第3話…最強の魔獣
「リンゴ!リンゴ!」
食後のデザートとして持ってきた三個のリンゴ。
ズライグ王国では一般的な果物だが、ハルには久しぶりのマトモな果実。
アンリエットが小さなナイフで皮を剥く時間も待ちきれず、ハルはアンリエットの周りをグルグル回る。
「竜さん、もう少し待って下さいね」
「そんなに早く食べたいなら自分で剥いたらどうだ?」
「私の手は細かい作業をするように出来てない」
ハルの手足の指は人間のように五本あるのだが、短い上に鋭い鉤爪が付いている。
そして人間の指のような器用な動きは出来なかった。
「はい、竜さん」
アンリエットは剥いたリンゴをハルに差し出すと、受け取ったハルは丸ごと大きな口に放りこみ噛み砕く。
「甘酸っぱい!」
久しぶりのリンゴに喜ぶハル。
アンリエットは花嫁修業の一貫で身につけた見事な技術で二つ目のリンゴの皮を繋げたままクルクル剥いていく。
リンゴ一個を食べ終わったハルは、もっと欲しいと大きく口を開けてアピールしている。
「卑しいぞハル、そんなに餓えてるのかよ」
「ずっと葉っぱとか木の根とか食べてたんだぞ!獲物を捕まれたら肉も食べれたけど生肉か丸焼きだったし」
二個目のリンゴを剥き終えたアンリエットはハルにリンゴを差し出す。
「私の分も食べていいですよ」
「この恩は忘れない!」
ハルが二個目のリンゴを口の中に放り込もうとした時だった。
小川を挟んで向こう岸の茂みが派手に揺れた。
「何だ?」
ジャスパーは一応程度に警戒して腰の長剣に手をかける。
しかし、あくまで一応程度の警戒だ。
この場所には何度も遠乗りに来ている。
猛獣や魔獣の類いが出没した事は無かった。
今までは…
「きゃああああー!」
「大猪?!こんな化け物が何故ここに?!」
「豚肉っ!!」
茂みより走り出してきたのは体長3メートル以上はある巨大な猪だった。
大猪と呼ばれる、この猪は普通の獣ではない、この大猪は魔獣と呼ばれる体内に魔力を溜め込み物理法則を無視した能力を発揮する怪物。
その出現にアンリエットの悲鳴が響き、ジャスパーは背中に冷たい汗を流しながら長剣を抜き、ハルは体重300~400kgはある大猪から取れる肉の量を考える。
「ハル、アンリエット殿、ゆっくりと馬の方へ」
まず女性を守らなければ、騎士家の人間として男として当然の判断からジャスパーは二人に庇い大猪の正面に立ち剣を構える。
ジャスパーの長剣は刀身90cm、重さは1.1kg。
柄が通常の片手剣より長く、片手でも両手でも使える片手半剣。
片手で使うには柄が長く邪魔で、両手で使うには刀身が短く間合いが狭い、さらに重心が片手剣とも両手剣とも違うため独自の訓練が必要という、何とも評価に困り普及してない剣なのだがジャスパーは気に入り愛用していた。
その長剣をジャスパーは両手で構え突進してくる大猪と対峙する。
しかし、そんなジャスパーの前にリンゴを咀嚼しながら体長1メートルしかない小さな竜が立つ。
「豚肉よ、私は今とても機嫌が良い、見逃してやるから森に帰るが…」
「ハル!逃げろ!」
ジャスパーの叫びも虚しく偉そうな事を言いながらハルは突進してきた大猪の牙にかかり上に投げ飛ばされた。
「ハルーっ!!」
ジャスパーは空中に吹き飛ぶ妹を見て絶叫する。
しかし悲しむ余裕すらない。
ジャスパーの後ろには怯え震えながら必死で馬の方に向かう少女。
彼女を守らなくてはならないのだ。
しかしジャスパーは自分の実力を理解していた。
幼い頃から武芸を叩き込まれたジャスパーの剣技は決して悪くない。
1対1で戦うならば、簡単な訓練しか受けていない農民兵はもちろん、普段から衛兵などとして雇われ訓練を受けている正規兵にすら勝利する技量があるだろう。
しかし、正規の騎士と比較するならジャスパーは若く経験も訓練も足りず、体格にも恵まれないため一段劣るだろう。
そんな技量で目の前の巨大な魔獣に勝てるのか?
