第53話…殲滅の赤竜
北部貴族の代表格であるヴィーグ伯爵隷下の騎士エイリク・ダッグスは、主の政敵とも言える北部総督の側室の後ろで自分に向かって舌を出す碧竜に怒りを感じた。
『畜生ごときが誇り高い騎士に対して舌を出して馬鹿にするとは!』と怒りを感じる。
しかし、少し冷静になって考えると相手は人間ではなく竜なのだから舌を出す意味も違うのだろうと怒りを沈めた。
狩猟犬が激しく走り回った後に舌を出して息をしていても、別に人間を馬鹿にしているわけではないのと同じだ。
そう考えるダッグス卿だが、人間並みの知能を持つ…というか中身が人間の碧竜ハルが舌を出す意味は悪意その物であり馬鹿にしてるのである。
ダッグス卿の前で北部総督の側室と獣人の少女が碧竜の背に乗る。
2人とも整った顔立ちをしているが、その美しさもダッグス卿には北部総督の好色さを表す不快な物でしか無かった。
「なっ?!どういうつもりだ!」
ダッグス卿は、北部総督の側室に『氷壁都市』の総督府に戻るように言った。
『氷壁都市』は開拓村の南側にある。
それなのに、碧竜は北を目指して飛び始めたのだ。
「ふざけるな!!」
開拓村より北は人が住まない未開の地。
未開地からの亜人や魔獣の襲撃を監視する小さな砦があり、その先には海が広がっているだけだ。
そんな地を見られたところでヴィーグ伯爵は困らない。
しかし、北部総督がヴィーグ伯爵に無断で数百の兵を凌ぐ真竜という戦力をヴィーグ伯爵領内で好き勝手に動かした事実には違いないのだ。
「ざまぁ!」
自分が小鬼王を倒すのを邪魔する形になり、さらに開拓村を救ったユーリアと狐嬢にお礼も言わずに嫌みな態度を取るダッグス卿への嫌がらせとして、わざとダッグス卿が嫌がるように北へ飛んだハルの念話を理解出来なかった事はダッグス卿にとって幸運だったかもしれない。
そして、彼が雪小鬼王一本牙を逃がすために、わざとハルの竜の息の射線に入り攻撃を邪魔した事にハルが気づかなかった事も幸運だっただろう。
気づいていたのならダッグス卿の身体はハルの爪で引き裂かれていただろうから。
「ハルさん!そちらは北!北です!南に向かって下さい!」
自分の背中で慌てた声を上げる狐嬢にハルは…
「狐嬢、少し散歩してから帰ろうぜ」
と、笑った。
その悪戯のような嫌がらせが、大事件の原因になると気づく者が誰も居ない事は、誰にとって幸運だったのだろうか?
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北部総督府。
リーヴァは、死人のような眼をした侍女に手伝わせ着替えていた。
リーヴァの両腕と両脚を覆うのは長手袋と長靴下。
そして、その身体を覆うのは、あまりにも破廉恥な衣装だった。
夫が『スリングショット水着』とか呼んでいたV字型の服とも呼べない布。
女が夫以外には決して見せてはいけない胸の頂点と股間部はギリギリ隠れているが、そんな事は何の言い訳にもならないだろう。
こんな姿で人前に立ったと知られたなら離縁を言い渡されても不思議はない。
もしくは、夫は自分を他人の眼に触れないように軟禁でもするだろうか?
