第16話…燃える街
兄は新しい物を欲しがらない性格だった。
服も鞄も文房具もボロボロになっても使い続ける人だった。
見かねた両親が新しい物を買い与えようとしても『まだ使えるから』と使い続ける人だった。
他人からは、ケチとか物持ちがいいとか見られる兄。
しかし、妹は少し違うと知っていた。
兄は『自分の物』と認めた物に拘る性格なのだと。
一度『自分の物』だと認識した物を手放したがらない性格なのだと。
妹は考える。
人はどうなのだろう?
兄が自分に優しいのは『自分の妹』だからなのだろうか?
そして…
異性はどうなのだろう?
例えば『自分が初めて抱いた女性』なら?
兄は彼女を手放すだろうか?
手に入れられるのなら?
ずっと傍に置いておく方法があるのなら?
彼女を手放す事が出来るのだろうか?
=========
ハルは娼館の二階バルコニーで目を覚ました。
雪が降り積もった地面で寝ても風邪1つひかない身体は気温の変化を感じても暑さ寒さを不快に感じる事は無い。
柔らかいベッドの上で毛布をかけて眠りたくなるのは保温のためというより人間だった頃の習慣だろう。
ハルは夜空を見上げる。
月の位置から夜明けまで、まだまだ時間がある事がわかる。
閉じられた窓の向こうから、娼館の一室ではジャスパーと狐嬢の声が僅かに聞こえる。
その気になれば聴覚の感度を上げて会話の内容を理解できるが、そんな無粋な事をせずハルは残っていたツマミの堅果に手を伸ばす。
ほのかに塩味がする堅果を齧るハルはズライグ王国最強の生物。
幼体とはいえ竜を襲う野生生物など居ない。
だからハルの野生の危機感知能力は低い。
それ故にハルは、それに気づくのが遅れた。
「何か明るいな」
娼館がある通りは、日が落ちれば眠るのが当たり前の街の中でも深夜まで明かりを灯して客を誘う歓楽街。
それを差し引いても街が明るい気がする。
ハルは欠伸しながらバルコニーから下を見る。
「……」
深夜の歓楽街には相応しくない子供の姿。
ボロボロの格好は浮浪児だからだろうか?
「ん?んん?」
何故に浮浪児が?
そんな少しの疑問がハルの竜眼を暗視モードに切り替えさせる。
「子供じゃない!!小鬼?!」
防壁に囲まれた街中にどうやって小鬼が侵入したのか?
そして街が明るい理由にハルは気づく。
街中が燃えているのだ。
「兄貴!ヤバイ!」
ハルは叫び、固く閉じていた窓を開けた。
========
亜人軍別動隊は遺跡から続く地下通路を通り『廃都市』の真下まで侵入していた。
この通路を誰が何のために作ったのかは解らない。
ただ1つ言えるのは、今現在『廃都市』に住む人々が地下通路の存在を知らないという事。
辺境砦を作った職人や人足たちが砦完成までの期間を過ごすために造られた街。
それが廃都市の前身。
砦完成後に放棄された街に住み着いたのは、ならず者の類い。
盗賊、山賊、犯罪者。
故郷から追放されたり逃げ出した脛に傷ある者たち。
廃都市に勝手に住み着いた者たちが、街の全容を知るはずも無い。
お互いに脛に傷ある身と理解しているために、必要以上に他者に干渉もせず、自分が住む地域以外に関心も持たない。
さらに勝手に住み着いた者たちが無計画に建物を建てた事も街の全容把握を困難にした。
だから地下通路の存在を知る者は居なかった。
仮に居たとしても、その存在を他者に話す者は居なかった。
そんな廃都市の構造が最悪の事態を引き起こす。
闇妖精シャンディエンと部下の闇妖精たちは強かだった。
予め地下通路を探索し廃都市のおおよその地理を調べていた。
人々が寝静まった深夜、地下から一斉に襲いかかる亜人軍別動隊に対処する事など廃都市の住人には不可能だった。
裕福な商館が並ぶ通りには、一人一人が完全武装の騎士に匹敵する武力を持つ猪鬼たちが襲いかかり。
人々が眠る住宅街には多数の小鬼が攻めこんだ。
異変に気づいた街の有力者たち。
彼らの私兵たちが真っ先に向かったのは、戦うにせよ逃げるにせよ必要な機動力である馬のいる厩舎。
しかし、用意周到な闇妖精たちが、それを読んでいないはずも無かった。
街の各所に分散した厩舎で彼らが遭遇したのは、人間の家畜の肉を貪る岩鬼たち。
廃都市は一瞬にして地獄と化した。
街の人々は襲われ殺され奪われた。
無計画に増築された街の各所に同時多発的に火が放たれ、その火災は街全体を舐め付くそうとする。
その火は深夜でありながら真昼のように街を照らした。
======
「兄貴!」
ハルが窓を開け放つと…
「ハっ…ハル…」
ベッドの上、獣人の美少女の身体に顔を埋めていたジャスパーは妹の乱入に飛び上がる。
「あ~」
ハルは、狐嬢の尻尾に「癒される~」とアニマルセラピーばりに顔を埋めてモフモフしていた兄に微妙な眼を向けたが、ジャスパーも色々ストレスが貯まっていたんだろうし…と見なかった事にする。
そして、モフモフ尻尾事件より重大な事態に対処する方が先だった。
「兄貴、小鬼が街に入りこんでる!
