第2話 集いなさい、敬虔な信徒よ
ある場所では同胞の家畜を解放する為に、シャモアの神獣が農場を襲った。
「待たせたな、我が同胞たちよ。」
「めぇ! めぇ!」
シャモアの神獣が無事帰還すると、家畜たちは彼にすり寄った。
そんな彼らを見て、シャモアの神獣は穏やかに微笑む。同時に目を細め、その奥から義憤を露わにした。
「今まで、お前達を救ってやれなくて、すまなかった」
シャモアの神獣は見ていた。同胞が殺処分される姿を。その殺処分を『魔法の練習』や『必要なこと』などと称して、悦楽に執行する農夫たちを。
許されざる所業である。
「めぇ! めぇ!」
そうやって義憤しているシャモアの神獣に、家畜たちは頭を擦りつける。自分を責めないで、貴方は悪くないと、優しく穏やかに鳴きながら、頭を擦りつけていく。
「こんな我を、慰めてくれるのか」
シャモアの神獣は、家畜たちの慮りに哀然と涙を浮かべた。
「さぁ行こう……なに不自由のない世界を求めて……」
そしてもう一度優しく微笑み、家畜たちを従えて農場から去った。
ある場所では飢餓を凌ぐために、犬の神獣が辺境の街を襲った。
「申し訳、ござい、ません……こんなところで、果て、て、しまって……」
犬の神獣の足元。銀世界の内側——グレイシアの影響がない場所で、余喘をはいていた豹の魔獣が、犬の神獣を見上げながら懺悔した。
「気にするな。お前達三匹の命は、決して無駄にはしない。遺体は持って帰る。安らかに眠ってくれ」
「感謝します。ヘルハウンド様」
犬の神獣は豹の魔獣の顔をぺろりと嘗め、その前足に自身の前足を乗せる。
彼のその行為に豹の魔獣は嬉しそうに笑い、安らかに目を閉じた。
犬の神獣は三匹の豹の魔獣、基、この戦いで死んでいった仲間達を悼み、幽静に黙祷する。
黙祷が終わった数秒後、仲間の魔獣が姿を現し、死んだ魔獣達の遺体を担ぎ上げる。
犬の神獣は、銀世界の中で氷の塊となって死した、アレスの元まで歩き、
「お前らが腹が減った時に、植物や動物を殺して食うように、そしてそれを楽にするために、改良や家畜化するように、俺達もそれをしているにすぎない。そのことをお前ら人類は正当化し、棚に上げている自覚すらもない」
氷を砕き割るように、その頭を前足で叩き潰した。
「これを悪魔と言わず何と言う……その身を以って、知るがいい」
今回はシャモアの神獣と犬の神獣の勝利。
ただそれだけ。
食われる者と食う者。両者が相まみえた時、生き残るのは勝者のみ。そこに正しいか間違いか、善か悪かなど存在しない。
互いが互いの正義を押し通す為に殺し合う。生物である限り、この悪辣な螺旋から逸することは出来ない。
どれだけ装っても、どれだけ修飾しても、中身は醜穢なままである。
あとはそれを、自覚するか否かだろう。
※ ※ ※
燃え盛る人型のなにかが、暗い森の中を照らしながら、どこかへと向かっていた。
その体の線は女性的な滑らかな形ではあるが、それ以外は人とは呼べない火炎に覆われた何かである。
火炎に覆われているのに、どうして無傷でいられるのか。どうして生きていられるのか。どういった原理で、その存在は火炎に覆われているのか。
外見だけで推し量ることは不可能だろう。
とにもかくにも、話の中からそのまま出て来たような、現実ではあり得ない常軌を逸した存在が、そこにいた。
「主よ、新たなる敬虔な信徒を見つけました……神獣です」
その存在は周囲に誰もいないのにも関わらず、倏然と誰かに話しかけるように口を開いた。
当然、独り言ではない。事実、誰かにその存在は話しかけていた。その存在とは、
「そうか。よくやったヘレアス……」
国を跨ぎ、国境よりも遥か先の場所にいる男——敢えて足跡を残した枢機卿ウィジュヌスであった。
彼は執務室で、甘いミルクを嗜んでいるところだった。
「彼らの強さは、如何程のものだった?」
ウィジュヌスは白いカップを机の上に置いて、連絡をとって来た謎の存在——ヘレアスに返事をした。
