第1話 始まりは血の香り
大小二つの月に照らされる庭園。
ぽつりぽつりと、蛇口の先から水が漏れるように、花弁に赤い雫が滴る。雫が落下するたびに首を垂れる花弁は、何度も謝り続けているように見える。
背後、上空。その豪邸とも呼べる屋敷の壁に、ひしゃげた肉塊がこびり付いていた。滝水が垂れ落ちたような赤黒いそれは、血が酸化した跡だ。
場所は中央都の内部。貴族や国の中枢にあたる傑人員が住む王城下町である。追求すると、内政財務長官とその従者が住む屋敷だ。
「レイキ様!? 何故!?」
「理由は死んだスコットに聞くんだね……」
「ひぃ! ぁ、ぉぐぇ!?」
畏怖の声が上がった直後、ぐちゃっと肉が引き裂かれる音が響いた。豪邸の上階から巨大な破砕音が轟き、それらと共に肉片、石、木屑の混ざった汚物が庭園に散らばる。
佳麗な——否、赤い水たまりで侵された血臭漂う地獄絵図には、斬殺された死体が数十も重なり、死屍累々のアートを描いていた。
欄干に垂れる死体。重なる死体。首だけの死体。胴体だけの死体。足だけの死体。手だけの死体。原型を留めていない死体。散らばる死体。
——死体死体死体したいしたいしたいシタイシタイシタイ。
「月明かりで微かに見える光景……いいね。愚物でも、没すれば様にはなる……」
上階から血肉の庭園を眺めるのは金髪に赤い双眸の少年。白い服を上下に纏った如何にも人畜無害そうな優男——レイキだ。
ローレンに切り落とされた片腕は別の腕が接がれ、傷や出血の跡はない。思念体の応用法だ。
レイキは空を仰ぎ見て、
「さて、ストレス発散と共に後片付けも終わりだ……嗚呼、久しぶりに兄上に逢いたいなぁ……失敗を叱責してもらって、成長してまた兄上に近づきたい……はぁ、兄上は今どこで何を……」
酩酊したように頬を紅潮させ、恍惚な笑みを浮かべるレイキ。
彼の脳内は、彼が述べていたように兄の存在で満潮状態だ。その心酔具合は、その表情が如実に物語っている。
「知らないし、キモ……でも、いい光景っていうのについてはメルルちゃんも賛成かなぁ……これぞアートってやつ? 世界の残酷さを、肥えた人間で皮肉に描いたって感じがして、超痺れる!! 弱者救済を! とか言って、その救済した弱者から見合った対価をしっかり貰うクズが死ぬ様を見れて、メルルは二重の意味で快味ってやつ? キャハ!」
レイキの陰から姿を現したのはバラ色の髪をした女——サキュバスのメルルだ。紐だけで秘部を隠した嬌態とも呼べる姿。彼女の背中には、黒い羽と尻尾が生えていて、悪魔と表現するに相応しい。
メルルは死屍累々を観て、その羽をぱたぱたと羽ばたかせ、拳を空に翳して痛快無比だと声を上げた。
「キモって、君を救った恩人に対しての言葉がそれかい? クズ女はこれだから嫌いなんだ」
「はぁ? そういうとこが一番キモいのよ。別にアンタがいなくても逃げれたし……そもそも、メルルちゃんが看守を催淫した後に来たんじゃない? 恩着せがましいったらありゃしないわ……てか、早く転移使えよ。一人語りがキモいんだよ」
息を漏らし、右手を軽く振って諦念を露にするレイキ。その彼に対し、メルルは青筋を浮かべながら抗弁。
互いが互いを敬うことがない傲岸不遜な態度。とはいっても、決して彼らは敬う事を知らない訳ではない。
ただ、人の持つ二面性が極端に、負の方向へと傾いた顛末がこれなのだ。
人は皆、己より下だと見た者に対しての敬慕は無い。違いはそれを取り繕うか否かで、胸中では嘲笑しているものだ。
この傲慢を覆せるのは、その者以上の強者と相対した時だけだろう。
現にレイキは、蒼眼の青年に思い知らされている。彼に関しては、自身の傲慢さに改悛の情を抱いたことが強みとなり、成長の分水嶺になったのだ。
「酷い言い草だな……それが、人にものを頼む態度なのかい? ここで好き勝手に動けるのも、僕がいるからだよ? まぁ僕は寛大で慈悲深い聖者だからね。今は気分もいい。聞き流しておいてあげるよ……クズ女はこんな僕を、もう少し見習うべきだよね。ほんと……」