「突進をギリギリで躱して横から剣を叩きこむ」
自分に言い聞かせるように小さく呟くジャスパー。
ブォォォーッ!
そんな雄叫びと共に突進してきた大猪をジャスパーは言葉通りにギリギリで右に避け、両手で握った長剣を首の辺りに叩きこんだ。
「硬い!?」
並みの猪ならば、この一撃で終わっていただろう。
しかし、この大猪は、ただの獣ではない、魔獣だ。
その毛皮は魔力により硬質化し、その強度は蝋で煮込んで硬化した硬革鎧にすら匹敵した。
さらに毛皮の下の筋肉の厚さ強靭さも人間の比では無い。
結果、ジャスパーの長剣は、首に食い込み、傷を与えたものの致命傷とはならかった。
傷つけられた大猪は怒り狂い、再びジャスパーを狙う。
長剣を振り下ろしても斬れないと悟ったジャスパーは、今度は大猪の突進力を利用したカウンターを狙う。
突進してきた大猪に長剣の突きを放ち、相手の突進力を利用して分厚く硬い毛皮を貫く。
「来い!化け物!」
ジャスパーは自分を奮い立たせるように叫んだ。
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「師匠は言っていた『食べ物の恩と恨みは決して忘れてはならない』と」
上空に撥ね飛ばされたハルは小さな翼でブレーキをかける。
そして自分に古流武術を教えてくれた師匠の言葉を思い出していた。
『食べ物の恩と恨みは決して忘れてはならない』
食い意地が張っており意地汚い生き物だった師匠の言葉。
あのアンリエットという少女が怯えているのが見えた。
彼女は震えて萎えた脚を必死で動かし馬の方に向かっていた。
サンドイッチを貰った、リンゴを貰った。
その恩を忘れてはならない。
ならばこそ!
今こそ見せよう!最強の魔獣たる力を!
「婦女子を怯えさせるなど言語道断!私は訴訟も実力行使も辞さない!」
師匠より受け継いだ古流武術。
戦国時代より継承され続け、とっくに廃れて師匠と師匠の親類の何人かしか使い手がいないという古流武術・霧宮流。
その技を使う時が来た!
ハルは翼を大気に打ち付け加速する、狙うは巨大猪。
霧宮流の蹴りを受けるがいい。
「霧宮流格闘術・奥義っ!竜っ爪っ脚っ!!」
そう叫びながら上空より落下してきた小さな竜の蹴りは、巨大な猪の頭蓋に突き刺さり、その骨を粉砕した。
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「えっ?」
目の前の光景にジャスパーは我が目を疑う。
ハルの大きさは、わずか1メートルで、体重も軽い。
それが落下によるスピードがあったにせよ、硬い毛皮と頭蓋骨を撃ち抜き粉砕するなど、あり得ない光景だった。
「見たか!無敵の霧宮流の技を!!」
大猪の亡骸の上で勝利の雄叫びを上げるハル。
その様にジャスパーは、あいつを怒らせるのは程々にしようと誓った。
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門。
異界と繋がる次元の穴が開いた事により、異界から魔力が流れこんだ。
それによりズライグ王国の各地で魔獣が活性化し普段は人里に近づかない魔獣までも凶暴化し人里を襲う事になる。
このセイブルの地でも近隣に生息する魔獣が凶暴化し人里へと姿を現そうとしていた。
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「こんな化け物が人里近くまで姿を表すのは珍しいな」
ジャスパーは、安心して気が抜け動けなくなってしまったアンリエットを介抱し、ハルは体長3メートルはある大猪の上で勝利のポーズを決めている。
セイブル近郊は比較的安全で凶暴な魔獣が出現する事は少ない。