ウィジュヌスに褒誉されると、ヘレアスの顔を覆っていた炎の勢いが、頻りに強くなる。彼女はその感情——炎の勢いを素早く抑えると、
「神位の魔法は扱えないようです。強さで言えば、神将には及ばないでしょう」
直感を語った。
「ふむ……ヘレアス、彼らをマッドの元へ誘ってくれないか? 力を施し、拙たちの傘下に加える……いい素材だ」
ウィジュヌスはニヤリと窃笑し、椅子の背凭れに凭れ掛かった。
ヘレアスから神将には及ばないと聞いたのにも関わらず、ウィジュヌスが『いい素材』と評したのは、互いにしか分からない何かが、あったからに他ならない。
詳細は言わぬが花だろう。
さて、彼らが何の話をしているのか。それは、農場から家畜たちを救ったシャモアの神獣と、街を壊滅させた犬の神獣についてである。
そして今、ヘレアスが向かっている場所は、神獣たちが向かっている湖——鉢合わせする場所であった。
両者が鉢合わせるよりも先に、その場所へと赴き、共倒れとなる前に傘下に加えるつもりなのである。
「謹んで承ります。つきましては主よ……」
ヘレアスは言葉を続けず、ウィジュヌスからの許可を所期する。
続けないのは、既にウィジュヌスが知っていることもあるが、主の前でそれを口に出すのは、卑しい行為だと弁えているからであった。
ウィジュヌスは机の上に置いたカップを手に取り、それを揺らして、
「分かっている。敬虔な者には、褒美を与えるのがよき主だからね。エンタクと闘う事を、許可しよう……」
中身のミルクを眺めながら、ヘレアスに許可を出した。
ヘレアスとエンタクを戦わせれば、彼女の力量を多少なりとも知れるだろう。一石二鳥である。
「ありがたき幸せ! 異端の断滅、とても心が躍ります!!」
ウィジュヌスから期待通りの言葉が返って来たのだろう。ヘレアスを覆っていた火炎の勢いが、また赫奕する。火の粉が周囲に飛び散り、それが周辺にあった樹々に降り注がれていく。
彼女が走った後の森は、火の海となった。
数十分後、鉢合わせる場所で待機していたヘレアスの元に、仲間を従えた二匹の神獣が姿を現した。
「汝等は誰だ?」
火炎に覆われている、常軌を逸したヘレアスと、黒色の魔獣の集団。シャモアの神獣は従えている家畜たちを後退させ、一歩前に出る。
「お前こそ、誰なんだ?」
犬の神獣は垂涎しながら、シャモアの神獣に向かって問い返す。
その視線はシャモアの神獣ではなく、彼の後ろにいる家畜たちに向いていた。犬の神獣だけでなく、彼に従っている魔獣達の視線も、家畜たちに向いていた。
暁闇。朝食にしては少し早いが、食ってしまうのも悪くはない。数日間に分けて食えば、長い間は飢えを凌げるだろう。
犬の神獣はそう画策する。
彼らの垂涎の視線に気付いたシャモアの神獣は、体勢を低くして睨みを利かせる。
先ずはこの火炎の女よりも、眼前に居る神獣を始末しなければ。同胞の命が危険だ。シャモアの神獣はそう厳戒する。
シャモアの神獣と犬の神獣が睨み合う。足を広げて、体勢を低くする両者。土が擦れ、じりりと音が鳴る。
「敵意を抑えるのです。敬虔な信徒よ……」
その時、両者の間に炎の壁が駆け抜けた。
ただ見ているだけだったヘレアスが行ったのである。
「私はヘレアス。乖乱を招かねない異端、それを滅ぼすべく、死後、主から肉体を与えられた魔人です。貴方方の名前を、お伺いしても?」
ヘレアスは少しの怒り——抑えきれない内憤を孕ませながら、シャモアの神獣と犬の神獣の名前を問うた。
シャモアの神獣と犬の神獣は炎の壁の勢い——ヘレアスの行動に怯臆し、額から汗を垂らす。
そして、後ろに居る仲間を一瞥して『この女、見かけ通り強い。今は従うべきか……』と、心中で述懐した。
二匹の神獣には仲間がいる。両者とも迂闊に行動することは出来ない。
「我の名はズラトロク」「俺の名前はヘルハウンドだ」
「ズラトロクにヘルハウンド。これからは、貴方方を敬虔な信徒と呼名します。私の話を敬聴しなさい……」
