三 泡沫の日々
この数日、アレスはこれまでよりもずっと息が出来ているような心地だった。
教育改革が為されてから、ずっと細い鋼線で首を締められているような気分で生きていた。その鋼線が、ようやくどこかへ消えてくれたらしい。あの倉庫の温かな灯りが、それを溶かしてくれたようだった。
学び舎からの帰り道、夕暮れの生温い風を全身で浴びながら、アレスは常のように裏路地に踏み出した。
「あれ、今日も来たんだねアレス」
「アルバートさん」
アレスを迎え入れたのは、アルバート・ブリッツだった。かつてのマグナ=ロンド陸軍第一師団第二突撃兵連隊副隊長だった男である。
アルバートは蜂蜜のような目をゆるりと細め、アレスを招き入れるように倉庫の扉を開いた。
「元気かい? 学校の勉強もちゃんとしてる?」
「……」
「ふふ、学校の勉強は嫌いなんだね」
「面白くないから」
「学んだことはいつか何かに役立つ物だよ。今はつまらなくてもいずれ何かに使えるかもしれないから、ちゃんと勉強しておきなさい」
「…………はい」
「釈然としない顔。まあ、君はまだ子どもだから、ピンとこないんだろうね」
「アルバートさんもファイさんとかと比べれば歳下」
「そうだけど、君よりは年上だよ。それに僕はもう働いているからね、君より大人なのさ」
「……」
「さて、宿題でも出てるんじゃないかい? 見てあげようか」
「……うん」
アレスは倉庫へと踏み入って、廃材で組み立てられたカウンターの席に腰を下ろした。アルバートはカウンターの向こう側へ入り、リンゴジュースを注いでアレスへと差し出した。
甘い香りに浸りながら、アレスはカバンから学び舎の教材をいくつか引っ張り出す。アレスにとっては面白みのない、道徳教育とか呼ばれる授業の教材である。
「今日の宿題はどんなの?」
「……これ」
「うん? ……ああ、この時の主人公の気持ちを答えなさい、みたいなやつか。君は苦手そうだね」
「実際苦手」
からかうように笑うアルバートに、アレスは憮然とした表情で言い返した。
アレスにとって他人の感情というものは、まったくもって理解できないものだった。さながら鍵のない金庫のようなもの。開くことすらできないそれだ。
そう言われたら、言われた相手がどう思うか考えなさいとか。こう言うということは、相手はきっとこう思っているとか。そんなもの、他人の胸を切り開いて感情とかいう塊を引き摺り出したわけでもないのに分かるわけがない。
ましてや物語の登場人物の感情だなんて。肉のない存在の感情などどう理解するというのか。
「……そうだね、じゃあちょっと練習をしてみようか」
「?」
アルバートはカウンターからカトラリーレストを四つ取り出し、天板の木目に沿うように並べて口を開いた。
「川を挟んで敵対している軍が向き合っている。一方は軍の半分を引き上げ、一方は全軍で敵軍を迎え撃つ形を取った。さて、軍を引き上げた方は何故そんなことをしたのかな」
「……川に橋はある?」
「少し離れた場所にあるよ」
「川の水量は?」
「今のところそこまで多くないけれど、数日前に上流地域で大雨が降っていたね」
「……じゃあ、橋を渡って挟撃しようとしてる、と思う」
「どうして?」
「……上流地域で大雨が降ったのに川の水量が少ないのは、上流のどこかで水が堰き止められたから。いずれ決壊する可能性がある川の近くで長居は危険。だとすれば短期決戦しかない」
「うんうん、続けて」
「にらみ合ってるってことは実力は拮抗してると思った。なら、意表をついた方が勝つ。後ろから奇襲して、少しでも敵を川へ落とせば上々。川が決壊すれば押し流される」
「うんうん」
「だから、挟撃のために軍を引き上げた振りしてる、と、思う」
「うん、正解だよ」
アレスはカトラリーレストを動かしながら話していたが、アルバートのその言葉に手を止めて首を傾げた。
「……正解?」
例え話ではなかったのか? そんな疑問がありありと表情に浮かんでいたのか、アルバートはくすくすと笑いながら頷いた。
「うん。色々訳があって作戦記録には残していないんだけど、これはプルミア川流域であった衝突の話なのさ」
そう言うと、アルバートはカトラリーレストを動かして、指を指しながら説明を始めた。
「こっちの挟撃に出た部隊が僕たちの方。こっちの川向こうにいた部隊が、レーネクロイツの部隊。プルミア川を挟んでにらみ合いになった僕らは、先に動いた方が負けると思ってた」
「……それなのに、動いたの?」
「そうだよ。ファイ隊長の指示でね」
「ファイさんの」
「そう。僕らの部隊で一番そういう戦術に明るかったのが隊長だったからね」
