少年T 前編
ざわざわ、賑やかな教室。
あちこちで、声をかけあっているクラスメイトたち。
「ペアになった人から、名前を書いてくださーい。」
任命されたばかりの学級委員が、大声をだす。
僕は、この瞬間が嫌いだった。
だって、いつも余ってしまうから。
積極的に声をかけるなんてスキル、持ってないんだ。
この時も最後の1人になるのを覚悟していた。
「ねぇ、ペアにならない?」
だから、隣からかかった声に、高くて可愛い女の子の声に、飛び上がるくらいビックリしたのを覚えている。
「ぇ、え、う、うん…。」
あぁ、そうだ。
驚きすぎて、どもってしまったんだ。
けれど、彼女は特に気にした様子もなく。
さっさと席を立って、黒板に自分の名前を書きはじめた。
はい、と彼女に手渡されたチョーク。
震える指で彼女の名前の隣に、自分の名前を。
「…ヒカル。」
ぽつりとした呟きに、反射的に手に力が入る。
ぽきり、とチョークが折れた。
「ねぇ、ヒカルって呼んでもいい?」
おそるおそる振り向いた先には、はにかむ彼女。
名字ではなく、名前で呼ばれるなんて小学校以来のことだ。
どきどき、と心臓が鳴る。
「私のことは、ハルって呼んでね。」
きらきらと輝く、人生で一番の思い出。
この日の彼女を忘れるわけがない。
僕にとっては、運命の出会いだった。
ハルちゃん。
そう返事をしようした瞬間。
ぐんっと上にひっぱられた。
ちがう。
身体は今も、そこにある。
魂だけが、身体から抜けて上へ上へとのぼっていく。
眼下では、記憶どおりにハルちゃんと僕の交流が続いていた。
彼女の照れた顔が、遠のく。
教室の天井を抜け、学校を抜け。
ついに、雲の上まで。
「なるほど。
この出会いは、運命分岐のひとつだね。」
頭上から、声がおちた。
見上げると、あの面談室にいた老人がいる。
「君が死ぬまで、あと何日?」
ハルちゃんとの出会いは、高校に入学してすぐのこと。
桜も散り、若葉が茂る4月の半ば。
新入生オリエンテーション合宿のペア決めの時のことだった。
そして。
僕が絶望のうちに死の階段を駆け上ったのは、夏を迎えてすぐ。
キラキラと照りつける太陽が眩しさを増す、あの日のこと。
僕が死ぬまで、残りあと-。
いつの頃からか、友達とうまく付き合えなくなっていた。
グループに入れない。
会話が続かない。
中学へ入学する頃には、もうひとりぼっちだった。
だから、僕の居場所は学校ではなくネットの世界。
好きな漫画やゲームの絵をかいて、SNSで盛り上がる。
ボイスチャットは苦手だから、チャットだけ。
それでも、僕を認めてくれる人が多くて嬉しかった。
でも、両親はちがう。
ネットについて理解がない。
そんなものばかりしてるから、人付き合いができなくなるのだ、と言われたことがある。
リアルの世界は残酷だ。
僕を排除しようとする世界だ。
それなのに、僕を認めてくれる世界を手放せと両親は言う。
この時から、両親は敵となった。
僕が入学した高校だが、実は父が決めた学校である。
通う本人の意思は、欠片も反映されていない。
入学するまで高校に何も期待していなかった。
だからこそ、ハルちゃんと出会えて嬉しい。
死んだ今となっても、彼女に出会えたのだから高校も悪くないと思ってる。
しかし、複雑な気持ちも抱えていた。
僕の様子を見て、この学校に入れた甲斐があったと父が得意気であったから。
確かに、彼女に誘われて休日も出かけたりしたさ。
普通の子になったように見えた?