ヘレアスは右掌をシャモアの神獣——ズラトロクに。左掌を犬の神獣——ヘルハウンドに向け、そう言ってみせる。
ズラトロクとヘルハウンドは、ヘレアスの唐突で訳が分からない発言に「敬虔な、信徒……?」と、目を細めて訝しんだ。
魔人である時点で、人類側に与する者ではない。そして主という発言。ヘレアスという魔人の女を——人類にとって魔の者を、入信させる宗教となれば。
——人類に仇なす邪教辺りだろう……
ズラトロクとヘルハウンドはそう断定した。
恐らく教祖から、自分達を勧誘してこいなどと命令されたのだ。
「えぇ、そうです。敬虔な信徒よ……我が主の傘下に加わりなさい。その代わり、今、貴方方が思い描いている理想を、実現させてみせましょう」
「眉唾だな」
「けっ! 信じられっかよ!」
ヘレアスの常套句——詭謀と言ってもいい程の綺麗な話に、ズラトロクとヘルハウンドは鼻で笑った。笑うしかない。
理想や幸せなどの言葉を具体的ではなく、抽象的に話して勧誘しようとするところが、如何にも邪教らしい。
だが、ヘレアスは嘲笑に一切の感情を見せず、ただズラトロクの方を見て、
「ではズラトロク、貴方には、貴方とその同胞が何不自由なく暮らせる、安全な場所を……」
あたかも心の中を覗き込んだかのように、求めている願いを言い当ててみせた。ズラトロクは焦りながら「何故そのことを?」と問い詰めるが、ヘレアスはそれを無視して、今度はヘルハウンドの方を見る。
そして、
「ヘルハウンド、貴方には貴方とその同胞が飢えることのない、食料を……えぇ、分かっています。狩りをする為の場所も、人肉も、時には提供しましょう」
またも求めている願いを言い当ててみせた。
「なんで、俺達の望みまで知ってやがるんだ?」
今度はヘルハウンドがヘレアスを恟然と問い詰める。
魔人だが、人類側に与しているのか。与していたとして、どうして攻撃を仕掛けて来ないのか。何のために、傘下に加えようとしているのか。国の戦力増強か、それとも恫喝の類か。
どれも腑に落ちない。
——ただ、
ズラトロクは、ヘルハウンドの動揺の仕方を見て。ヘルハウンドは、ズラトロクの動揺の仕方を見て思った。
——少なくとも、両者が手を組んでいる訳ではなさそうだ。
「私が敬虔な信徒の望みを知っている理由は、主が私に与えて下さった、能力があるからです……何と言いましたか、あぁそう! 傑出能力です! 天啓、それで知ったのです」
ヘレアスは「問いに答えましょう」と前置きをした後、望みを知っていた理由を詳述した。更に、
「敬虔な信徒よ。主の傘下に加わるのなら、環境だけでなく、貴方方が欲している力も授与しましょう。主は貴方方を欲しています。その献身的な精神と、類まれない力を……」
環境以上に一番欲しかったものを授けてくれると、言ってみせた。
彼らの答えは——、
※ ※ ※
枢機卿ウィジュヌスが直轄する、とある研究施設。そこは外界からは隔絶され、一般市民の目には入ることのない、アルヒスト西部の隠れた場所にあった。
その研究施設では合法、非合法問わず、様々な実験が行われていた。
合法——例えば、動物や魔獣及び、人権を剥奪された悪辣なる犯罪者による実験。
非合法——例えば、攫った人類による実験。また実験に使う被験者を、科学上の利用に役立てる実験に使わなかったり、実験に使う被験者の数を減らさなかったり、実験で被験者に苦痛を与えない為の配慮を怠ったり、などだ。
ともかく、公になれば傾頽が必至の研究施設ということだ。
「あ? 転移か?」
地面に埋められた光の魔刻石が光り、蒼茫たる室内が照らされた。
その部屋の奥で朝食をとっていた白髪の男。長髪で眼鏡を掛け、目の下に大きな隈を残した、見た目は二十代後半の男だ。
「また、ウィジュヌス様から被験者でも送られてきたの……って、なんだお前かよ」
男は光と謎の音に気付くと、椅子から立ってドアを開け、転移してきた相手に文句を言い放った。