「チッ、うざ……」
レイキとメルルが立つ真後ろの扉。その扉を背にして、心胆寒からしめながら声を潜めていた女性。この屋敷で給仕の仕事をしている者だ。
「ぅ…………ぃ、ぁ」
二人の会話の内容から、女性は助かったのだと涙を袖で拭う。彼女はこの惨劇から直ぐにでも逃げたい思いを堪え、呼吸を整え、思考を巡らせる。
今物音を立てるのが自殺行為なのは、誰が見ても分かる。当人の女性も重々承知である。
先ずは、屋敷を抜けて王城下町を巡回する近衛騎士に事件の報告だ。報告と同情を担保に宿を無償で取ってもらい、失業金を貰うのだ。
職を斡旋してもらって、就けるまでは受け取った失業金で食いつなぐ。
杜撰さはない。大丈夫だ。信じるのだ。分かってもらえる。このような目にあったのだ。同情されて当然だ。手を差し伸べられて当たり前だ。
「さて……と、その前に、君。そこに居るのは気付いてる、よッ!!」
意味など分かりたくもない音が鳴り、女性が背を預けていた扉が切り崩される。風圧で身体を飛ばされ、部屋の本棚に頭をぶつけてしまう。重い本が体の上に積み重なり、鈍痛に息が詰まった。
「ひぃぃッ!? ひぃぎゃぁぁぁ!! 何で!?」
暗く埃が舞う部屋の中、女性の頼りになるのは月明かりだけ。
ただ今となってはその月明かりさえも、彼女の希求を潰えさせる要素になってしまった。
「あら? まだ鼠が残ってたのね」
埃の中から、メルルがその黒い羽で舞う埃を払って姿を現す。
人ならざる異形の者。先のことなど考えたくもない。
「因みにこっちにもいるよ……こんな場所に隠れたって、僕は屋敷の構造を熟知しているから無駄なのにね……無駄な希望を抱いて、可哀想に」
姿が見えなかったレイキは、女性の真横の扉から唐突に姿を見せる。彼の右腕から投げられたのは、血塗れの肉塊——かつての上司だ。
死体から跳ねた血が服に飛び散り、女性は恐怖のあまりに嘔吐いてしまう。
『どうして?』と疑問が浮かぶ女性。
レイキが出て来た部屋は、女性がいる部屋からしか入室出来ない。
要は吹き飛ばされた女性よりも早く、部屋に入ったことになるのだ。あり得ない。考えられない。
理解が追い付かなくなってしまう女性。
真相はレイキの思念体。それを示唆するように、メルルの後ろからはもう一人のレイキが現れた。
到頭、女性の精神は壊れ、
「やめでぇ! いやぁぁぁ!!」
這いつくばり、涙を流し、涎を垂らし、生存本能のみで身体を動かす。爪が剥ける痛みへの頓着はない。死んでしまっては元も子もなく、抑意識など出来るわけがなかった。
「あ" そんな! タスケ——ッ!!」
嗄れた声。
——掌から発せられた光が、女性の最後に見た光景となった。
「あぁ、ごめんごめん……気付かないふりをして、思念体で殺してあげた方が良かったかな? そしたら恐怖なんてなかったし……いやぁ、相手の為になれるなんて、僕って本当に慈悲深い……」
いけしゃあしゃあと自画自賛するレイキ。その異常性は依然、変わりない。
「これで全員?」
「そうだよ、牢獄も含めて全部。リフは元々、僕が念入りに注ぎ込んだし、使い捨て用だから問題なし。これで後はリザベートだけだけど……ま、それは次に持ち越しだ……成功させて尻拭いをしよう」
「そうね……ママをガッカリさせないためにも、成功させなくっちゃ」
メルルの可否に応と答えるレイキ。彼は軽いステップを踏み、快哉を身体で表現してみせる。
「趣味で始めたけど、腐らせるの、中々楽しかったよ。スコット……君に、謀略のツケを払う時が来たってことさ……転移、発動」
小さな燐光が屋敷の窓から放たれ、そこは死体だけが残る陰惨な部屋になった。
※ ※ ※ ※ ※ ※
時刻は陽刻の二時。場所、モワティ村ミレナ宅。
「はぁうぅ!! あぁぁくぅはぁ!!」
「何!? どうしたのクレイシア!?」
木製のドアが軋む音が鳴ったかと思えば、そこには薄緑髪に翠眼の少女——ミレナが立っていた。
