深海で、私は匂いに導かれた
気がつくと、私は花畑の縁に立っていた。
一歩踏み出せば、そのまま飲み込まれてしまいそうなほど、光は果てしなく広がっていた。
深海にこれほどの広がりがあることを、私は知らなかったはずなのに、なぜか息を呑むことも、声を上げることもできなかった。
ただ、視界いっぱいに続く光の群れを、黙って見ていた。
ほとんどの花は、同じ形をしていた。
細長い花弁が幾重にも重なり、中心から外へ向かって静かに開いている。
大きさにばらつきはあったが、輪郭や構造は驚くほど均一で、発する光の質も似通っていた。
淡い光が幾層にも重なり合い、遠目にはひとつの巨大な塊のように見える。
しばらく見ているうちに、私はある事実に気づいた。
同じだと思っていた花の中に、わずかに違うものが混じっている。
色の濃淡。
光の揺らぎ。
近づいたときに感じる、言葉にできない匂いの差。
違いは小さく、はっきりと指させるほどではない。それでも、私はそれを「違う」と認識していた。
なぜ、そう分かるのかは分からなかった。
それがいつの記憶に由来する感覚なのかも、思い出せなかった。
同じだと思ったものが、同じではなかった。
それだけのことなのに、胸の奥がざわついた。
私はずっと、同じものの中に身を置いてきた気がする。
同じであることが、安全であると、どこかで信じていたのかもしれない。
花畑の奥に、少しだけ間隔が空いた場所があった。
群生の密度が、そこでふっと緩んでいる。
同じ形の花は続いているのに、配置だけが意図的に乱されたように、間隔を空けて並んでいた。
さらにその先に、ぽつんと一輪だけ、他とは距離を取って咲いている花があった。
周囲の光を拒むでもなく、溶け合うでもなく、ただそこに留まっているように見える。
それは、目立つ色ではなかった。
光も弱く、派手さはない。
それなのに、その花の周囲だけ、深海の闇がわずかに濃く見えた。
色は沈んでいるのではなく、奥へと沈み込んでいるようで、視線を向けるほどに深さを増していく。
名前を探そうとした瞬間、言葉が途中でほどけた。
その色は、呼ばれることを拒んでいた。
視線を逸らそうとした瞬間、意識だけがそこに縫い留められた。
群生の中にいる方が、きっと安全だ。そう分かっているのに、意識は外れた一輪に静かに引き寄せられていった。
近づけば、何かが変わる気がした。それは出来事というより、在り方そのものが書き換えられる予感に近い。
良いか悪いかという判断は、その先でしか意味を持たない。
変わるのは、状況ではなく、私自身なのかもしれないと、なぜか思えた。
私は、しばらくその場に立ち尽くしたまま、動けずにいた。
それでも、引き戻そうとする理性が先に擦り切れ、耐えきれずに一歩を踏み出していた。
群生の光を背に、気づけば距離は、確かに縮まり始めていた。




