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アンリーズナブル  作者: 犬犬尾
第二章 アルヒスト攻防戦
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第37話 来ちゃダメだ

遅れました。申し訳ない。

——起きろ、リフさん。


『だれ、だ……? 僕を呼ぶのは……』


 身体が動かない。水の中に意識だけが浮かんでいるような感覚。


——今すぐに起きて、帰るんだ。


『帰る? どこに……?』


 どこか聞いたことがある声に、そう問い返す。


——そんなの決まってる、帰る場所は……


 意識が引き上げられる。







 透き通る空。心地が良い暖かい風と、それになびく草原。

 馬のいななきに、定期的に鳴り響く、蹄鉄ていてつが地面にあたる音。そして、賑やかな話し声。


「お前、都に突っ込む前にちびんなよ」


「馬鹿いえ、ガキじゃあるめぇし。てか、ちびるのはどっちかっていうと、お前の方だ!」


「んだと! こないだ婚約を断られて、泣きべそかいてた奴がよく言うぜ!!」


「うるせぇな! 彼女がいねぇお前にだけは言われたくねぇ!!」


 この光景は、若い騎士達と豪族が根城にしている廃都に向かう途中。街道で、彼らの他愛ない会話を聞いていた時のものだ。


 少し前にも、見たことがあるようなデジャヴ。


 身体は動かない。声も、視線さえも動かせない。


 見えている世界は自分——リフ・ゲッケイジである筈なのに、動かすことが出来ない。先程、水の中で意識だけが浮いていたかのように、自分の体の中に、自分の意識だけがあるような感覚である。


 まるで、今後起きるであろう出来事を、黙って見ていろとでも言うように。


「おいお前等! 静かにしろ!! リフさんの前だぞ……」


 後方で騒がしく喋り合う二人の青年に、横に居る青年が後ろを振り向いて注意する。


 久しく聞いたことの無かった、青年の声。彼はフィアンの弟ニック。

 ここにいる若い騎士達と同じく、上級騎士に昇進する豪族鎮圧の任務で、ニックは死んだ。


——僕がいれば、ニック君達は死ななかった。僕が殺したようなものだ。


「は? うるさくねぇってニック! それに、こいつは戦いの前の緊張解しの一環だぜ」


「そうそう、緊張解しの一環一環……」


 ニックに注意された青年が、如何いかにも即興で作ったかのような屁理屈で言い返す。それに続いてもう一人の青年も、うんうんとその屁理屈に便乗する。

 それにしても、即興にしては一理ある屁理屈。確かに騒がしく喋り合うことで、緊張をまぎらせることは出来る。


「なんか、お前が言うと嘘くさく感じる……」


「それは言うなよ馬鹿!」


 確かに、それを言っては、先ほどの屁理屈が本当にその場しのぎの言い訳であったと、言っているようなものだ。

 証拠にニックは「ったく……」と、呆れを声に出す始末である。


「…………」


 その彼らのやり取りを聞いて、意識だけのリフではない、若いリフが微笑した。もし、この場で若い自分の身体を動かせていれば、笑わせる訳がない。笑うことなど出来ない。


 かなうなら、今すぐ撤退命令を出し、神将に鎮圧を要請したい。そうすれば、ニック達は。

 だが、どれも叶わぬ願い。


「リフさんからも、あいつらになんか言ってやってください。全く、緊張感の欠片も無いというか、なんというか……」


 ニックは頭を憮然ぶぜんいて、若いリフに声を掛ける。が、若いリフはまるで妙趣みょうしゅを味わっているように目を瞑って、聞こえていない。

 若いリフは、青年とニックの他愛ない会話を滋味じみしていたのだが、当然、当人のニックには何のことか知る由もない。


 ニックが「リフさん……?」と、もう一度声を掛ける。すると若いリフは「あ、いや」と、目を開けて、


「……緊張しすぎるのもよくない事だ。あれはあれで、本当に緊張解しの一環になっていると思うよ……」


 小さく笑って、青年の悪乗りに乗った。


「リフさんまで……もう」


 ニックはリフの悪乗りに呆れたと、額に手を当て首を横に振るが、その顔は彼と同様に笑みがあった。


「案外、そういうものさ」


「そういうもんっすかね」


 若いリフが「ハハ」と笑うと、ニックも釣られて「ハハ」と笑い返す。

 賑やかな談笑が、街道付近に響く。

 

 クソ。もう一度ニック達に会えて、彼らの談笑を聞けたというのに。

 笑えない。落ち着かない。居心地が悪い。クソクソクソ。どうして、見ることだけしか出来ないのだ。


——踏ん切りを付けるんだリフさん。


『誰だ!?』


 意識だけのリフは、突然聞こえた声に対し叫んだ。だが、意識だけのリフの問いに、声の主が答えることは無い。

 それにいつの間にか、若い自分とニック達の談笑が聞こえなくなった。世界も停止していた。というより、


——身体が、ある……?