彼女が周章としている原因は、名前を呼ばれた亜人の女性——クレイシアの艶めかしい声である。
唐突にそのような声が聴こえれば、良識あるミレナなら駆け付けるのは当然。
果然、どういった光景が広がっていたかと言えば——、
「あぁミレナ様……申し訳ございません。リザベートに血を与えていたところでして……」
袖をまくるクレイシア。彼女のさらけ出された腕に噛みつく金髪紅眼の少女——リザベートだった。
さんざっぱら乱れていた髪は綺麗に整えられ、泥で黄ばんでいた服も以前とは一線を画した給仕服を纏っている。
因みにクレイシアのお下がりだ。身長はぴったりだが、胸の部分のサイズだけがあっていない。豊満ということだ。
リザベートは人間や獣人ではないこともあり、村民には簡単に受け入れられた。寧ろ、同じく酷遇を受けて来た彼女を助けたいと、名乗り出た者もいたほどだ。
ミレナ宅に居住している経緯は、クレイシアに一番懐いたからである。
ミレナの登場に、椅子に座っているクレイシアとリザベートの視線が彼女に集まり、
「すっごい変な声出てたけど。大丈夫なの?」
「はい。大丈夫です。ご心配をお掛けして申し訳ないです。リザベートに血を吸われると、その……何といいますか、胸の奥がキュンとなった後に、股の部分が熱くなってしまって……」
と、クレイシアは太ももと太ももをすり合わせながら説明。
ミレナはというと、普段は厳かなクレイシアの本性を垣間見てしまったことで、目は憐れんでいる。
外身と中身の温度差に混迷してしまったわけだ。
「何言ってるのか全然わかんないけど、クレイシアが血を吸われて興奮する変態だってことはわかったわ」
「な!? そんなご無体な……トホホ」
取り付く島もない返しに、クレイシアは釈明の暇もなく撃墜。口元に手を当てがり、瞳は涙で潤んでしまっている。
「あのッ! それは、わたしに原因が、あるのだと。ヴァンパイアの、吸血には、男女問わず、微小な催淫作用が、ありまして……」
クレイシアの腕から口を離し、机に両手を乗せて原因解析をしてみせるリザベート。
吸血を必要とする彼女の要因が大きいのは事実だ。
ヴァンパイアであるリザベートは常人よりも、一定量の鉄分摂取が必要となる。鉄分摂取に効率的なのは、当然ではあるが血液を直接摂取することだ。
他には肉ならレバー。野菜ならホウレン草や小松菜あたり。ビタミン©を一緒に取るといいと言われているが、この世界に於いては認知されてはいない。
よって、食事で鉄分を著しく摂取出来ない場合は、血を直接吸血して凌ぐ訳だ。
「でも私はリザベートに血を吸われても、何も感じないわよ?」
「それは、その、ミレナ様に、催淫が効かないからだと、思います……」
顎に指を当てて疑問符を浮かべるミレナに、リザベートは淡々と答える。
口ごもった話し方の為に、淡々とは違和のある表現だが、普段の彼女の話す速さを鑑みれば早い方だ。
「私には効かない……でも私とクレイシアで何が違うんだろう?」
「わ、私には分かりかねる問題です……」
クレイシアが、めそめそしながら答える。
催淫作用があることが分かったことで頸木はなくなったのだが、想定外の方向から復活する頸木。元の木阿弥だ。
その因果関係については、リザベートですらも悩んでしまう。となれば、この場で問題の解を導き出すのは不可能に等しく、長考する三人の間には静かな時間が流れ——、
「俺も過去、血を吸われた時があったが、少し力が抜けるだけで、それ以外は何もなかったな……」
「あ! シュウおはよう! その手に持ってるのは何?」
音を差し込ませたのは、黒髪蒼眼の青年——シュウだ。シュウの登場にミレナが窓の方へと接近。笑顔を振舞う。
空いた窓から会話の内容が漏れていたようだ。
彼は窓枠に腰を乗せて、
「おはようさん。これは手紙だ……リメアさんから俺宛てに来てた。ミレナも一緒に、明日の夕方に私宅に訪れてくれって書いてある。今後の動きについての談話がしたいだとさ」