そんな事を考えながらリーヴァは、魔法の巻物を手にした。
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「お前でも無理か?」
冒険者オーツォは、人間より身体が小さく、高い隠密行動スキルを持つ小妖精の斥候トントに言った。
「いやいや、俺が忍び足や潜伏が得意って言っても姿が消えるわけじゃないからね。
あれだけの人数が警戒してたら近づくのも無理だって」
『氷壁都市』の北に広がる森の中。
『氷壁都市』北の防壁の地下に掘られた抜け穴の出口を見つけた冒険者オーツォたちは、抜け穴の入り口の地面に小鬼の物らしい足跡を見つけた。
その存在を疑問に思い調べていたオーツォたちは抜け穴から出てきたヴィーグ伯爵と護衛の騎士たちを発見。
どうやらヴィーグ伯爵は、森の中で何かやるつもりらしいのだが、多数の騎士たちが警戒線を形成し隠密技術に優れるトントすら近づけない状況。
オーツォたち3人は警戒線から距離を取って隠れているため騎士たちに発見されてはいない。
しかし、このまま隠れていてはヴィーグ伯爵が厳重な警戒線を敷いてまで何をやろうとしているか知る事は出来ないだろう。
「それで、どうなっているのかしら?」
斥候とは名ばかりで実際には盗賊と変わらないトントが使う盗賊たちの目印を辿ってきた、死んだような眼をした侍女を従えたリーヴァが3人に声をかけた。
夫ジャスパーの物だろう氷狼の毛皮の外套を着ているリーヴァ。
「ヴィーグ伯爵が、この先で秘密裏に何かをやろうとしているのは確かですが。
これ以上、見つからないように近づくのは、透明にでもならなければ不可能です」
「そう、わかったわ」
リーヴァは外套のボタンに指をかけた。
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「こうして顔を会わせるのは、どのくらいぶりだ?」
多数の騎士たちに厳重な警戒をさせながらヴィーグ伯爵は密会していた。
「下らン挨拶はイらん!」
密会相手は訛りが酷いズライグ語を話す大柄な雪小鬼と取り巻きの10匹ほどの雪小鬼。
「2度モ竜騎士の襲撃を受ケタ!これヲ偶然トハ言わせンぞ!」
激高する雪小鬼王一本牙。
一本牙の群れは2度の碧竜との戦闘で壊滅状態となった。
元々の一本牙の部下は30匹にも満たない。
一本牙に協力した他の群れも2度の失敗で逃げ散り、今後は一本牙に協力する事は無いだろう。
一本牙の勢力の再建には永い時が必要になるだろう。
下手をするならば、厳しい冬を越すための他の群れや種族と争いに負け群れ自体が存続出来なくなる可能性すらある。
「ヴィーグ伯爵は竜騎士の襲撃には関わっていない。
証拠に貴様を助けただろう?」
ハルの射線を遮り一本牙を助け、ここまで案内してきたダッグス卿が言い訳する。
一本牙は不快げに鼻を鳴らすが、ダッグス卿の話に信憑性があると判断していた。
一本牙との協力関係を破棄するなら、一本牙が竜に焼かれるのを黙って見ていれば良かったのだから。
「わしとしては貴様との協力関係を破棄するつもりはない。
今まで通り、開拓村の戦利品は貴様らの物だ。
代わりに貴様らは他の村々を襲わず、他の小鬼の群れを抑え、北に異変があったならば知らせる役割を頼みたい」
ヴィーグ伯爵は部下に腕を振って指示する。
部下が牽いてきたのは、背に荷を満載した数頭の農耕馬。
一本牙は、賠償品のつもりだろう農耕馬を見る。
背に積まれているのは、大きな麦袋、多数の衣服、様々な鉄製の品。
それだけの物があれば群れの再建の大きな助けになるだろう。
一本牙が賠償品に手を伸ばそうとした時。
「そう、そんな事をしていたのね」
いきなり、美しい女の声が響いた。
「誰だ?!」
誰何するヴィーグ伯爵の眼に映ったのは、V字型の紐に近い布で形が良い胸の頂点部だけを隠し、脚の付け根の皺が見える程に股間部の左右をギリギリまで露出した美姫。
「ヴィーグ伯爵、何か言い訳の言葉はあるかしら?」
リーヴァ・ファーウッド=ペンズライグは、口元を扇子で隠しながら冷たい視線をヴィーグ伯爵に送った。
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辺りを警戒していた護衛の騎士たちも小鬼たちも美姫の接近に気づく事はなかった。
当然だろう。
姿を消す魔法具を身に付け忍んでくる相手など想定するわけも無いのだから。
「『隠れ蓑』の魔法具か…」
家臣の老賢者より魔法具の知識を得ていたヴィーグ伯爵は、いきなり姿を表したリーヴァのカラクリを魔法具だと見抜く。
状況はヴィーグ伯爵にとって非常に悪いが、最悪でもない。
亜人を敵とするズライグ王国で小鬼との裏取引を知られればヴィーグ伯爵は破滅だ。
だが、それを知ったのは目の前の半裸の美姫のみ。
護衛の1人もなく、小剣の一本すら帯びていない無力な小娘。
なんとも愚かな事だ。
王族である自分が命ずれば下々の者は無条件に従うとでも思っているのか?
ヴィーグ伯爵が、膝をついて許しをこうとでも思っているのか?