でも、それは父の功績でもなんでもない。
僕を、彼女が受け入れてくれただけ。
父も母も、何もわかっていない。
わかっていても見て見ぬふりをしていたに違いない。
僕は何も変わっていない、ということを。
何をどうしたって、僕は、僕でしかない。
ハルちゃんと友達になり、そのおかげでクラスメイトとも会話できるようになってきた。
僕は、少し変わった子、程度の認識でクラスに受け入れられていたと思う。
生前の自分が、日々、楽しげに暮らしている。
中学時代とは打って変わって穏やかな学校生活。
学校帰りにファーストフードに寄って、意味もなく時間をつぶしてみたり。
クラスメイトのバイト先に突撃して、冷やかしてみたり。
休日にテーマパークへ行って、写真を撮りまくったり。
あぁ、僕が楽しい高校生活を送っている。
隣にはハルちゃんがいる。
全て、彼女のおかげだ。
だから当然だろう。
僕は、彼女に恋をしていた。
たぶん、最初から。
彼女が好きなんだ。
「ね、聞いて。
ヨウくんに、告られちゃった!」
思い返すと、歯車が噛み合わなくなったキッカケは、コレだった気がする。
すっと何か冷たいものが背筋を伝う。
ハルちゃんへの想いが叶うとは思っていなかった。
告白するつもりもなく、ただ、ずっと親しい友達として一緒にいたかった。
それなのに。
実際に彼女の口から色めいた話を聞かされて、僕は頭上に岩が落ちてくるほどの衝撃を受けたのだ。
ハルちゃんは、別の高校の男と付き合いだした。
僕も、その男を知っている。
クラスメイトと遊びに行ったとき、その男と友人たちが混ざっていることが何度かあったからだ。
ハマっているゲームが同じで、フレンド登録もしてある。
陽キャだが、ゲームの趣味が合うので気のいいやつという認識だった。
ショックでしかたなかったけれど、僕は耐えた。
彼女が幸せそうだったから。
彼氏のヨウくんも悪いやつじゃない。
ふとした時に触れる指。
はにかむ彼女の顔。
僕を呼ぶ、やわらかい声。
それらがある限り、僕は我慢しよう。
彼女が幸せならば。
たとえ心が嵐のように荒れ狂っていても。
でも、2人がうまくいってるのか、探りを入れるくらいは許してくれ。
好きな女の子のことなんだ。
『ハルちゃんとは、どうなんだ?』
『夏休みさ、どっか行くのか?』
『あー、夏休みな。
たぶん、それなりに遊びに行くと思うけど。
なんも決めてねーわ。
それよりさー、今度のガチャ、ヤバくね?』
もう、わかってる。
こうやって、彼女には学校で話を聞き、帰ってから彼氏のほうにメッセージを送ることが、どんなに迷惑なことだったか。
今はもう、わかってるよ。
「…もう、もうやめてよっ。」
でも、生前の僕はバカだったから。
それが、2人を引き裂くような行動であったと気がついていなかったんだ。
「ひどいよ、ヒカル。
ヨウくんと別れることになったら、ヒカルのせいだからね!!」
昼休みの教室で。
いつものように、2人のことを口にした瞬間。
彼女は我慢ならないといった様子で、弁当を片付けて出て行ってしまった。
泣いていた。
僕が、泣かした?
呆然と、彼女が走り去った方向を見つめることしかできない。
「あのさぁ。
さすがにないと思うよ。
彼氏くんにメッセ送りすぎ。
ハル、めっちゃ悩んでたよ。
ヒカルの言い分もあるんだろうけどさ、もうやめてあげてよ。」
一緒に昼を食べていた女子が、そう言って席を立つ。
そのまま教室を出たから、彼女を探しに行ったのだろう。
この場には動けない僕と、いつも聞き役になっている女子がひとり。
そして、揉め事の気配を察して遠巻きにするクラスメイトたち。
「たぶん、別れるよ。」
聞き役に徹することの多い女子が、珍しく自ら口を開いた。
「ハルちゃんとヨウくん、別れると思う。」
淡々と告げられた内容に、僕は目を見開いた。
「それ、僕のせい…?」
「そうだね。」
簡潔で直球な答えだった。
そのまま、その女子はもぐもぐと箸をすすめる。
言葉もなく、いたたまれない時間が流れた。
気まずい食事のあと、最後に、と声をかけられた。
「たとえ理解してもらえなくても、説明しておいた方がいいこともあると思うよ。」
このアドバイスを、きちんと聞いておくべきだったんだろう。
そう気づいたのは、死んでからだ。
ハルちゃんは、フラれてしまったらしい。
らしいというのは、あの日から彼女に拒絶されていて、僕が直接聞いたわけじゃないからだ。
つらい。
胸がくるしい。
だというのに、ヨウくんからは呑気なメッセージが届いている。
ゲームのイベントに行こう、なんて。
大好きな彼女との関係が破綻してしまっているというのに。
だが、しかたがなかった。
悪いのは、ヨウくんではない。
明らかに、僕だった。
こういう時、コミュ障の人間は救えない。
チラチラと彼女の顔色を窺うが、拒絶されると思うと怖くて一歩も進めない。
謝るタイミングを見計らっているうちに、2日、3日、1週間と時間が過ぎていった。
ぴこん、と通知音が鳴る。
『おーい、返事くらい返してくれよ。
イベント、ムリかー?』
悪いやつじゃない。
むしろ、気のいいやつだと思ってる。
もはや、数少ない僕の友人だと言える。
でも、僕はハルちゃんが好きだったから。
彼女との関係を修復したいから。
そのためには、もうヨウくんとは会わないほうがいいと判断した。
『イベントには行かない。
あとさ、勝手なこと言ってると思うけど、もうヨウくんに連絡するのはやめるよ。
ごめん。』
着信音が響いたのは、すぐのこと。
もちろん、相手はヨウくんだった。
数秒ためらい、その後、腹を括った。
「…もしもし。」
『…あのさ。
学校でハルとうまくいってないんだろ?