だからジャスパーは大猪は例外中の例外としか思っていなかった。
運悪く人里近くに迷いこんだ個体と遭遇しただけだと思っていた。
「この大きさだと、かなりの肉が取れるな、村に知らせて人を集めて運んでもらおう」
「兄貴、この豚肉は私が仕留めた獲物だ!私は所有権を主張するぞ!」
「ただ丸焼きにして食べるよりも調理した方が旨いだろ
村の皆に肉を配ってもハルが満腹になるくらいの量は残すさ」
「豚肉料理…豚汁、生姜焼き、豚丼、角煮、豚カツ、豚しゃぶ…」
ハルは日本で食べれる豚肉料理を想像するが、残念ながらセイブル村では味付けは塩と香草くらいで香辛料なんて貴重品は領主一家であるジャスパーたちすら滅多に口に出来ない。
ハルが想像するような料理は無理だろう。
それでも丸焼きよりはマシだろうが。
「アンリエット殿、もう大丈夫ですから」
ジャスパーは、自分にすがり付き震えているアンリエットの頭を撫で慰める。
ジャスパーは油断していたと言っていい。
彼は即座に、この場を離れ屋敷に戻るべきだった。
門が開いたため魔獣が活性化し凶暴化したなどジャスパーに知るはずも無かった。
それ故に彼は状況判断を誤った。
「ジャスパー様っ?!」
怯えていたが故にアンリエットが最初に、それに気づいた。
再び向こう岸の茂みが激しく揺れるのに。
それも今度は1つでは無い、茂みから顔を出したのは複数の魔獣だった。
「犬だな」
能天気にも聞こえるハルの声にジャスパーは叫ぶ。
「違う!魔狼だ!」
普通の狼と比較して明らかに大きな2メートル近い体躯の魔狼は危険な魔獣だ。
4頭から10頭の群れを形成し連携して狩りを行う。
その身体能力、凶暴性は狼と比較にならず、十分な護衛をつけた隊商が魔狼の群れに襲われ全滅した例も珍しくない。
そして通常は10頭居れば大規模と呼ばれる群れが…
「20頭を越える群れ…そんな話は聞いた事も無いぞ」
ジャスパーはアンリエットの手を左手で取る。
さらに大猪の上のハルに声をかける。
「ハル!来い!」
「何だ兄貴?」
ノテノテと短い脚で歩きハルはジャスパーに近づく、そしてジャスパーの右手に抱きかかえられる。
「おう?」
怪訝な顔のハルに構わずジャスパーは、魔狼の群れに背を向けないように、ゆっくりと馬の方を目指す。
身を翻して全力疾走で逃げ出したい衝動に駆られるが、肉食獣相手に背中を見せる危険性をジャスパーは理解していた。
ゆっくりと、ゆっくりと、相手を刺激しないように…
そう考え動くジャスパーを魔狼は唸り威嚇する。
板金鎧を纏い1対1で戦うならジャスパーに魔狼に勝てる可能性はある。
しかし、今のジャスパーの武装は長剣のみで鎧を身につけているわけでは無い。
魔狼の牙ならば簡単にジャスパーの身体を喰いちぎるだろう。
そして1対20では戦いにすらならない。
それでも、何とか馬の所まで行ければ逃げきれる可能性はある。
しかし、魔狼は魔獣であり普通の狼より高い知能を持っていた。
彼らは木に繋がれ自由に動けない馬を仕留めれば人間たちは逃げられない事を理解していた。
そして身体が大きく、数が多い魔狼の群れには大量の食料が必要なのだから、獲物を逃がす事などあるわけがない。
恐怖に震えるアンリエットと緊張で真っ青なジャスパー。
魔狼の群れに遭遇した少年少女には当然の反応だろう。
魔狼の群れは分かれジャスパーたちを包囲するように動く。
一部は馬を狙い、一部はジャスパーたちを牽制し、一部は大猪の死体を確保するように動く。
そしてジャスパーの右手に抱えられたハルは欠伸する。
久しぶりの人間らしい食事で腹は満たされている。
あの巨大な豚肉があれば今夜の食事も期待出来る。
それなのに…
「あーっ!!」
魔狼を刺激しないように無言で退がるジャスパーの腕の中でハルが叫ぶ。