シュウの右手に抓まれているのは、開封済みの一枚の手紙だ。彼は手紙を軽く振りながら、内容の言及と共にミレナ同行の趣旨を伝える。
「私も一緒にね。おっけい!」
親指と人差し指を合わせて、合意のジェスチャー。
「あの、わたし、貴方の血、吸った事ってありましたっけ?」
何処か引っ掛かりを覚えたリザベートは、無邪気に質問を投げつける。彼女の言葉に、シュウは瞼をぴくりとさせて顎に手を当てた。
一拍の間、彼の冷たく澄んだ青い双眸が、視線が落ち、
「悪い。なかったことだ……気にすんな」
「ん……?」
容量の得られない曖昧模糊な言葉。リザベートが釈然としない面持ちで、首を傾げるのも無理はない。
彼の世迷言なのか、虚言なのか、或いはそうではない真実があるのか。
疑問の答えが返されるのは二度とないと思えるほどに、彼との距離が迂遠に感じたリザベートだった。
「とにかく伝えておいたからな……明日の朝出発だから、忘れるなよ。忘れてたら無理矢理引っ張ってくからな」
「はぁぁぁい」
上手く躱され、近づくにもその技量を持ち合わせていない自分自身に、憤懣やるかたないリザベート。
シュウの視線は自分からミレナに向き、要件を言い切ると振り返って歩き出した。
「俺、今からリフさんと森の巡回に行ってくっから」
「行ってらっしゃい! あと、気を付けてねぇ!」
大きく手を振って見送った後、言い忘れたのか口の横に手を置いて、ミレナはお腹から声を出す。
その彼女にシュウは頭だけ振り返らせて「おう」と返事。鈍色髪の男性と握手して、森の中に入っていった。
シュウが体を預けていた窓には、既にミレナが腰を置いていて、
「私、ちょっと出かけて来るね」
「あ、はい! いってらっしゃいませ!」
窓枠から乗り出し、跳躍して華麗にYの字で着地。長耳をぶるぶるっと顫動させると、シュウに気付かれぬように、木陰に隠れて追っていった。
彼のことが気になるのだろう。
「どうかしましたか、リザベート?」
ミレナの背中よりも奥の森——小さくなっていくシュウの背中を見つめて、リザベートは彼から受け取った言葉を思い出す。
『誰かに命令されてするんじゃなく、自分がやりたいことをするってことだ……分かったか?』
遡行時間は三日。ミレナの叱咤する声を無視して、シュウは家事の手伝いをしている自分の元に来た。その時の彼の顔は、焦燥感が滲んでいて、
「神将にお前のことを頼んでたんだが、あいつから何か言われなかったか」
「いえ、特には、何も……」
「たぁ、やっぱりか……」
額に手を当て、憮然と独り言ちるシュウ。彼は外した視線を元に戻し、リザベートの眉間に人差し指を当てる。それから、ゆっくりと口を開けて、
「一つ訊くぞ……」
「はい」
目で射抜かれるような感覚。リザベートはシュウが怖くて、目線を彼のまつ毛に合わせてしまう。
そのまま、戻すにも戻せなくなってしまったため、彼のまつ毛を目と見立てて話を聞くことに。
「お前は自分が何者か分かるか? それと何をしたいか?」
「え、それは、わたしは、リザベート、です。ここに、住まわせて、もらっているので、クレイシアさんに、言われた通り、家事の、手伝いを、しています」
胸中に思い浮かんできた言葉を捏造せず、話そうとした結果がこれだ。ただ、その行動に付随した結果を恨むことになるとは、リザベート自身も予想の埒外であった。
顔がすごく怖いのだ。怖いからまつ毛を見よう。まつ毛なら目を見ているように見える。
「…………?」
リザベートから指を離し、訝しむように眉を顰めるシュウ。
若干上を見ている。いや気のせいか。シュウはそこを去来している感じの表情だ。
「まぁ、わかった。家事の手伝い。じゃあ、家事の手伝いが終わった後、リザベートは何がしたい?」
「それは、えっと、その……わかり、ません」
「何でわからない? 何かあるだろ?」
目を泳がせ、訥々と言及するリザベート。
