第18話…天気雨
「狐嬢さん、もう大丈夫です」
狐嬢の胸に顔を埋めていたジャスパーは、そう言って立ち上がる。
まだ膝は震えている。
それでも、再び立ち上がらないといけない。
まだ地獄は終わっていないのだから。
「騎士様…」
狐嬢の心配そうな視線。
ジャスパーは無理やり笑ってみせる。
心配そうな少女に笑いかけ安心させようとする。
「ハル、迷惑かけた」
それは戦場で醜態を晒した事の謝罪。
ハルは、それを解っていて、わざと勘違いしたふりをする。
「そうだぞ兄貴!可愛い妹を盾にするとは何事だ!
私は訴訟も実力行使も辞さないぞ!」
「そうだね、後で御飯を奢るよ」
「うむ!ご馳走を所望する!」
そんな馬鹿話をしながら兄妹は再び飛び立つ。
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「風俗街の方に小鬼は少ないみたいだな」
上空からジャスパーは風俗街周辺を俯瞰する。
荷車に荷物を満載して避難する狐嬢の店の人々。
他の店の人々も避難を始めている。
ジャスパーが見るところ、風俗街だけ敵の侵入が少ないようだ。
これは風俗街に深夜まで営業する店が多い事に起因した。
廃都市への侵攻を計画した闇妖精たちは、深夜でも起きている人間が多い風俗街より寝静まった区画への攻撃を優先した。
起きている相手より寝ている相手の方が簡単に殺せる。
そんな当たり前から風俗街は攻撃目標から外された。
それでも頭が悪い小鬼たちの事、全ての小鬼が作戦通りに動くはずもない。
少数ながら風俗街へ侵攻した小鬼の群れはあった。
それを撃退出来たのは、深夜の風俗街にとって揉め事は日常茶飯事であり、それを解決するために用心棒を雇う店が多かったからである。
つまり風俗街の各店には用心棒という武力があり、少数の小鬼程度の敵を撃退する事が出来たのである。
「ハル、南門までの道を確保しよう」
「任せろ!」
「狐嬢さんは、しっかり掴まっていて下さい」
「はい!」
狐嬢が落ちないように抱きしめながらジャスパーは南門までの道を確認する。
「小鬼の姿はないな」
「風俗街の連中は脱出出来そうだけど、他はどうする?」
「ハル、僕たちだけで何でも出来るわけじゃない」
廃都市の各地で虐殺も略奪も続いている。
逃げられる人は、ほんの一部だろう。
そう解っていても、ジャスパーとハルだけの力で助けられる人には限りがある。
今から他の地域に助けにいって、その間に隠れていた小鬼の群れが風俗街の避難民を襲うかもしれない。
だからジャスパーたちが護衛を止めるわけにはいかない。
風俗街の店の人々、店を訪れていた客、風俗街近隣に住む人々。
その人数は廃都市全体からすれば少数でも、簡単に避難出来る人数ではないのだから。
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空が白み始める少し前。
廃都市を襲った亜人軍別動隊は撤収し始める。
夜が明ければ異変を察知した辺境砦から軍が派遣されてくる可能性はある。
多数の戦利品を抱えたままで戦う程に亜人たちは間抜けでは無い。
近くの森の中にある遺跡に続く地下道に亜人たちは撤退してくる。
「間もなく夜が明ける。
急ぎ遺跡まで引くぞ!」
そう命ずる亜人軍別動隊の名目上の指揮官ヨーク。
実際に廃都市襲撃を計画し指揮した闇妖精シャンディエンの姿は見えないが、隠れ蓑の魔法具を持つシャンディエンの事だ。
何か新しい陰謀を企み、軍と別行動をとっているのだろう。
シャンディエンから戦利品の運搬を任された闇妖精たちも彼女の心配などしていないようだった。
ヨークは、この度の『狩猟期』初の勝利に浮かれる部下たちを見る。
皆の表情は明るく、手にした戦利品を自慢し、自分の武勲を誇っていた。
猪鬼にとって最も重要な武具を造るための多量の鉄、倒した敵兵士から奪った武器防具、武器屋から略奪してきた多数の剣や槍もある、一度の略奪の戦果として十分な量だろう。
猪鬼から見ればガラクタにしか見えない道具類や衣類を抱える小鬼たち。
街の食料庫から保存食を奪ってきた岩鬼たちは干し肉や燻製を齧り酒樽から酒をがぶ飲みしている。
この勝利で、頭が悪い小鬼や岩鬼にも猪鬼の指揮に従えば戦利品を得られると理解出来ただろう。
「地下道を塞ぎながら退くぞ」
亜人軍が、どこに撤退したのか知らせないように地下道を潰しながら遺跡に向かう。
撤退時刻までに戻ってきていない間抜けがいないわけでは無いが、ヨークは間抜けを待つつもりはなかった。
多数の戦利品を得た亜人軍別動隊は、その名前のように廃墟となった廃都市から撤退していった。
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夜が明けた。
朝日の中、太陽は見えているのに雨が降っていた。
廃都市からの避難は夜明けまで続いた。
各所に火を放たれた廃都市は、もはや人が住める場所ではなくなっていた。
何より亜人軍が、どこから攻めてきたのかを理解している者はいない。
仮に街に戻り再建させても、いつ再び亜人軍が攻めてくるのかわからないのだ。
そんな場所に安心して住む事など出来ないだろう。
様々な土地から廃都市に流れ着いた人々は新しい安住の地を探して旅立つしかなかった。
思い思いの方向に散っていく避難民たち。
その中に狐嬢の店の荷車もあった。
「狐嬢…元気でな…」
「ハルさんも…」
天気雨の下、ハルと狐嬢は抱き合って別れを惜しむ。
これからの娼婦たちの旅は過酷な物になるだろう。
どこかの街まで辿り着くまで野獣や盗賊に襲われる事もあるだろう。
仮に街まで辿り着く事が出来ても娼婦を違法とする街は多いし、娼館があるような街は街で競争相手となる余所者を排除しようとするだろう。
店を再建するためには、多くの金とコネと運が必要だろう。
狐嬢はジャスパーに駆け寄り、その首に腕を回し軽く口づけした。
「騎士様もお元気で」
そう笑う獣人の少女。
ジャスパーは考える。
亜人軍との戦いが続くズライグ王国ではアニュラス界土着の亜人であっても偏見や差別の意識が強い。
廃都市の娼婦の中で特筆する美少女である狐嬢が他の娼婦より安い金額で客をとっていたのも、獣人を抱けば呪われるとかいう迷信が流布されていたから。
定住していた廃都市でもそうなのだから、旅先での偏見や差別は、さらに過酷であろう。
それは戦争の最前線である辺境砦より危険なのではないだろうか?