「なんだとは何ですか? マッド……私がこの研究施設・フェアシュテッケンに来ることに、何か不都合でも?」
転移で研究施設に来たのは、ズラトロクとヘルハウンドだけを連れたヘレアスであった。
彼女は燃えず熱を通しにくい素材を身に纏っていた。理由は至極単純、自身の身体を覆っている火炎で火災を起こさない為だ。
「お前の存在自体が煩わしいこと以外は、何も不都合はないよ……」
とはいっても、ヘレアスがその場にいるだけで室内は暑くなる。
暖流と偏西風のお陰で、アルヒスト西部は年中暖かくて過ごしやすいのに、ヘレアスの所為で酷暑を強いられるのは、白髪の男——マッドにとっては煩わしさしかなかった。
「煩わしい。私のどこが煩わしいと?」
「その体質と、そういうとこだよ」
少し怒った声色で問い詰めてくるヘレアスに、マッドは煩わしい表情を深くして答える。
身体を覆っている火炎の所為で、顔が見えないヘレアスの感情は察しがたい。
声色や覆われている火炎で察しなければならないのは、本当に不便だ。ウィジュヌスの苦労が理解できてしまうというもの。
マッドはため息を吐いた。
「そういうとことは? 余りにも抽象的過ぎる発言、理解しがたいものがあります。しっかりとした説明を……」
「母親みたいなことを、いちいち言って来るな!」
具体的な答えを求めて来るヘレアスに、マッドは我慢できなくなって激昂する。その彼に、ヘレアスは心底嫌悪したような声色で「母親? 気味の悪いことを言わないでください」と、言い返した。
火炎で覆われていなければ、鳥肌が立った肌と嫌悪を湛えた顔が見えただろう。
「私は、貴方の不誠実なところを指摘——」
「あぁ! 無駄話はもういい!! ウィジュヌス様に頼まれてここに来たんだろ!? さっさと用件を話せ!」
更に続けようとしたヘレアスの言葉を遮り、マッドは研究施設に訪れた趣旨を問う。
「はぁ、貴方のその性格には心底呆れますが、主の頼みを後回しにするのは愚か。水に流すとしましょう」
マッドの促促たる言葉に、ヘレアスはため息を吐き返しつつも、知的なイメージ通りの冷静な態度で怒りを抑える。
それから斜め後ろに退きながら、右手を後方に向けると、
「それではマッド、ウィジュヌス様が貴方に頼んだ用件は……彼らを即席で強化してほしい、ということです。ウィジュヌス様は彼らを、傘下に加えるおつもりです」
ズラトロクとヘルハウンドを紹介した。
二匹の神獣を物珍しそうな目で見るマッド。
それもそのはず。神獣が被験者として送られてくることなど、彼の人生では初めてのことだったからだ。
「ふむ……見た感じ、ウィジュヌス様が選んだ、新たな沙門かな?」
「敬虔な信徒ですよ。マッド」
「ウィジュヌス様の傘下なら、沙門だろ?」
「いいえ、敬虔な信徒ですマッド」
沙門か敬虔な信徒。たかが呼び方一つで、言い合いになってしまうヘレアスとマッド。
その様を、ただ黙って見せられているズラトロクとヘルハウンドは、辟易の感情を顔に表した。仲間を待たせている二匹にとっては、長引くのは煩瑣でしかない。
「あぁはいはい! 分かった分かった! 敬虔な信徒でいいよもう! 僕にとっては、どっちも似たようなものだ」
信仰心が強くなると、呼び方一つでさえ口出ししてくるとは。どうでもいいやり取りで鬱憤が貯まってしまったマッドは、これ以上イライラしたくないと言い争いから退いた。
相手をしてしまった自分が馬鹿だった、という呆れの気持ちが、彼の胸間に溢れる。
「そうやってすぐ等閑にする癖、一体いつになったら——」
「悪いが、さっさと話しを進めてくれないか。仲間達が待ってるんだ。俺達はこれから、何をされるんだ」
マッドの殊更な態度に、ヘレアスは誠実さが無いと注意しようとした時、ヘルハウンドが言葉尻に割って入って来た。
彼に続いてズラトロクも「我も、それに関する答えが聞きたい。答えてもらおうか」と、答えを催促する。