当たり前のことも話せない——話そうとしない彼女に、睨みを利かせてしまうシュウの反応も不思議ではない。
その彼がまた怖くて、リザベートは目線をまつ毛に合わせた。
性格が噛み合わない。その言葉が二人には合致している。
リザベートは怒られるのは大の苦手だ。叱責への苦手意識はレイキの酷烈な虐待によるものが大きい。
彼女にとって、叱責は痛苦。痛みは叱責の後に襲い掛かる。叱責されれば、痛く辛いものが待ち受けていると思っているのだ。
シュウが嫌いなわけではない。叱責が、痛苦が嫌いなのだ。
それも尋常ならざるほどに。
シュウは顎先に手を当て、
「そうだな……お前ぐらいのガキだったら、お洒落とか恋とか、もっと身近な物なら、食べたいものとか、行きたいとことか……そういうのもないのか?」
『お前は奴隷だリザベート……主には従順に、慎ましさを以って振る舞い、持て成すのが役目だ』
シュウの鋭い眦が、リザベートを虐げて来たレイキの顔や声に重なる。言葉の意味は分かっている。ただ、脳が拒絶反応を示し、意味の処理を妨げているのだ。
自己主張など許されない。
自分の役目を、立場を、存在意義を逸脱し、掟を破れば、
『自分の立場を弁えろ!! 人を不快にさせるな!!』
砂嵐のような雑音が交じり、過去の記憶が蘇る。少年の言葉が、暴力が、虐待が、リザベートの頭を侵食したのだ。
挿げ替えられたかのように、上書きされたかのように、凄惨な記憶が脳内に刻まれていく。そして、侵食され尽くしたリザベート瞳は虚ろになり、
「は、い……命令が、ない、ので……」
「また命令か……家事をするのも、クレイシアさんにそうしろと言われたからか?」
「はい……」
元々、リザベートの表情は暗く、表面的な差異はないためにシュウは気付けない。
ただし、シュウが気付けないのはそこだけ。言葉に乗る感情の機微は、誰が聞いても簡単に分かる。
シュウは痛ましそうに握り拳に力を入れ、
「どうしてまた……リザベート」
『どうしてわからない!! リザ——ッ、
「自分を虐げてきた、あの金髪のガキは嫌いか?」
グッと両肩をシュウに掴まれ、リザベートは悪夢から現実に引き戻される。
少年の声が聴こえた刹那、リザベートの脳内に巣くう悪魔がシュウの言葉によって掻き消されたのだ。
しかし、戻った現実にも怖い顔をしたシュウが待ち受けていて、リザベートは混迷してしまう。
それでも、違った点はいくつかあった。それは、彼の目から受け取れる感情で、
「あいつらが、憎いか?」
リザベートには暖かすぎる慈しみであった。
シュウの目は先ほどとは打って変わって、同情に痛み、自分を思ってくれたものの目だったのだ。決してリザベートを嫌悪する感情ではなかった。
「え? わか、り——」
「じゃあ命令だ。あいつが嫌いかどうか。好きか嫌いかで答えろ」
「でも、わたし……」
「いいから言え!」
逃げ腰に足を動かすリザベートを押さえつけ、シュウは逃がさないように睨み付ける。掴まれる力は先ほどよりも強くなったが、痛い訳ではない。
「うッ! き、嫌いです! 憎くてたまらないです!!」
——心からの痛哭だった。
「そうか、よく言えた……ならもう一度命令だ。俺が怖いか怖くないか……答えろ」
「……こ、こわ、い、です!」
——心からの言葉だった。
瞑目して、見なくてはいけない物から目を背けて放った本音だったが、それでも向き合おうと足を止めた結果だった。
劣って褪せていても、リザベートの中では大きな一歩だ。
「そうか、よく言った! やっぱちゃんと言えるじゃねぇか……」
怖いと言われ、避けられている事実など気にすることもなく、シュウは目を瞑って安堵のため息を零した。それから、彼は目を瞑って落としていた視線を戻し、
「リザベート、これからは今みたいに言いたいことを言うようにしろ……最初は難しいかもしれないが、それでもそうするように努力するんだ」
「でも……わたしは……」
「でもじゃねぇ」
「命令がなくちゃいけないんです! そうじゃなきゃわたしの意義は!!」