 自分の手足——全身を目視。それに動かすことも出来る。


『なんだ!?』


 突如、リフが見ていた世界が、若いリフとニック達が、超速移動するかのように細長くなる。まるで、自分が超速移動しているような錯覚に、リフは手を前に出して、目を細めた。

 そして、細長くなった世界は徐々に元の世界の形に戻り、曇り空の夜——高い壁で囲われた兵站拠点へいたんきょてんへと姿を変えた。


『ここは……』


 覚えている。ここは、廃都に向かう前夜に、泊まった兵站拠点だ。若い自分は、若い騎士達の精神が不安定になるのを予測して、事前に酒とつまみを大量に買っていた。そしてそれをニックに渡して、彼らに間接的に振舞ったのだ。


 時間の加速。ニック達の死が早まってしまった。そして、


——身体が、なくなっている?


 何故か身体が無くなって、また意識だけに戻ってしまったのだ。

 どうして。また過去の光景を見ろというのか。


「ニック君。少しいいかい?」


「はい、どうかしましたか? リフさん」


 若いリフはニックを見つけると、酒樽さかだると布袋が入った荷車をその場に置いて、話しかけた。


 ニックも若い騎士達と同様に寝付けないのか。彼は自分を落ち着かせるように、中央広場で剣を振っていた。何度、剣を振ったのかは、その額から流れ落ちる汗の量を見ればすぐにわかる。


 優秀なニックも戦いを前に、緊張と恐怖を振り払う事が出来ないでいるのだ。


「これを、彼らに……」


 若いリフはニックが近づいてくると、酒樽と布袋が乗った荷車に目線を映し、手を乗せた。


「これって、酒とつまみっすか? それもこんなに」


「うん。中央都を出る前に、こうなるんじゃないかって、買っておいたんだ」


 何が入っているのか、興味ありげな顔で覗き込むニックに、若いリフは誇示こじするように胸を張る。


 リフが指揮するのは小隊。人数はかなり多い。それを全員分となれば、酒の量も多くなるというもの。当然、経費ではなくリフの自腹だ。彼らが上級騎士に上がる前の、前祝いである。

 他にも部隊はいるが、それはリフの管轄外かんかつがいなので、そこの部分は買っていない。


「マンサナ酒、ペリー酒、ミード、それにハチミツを入れたエール。あと、おつまみに、チーズと豚の干し肉。ワインは流石に高いから、買わなかったけど……お酒を飲んで談笑すれば、戦いのことも忘れて、緊張も少しは解れるでしょう。当然ですが、飲み過ぎは注意です。飲んでも二杯まで」


 リフは一つずつ指を差して、ニックに中身の説明をする。


 アルコール度数の高いワインや、本格的な麦酒——エールは買わなかった。彼らがまだ成人して間もないというのもあるが、二日酔いをしては元も子もない。

 それに戦いを前に、ワインやエールは喉を通りにくいだろう。何気ない配慮だ。


 そうやって、気配りのできる上官だと自惚うぬぼれて。もっと事前に、考えておくべきことがあるだろう。


 どうして、この時の自分はここまで落ち着いていられるのだ。今ここで身体を動かすことが出来れば、この眉間まゆあいの延びた奴を、折檻せっかんしてやれるというのに。


 意識だけのリフには、その誇らしげな若い自分が気に食わなかった。


——そんなことはない。この時のリフさんは、この時のリフさんなりに精一杯気を使ってくれた。


——それは疑いようのない事実だ。


『また!? さっきも、一体誰なんだ!?』


 意識だけのリフは、再び聞こえた声に対し叫んだ。だがまたもや、その問に答えが返ってくることは無い。こちらの声が届かず、向こうの声だけは聴こえる。闇魔法ブラインドの逆のような状態だ。


 意識だけのリフは、若い自分の視点を見ざるを得なくなった。


 リフは気付いていなかったが、彼が叫んだ時、若いリフとニックの世界は停止していた。刹那だけだが、身体があり叫べたことにも。


「リフさんが、直接渡さないんですか?」


「私が行っては、彼らは背筋を伸ばそうとするので……同年代の君なら、彼らもそうはしないでしょうし、何より談笑が捗る」


「リフさん……分かりました。謹んで、その役目を全うします! なんつって、へへ」

 

 穏やかで精彩せいさいな会話を続ける若いリフとニック。

 若いリフは若い騎士達の役に立てたことで。ニックは憧れのリフに頼られた事で、嬉しいのだ。


 見れない。見たくない。聞けない。聞きたくない。刻一刻と近づく最悪が、全ての正を負へと褻涜してしまう。


 目を瞑ることは出来ない。


「ありがとう。任せたよ……」


 耳を塞ぐことも出来ない。

 そもそも、意識だけになったリフに目がある訳でもなければ、耳がある訳でもない。目の瞑りようがない。耳を塞ぎようがない。


 世界が見ろと言ってくる。


 この先、ニックが何を訊いて来るのか知っている。


「そうだリフさん。俺からも、少しだけいいっすか……?」


 この先、若い自分が何を言うのか知っている。


「はい。いいですよ。何か?」


 やめろ。それ以上は言わないでくれ。


「俺、リフさんみたいな、礼節がある誠実な騎士になりたいです!」


 目を輝かせて言うニック。


 見せないでくれ。聞かせないでくれ。


「私のようになろうと思うのは結構ですが…………」「その先の目的…………」「ではニック君の目標である私から…………」「上官は部下の道しるべに…………」


 見たくもない、聞きたくもない記憶が蘇って来る。


 言うな。見せるな。やめろ。止めてくれ。

 聞きたくない。うるさい。黙ってくれ。嫌だ嫌だ嫌だいやだイヤダ!!


