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ゲロを吐いたと思われる綺麗な女性

作者: 伊波邦行

 金曜日の夜、22時以降の電車に乗ると、まれにゲロがある。


 それは、電車の到着アナウンスでは知らせてくれない。「次に到着する列車は、豊橋行の新快速です。停車駅は、・・・」だけ。「4両目最後尾のドア付近には吐瀉物がございます、ご注意ください。」とは言ってくれない。

 

 今、思えば、その車両のそのドア周辺には立っている人がいなかった。冷たい夜風を受け続けた3番線ホームで、減速しながら停車する先頭車両からの車内の様子を見れば違和感があった。そう、それは今、思えば。ラッキー!あんまり人いない車両だ!なんて思ったりもした。きっと、横に並んでいたおっさんもそう思ったに違いない。

 

 「豊橋行の新快速です。降りられるお客様を先にお通しください。」

 

 ガタっとドアが開くが、そこから降りてくる人はいない。そう、そこにはゲロがあったから。

 でも、空いている座席を探すので、意外に足元に気付かない。もう22時13分。しかも金曜日。座りたいという強い信念。

 

 ドアが開き、電車の中へ左足を進めた。電車の中は暖かい。ロングシートの座席に目を向けると疎らに空いているのが分かる。クロスシートとロングシートで好き嫌いが分かれるが、どちらかと言えばロングシート派だ。2人掛けが前提のクロスシートは友人や知人などと電車で出かけるときは申し分ない。もちろん彼女とのお出かけならクロスシートを強く願う。

 しかし、ただの通勤の場合、適当に座れるロングシートで十分だ。片手を少し上げて、すみませんね、という感じでおっさんとおっさんの間に座れば、それで問題ない。クロスシートの場合、気を使う。おっさんなら特に問題ない。女性の場合、正直迷う。誰の隣でもいいですが、たまたま空いていたから座るんです、あなたの隣を狙ったわけじゃないですよ、という感じで、自然に座らなければならない。こっちを見てくる女性もいるが、それは気にしない。 

 

 

 電車の中へ進めた左足が、少し滑った。

 ゲロを少し踏んだ。

 足元を見た。

 

 ゲロがあった。

 汚い色、基本的に薄い茶色。

 揚げ物なのか、焼き肉なのか、なんでもいいが、とにかく、残念。

 もしくは、ゲロを踏んでしまった自分が残念。


 踏んだ場面を絶対にロングシートの端に座っていた30代前半の見た目の悪くない女性が見ていた。特に表情を変えることはなかったが、踏んだ後にこちらを見ることはなかった。

 踏んでしまったので、座る権利は無くなったと自覚した。

 仕方なく反対側のドアまで足を進め、背中をドアに預けた。


 なんだよ、このゲロ。ゲロを呪った。見たくもないが、すぐに視界に入ってくる。臭いがあまりしないのが幸いではあった。

 吐いた奴はもう降りたのだろう、気持ち悪そうな顔をしている人は見当たらない。

 いや、一人いた。怪しい人が。こちらではない端に座っている。

 若い女性は、座っているが、不自然に頭を膝のところにして、体を丸めている。ただ単に寝ているだけかもしれない。突然、顔を上げた。なかなかの美形。顔面は蒼白。口が半開き。

 こいつだ。

 いやいや、この女性が車内で嘔吐をしたのなら、周りの人が介抱するだろう。チャンスと思う世の男性がいてもおかしくない。金曜日だし。

 

 目があった、気がした。すぐに視線は外れた。

 だが、ゲロのある方を特に見ることはない。気にする様子もない。酔って忘れているのか、もう忘れてしまいたいのか。そもそもゲロは無関係なのか。


 そうこうするうちに、電車は動き出し、駅の明かりも見えなくなった。夜の窓には自分の顔がよく映る。その窓には、丁度いい角度でゲロも映っていた。

 意外に、ゲロを踏んだ怒りはなかった。前にも述べた通り、残念というのが一番の思いで、恥ずかしさも少なからずある。

 

 その恥ずかしさは、ゲロを吐いた人より大きいのだろうか、小さいのだろうか。

 

