ゾラとヴェリト
ミラとグリは、がらんとした廊下を走り抜けて、木造の扉を開いた。
そこは、小さな子どもたちの笑い声が聞こえていたはずの孤児院だった。 だが、今は空気が張り詰めていた。
外の騒ぎ——爆音と風の唸りが、建物の奥にまで響いている。
「ここに……ひとが、いるの……?」
グリがミラの代わりに「ここに……ひとが、いるの……?」と口にしたその時、奥の部屋から足音が近づいてきた。
ギィ……と扉が開き、姿を見せたのは、一人の女性だった。
長く伸びた銀の髪を後ろでまとめ、鋭い眼光を持つその女性は、重そうな車いすに腰かけていた。
左目には包帯が巻かれており、右目だけがこちらを見据えている。
「……騒がしいと思ったら、来たのね……魔人が。」
グリが代わりに「……おとうさんが……たたかってる……」と口にした。ミラは不安そうに頷いた。
「……おとうさんが……たたかってる……」
レオナはその言葉に、静かに目を細めた。
「そう……ザイドの娘、なのね。あなた。」
ミラは驚いたようにグリを見つめ、グリが「……おとうさん、しってるの……?」と代弁した。
「……おとうさん、しってるの……?」
「ええ。かつては敵として……でも、何度か剣を交えたから、忘れもしないわ。」
レオナはミラとグリに近づき、穏やかに手を差し出す。
「私はレオナ。……かつて、六騎士と呼ばれていた者よ。でも……今は、戦えない。」
その目には、悔しさとも哀しさとも取れる色があった。
「片目を失い、足も動かない……私には、もうできることは少ないの。」
だがその声には、まだ剣のような鋭さが残っていた。
「だからこそ、あなたたちを守る場所くらいにはなれるわ。中へ入りなさい。ここは、あなたたちの避難所よ。」
ミラは涙を浮かべながら、グリに何かを囁くように口を動かす。するとグリが「……ありがとう……」と代弁し、ミラと共に深く頭を下げた。
「……ありがとう……」
森の奥、孤児院から少し離れた場所で、瘴気が激しく渦を巻いていた。
ゾラは大剣を構え、ヴェリトの繰り出す無数の糸を斬り払っていた。
「ハッ……まだ動けるようだな、裏切り者。」
ヴェリトの六本の腕から放たれる黒糸は、まるで生きているかのようにうねり、空間を切り裂いて迫ってくる。
ゾラはそれらを紙一重で避けながら、一太刀、また一太刀と反撃を繰り出す。
「お前の罠で、俺たちは壊された。ザイドも、フィオナも、レオナも……お前さえいなければ——!」
「フフフ、まだそんな幻想にすがるか? あの程度の“騎士団”など、王の前では塵に等しかったのだよ。」
ヴェリトは宙を舞い、幻糸の網を展開する。その範囲は広大で、森の木々すら捕らえ、粉砕していく。
「この空間はすでに私の領域……逃げ場などない。」
ゾラの視界が次第に歪む。
ヴェリトの得意とする“幻覚”が、静かに彼の精神を侵していた。
聞こえるはずのない声、見えるはずのない景色。 己の過去、罪、仲間の死……そのすべてが、脳裏を焼く。
「ぐっ……俺は……!」
苦しみながらも、ゾラは膝をつかなかった。
その拳に宿る黒炎が、周囲の幻をかき消す。
「俺は……もう、迷わない!!」
幻を打ち破り、ゾラがヴェリトの懐に飛び込む!
剣が唸りを上げて振り下ろされる——!
だがその瞬間、ヴェリトの口元が不気味に歪んだ。
「ようやく楽しくなってきたな……ゾラ。」
二人の激突は、さらに激しさを増していく。
ゾラとヴェリトの戦いは、まさに死闘だった。
黒糸が森を裂き、剣閃が空気を震わせる。 互いの肉体は既に限界を超えていた。
ゾラの肩口には深い傷が走り、ヴェリトの胴は裂け、瘴気が漏れ出していた。
「貴様ぁ……!」
「終わりだ、ヴェリト……ッ!!」
二人の攻撃が、最後の一撃として交差する。
ゾラの剣が、ヴェリトの胸を貫き—— 同時に、ヴェリトの糸がゾラの心臓を貫いた。
ズシャァァァンッ!!
重なった衝撃音が森に響き渡り、その場に両者が崩れ落ちた。
「……ぐ、ぅ……見事、だよ……ゾラ……」
ヴェリトの体が、瘴気となって崩れ、やがて風に溶けて消えた。
残されたゾラは、荒い呼吸を繰り返しながら、血に濡れた剣を地に落とした。
(……終わった……のか……?)
視界がぼやけていく。
その中で、ふと浮かんできたのは、ミラの笑顔だった。 グリの羽ばたく姿だった。 焚き火を囲んで、ミラが口を開かずとも一生懸命感情を伝えてくれた、あの夜の静かなひとときだった。
(……ああ……そうか……)
俺は、守れたんだな——
安堵に似た微笑みを浮かべ、ゾラは静かに目を閉じた。
風が森を吹き抜ける中、彼の身体はゆっくりと灰となり、空へと還っていった。
森の静寂が戻っていた。
不気味な瘴気も、空間を引き裂くような圧も、もうどこにもなかった。
孤児院の一室、車椅子に座るレオナは窓の外をじっと見つめていた。 その眼光が緩やかに和らいでいく。
「……終わったわね。」
彼女の言葉に、ミラはグリをぎゅっと抱きしめた。
グリはレオナの言葉をミラに伝えるように、ゆっくりと口を開く。
「ゾラ……しんじゃった、って……」
ミラの目が大きく見開かれた。
次の瞬間、彼女の目から大量の涙があふれ出す。
声は出ない。言葉も発せられない。 けれど、その嗚咽は胸を打つほどに、はっきりと伝わってきた。
ミラはグリに顔を押し付け、肩を震わせて泣き続けた。
グリは黙ってその小さな体に寄り添う。
ミラからこれまでの経緯を聞いたレオナも、そっと目を閉じた。
「……ゾラ。あなたの最後の選択が、誰かを救った。少なくとも、私はそう思いたいわ。」
外には、新たな朝日が差し込もうとしていた。 それが、彼の魂を照らす祈りの光のように思えた。