「皆で生きて帰ること…………それを誓えますか?」


——あぁ、


「皆で生きて帰ること……はい! 誓います!」


——どうして、僕はこんなことを言ってしまったのだ。


「きっと、皆で生きて帰れる。必ず、皆を生きて帰らせる。必ずだ」


——どうして、誓いを破ったんだ。


——どうして、何故、僕はこんなにも醜穢しゅうわいなのだ。


 最悪が来る。


 世界は再び、超速移動するように細長くなり、夜は朝へ。曇りは雨へ。兵站拠点は廃都に変貌した。

 

 ニック達の死が、間近になってしまった。


「クソ、でりゃぁぁぁぁ!!」


「ギャウガ!?」


「こいつで、どうだァ!!」


「うがぁぁ!!?」


 若いリフの前方で闘う若い騎士達が、魔獣達が加わった豪族をほそりながら、撤退していく。


 情報によれば、豪族は複数の匪賊ひぞく土賊どぞくが、集まって出来たものだ。だのに、若いリフ達が対峙しているのは、魔獣と豪族の人類。それも、神獣が長の魔獣達と、豪族の人類だ。


「死ね! クソガキ!!」


「ヒィ!?!?」


 賊が突然、草陰から青年を奇襲。青年は尻もちを突いてしまう。


「——ッ!!!」


「ぶぅひゃウェ!?!?」


 そこに若いリフが蛇腹剣で賊を切り殺し、助けに入った。青年は「ありがとうございます!」と謝意を伝え、落としてしまった剣を手に持ち、撤退を再開する。


「クソ、予想をはるかに上回っている戦力……一刻も早く、本部に援軍を要請しなくては……」


 たかが、一個中隊如きで太刀打ちできるものではない。

 何故、豪族が急に神獣と同盟を組んだのか。その真相は明らかにはなっていない。もと神将によれば、豪族と手を組んだ神獣は、一角の馬だったらしい。


 同胞を家畜として飼いならし、そして殺して食う人類への怨恨えんこん、といったところが妥当な線だろうか。

 これからも、真相が明らかになることは無いだろう。


 一つだけ言うなら、リフ達の選択肢は敗走しかなかった。そしてその選択肢さえも、厳しく困難なものだった。


「みなさん! 追手は私一人で食い止めます!! 負傷者を連れて兵站拠点へ!! そして、本部に援軍を要請してください!!」


「リフさん? 何言ってんすか!? 一人で食い止めるなんて無理だ!!」


 リフの突拍子もない発言に、負傷者に肩を貸して走るニックが反対する。


 そうだ。一人で食い止めることなど、出来るわけがない。結局、若い自分は追手を食い止め切ることが出来ず、一人で廃屋に隠れることとなった。そこで、息を潜めることと、体力回復に時間を食われて、戻ったころには。


 ニック達は挟撃に遭って殺されていた。


 罠だという気配はあった。追手が思った以上に少ないこと、かつ練度が低かったことがそれだ。敵はこちらの逃走経路を予測して、最小戦力で撤退を遅らせつつ、先回りさせた勢力で挟み込んだ。


