方ないと、近くにあった馬車に寄り掛かることにした。
これくらいなら許してくれるだろう、と操縦台の近くにもたれかかる。
馬の操縦席には、誰も座っていなかった。
馬車を挟んだ反対側から聞こえてくる声の主が、きっとこの馬車の持ち主だろう。
彼が乗ってきたら離れればいいか、と能天気なことを考えて、空を見上げた。
空は白い雲が二つほど浮いているだけで、きれいなコバルトブルーが広がっている。
まさに、試合日和と言えよう。
ジンは、頑張っているだろうか。
そう思いふけっていたら、隣で操縦席に登る固い音と振動が伝わってきた。
驚いてそちらを向けば、小さな男の子が、10歳くらいだろうか、すいすいと操縦席に登って、座ってしまった。
それを見て、いいのだろうか、と不安になりながら、嬉しそうな彼を呆然と見つめる。
でも、これぐらい歳なら好奇心旺盛で、仕方ないかもしれない。
なんて、よく分からない納得をしかけていたところで、彼が持っているものに、釘付けになった。
鞭。
それで馬を叩けば走り出すことぐらい、私だって知っていた。
けれど、それを持っている人が、問題だった。
持っているのは、好奇心旺盛そうな10歳ほどの男の子で、このぐらいの歳の子はろくに考えず、すぐ無謀なことをしたがるから、
ほら、そうやって、不用心に鞭を振り上げて。
私はそれを見た瞬間、息をするのも忘れて彼を止めようと、操縦席に登ろうとした。
が、それより早く黒い鞭が、無情にも馬のつやつやとした毛並に当たって、バチンと音がした。
ああ。遅かった。
そう思うと同時に、馬の興奮した鳴き声が響く。
そして、馬が走り出す直前に、私は操縦台に飛び乗った。