今の雰囲気からはあんまりピンと来ないかもしれないけど、というアルバートの言葉に、アレスはファイの姿を思い浮かべた。
なるほど確かに。アレスがイメージする軍略家は、もっと物静かで淡々と有効な戦術を弾き出すような者だった。ファイはその形とは異なっている。もっと粗野で、口調も荒く、どちらかというと最前線で戦い抜くタイプに見える。
「俺の話か」
ぎしりと、床板を踏みしめる軋んだ音と共に低い声が飛んできた。鉄錆と油の匂いがふわりと香る中、アレスはゆっくり振り返った。
「隊長」
「ファイさん」
「アル、何度も言ってるが隊長はよせ。もう俺は隊長じゃねえよ」
ファイはアレスが初めて会った時と違い、整備士の服を身に纏っていた。しかめっ面のまま、面倒くさそうにため息を吐きながら、アレスの隣の席へと腰を下ろした。
アルバートはにこにこと笑いながら、ファイにウイスキーを注いだショットグラスを差し出した。
「僕らからすれば、あなたはいつまでも隊長ですから」
「そうかよ……。好きにしろ」
「ファイさん、軍師だったの?」
「違ぇよ。適当言ったことが運良く上手く行っただけだ。第一、プルミア川の一件は結果的に効果的だっただけだしな」
「結果的に?」
「普通に考えろ、氾濫しかけの河川流域に長々留まるなんざ命を捨てるようなもんだ。さっさと避難して別ルートから攻勢かけねぇと命が足りん。記録に残さなかったのも、お上からの叱責から逃げるためだ」
「じゃあ、どうしてそうしたの?」
「その方が話が早そうだったから」
「話……」
アレスは首を傾げてファイを見た。ファイは欠伸を噛み殺しながら、応、と返事を返した。
「戦線が停滞してたからな、消耗戦を続けるよりは多少無理にでも戦果を挙げなきゃならん。プルミア川の作戦で、とは報告しなかったが、周辺にいた部隊を殲滅した扱いで戦果として報告したんだよ」
「あの頃は戦果報告もかなり粗雑になっていたからできたことだね。あちらこちらで戦闘が起きてたから、丁寧な戦果報告なんてできなくて」
「だがま、あの戦闘以降レーネクロイツとの戦線はかなりこっち優位に傾いた。……ラグフェイスが来なけりゃな」
「まあまあ、致し方ありませんよ。レーネクロイツの地下資源は貴重ですから、万に一つもあってはなりませんし」
「ま、それもそうだな。今になってぐちぐち言ったところで意味もねぇ」
二人の間でぽんぽんと交わされる会話を聞いて、アレスは少し考えこんだ。
どうしてファイは危険を犯したのか。ファイが言うことには、その答えは「戦線が停滞していたから」だった。では、戦線が停滞していたからと言って危険を犯したのは何故なのか。
アルバートがこの話をしてくれたのは、アレスにそれを考えさせるためなのではないか。少なくともアレスはそう理解した。
「……戦力消耗を避けるため、軍上層部を動かすため。……?」
「どうした」
「んん……。……よく分からない」
「そうだろうね。だって隊長、あの時あまり深く考えてなかったもの」
「え?」
「……アル」
「隊長が危険を犯してでも動いた理由はね、面倒だったからだよ」
「……面倒?」
アレスは首を傾げた。面倒だから軍を動かすとはどういうことなのだろう。
「アル、人を面倒くさがり屋扱いしてんじゃねえ」
「事実じゃないですか」
「お前な……」
「面倒、で、軍を動かした?」
「あー……。まあ、そうだな」
「停滞した戦線を動かすために?」
「おう」
「…………?」
「ふふ、不思議そうな顔。あのねアレス」
「……うん?」
「人の気持ちは、その人にしか分からないものだよ。だから、無理に理解しようとする必要はない。でも、人から見てどう見えるのかっていうことは考えてみると良いかもね」
「……人から見て」
「そう。あの時の隊長の行動は、結果として戦況が好転したから良い判断だったと認識された。きっと頭の固い上層部の判断を待つより、独断で動いて叱責を受けた方が良いと判断したのだろう、なんてね」
アレスは首を傾げつつも、なるほどと頷いた。
アレスにとって人の感情というものはいまいちよく分からないものだ。だが、他者から見てどう見えるかという視点であれば、多少は理解できるかもしれない。
例え話として挙げられたファイの行いは、アレスから見れば戦力消耗を回避するための行いに見える。もしかすると、ファイの部下たちからすれば別の見え方になるかもしれない。
「どうかなアレス? 人の気持ちの考え方、何となく分かった?」
「……何となく」
「それなら良かった。じゃあ、宿題やろうか」
「……うん」
ほんの僅かに面倒くさそうな表情を浮かべて、アレスはそうアルバートに答えた。