 自分だけが助かった理由は、敵の策略と噛み合ったからだろう。


 未だに覚えている。魔獣達の口にくわえられた、彼らの腕や足が。ニックのむさぼり食いちぎられた、骨が浮き彫りになった腕を。


 それを見て、堪え切れることが出来ず悲憤ひふんして、残っていた魔獣と豪族を切り殺し、殲滅した。

 もう二度と、あのような最悪を迎えたくはない。


 だから、行くんだ。今ここで。

 そう意識だけのリフが決意すると、今まで彼を酷虐こくぎゃくしていた筈の世界は、その背中を押すように姿を消す。

 いつの間にか若いリフは消え、手足を——身体を手に入れたリフが、廃屋に立っていた。


「彼らを助けに、皆で一緒に、生きて帰るんだ」


 リフはこれを僥倖ぎょうごうだと勘違いしてしまった。その証拠に——、


——来ちゃダメだ。


「誰だ!!」


 三度目の謎の声。いや、待て。


——リフさん、こっちには絶対来ちゃダメだ。


 本当にこれは、謎の声か。これは、だってこの懐かしい声は、


「思い出した! この声はニック君か!? ニック君なのか!?」


 先程まで聞いていたニックの声ではないか。


——リフさん、引き返すんだ。


 脳内に直接語りかけられている為、何処にいるかなど分からないが。リフは見上げて、周囲を見渡しながら、


「何を!? 君たちをまた死なせるなど無理だ! 上官として、君の目標として! 誓いを破る訳には——ッ!?」


——リフさん、アンタはまだ——ろ。


 その提言ていげんは聞けないと拒否しようとした。が、やはりこちらの声は届いていないのか、遮られてしまう。

 その時だ。リフは目の端で、黒い人影を捕らえた。その人影は気付かれてしまったと慌てて走り出し、廃屋の奥へと逃げていく。


「ニック君!? そこに居るのか!?」


 リフは人影を追って廃屋の奥へ走る。黒い人影は突き当りを左に曲がり、両開きの窓ガラスを開け、外に出た。正確には目視していない為、外に出たであろうだ。

 リフも突き当りを左に曲がり、空いた窓ガラスの外を見る。


「逃げられた……?」


 黒い人影は、完全に姿を消した。


 それより反射的に追いかけたが、果たして、あの人影はニックなのだろうか。少なくとも、追手の賊ではないはずだ。わざわざ、敵を見つけて逃げる意味がない。

 誰だったのか見当は付かないが、追うのはやめよう。


——僕には、彼らの元に向かう使命がある。


「行かなくては……」


 追手が何だというのだ。一人で相手をするにはいささか多いが、それがニック達の元に向かわない理由にならない。それに、


「今の僕は、かの時の僕とは違う」


 今なら、追手を返り討ちにして、彼らを挟撃した魔獣を斃すことができる。

 根拠もある。救えなかった時から、いくつもの戦闘経験を積んできた。特に、最近経験した濃密な戦闘は——、


——最近……?