俺のせいだよな、ごめん。』
かたい声だった。
彼も、覚悟をもって電話してきたのだとわかる。
そして、この時点で何を言われるのか察するものがあった。
『でもさ、俺を切るのはやめてくれよ。
ハルと仲直りできるまで、待つから。
いつか、ハルもわかってくれるって。
俺、急がないから。』
ヨウくんも必死のようだった。
それに比例して、やはり2人が別れた原因が僕だと実感してしまい、泣きたくなった。
『…わかってるんだろ。
俺さ、今はヒカルが好きなんだよ。
自分でも心変わり早すぎだろって思うけどさ。
でも、好きになったんだよ。
ヒカルを好きなまま、ハルと付き合うのは無理だし…。』
視界が、徐々に滲んでいく。
ひとつ、ふたつ、涙が溢れてきた。
『ヒカルと話したり、メッセのやり取りしたりするのが楽しいんだよ。
ゲームの趣味合うし、対戦するのもおもしろいし。
言い方悪いかもしれないけど、男同士で遊んでる時みたいな安心感あってさ。
ヒカルも、こまめに連絡くれたじゃん。
同じように思ってくれてるのかなって嬉しかったんだ。
だからさ、連絡するのやめるなんて言わないでくれよ…。』
ごめん、と謝るしか僕にはできなかった。
軽率にメッセージを送り続けたために、ハルちゃんだけではなくヨウくんまで傷つけた自分自身に失望した。
僕はネットの世界に戻りつつあった。
いや、中学時代よりも没頭していたかもしれない。
とにかく、リアルの世界には居られなかった。
住人たちは変わらず絵や漫画を投稿したり、作品に対する熱を語ったりしている。
久しぶりでも、以前と同じように迎えてくれる。
絵を投稿すると、待ってたよ、うまいね、と言ってくれる。
僕の存在を認めてくれる世界が、そこには広がっていた。
しかし、両親は不安に思っていたようだった。
「友達もできたみたいで、楽しそうに学校に行ってたのに…。」
リビングから、声が聞こえてくる。
喉が乾いて、飲み物を取りに行こうと部屋から出たところだった。
「前から言ってるけど、やっぱり少し変よ。
ボーイッシュな格好が好きとか、アニメの影響とか、そういうものだけじゃないと思うの。
なんて言ったらいいかわからないけど…違和感があるのよ。」
「なんだそれ…。
自分の子を異常者扱いするな。
友達と遊びに行ったりしてる時は、引きこもっていなかったんだろ。
なら、やっぱりアニメやネットが悪いんじゃないのか。」
「アニメやネットを禁止にしたところで、友達と仲直りできる?」
「やってみなきゃわからんだろ。
少なくとも、アニメやネットがなければ外に目が向くんじゃないか。
やっぱり友達と仲直りしようと思うかもしれないだろ。
ダメだったら、その時に考える。
とにかく、俺は普通に学校行って勉強して、多くはなくても1人2人の友達がいて、普通に就職して、普通の男と結婚して孫の顔見せてくれたら幸せだよ。
高望みはしない。
…普通でいいんだがなぁ。」
「やっぱり女子校じゃないほうが良かったかしら…。」
「今さら言うなよ…。
共学だったら女の子はクラスの半分くらいだけど、女子校だったら1クラス全員女の子だから1人くらい友達できるかもって言ったのお前だぞ。」
「そうなんだけど…。
女の子って一体感を持ちたがるし…。
クラスの子、全員から避けられてるんじゃないかって心配になってきて…。」
喉は乾いたままだったが、諦めた。
出たばかりの部屋に、そっと戻る。
ドアを閉めてから、自分の体を見下ろした。
のろのろ、と両手を胸にあててみる。
悲しいことに、そこは成長していく一方だ。
抑えつけても確実に膨らみつつある胸に、絶望した。
部屋に籠るのは良くないからという理由で、僕のパソコンとゲームが没収されたのは、その翌日のことだった。
T : transgender