ヴィーグ伯爵の周りには屈強な護衛騎士たち、一本牙の周りには武装した小鬼たち。
それらが一斉に襲いかかったなら、目の前の小娘は女に産まれた事を後悔するような羽目になり、その遺体は誰の目に触れる事なく消え去る事になるだろう。
それなのに、目の前の小娘には危機感が全く感じられない。
「リーヴァ殿下…お一人で来られたのは失策でしたな…」
ヴィーグ伯爵が家臣の騎士たちにリーヴァ王女を亡き者にせよ、と命令を下そうとした時。
リーヴァは太ももに括り付けていた1枚の羊皮紙を手にする。
「巻物か?!」
使い捨てで、魔法効果を発揮する魔法具巻物。
「『守りの壁よ』」
ヴィーグ伯爵は、部下に攻撃の指示を出しつつ、『守り』の効果の魔法具を起動する。
リーヴァ王女の巻物は、王女の切り札と呼べる効果があるのだろう。
噂に聞く、広域攻撃魔法『火球』か?
だが『守り』の効果があれば少なくとも即死だけは無い。
そして、『火球』の巻物だったとしても複数の方向から一斉に襲いかかる騎士たち全てを一撃で倒すなど不可能だ。
騎士たちの顔に好色な表情が浮かぶ。
目の前の美しい姫君を生きたまま捕らえられれば、その身体を好き勝手に蹂躙出来ると想像しての嫌らしい表情。
そして、リーヴァは叫んだ!
「グラァァァァームッ!!殲滅せよっ!」
『取り寄せ』の巻物の効果により、空間を歪めて出現する赤き竜の末裔。
赤い鱗に覆われた身体に、太く強靭な後ろ脚。
頭には4本の角が伸び、口から覗くのは鋭い牙。
翼状の腕を広げ、尻尾立てて威嚇の咆哮を上げるズライグ王国最強の魔獣。
今から15年前。
2つの世界に仇なす邪神が送り込みし邪悪なる魔竜を討つために、この世界が産み出せし『魔竜殺しの宝剣』
人よ!刮目せよ!
世界の守護者は此処に居る!
かつて世界を守った偉大なる赤き竜の末裔は此処に居る!
知恵も力も失い獣に堕ちたとて、それでも戦う勇壮なる赤竜は此処に居る!
「ギャオオオーッ!」
赤竜グラムは咆哮する!
赤き竜の長の末裔と共に戦うために咆哮する!
しかし、騎士たちは赤竜を前にしても怯む事など無い。
いかに最強の竜種といえ、身長1メートル程度の幼竜など恐れるものか!
騎士たちは武器を構え突進する。
幼竜の戦闘力は重装歩兵に匹敵するという。
1対1ならば熟練の騎士とすら互角に戦えるという。
だが、今の敵の数は1人や2人では無い。
数とは力だ!
仮に騎士が1人や2人倒れようと、その刃はいずれ幼竜に届くだろう。
仮に幼竜を倒せなくとも1人が幼竜の攻撃を躱しリーヴァ王女を襲うだけで勝敗は決する。
負けるはずの無い、圧倒的有利な状況に騎士たちは武器を振り上げた。
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1つ疑問がある。
亜竜には獣並みの知能しかない。
彼らにとっては人間など、食べても不味いから食べない程度の肉の塊でしかない。
そんな4匹の亜竜に、リーヴァが『痛みの短剣』で刺し、耐えられぬ程の激痛を与えた。
人間を肉の塊程度にしか考えない亜竜翼竜の幼竜たちが何故リーヴァに反撃しなかったのか?
何故、リーヴァの与える罰を甘んじて受けたのか?
理由は簡単だ。
怖いからだ。
彼女が怖いからだ。
彼女の主を傷つけ、彼女の怒りに触れるのが怖いからだ!
「消えっ?!」
疑問の言葉を言い終わる前に騎士たちの首は肩の上から消えていた。
地面を蹴る強靭な後ろ脚と空を叩く頑健な翼に裏打ちされ魔力消費の追加により発生する圧倒的な瞬間加速。
その速度は、人間の反射神経を凌駕する。
1国の王女が護衛らしい護衛を連れずに出歩ける理由が此処にある。
上位種たる真竜とすら互して戦う最優の亜竜『殲滅の赤竜』
金属鎧を身に付けていたのなら、騎士たちはグラムの一撃に耐えられたかも知れない。
強力な魔法具が有れば、その動きを止められたかも知れない。
だが北部の寒さは騎士たちに金属鎧の装備を許さず。
魔法具使いの老賢者は、この場には居なかった。
「ぐがっ!?」
魔法の守りにより即死を免れたものの、体当たりの一撃で吹き飛ばされ大木に激突するヴィーグ伯爵。
身体がバラバラになるかと思う衝撃に耐え、ヴィーグ伯爵が立ち上がった時。
彼の目に映ったのは、赤い鱗を真っ赤な血でさらに染めた赤竜と死体の山の前で恍惚の笑みを浮かべる美姫の姿だった。