「そういえば、どんな経験だった……?」


 いや、それどころか最近の記憶がごっそりと遺漏いろうしている。黒いもやで塗り潰されている。そして、その黒い靄を剝がそうとすると、


「グゥッ!?」


 頭に、鈍器で殴られたかのような痛みが走った。リフはその場で片膝を付き、頭に触れて辛楚しんそする。


——記憶が、最近のことが、何一つも思い出せない。


「クソ、一刻も早く、向かわなければいけないというのに……」


 リフは頭の痛みを堪えながら、立ち上がった。


 思い出せないから、何だというのだ。思い出せないのなら、何も考えずに向かうだけだ。覚悟があれば、思い出せずとも問題ない。怯むな、おくするな、進め。


「ニック君達を、二度も死なせるわけにはいかない」


 ——行くんだ。


 リフは窓に片足を乗せ、勢いよく外に飛び出た。


 馬は廃屋の傍には置いていない。傍に置いていては、馬で場所がばれてしまうからだ。だから、逃げる途中で馬は乗り捨てて来た。当然、乗り捨てた場所に、馬はいなかった。

 馬は諦め、リフはニック達と別れた道まで走り、発見する。


「てめぇ、さっきの騎士!? こんなとこにいやがったのか!!」


 賊だ。それも一人。向こうもこちらに気付いている。

 問題ない。


「悪いが、ここで散ってもらう」


「あ!? そりゃこっちのセリフだぜ!! 同胞の仇、同胞の無念を、ここで晴らさせてもらうぞ!!」


 蛇腹剣を鞘から抜き、構えるリフに賊も剣を抜く。互いに睨んで牽制けんせいし合い、賊がしびれを切らして火の斬撃を放った。

 素早さだけが特徴の攻撃で、それ以外は愚直。避けるのは造作もないことだ。リフは火の斬撃を簡捷かんしょうに避け、攻撃の後隙に蛇腹剣を刺し込もうと、


『ゲ———ジ』


「なんだッ!?」


 した瞬間、腰に謎の白い手が、背後から伸びて来た。

 リフは蛇腹剣で攻撃するのを中断し、謎の白い手を颯然と逃れる。

 まさか、賊がもう一人いたとは。


 リフはそう思い、後顧こうこすると、


「ッ!? 白く、なって……」


 聳動しょうどう。賊ではなかった。それよりも、もっと悍ましい白いなにか。先程、走って来た道が、白い靄に覆われていたのだ。

 一体何が起こっているのだ。魔霧か。もしそうなら、神獣の仕業だろうか。


 思案に、リフの身体が一瞬だけだが固まる。そこに、チャンス到来と賊が剣を振りかざし、


「余所見してんじゃねぇよ!! クズ騎士!!」


 火の斬撃をリフに向かって射出する。

 とはいっても、ばればれな不意打ちに引っ掛かるリフではない。彼は右手をくるりと一回転。蛇腹剣をしならせて、火の斬撃を霧散むさんさせた。


「考えている暇はないか」


 リフは蛇腹剣を手元に戻し、オドを得物に流して「フラッシュウェア」と、詠唱して光魔法をまとわせる。賊もリフと同様に火魔法を得物に纏わせ、


「てめぇをぶっ殺して、その断末魔を散った同胞の手向たむけにしてやる!」


 一撃。火の斬撃を飛ばして牽制し、間合いを詰め、


「死ね! クズkッ——」


「悪いね」


「ガァは……」


 二撃目でリフの首を切り落とそうとしたが、それよりも早く蛇腹剣が、賊の心臓を貫いた。


「クソ、ガ……」


 賊は口から血を吐きながら倒れた。

 リフは手首をクイッと手前に動かし、賊の心臓から切っ先を引き抜く。そして、蛇腹剣を鞘に戻して、再び走り出した。


 中途、


「ウガァ!?」


 数人の賊と会敵かいてきしたが、


「今の僕なら」


「ぐはッ!?」「ズゴォ!?」


 リフは蛇腹剣の強みである奇怪な動きを駆使して、


「行ける!」


 複数対一の不利な状況を、傷一つ負わずに迅速に処理していった。


「暗くなってきたか。急がなくては……」


 リフは鞘に蛇腹剣を納め、黒くなっている前方を見て呟いた。


 廃屋に逃げ込んだのは、確か昼前だったはずだ。まさか、時間がこんなにも早く経ってしまうとは。

 それにしても、長い間走っていたのに心なしか疲労がない。これなら本当に、ニック達を助けられるかもしれない。


 リフは昂然こうぜんと走り出す。


 リフは前方が黒く、後方が白くなっていることに気付かない。何故、今まで何もなかったはずの前方が黒くなっているのか。

 時間が経ったから。そんなはずはない。リフが走った時間は十五分程度だ。ではどうして——、


「見えて来た!」


 リフはようやく、ニック達の背に追いつくことが出来た。


 馬に乗っている彼らに、徒歩でだ。それに前方にあった黒は、世界を侵食するように大きくなっている。

 それはニック達も例外ではない。先程、廃屋で見た黒い影のように、ニック達もどうしてか黒くなっている。黒い影が、待っていたと言わんばかりに。


 だがリフはその異常に気付くことは無い。

 彼の胸懐きょうかいは、やっと彼らを救えるのだという喜悦きえつしかない。リフは発奮はっぷんして走る速さを上げた。


「ニック君!! みんな!! 無事か!?」


 合流できたリフは、殿しんがりを務めていたニックに駆け寄った。馬に乗っているニックはリフを見下ろし、


「リフさん!? よかった、帰ってきてくれて!!」


「僕の方こそ、よかった、君達が全員生きていて……」


 馬から降り、その場にとどまった。同時に、撤退していた若い騎士達も、馬から降りずに停滞した。


「本当に、一人で追手を?」


「あぁ、凄いだろ……今の僕は、前の僕とは違うんだ……」


「はは、流石リフさんだ!」


 馬から降りたニックはリフと、停滞せずともできる会話を容与ようよとして交わす。


 本来なら、リフを誰かの馬に乗せて早急に退くべきだ。だが全員、その容与とした会話に何も言わず、無言で停滞し続ける。

 奇々怪々な状況。異常も異常だ。


 だがそれでも、リフは気付けない。


「リフさん、馬は?」


「ごめん、廃屋に逃げ込んだ時に、はぐれてしまって……」


「じゃあ、俺の馬に乗ってください。兵站拠点へ撤退しましょう」


 そうして、ようやっとリフを馬に乗せようと提案する、黒みがかったニック。リフは「そうだね。ありがとう」と返し、ニックが馬に乗るのを待つ。


「……それより、みんな……僕から言いたいことがッ——」

 

 そしてリフは馬に乗る前に、ニック達に伝えるべきこと——挟撃のことについて話そうとしたのだが、


——どうして、来てしまったんですか、リフさん?