シュウの手を振り払い、半ば強引に否定の言葉を叫んだ。
それは感情の吐露でもあり、本能の拒否でもあり、言いたかった言葉でも、望んでいる結果でもなかった。
「逃げてばっかで甘えてんじゃねぇぞクソガキ!!」
シュウの頭突きを額に食らい、打たれた部分を抑えるリザベート。
倒錯など生易しい歪んだ考え。根元から植え付けられた自己欺瞞。現実逃避とも言えよう。
シュウはそれに激昂して、彼女に頭突きをしたのだ。
「んなもん自分で見つけやがれ……いいか……お前は奴隷じゃなけりゃ、最初ッから最後まで人間だ。あの金髪のガキを嫌いで憎いって言ったように、俺のことを怖いって言ったように、自分の意思で、自分で行動しろ」
「あ、あぁ……」
涙が瞳から溢れ出る。自分の存在意義を、役割を、価値を、一方的に全否定されたことで涙が止まらないのだ。滂沱の涙。
悲しくて泣いているのではない。悔しくて泣いているのではない。
——嬉しくて泣いているのだ。
否定されて嬉しく思うことなど、リザベートの人生に於いては未開拓の領域だ。初めての体験に、涙は勢いを増す。溺れて沈んでいくしかない底なしの海から、グッと引き上げられた感覚だと、リザベートは思った。
リザベートの嬉し涙を見て、シュウの強張った表情が緩まる。
「誰かに命令されてするんじゃなく、自分がやりたいことをするってことだ……分かったか?」
肩をトンっと叩かれ、シュウは優しく諭すようにリザベートの顔を見た。
「はぁ、い……」
「それでいい……悪い、怒っちまって……」
「いえ……」
振り向いて、悔悟するように頭を掻くシュウ。その彼を見て、リザベートも首を左右に振って悔悟を露にした。
——この感情は嫌じゃない。
リザベートにとっては初対面だ。彼女がシュウの接近に嫌悪しなかったのは、シュウがそこを意識した故である。
そのことが功を奏したのか、シュウがいなければリザベートは変わらぬままだったのは確かだ。分岐点を作ってくれたのである。
——変われるチャンスだ。
「あ! シュウ何リザベート泣かしてるのよ!?」
ズバッとしんみりした空気を一刀両断するのはミレナだ。廊下からリビングにまで颯爽と走り込むと、彼女はシュウを叱りつける。
「あぁ? 勘違いしてるようだから言っとくが、リザベートを泣かそうとして泣かした訳じゃないからな……」
「苦しいいい訳ね! ていうか、マットに零したグリュエル片付けるの、結構苦労したんだからね!! 先にそっちの折檻ね!!」
「あ、いや、その、マジすんません」
ミレナの邪推にシュウは受け流そうとするが、その意気込みも虚しく消沈。お腹を抓られ、反省した様子を見せた。
「ふふ! あはははは!」
喧々囂々な痴話喧嘩が堪らなく面白くて、リザベートは破顔してしまう。
ひっそりした空気が崩れていく。
どうしてだろうか。その時のリザベートは、その精彩な空気がとても心地よく感じた。きっと、自分にとって無縁の場所ではないと分かったからだろう。
——わたしなんかが、わたしでも……それでもいいなら、ここに居たい。
そう思ったリザベートが自然と笑みを零すのも当然の成り行きだ。
彼女を見て、シュウとミレナが「おぉ」と驚嘆の声を漏らすのもまた、当然の成り行きだ。
「リザベート? 聞いていますか?」
「あ! いえ! すみません……ぼーっと、してました」
クレイシアの声で、思い出から引き戻されるリザベート。
我に返ると頬を両手で二度叩き、自身を鼓舞したなら勢いよく起立。クレイシアに会釈して、家事の仕事に戻った。
「わたしが、思うままに、わたしが、やりたいことを……」
リザベートの中で分岐点となった出来事。まだ薄弱とした灯りしか彼女には見えていないが、意義や意味など後々引っ付いてくる。
——今はただ、彼に言われたことを実践したい。
「自分を、知りたい」
確固たる意志を宿して、リザベートは意気盛んに仕事へ取り組んだ。
二章開始です。