ウィジュヌスの傘下であるはずの二人ではなく、ズラトロクとヘルハウンドが本題を急かすという失態。
欽仰しているウィジュヌスからの頼み。それを遅らせてしまったヘレアスは「申し訳ございません」と頭を下げ、マッドは瞑目して無言になった。
「マッド。説明を……」
ヘレアスにそう言われたマッドは「すまなかった」と謝り、
「君達にこれからするのは、さっきも言った通り即席の強化だ。僕が作った、肉体を変化、および恒久的に堅牢にする薬を、君達に投与するんだ」
そう説明しながら、違う部屋に繋がる扉の方へと歩いて行く。
——視点はズラトロクとヘルハウンドに遷移する。
「薬か……そんなものを使わなくても、我は強くなれる」
「あぁ、一気に胡散臭くなったな……やっぱ帰るか」
ぽつりとぼやいたズラトロクとヘルハウンド。薬という単語を聞いた途端、眉を顰め警戒心を強める。薬を投与して、自分達を思うがままに操る線も否めない。そう考えたわけだ。
その二匹の言及に、マッドは扉を開けようとした手を止め「おっと、心外だな」と振り返った。
彼は壁に掛けてあった装飾品——明らかに実用的ではない大きな鉄製の盾を手に取り、
「僕の作った薬は完成度が高いんだけどね。といっても、君達には理解しがたいだろうから、元被験者である僕から、薬を投与するとどうなるのか。訓蒙してあげよう」
それを床に立てにして置く。そして「さて……」と前置きの言葉を呟き、右手を軽く上げて「んん!」と、力んだ。
その瞬間、マッドの肩から腕にかけての筋肉が肥大し、指が異様に伸びる。更に、伸びた指の先端から鋭利な鉤爪が浮き出てきた。
「なにが……」「…………」
ヘルハウンドとズラトロクは、その変容を固唾をのんで瞻視する。
——マッドの右腕は、人ならざる異形のものへとなり果てた。
それは、形容し難い気持ち悪さを覚える変容であった。
「……ふッ!」
マッドはその右腕を以てして、鉄の盾を両断——ではない。
「「!?!?」」
轟音。
ズラトロクとヘルハウンドはマッドが行った出来事を見て、目を見開いた。
「驚いたかい?」
二匹を横目で見ながら、ニヤリと笑うマッド。
彼は触れた部分全てを、紙を切り裂くように粉微塵にしてみせたのだ。
痩せていて全く覇気がなく、突出した魔法の才がある訳でもない。凡才で強さの『つの字』も感じられない凡夫がだ。
「筋力を向上させるとともに、自分の肉体を変化させることで、自分の腕を、鉄をも両断する武器へと至らせた。土魔法師でもなく、人間で運動も得意じゃない、ひ弱な僕がだ」
右手を元の人間のものに戻すと、マッドは垂れ流れた体液と血液をハンカチで拭き取り、深呼吸をして息を整えた。
鉄の盾を、ただ一振りで粉微塵にしたという事実。
それは即席の強化で得られるとは到底思えない、良質な薬であるという証左であった。
ただ一つ、懸念点があるとすれば、
「……副作用はどうなのだ?」
「それは気になることだな……」
薬を投与したことによる副作用だろう。
斯様な力を即席で手に入れられるとなれば、何かしらの副作用があると思うのはごく自然である。それも酷悪な類の副作用が。
マッドは訊いてきた二匹に向かって、小さく「ふ」と笑った。それから、こう続ける。
「副作用は投与した時におこる、途轍もない痛痒だ。たぶん、というか昏倒するぐらいの痛痒だよ。薬の適合に失敗すると死んだり、理性を失って暴走したりしちゃうけど、心配は無用。成功率はなんと! 驚愕の99%超え!! ここまで多くの生物を使って改良したから、間違いはない」
君達の憂惧は取り越し苦労だと。
副作用を訊いて来るということは、投与する気が湧いてきたということだ。
二匹の心境の変化に、マッドは追い打ちをかけるように両手を大きく広げて、
「そして、この薬の魅力的な部分は、肉体を変化できることだ! 例えば、多少の傷ならすぐ完治できるし、大抵の病気も治癒魔法無しで完治できる! なにより、今後新たに作られるであろう薬を投与しても、何の問題もなく適合ができるんだ!!」