「ハル!静かに!」
ジャスパーの叱責もハルの耳には届かない。
ハルの眼に、それは映っていた。
ハルが仕留めた大猪の腹を喰い破り内臓を食べる魔狼の姿が映っていた。
「おのれ糞犬ども!私の豚肉を横取りするなど絶対に許せん!」
その生き物こそは最強の魔獣、真竜。
食べ物の恩と恨みを決して忘れない真竜ハル。
ハルは怒りに震える。
例え、相手が土下座して謝ったとて許す事など有り得ない。
「師匠は言っていた!人の食べ物を奪う輩に生きる資格など無いと!私は訴訟も実力行使も辞さない!」
ハルはジャスパーの腕から飛び出す。
「止めろハル!」
ハルの戦闘力が、意外と高い事は理解した。
しかし、20匹もの魔狼に勝てるわけがない。
ジャスパーはハルを止めようとする。
だが…
風が吹いた、灼熱の砂漠を駆けるような熱風が吹いた。
それは体長1メートルしか無い小さな竜の幼体から吹き付けていた。
ハルの体内に蓄えられていた魔力が物理的に有り得ない現象を産み出す。
それこそが魔獣の証し、ハルの身体は熱風と光に包まれ物理法則を凌駕する。
光は肥大し輝きを増し、その光が消えた時、そこには巨大な魔獣の姿があった。
体長7メートルの巨体。
蛇を思わせる長い身体に鋭い鉤爪が付いた強靭な四肢を持ち、分厚い皮膜の大きな翼。
頭部は鰐を思わせ鋭い歯が剥き出しに並んだ口と頭頂部より後ろに流れる二本の角。
全身を覆う鱗は見るからに硬く、青と緑の中間の美しい碧色に輝いていた。
それは最強の魔獣、天を駆け、炎を吐き、鋭い牙と爪は鋼鉄すらも引き裂き、その鱗は硬く如何なる刃も通す事はない。
亜竜とも下位竜とも違う真なる竜。
真竜の成竜が其処に居た。
獲物を横取りされた真竜ハルは怒りの咆哮を上げた。
その大きく開けた口内に光が見えた。
赤い炎の輝きだった。
竜の息
竜最強の攻撃である口から吐く炎。
此処に至り、自分たちが襲った相手が遥かに格上な怪物と知った魔狼たちは悲鳴を上げて逃げようとした。
しかし怒り狂う竜の炎から逃れる事など出来るはずも無かった。
ハルの口から吐き出された炎は魔狼の群れを軽々と焼き付くした。
逃げようと必死で走る魔狼をハルは僅かに首を動かすだけで補足し焼き払う。
そして後に残ったのは焼け焦げた元は草原だった地と、二十二体の焼き付くされた死体だけだった。
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「ハル…なんだよな?」
「他の誰に見えるんだ?」
「えーと…巨大な竜?」
「お…おう…」
ジャスパーは巨大化した妹だった者を見ていた。
その姿は余りにも恐ろしく、余りにも美しかった。
ズライグ王国の紋章にも使われている最強の魔獣たる竜。
「ところでハル」
「何だ兄貴?」
「一緒に馬まで焼いてしまったな」
「仕方なかった…」
焼け焦げた馬の遺体の喉元には魔狼の牙が突き刺さっていた。
ハルの竜の息に巻き込まれなくても絶命していただろう。
「仕方ないな、乗れ兄貴」
ハルは地に伏せ、ジャスパーとアンリエットに背中に乗るように促す。
ハルの背中には二列のトゲがあり、その間は人間が乗るのに調度良い隙間がある。
長いトゲに捕まれば振り落とされる危険も少ないだろう。
「じゃあセイブルの村まで運んでくれ」
「了解」
ジャスパーはアンリエットをいわゆるお姫様抱っこに抱えるとハルの背中に跨がった。
「アンリエット殿、しっかり捕まって」
「はい!」
ジャスパーは柔らかい少女の身体の感触に赤面しつつ竜の背に乗り空を駆けた。
これが後に『碧の竜騎士』と呼ばれる英雄が誕生した瞬間だった。
巨大な竜の出現にセイブルの村がパニックになるのは、少し後の話である。