 自分の中の有力な嘔吐者の女性を見たが、また元の体を丸めた状態に戻った。ダンゴムシだ、あいつは。上着も黒い。

 一定のリズムで揺れるようになった車内は、ゲロなんてないような静けさになった。友人・知人で乗り合わせている人はいないのだろうか。話し声も何もない。あのダンゴムシは、まだ丸まっている。やはり気持ち悪いのだろうか。だとすれば、また嘔吐するのだろうか。どの駅まで乗車するのか知らないが、是非とも持ち堪えて欲しい。そんな応援すらできる余裕も出てきた。


 

 すると、ダンゴムシの女性が立ち上がった。

 また次の停車駅まで数分あると思うが、次で降りるのかと勝手に思っていると、わざわざこちらのドアにやってきた。確かに次の停車駅はこちらのドアが開く。確かに改札口はこちらのドアの方が近いはず。


 「すみません。」

 思っていたよりも低い声で、申し訳なさそうにダンゴムシが話しかけてきた。背は低くもないが高くもない。蒼白とは言え、年頃の女性、うっすらとした化粧だが、やはり綺麗な女性だ。いや綺麗というより、可愛い系かもしれない。

 数秒の間で、勝手なトキメキを覚えたが、靴はゲロを踏んでいる。目の前の女性のゲロを。


 これは、ゲロのことで何らかの謝罪があるのだ、そう確信した。

 

 もちろん、怒らないし、嫌みも言わない。むしろ気付かないフリをしよう。あ~、全く気付かなかったよ、この靴はもう捨てようと思っていたところだ、このあと、よければ・・・ なんて。


 「はい。」

 無表情で答えた。


 「次の駅で降りてくれませんか。」

 想いは届く、ということか。


 すぐにでも返事をしたいが、冷静な対応を見せてみる。

 「どうしてですか。」


 分かっている、このゲロの件だ。

 自惚れていいのなら、俺にも興味があるのだ。今は彼女こそいないが、高校時代からのらりくらり女性には不自由していない。

 ダンゴムシは、少し間を空けてから、心を決めたように少し大きな声で口にした。

 「言っていいんですか?」


 あぁ、言ってもいいさ。

 恥ずかしいのだろう。女性から男性を誘うという行為が。何も恥じることはない。ゲロを踏んだ方が恥ずかしいのだ、と教えてあげたい。


 「ずっと、見てましたよね、私のこと。痴漢ですから、それも。次の駅で一緒に降りてください。」


 聞こえている。絶対に聞こえている。この車両の方々に。

 ゲロを踏むより恥ずかしい。

 いや、これは痴漢ではない。早くそれを言わないといけない。頭の中では冷静さが残っている。見ていたという事実、嫌がる女性。頭の中の冷静さが判断する、完全に不利だと。


 適温だった車内が暑く感じる。額から汗が染み出てきた。

 

「本当に嫌なんです。視姦されるの。」


 体を丸めていたのは、見られたくないから。少し大袈裟な態度ではあるが、理解できないこともない。容姿端麗な女性は、これまでも女としての魅力を疎んだこともあったのだろう。

 それに、様子からすると、全く酔っていない。呂律もしっかりしている。ゲロは吐いてない。


 次の駅が近づく。

 車内アナウンスも流れる。車内の視線も痛いほど感じる。

 こちらのドアが開いたら、ゲロを踏んだ靴で左足から降りるのだろう。

 

 どういう説明をすればいいのだろう。

 駅員さんは、女性の味方になる。ゲロを踏んだ男性を蔑むだろう。


 魅力的な女性と一緒にホームを歩くのが、こんなに辛いものか。

 女性は一言もしゃべらない。こんなときまで気を遣って、女性の歩幅に合わせている自分が情けない。 


 あのゲロは誰が吐いたんだよ。

 そいつも一緒に駅員さんのところに行けよ。


 駅長室には、50歳過ぎのスーツを着た男性が、ネクタイを緩めて、奥の畳で横たわっていた。

 こいつだ、ゲロを吐いたのは。


 



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― 新着の感想 ―
[一言] 金曜 明日から休みだという最高の日。 その金曜に…主人公が哀れ過ぎて……(笑) 踏んでしまったのも辛いし 疑って見てたのを○○(ネタバレ防止)と言われるし……wwww とても面白かった…
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