目を瞑って高らかに宣言した。
それはまるで、自身が作った薬の完成度に——才能に陶然と酔いしれ、自分自身を褒め立てるような表情と動きであった。
「どうだい? 素晴らしいとは思はないかい? 君達にとっては、悪くない話だと思うけどね……実際、興味があったから、僕達の誘いに乗った訳だし」
マッドは両眼を細く開け、真摯っぽくお辞儀。ズラトロクとヘルハウンドを見据えた。
そうだ。彼らはヘレアスの誘いに乗ったのだ。
——時間は少し前に巻き戻る。
「ありがたい申し出ではある」
「力は欲しい。そういった環境も貰えるのなら、いらないと言うのは噓になる」
ズラトロクとヘルハウンドは、ヘレアスからの誘いに肯定的な所感を述べた。だが二匹の表情は、その肯定的な言葉とは真逆の否定的なものと言え、
「だが、我は神獣」「お前らは人類だ」
「一時の共闘はできる」「だが、所詮一時……」
——彼らの答えは、
「後に殺し合うことは変わりない」「ならば、傘下に加わったところで状況は変わらない」
「「それは無理な話というもの」」
——否であった。
ズラトロクとヘルハウンドが求めているのは、ヘレアスが言った環境で間違いない。力も仲間達を守る為に必要不可欠なピースだ。
しかし、それでもズラトロクとヘルハウンドは断った。
何故なら、両者は食い食われる立場であるからだ。
人類に仇をなす組織だったとしても、結局、両者は食い食われるという立場であることに変わりはない。
利害が一致するのは途中まで。それ以降は決して交わらず、互いの目的の為に殺し合うが定め。
何を言っても、どれだけ着飾っても、甘言、巧言を弄したとしても、全ては上っ面な誤魔化しである。
「ふむ、確かに一理あります。いいえ、それ以上と言えましょうか……これは、困りました」
ヘレアスは二匹の正論に困り果ててしまった。
だが、実際は両者ともヘレアスの誘いに乗って、マッドの研究施設に訪れている。
彼らの答えを真逆にしてみせたのは、果たして誰か。
『全くその通りだ。何一つ間違ったことは言っていない……』
それは紛れもない、彼らを傘下に加えようとしているウィジュヌスであった。
遠方にいるウィジュヌスは、顔を愉色に染めて『間違ったことはね』と呟く。
『ヘレアス、これからは拙の言葉を以て、彼らを勧誘しよう……拙の言葉を、そのまま口伝してくれないか?』
「承知いたしました。主よ……」
ヘレアスは何もない方向——ウィジュヌスの居る方向に、深々と跪く。
『すまないね。手間をかけさせてしまって……』
ウィジュヌスの思いやる言葉にヘレアスは興奮して、覆っている火炎の勢いを隆昌させてしまう。
その俄な行動に、ズラトロクとヘルハウンドは疑問符を浮かべる。が、ヘレアスは彼らを意に介さず「いえ、決してそんなことなど……」と、火炎の勢いを抑えた。
そして、
「敬虔な信徒よ。今から主の御言葉を、私がそのまま口伝します。敬聴しなさい」
泰然とした口調と態度で二匹を見た。
「君達の言っていることは間違いではない……」
『我々は人類、そして君達は魔獣や神獣。食い食われる者。交わることは無い者同士だ。とはいえ、現状君達は圧倒的劣勢。強くなるための訓練も儘ならないだろう。うまくいっても、神将などに殺されて終わるのが関の山だ。だが、君達が言ったように共闘はできる。同じ目的に向かうまでの共闘は、ね……』
ウィジュヌスは椅子から立ち上がると、閉めていたカーテンを開けて部屋の明かりを消す。
もう朝だ。朝日が昇り室内は眩しい陽光で照らされる。
そろそろ聖務日課を行う為に、準備をしなければならない。
ウィジュヌスはタンスの中に掛けていた緋色のキャソックを羽織り、同色のズケットを被る。
そして、
『それは先刻、否定しただろうって? 単刀直入に言おう……拙たち人類と、君たち魔獣や神獣が、食い食われる者同士が、共に暮らせる世界があるんだ。新世界、あらゆる生物の為の新たなる世界。名は究極の共産主義。そんな世界がね……』