 馬に乗ったニック——それも白色に光ったニックの声が、それを止めさせた。

 少し、怒りをはらんだ声だった。


「え……?」


 白色に光ったニックの身体は、すぐに黒みがかったものへ戻った。

 馬に乗らないリフにニックは「リフさん?」と、疑問符を浮かべながら手を伸ばす。


 リフはニックの手を取らず、


「あ、ニック君、今なにか……」


 聞き直した。だが、


「……? 俺が何か?」


 ニックは疑問符を浮かべて聞き返す。

 先ほどの言葉を発したのは、ニックで間違いない。であるにも関わらず、こちらの質問の趣旨しゅしを理解していない様子。


「いや、その」


 リフは自分だけが取り残されているような孤独感に襲われ、その場で視線を落とした。


 するともう一度、黒みがかっていたニックの身体が白色に変化し、


——まだ引き返せる、だから、今すぐ戻るんだ、リフさん。


 子供を叱る親のような、利他的な怒りを言葉と表情に乗せて、リフに話しかけた。


「ニック君! 何を言ってッ!?」


 見間違いでも、聞き間違いでもない。今度は耳だけではなく、目でも確認した。

 リフは馬に乗って手を伸ばすニックに、言っている意味が分からないと反論しようとした。


 しかし世界は残酷だ。


「ウがァァァァ!!?!?!?」


 若い騎士の断末魔と、血が噴き出る音。


「なんだ!?」


 怖れていたことが、


「前方から魔獣だ!!」


 神獣の奸策かんさく——敵が挟撃を仕掛けて来た。

 一歩遅かった。もう少し早ければ、挟撃から逃げることが出来たというのに。でも、前回とは違う。ここには自分がいる。成長したはずの自分がいる。


 まだ、ニック達を救う事はできる。


「嘘だろおい! なんなんだよこの魔獣は!?」


「みんないったん下がるんだ!! 僕が先頭に、みんなはサポート…………」


 鞘から蛇腹剣を引き抜き、颯爽と前に出たリフは、それを見て畏怖いふした。


 黒い巨躯に、鳥肌が立つほどの鋭く赤い双眸。その双眸の奥から感じ取れるものは、死そのものだ。前に出たことを後悔する程の恐怖と、底の無い暗晦あんかいに引きずり込まれるような死の達観たっかん

 今までに見たことがない謎の魔獣に、リフの身体が固まった。


「僕が、勝てるのか……」


 あの時とは、何もかもが違う凶悪な魔獣だ。

 魔獣の一薙ひとなぎで、身体が消し飛び死——いや、


「僕が行く!! みんなは一旦下がって、僕の援護を!!」


——臆するな。彼らを助けるんだ! 守り切れ! リフ・ゲッケイジ!!


 リフは恐怖を誤魔化すことすらできない小勇しょうゆうで、黒い魔獣に切りかかった。


「何故だ!? なぜ切れない!?」


 刺し込み、切りつけ、抉り落とそうと、蛇腹剣を振るう。だがどうしてか、リフの蛇腹剣は、黒い魔獣に傷一つ付けることも出来ない。抑々(そもそも)、攻撃が当たっているように感じない。まるで、空気を切りつけているような虚無感だ。


 切っても切っても、光魔法で急所を狙って撃っても撃っても、手応えが一切ない虚無感だけが手に残る。


 実態はしているはずなのに、どうして切れないのだ。

 それに黒い魔獣は一歩も動かず、ただ攻撃を続けるリフの目を凝視するだけだ。


「幻覚の類か……」


 何かまずいと洞見したリフは、黒い魔獣への攻撃を止め、一旦後方に退いた。

 攻撃しても手応えがないのなら、幻覚の可能性もある。ならばここは迂回して、離脱するべきだ。この幻覚でこちらを惑わせ、その隙に襲い掛かるなど想像に易い。


 リフはニック達に指示を出そうと振り向き——、


「なんだ!? 黒い! こいつは、眷属!?」


 振り向いた時、黒いおぞましい魔獣が、何かが、若い騎士達の元へ急速に伸びた。


「——ッ!!!」


「クッ!?」


「——ッ!!」


「これしき!」


 若い騎士達は黒い悍ましい何かに応戦するが、噛みつかれ、酷悪こくあくに敗北。更に噛みつかれ敗北した騎士達の身体が、感染するように黒く染まり、黒い魔獣の元へ引きずり込まれていく。


「やめろ!! 彼らを離せ!!」


 リフは蛇腹剣を伸ばし、若い騎士達を引きずる、黒い悍ましい何かに攻撃するが、


「クソッ!! これなら! フラッシュ!!」


 切っ先は当たらず地面を抉るのみ。リフは切っ先を手元に戻すことなく、今度は光魔法で何かに攻撃する。しかし、案の如く光魔法も当たることは無い。

 黒く染まった騎士達は、惨憺さんたんな声を出しながら暗晦に飲み込まれ、完全に視認できなくなった。


「待て!! どうして当たらないんだ!?」


「ひぎゃァァァ!!」「誰か助けてくれぇェェェ!!」


 その間にも、黒く悍ましい何かは若い騎士達を襲い、全身を黒色に感染させて暗晦に引きずり込んでいく。


「やめろ!! やめろぉぉぉぉ!!」


「クソ! そんな! 死にたくッ!?」「イヤダァァァ!!」


——やめろやめろやめろヤメロヤメロヤメロ!!!!