いや、違う。
そんな事では無かった。
ジャスパーの心にあったのは嫉妬と独占欲。
これからも狐嬢という少女が娼婦として客をとり、他の男に抱かれる事への嫉妬と。
自分が始めて抱いた女をずっと側に置いておきたいという独占欲。
ジャスパーは、それを自覚しながら認めようとしなかった。
だから別の理論武装をする。
産まれた土地で一生を過ごすのが一般的なズライグ王国で余所者、それも亜人の少女が過ごすのは過酷であるから、辺境砦で竜騎士の庇護下で暮らす方が良いだろう、と理論武装する。
だから、荷車を引き行こうとする女将にジャスパーは言った。
「女将さん、彼女を!狐嬢さんを身請けしたい!」
ジャスパーは財布を探る。
その中には大金貨。
ズライグ王国で一番価値がある貨幣。
娼婦の身請けに必要な金額をジャスパーは知らない。
だから一番価値がある大金貨を女将に差し出す。
「これで狐嬢さんを身請けさせてほしい」
女将は大金貨とジャスパーの顔を交互に見て、ため息をついて首を横にふった。
それは狐嬢を売れないという意思表示。
「これで足りないなら、少し待ってほしい!
足りない分は必ず用意します!」
砦には、まだ蓄えがある。
それでも足りないなら辺境伯に頭を下げて金を借りてもいい。
そう思いジャスパーは女将に頭を下げた。
狐嬢を身請けさせてほしいと頭を下げた。
そんなジャスパーに女将は言った。
「騎士様、足りないんじゃくて、大金貨なんて貰っても釣り銭が出せないです」
「うぇ?」
廃都市で買い物する時に金貨でさえ釣り銭が無いと断れたのだ、大金貨などで買い物をしても釣り銭が出せなくて当たり前だろう。
「では、釣りはいりません!
それならいいんですよね!」
「えっ?騎士様…?」
その申し出に一番驚いたのは狐嬢だった。
自分に大金貨一枚の価値なんてあるわけがない。
獣人の亜人で、清らかな身体なわけでもない娼婦に大金貨を出すなんて馬鹿のする事だろう。
「本当に、本気なんですか?」
女将の声が上ずる。
女将は普通の平民が一生、目にする事さえない大金貨を震えながら受け取る。
そして狐嬢を抱きしめた。
「狐嬢、お前にこんな大金を出して下さるんだ。
きっと、この方はお前を大事にしてくれる。
幸せになるんだよ狐嬢」
「女将さん…ありがとう」
泣き出しそうになる狐嬢に女将は明るく言う。
「せっかくの門出なんだ、涙はいらないよ!
笑いな狐嬢!元気でね!」
女将は狐嬢の手をジャスパーに握らせる。
「この子をお願いします騎士様、幸せにしてやって下さい」
それが別れの言葉だった。
「狐嬢ーっ!!」
「ハルさん、苦しいです」
ハルが狐嬢にきつく抱きつく。
三人は遠ざかる荷車が視界から消えるまで見送り続けた。
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「ジャスパー卿!無事だったか!」
ジャスパーが辺境砦に戻ると、砦には廃都市の壊滅が伝わっており、ジャスパーの安否を心配していたユーリアが駆け寄ってきた。
ジャスパーに怪我がない事に安堵したユーリアは、そこで始めてジャスパーの腕の中の少女に気づく。
狐の耳と尻尾を持つ獣人の美少女に気づく。
「ジャ…ジャスパー卿…彼女は…?」
震える声で問うユーリアにジャスパーは困る。
「あ~!え~と!」
ジャスパーは何て答えるかと迷い。
狐嬢がユーリアに答えた。
「この方の物となりました、狐嬢と申します。
以後お見知りおき下さいませ」
そう言って狐嬢はジャスパーの首に両腕を回して見せた。