不自然に質感が良い左手だけに白い手袋を付けて、執務室を後にした。
ウィジュヌスの言う究極の共産主義とは、如何なるものなのか。言葉だけを聞けば、子供が口にしそうな聞くに堪えない類のものだ。
だがズラトロクとヘルハウンドは、それが甘言、巧言の類のものではないと明察してしまった。それほどまでに、ウィジュヌスの言葉には自信以上の根拠が、陰日向の境目にあったのだ。
真実は、醜穢な中身を自覚するか否か、だけではなかった。
——時間は元の時間まで早送りされる。
「肉体は、どの程度まで変化させることが出来る?」
「質量を一気に増やしたりするのは無理かな。したら普通に、エネルギーを使いすぎて過労死する」
ズラトロクは一歩前に出て、マッドを鋭い目付きで見て質問する。
マッドは質問に対し、恬然たる口調と仕草で答えた。続けて、
「だから、身体を大きくしたいなら、しっかり食べてしっかり休んで、時間を掛けないといけないかな? まぁ、僕の訓蒙を受けたなら、大きくなることが、必ずしもよいことではないって、分かると思うけどね」
お手上げのポーズで、まさかそんな馬鹿なことは考えてないよねと、見下すような発言をする。
それに関しては大丈夫だ。
「体の一部を触手のような形に変化させ、その先端を固くさせて、武器にすることはできるのだな?」
ズラトロクは攻撃のレパートリーの少なさに、煩わしい思いを強いられていた。
角での刺突に、後ろ足での蹴り。前足での踏みつけに、火魔法による攻撃。対象を嚙砕できるほどの牙が無ければ、切り裂けるほどの先鋭な爪がある訳でもない。
混戦時は苦戦を喫すること間違いなし。
故に楽に敵を蹴散らせる、武器が欲しかったのだ。
欲を言うなら、死角になる尻尾がいい。尻尾に、自在に操れる鋭利な武器を複数生やし、多数を相手取れるようにしたい。
マッドは優然たる声色で「当然」と答えてみせる。
ズラトロクの願いはこれで成就された。
次はヘルハウンドだ。
「単純に身体能力を向上させ、爪や牙を堅く鋭くすることは、できるんだよな?」
ヘルハウンドはズラトロクよりも前に出て、マッドに願いは成就できるのかと問う。
ヘルハウンドは他の魔獣達と違って、身体は小さい方だ。
早い動きが得意なのだが、如何せん身体が小さいゆえに、一撃一撃が決め手に欠ける訳だ。
相手を殺し切れなければ、窮鼠嚙猫と言われるように、道連れを強制させられる可能性は大いにある。
ならばそうならないように、より早くなる為の身体能力の向上。そしてより強い決め手となる、爪や牙を堅く先鋭にしたいのだ。
「当り前さ……だから、即席の強化って言っただろ? さて、薬の投与を受けるか、受けないか、どうする?」
それでもマッドは優然たる態度を変えることなく、可能だと答えてみせた。
「「受けよう」」
即諾だった。
「そうか。ならさっそく受けてもらおう」
マッドは振り返り、背中を見せながら二匹を奥の部屋へと手招きする。
ヘレアスは女性らしく婉麗なお辞儀をして、
「敬虔な信徒よ。その摩頂放踵と言える行動に感謝します。そしてようこそ、新世界へ」
二匹の神獣を快く向かい入れた。
敵の戦力が、より強力なものになってしまった。
社会主義やら共産主義やら、政治イデオロギーに触れたので誤解を生まないように説明します。
この異世界で社会主義は、共産主義の前段階の政治イデオロギーではないです。
異世界では神が過去に存在して、その神の血を引いていることで人類は魔法を扱えるのです。
魔法はとても便利です。そんな便利な力を与えてくれる神は、人々にとって唯一無二の素晴らしい存在な訳です。
そして、神を頂点とする宗教によって出来上がったのが、現在の六か国です。
国の頂点——社会の頂点が神であるから、社会主義なのです。
だから共産主義を実現する為の社会主義では、決してないです。
経済体制は混合経済を想定してます。