「やめろ!! そんな!! 嘘だ!!! 離せ!!! 彼らから、その薄汚い手を離せェェェェ!!!!」

 

 リフはせめて、飲み込まれていない彼らを救おうと、今度は蛇腹剣でも魔法でもない、自らの身体で止めようとした。そこに、


「しまッ!?」


 突然、黒い悍ましい何かが、間抜けな獲物を捕食しようと、リフに襲い掛かった。死を達観するリフ。その彼の前に、


「リフさん!!」


 ニックが火魔法で割って入り、間一髪で助けることに成功した。


「助かった! ありがとうニックk——」


 駆け寄って来るニック。リフは振り返り、ニックに礼を言おうとした。が、身体が白く光ったニックがリフの目を見て、


——帰るんだ、リフさん——へ。


 途中、砂嵐のような音が入ったが、決然けつぜんとした表情で帰れと告げた。

 この状況で何故そんなことを。リフはニックの言葉に固まりつつも、彼がそんなことを言う訳がないと胸中で否定する。


「君は誰だ……」


 リフは蛇腹剣をニックに向けた。


 廃屋の時から、脳内に直接語りかけてくるニックの声。この声が発せられる時、黒みがかっていたニックの身体が白く光っていた。

 恐らく、ニックの身体を何かしらの力で乗っ取ろうとしている者がいる。そして、その乗っ取ろうとする予兆が、白く光る現象なのだろう。


 卑賎ひせんな悪魔どもめ。


 ニックの身体を乗っ取り、あまつさえこちらを乱そうとしてくるとは。許すことは出来ない。


——どうして、分かってくれないんですか……俺はリフさんに———ほしくない。


「なッ」


 リフはそう言ったニックの表情を見て、蛇腹剣を降ろしてしまった。凄切せいせつとした表情を見てだ。


 この表情は、他者の身体を乗っ取るという卑賎な者にはできない。だってこの表情は、本当に悲しみ憂患ゆうかんしているからこそできる表情だ。


 目の前にいるニックは、他者に身体を乗っ取られてなどいない、本当のニックだ。

 途中、砂嵐のような音が入った部分に、彼が何を言ったのかは分からない。でも、その部分に入る言葉が重要なものであることは、大雑把だが分かった。


「グバオォォォォォ!!」


「う、あ、クソ、ガァ!?」「畜生!! このやッ!? べぇぁ!? あぁぁぁぁ!!!」「よくも! みんなを!! でえやァァァ!! ギャァァァァ!?!?!」


 その間にも、黒い悍ましい何かが若い騎士達に噛みつき、黒く染め、暗晦に引きずり込んでいく。だが、リフの意識はそこには向いていない。向くことがない。


 それは、若い騎士達が暗晦に飲み込まれることが、リフにとって些末さまつになってしまったからだ。

 その理由は、本当のニックが、若い騎士達を助けることよりも、こちらに何かを伝えることを優先しているから。彼らを無視して、篤実とくじつに訴えかけて来ているから。


 どうしてここまで、ニックは伝えることを貫徹かんてつしているのか。

 リフは彼に、そのことを訊こうと真剣な表情で目を見た。


「もう、いい……」


 ニックに似た謎の声が、そう呟いた時だった。黒い巨躯の魔獣が、若い騎士達が、森が、世界が、停止した。そして、


「なッ! 何だ!? 世界が、黒くなって……」


 黒い巨躯の魔獣が背中から一気に森を、騎士達を、世界を、白を、侵食していった。

 リフはにわかに起こった出来事に瞿然くぜんと驚き、振り返る。


「リフさん……」


 そこには全身を漆黒に染めたニックが居た。廃屋で見た黒い人影とそっくりだ。

 身体の造形と声は、白色に光ったニックと差異さいはない。全く同じ。唯一違う点は、声の響き方——空気を介して届いているのか、脳に直接届けているのかだ。


「…………」


 リフは漆黒のニックを凝然ぎょうぜんと見つめる。漆黒のニックは、その口の端を小さく吊り上げて、優しく微笑んだ。


「手を、伸ばして……行こう」


 リフは言われるがまま、そっと手を伸ば——、


「————ッ!!!!!」


 リフが手を伸ばした瞬間、漆黒のニックの身体が悍ましく変形した。


「リフさん!!!!」


 そして、巨大な牙となってリフに噛みつこうとした時、後ろにいたニックが飛びつき、リフの身体を押した。

 黒い牙がニックの身体に噛みついた。


 鮮血が舞う。


「ぁ…………」


 咄嗟とっさの事で受け身を取れなかったリフは、地面に転がった状態でニックを見た。

 奥へゆっくりとだが、彼が暗晦へと引きずり込まれていく。


「ニック君!!!!」


 リフは前のめりになりながら、立ち上がって走り出す。


「来るなリフさん!!!!」


 肩から胴体に掛けて、巨大な牙に噛みつかれ、暗晦へと引きずり込まれていく中でも、ニックは怯むことなく、リフに言葉を放った。

 リフはニックの胆勇たんゆうな行動に、足を止めてしまった。


 いや、止まってしまった。身体が動かない。どうして。

 そう思ったリフが自身の身体を見下ろすと、


「白…………」


 白い何かが、リフの身体を強く縛っているのだ。その白い何かは、後方の小さくなった白い世界から、弱々しくも必死に伸びている。