連中、街中に火を放ってるみたいだ!」
ハルの言葉に少し遅れて街に非常事態を告げる鐘が鳴る。
娼館の一階から女将の声がし、逃げ出そうと部屋を飛び出す客の足音が響く。
ジャスパーは衣服を身につけると狐嬢に手を差し出す。
「非常事態みたいです、とりあえず避難しましょう」
「えっ…私は…」
寝物語でジャスパーに、この娼館に売られてきたと言っていた狐嬢は逃げ出す事を躊躇するがジャスパーは強引に狐嬢の手を取った。
「狐嬢さん、まずは避難してからでしょう。
死んでは何もならない」
「そういう事だよ狐嬢!
安心しろ!私は無敵の真竜だからな!」
「は…はい!」
「とりあえず服!」
狐嬢が浴衣に似た服を着ている間にハルはバルコニーから下を見る。
各店の用心棒か、娼館を経営する裏組織の人間か、ともかく武器を持った連中が小鬼の一団と戦っているのが見える。
「ハル、頼む」
「任せろ!」
狐嬢をお姫様抱っこしたジャスパーを乗せハルはバルコニーから飛んだ。
===========
「手の施しようが無い」
ジャスパーは上空から見た街の様子に唸る。
街の各所から火が上がり人々が逃げ惑うのが見えた。
逃げ惑う人々を襲い家財道具を奪う小鬼。
大通りの店から略奪品を運ぶ猪鬼。
酒場を破壊し持ち出した大樽から酒をがぶ飲みする岩鬼。
ハルが幾ら強くても街中で暴れる亜人軍に対処するのは難しい。
上空から竜の息で攻撃すれば避難民も巻き添えになり、街の火災を広げる事になる。
ハルの成竜形態は大きすぎて狭い路地では小回りが利かず戦い難い。
さらに最悪だったのが廃都市を守るはずの防壁の守備兵たちが真っ先に逃げ出した事。
外部からではなく内部からの奇襲は当然外周部への侵攻を遅らせ。
元が食い摘めた傭兵やら武装した盗賊やら脱走してきた兵士やらの守備兵に街を守る覚悟など無く、彼らは我先に逃げ出したのだ。
街の有力者の合議制で支配されていた廃都市には、街全体を指導する領主といった存在は居らず。
有力商人、犯罪組織の長、傭兵団の団長、街の有力者たちは状況を完全に把握する事など出来ず、有効な対策を取れないまま死んでいった。
「街が…私たちの街が…」
売られてきたという獣人の美少女に街への愛着など無かったかも知れない。
それでも自分が暮らす街が地獄を化した有り様に狐嬢の啜り泣く声がした。
ジャスパーは狐嬢の細い身体を抱きしめ言った。
「風俗街の人だけでも逃がそう」
眼下で家財道具を荷車に積み逃げる準備をしている狐嬢の店の女将。
店の用心棒が小鬼の攻撃が無いか警戒し、娼婦たちが泣きながら荷車に荷物を運んでいる。
ジャスパーは上空から街を俯瞰し脱出ルートを探す。
「街の南側は火の手が上がってない、南門からなら逃げられるはずだ」
そう判断したジャスパーはハルを降下させ女将に向かって叫んだ。
「女将さん、南側からなら街の外に逃げられるはずです!
上空から護衛します、逃げて下さい!」
「ド…ドドド…ドラゴンーっ!!」
竜種の姿に腰を抜かしそうな女将に狐嬢が逃げるように促し、用心棒に守られた荷車は女将と娼婦たちに押されて動き出した。
「南に!南に逃げて下さい!」
他の店からも逃げ出す人々の姿があり、狐嬢がハルの上から南に逃げるよう泣きながら叫び続けた。
ジャスパーには、情を交わした少女を抱きしめる事しか出来なかった。
=========
「竜騎士、廃都市に来ていたのか?」
ジャスパーやハルが『スリングショット水着』と呼ぶだろうV字型の露出度が高い衣装。
黒い革に金糸で複雑な模様が刺繍された衣装は、姿を消す効果を持つ魔法具。
首から股間ギリギリまで大きく褐色の肌を覗かせたシャンディエンは、手にした短杖を上空の竜騎士に向ける。
金、銀といった貴金属で造られ様々な宝石を散りばめた短杖もまた魔法具だった。
「略奪の指揮を部下に任せて偵察に来たのは正解だったわ」
部下に戦利品を運ぶ木人形の操作を任せて街中を偵察していたシャンディエンは、ほくそ笑む。
竜騎士を倒せば、数が多いというだけで『盟主』より先遣隊の指揮を任された猪鬼たちの鼻を明かせるだろう。
「雷よ!」
シャンディエンの短杖から雷が迸った。