 白い何かから、離したくないという強い意志が、思念が感じられる。


 自分は白に縛られ、ニックは黒に縛られ暗晦に引きずり込まれていく。

 白と黒。黒はまずいと直感的に感取したリフは藻掻もがき、ニックに向かって手を伸ばす。小さくなった所為か、白い何かの力は振り解けそうなほどに弱い。


 これなら、白を振り解いて、黒に引きずられるニックを救うことが——、


「リフさん」


「…………」


 それは温和おんわな声だった。こちらの名を呼ぶ、ニックの穏やかな顔を、リフは振り解くのを止めて見た。


「アンタには、帰りを待ってる——がいる」


「そんな、何を言っているんだニック君!」


 段々と、引きずり込まれていくニック。


「アンタには、——と固く誓った、——がある」


「やめろ、ニック君を引きずり込むな!!」


 段々と、漆黒に染められていくニック。


「俺達はいいけど、リフさんは違う。リフさんは駄目なんだ」


 黒と暗晦の境界線なのか。背中から徐々に、膜のような物がニックを飲み込んでいく。


「待ってくれ! ニック君!! ニック君!!!」


 助けに向おうと、藻掻いて白を引きちぎろうとしたリフ。その時、ニックは飲み込まれまいと踏みとどまった。そして、


「強い騎士の人とか、王様とか、民衆とかは、あんまり、俺達弱い騎士のことを、思うことは少ないけど……リフさんは違う」


 引きずる力をもろともせず、一歩二歩と前進するニック。引きずる力が強力なものであるのは、その肩から垂れ流れる血の量を見れば、炳焉へきえんとしている。

 それにも関わらず、ニックは苦しみを孕んだ笑顔で、リフの元へ前進していく。


「優しくて、強くて、誰よりも責任感がある。そんなリフさんが、俺の憧れで目標だった。俺、今でも、リフさんの、皆で生きて帰るって言葉、めちゃくちゃ好きです。例え、リフさんが格好つけて言っただけの言葉だったとしても、めちゃくちゃ好きです!! だって、かっこいいから!!!」


 全てを許し、全てを肯定するニックの言葉。それはない。それだけはない。だって、


「そんなことはない! 僕はクズだ!! 僕は君との誓いを守れなかったことから逃げて、弱者救済などという嘘に惑わされ、国を裏切って!! 仲間を裏切ったんだ!! 仲間……」


『リフ!』『リフさん』『リフ』『ゲッケイジ』


 仲間。リフがそう叫んだ時、ごっそり遺漏していた記憶が、それを塗り潰していた黒い靄がけた。白から仲間達の呼ぶ声がした。


 ミレナに、シュウに、グレイに、フィアン。

 どうして、今まで彼らのことを思い出せないでいたのだ。


「リフさん、アンタには、帰りを待ってる仲間がいる」

 

 呆然とするリフに、ニックはそれでいい、そうでなくては駄目だと、こくりと頷き、痛みを堪えながら歩み寄ってくる。


「……アンタには、仲間と固く誓った、約束がある」


「約束……」


『そうだリフ。今度、故郷に帰らないか? 傷心を癒やし、改心するために……どうだ?』


『私には妹がいてな。名前はケイニャ。この旅の目的を果たした時、妹に、ニックの事を聞かせてやってくれないか?』


 ニックに約束と言われ、リフはグレイとフィアンと誓った約束を思い出した。

 どうして、今まで約束したことさえも思い出せないでいたのだ。


 アンコウエンに賊が急襲を仕掛けて来て、民衆を守る為にエンタク達に無理矢理加勢。コウエンタクで、シュウ達と別れた。

 そこで賊と相まみえ、辛勝したが、敵の自爆に巻き込まれてしまった。


「ゲッケイジ!!!」


 自爆に巻き込まれる前、フィアンがこちらの名前を呼んだことを思い出す。


——その叫びを聞いて、僕はまだ生きたいと願った。


——どうして、僕はそのことを忘れていたんだ。


「リフさん……」


 ニックはリフの前で立ち止まった。

 黒い地面に点々と滴る、ニックの血。彼に噛みついている黒い大きな牙からは、微かにだが、引っ張ろうとする音が聴こえる。


「みんなで生きて帰る、でしょ?」


 ニックは苦しみを完全に払拭した、満面の笑みで言った。

 そして、その笑みを質直しっちょくなものに変え、後ろにある白に向かって指を差した。


「だからアンタは、まだ……こっちに来ちゃダメだ」


 ニックの催促に釣られて、リフは後ろを見た。


『ゲッケイジ!!』


 小さくなった白い世界から、一つの白い腕が現れる。その白い腕はリフの首根っこを掴むと、彼を白の世界に引き戻そうと引っ張った。


「リフさん……姉さんが呼んでる。生きてくれ」


 ニックの手に、黒に侵食された白い手に押された胸。ゆっくりと、身体が黒から白へと移動する。


 リフは振り返った。

 目に映ったのは、自ら動き出した暗晦に、緩やかに飲み込まれていくニック。彼は何も言うことなく、最後まで白に指を差したまま、暗晦に飲み込まれた。


「ニック君……」


——最後、ニック君が笑っていた気が……


 直後、黒に飲み込まれかけていた世界が、転瞬てんしゅんで白に染められた。

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