4:催眠とは
朝が来て少しだけ日が昇り始めた頃、俺は森の中、川辺にいた。傍らには、昨日激戦を繰り広げたシマトラの一個体が川の水を美味しそうに飲んでいる。俺も飲んでみようかと考えたが、やはり現代社会でずっと生きていた俺には少しハードルが高く、未だに口をつける勇気が無い。
昨夜の出来事は、おそらく今までの人生(生前も含め)の中で一番興奮したことだと思う。それは、楽しいとか嬉しいとかの興奮ではなく、命のを奪うか奪われるかの生死をかけた戦いという意味で、本能が高揚感を感じ取ったという意味である。当然と言えば当然だが、実際自分が体験してみるとこんなにも鮮明に思い出せて、且ついつまでも頭から離れないと実感させられる。
この森はたぶん、昨日の日中俺が数時間かけてたどり着くことが叶わなかった、背の高い木々がある場所だと思われる。正直、夜中殆ど走り続けるシマトラの上で気を張っていて、いつどの辺りから森に入っていたのか上手く思い出せない。そして、空がほんのり明るくなり始めた辺りで急激な眠気に襲われ、そのままシマトラの背中にうつぶせで倒れ込むように気絶した...と思う。そして、つい先ほど目が覚め、ここが森の仲であることを認識したというわけである。
運良くというか、もしかしたら無意識の内に俺がシマトラに対して指示をしていたのかもしれないが、目的の場所の到着出来たことはありがたい。しかも、当初の予定の一つ、水の確保(飲めるかどうかはさておき)が達成出来た。この調子で昭良の調達も出来ればいいが...まぁ、心当たりが無いわけでは無いが。
昨夜のシマトラの群れに会った場所に行けば、おそらく何頭かの死体から腐肉が手に入るだろう。とはいえ、流石に火を通していない野生動物の肉を食べる気にはならず、かといって今一緒にいるシマトラだけ行かせこいつだけでも腹を満たしてもらうのも...。万が一、こいつが帰ってこなかったことを考え、それならば移動手段は手放さないでおきたいと考えた。そもそも、あそこまで戻るのにどれほどの時間がかかるか分からない。それならば、少しでも早く人間のいる場所に向かった方が良い気がする。まぁ、誰も助言してくれる人がいないから、マジで自分の判断で動くしか無いんだが...。
シマトラがある程度元気になったのと確認すると、俺はシマトラの前に立ち昨夜のように両手の人差し指を立て、そして心の中で念じた。
『俺の命令に従え』
するとシマトラは、俺に対して昨日と同様に頭を垂らした。俺はそのシマトラの上に跨がると、腹を軽く小突きシマトラを進ませる。シマトラは俺の念じた方向へと進んでいく。向かう先は、川の下流である。
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昨夜の件で分かったことがある。それは、本当に俺に能力が与えられていたこと。そして、その能力の発動条件が指の本数であること。
俺に能力を与える際...特に俺に能力の内容を話すときに、まるで順番通りに話しているかのように“その一...その二...”と区切って口に出していたのだ。その言葉と並行して、順番に即した指を立てていたのを、あの一瞬のうちに思い出せたのだ。これは本当に、偶然としか言いようが無い。通常であれば、あの神の所作にそんな関連性があるなど思い至るはずがないが、昨夜の俺の頭はあの瞬間、人生に一度有るか無いかと言えるほどの閃きに恵まれていたのは確かである。
(...いや、今思えばあんな偶然起こるはずが無いか...。)
そう考えた俺は、今頭に思い浮かんだ存在を貶すのは程々にしようと思った...ほんのちょっとだけだが。
とりあえず、ここに来て生まれた心配事の一つがある程度解消されたことを喜ぼう。しかし、昨日使った催眠と透明化の能力はもういいとして、他の三つの能力に関してはいつ実験をしようか。四つ目と五つ目に関しては今すぐにでも行えそうだが、三つ目に関しては改めて考えてみてもよく分からない。
一先ず、一つ一つ確認していってみるか。
川をだいぶ下っていった先に、砂利で出来た河原のような場所があった。この辺りなら見通しも良いし、少し休憩するのもありだな。俺はシマトラから降りると、周囲を見渡し何か生き物がいないか探した。一つ目の能力“催眠”を検証するには、対象がいないと意味が無いからだ。...シマトラはだめだ。こいつにはまだ今の催眠状態でいて貰わなければならない。それと、俺自身に催眠をかける案も出たが...怖いから一旦保留にしておきたい。
そんなわけで何か他の生物がいないか、皮の中や森の奥に目を配っていた。すると、一本の木の枝に鳥が止まっているのが見えた。体長は十五センチほどで嘴が長く、頭から一本の羽が伸びており、それは鮮やかな赤色をしておりその先端は鳥の背中にまで届くほど長かった。
鳥の視線は俺の方を向いており、いつでも逃げられるような態勢である事がわかった。そんな鳥に向けて俺は、両手の人差し指を向け、心の中で“そのまま動くな”と念じた。だが、鳥の様子に変化はない。未だに俺のことを警戒するようにジッと見つめ、その身体は微動だにしていない。
俺が鳥の近くまで寄っても、鳥は俺が先ほどまでいた方向を見つめ動こうとしない。そして
(手を伸ばせば触れてしまいそうな位置まで来たが...やっぱり動かないな。)
と、俺は鳥の頭部に付いた羽を触っていた。生前見たことのある雀などは、俺達人間や犬猫などが近づこうとしただけで直ぐさま羽ばたいて逃げていた。町中にいる鳩なんかは、こちらがいくら近づいても全く逃げる素振りを見せず、寧ろ餌を貰おうと近づいてくる個体もいた。そう考えると、今目の前にいる鳥は生前見た雀のように、野生動物の範囲に収まっているはずだ。それならば、今現在俺に羽を広げられたり頭を軽く擦られたりと弄ばれているのに、ジッとしているわけが無い。
これが俺の一つ目の能力、“催眠”である...らしい。まぁ、あの神に言われただけだから名称などどうでもいいが。
俺は引き続き、その他の生物を探し始めた。勿論、あの鳥の催眠は解いた。方法は簡単で、催眠をする動作で念じる際、何でもいいから解除する言葉を思い浮かべればいいようだ。ぶっつけ本番だったが、上手くいって良かった。
森の方に目を凝らしても特に動く影は見当たらなかった。まぁそれも当然といえば当然で、森と言いながらその全貌は、まるで太古の原生林のように鬱蒼としていたのだ。いや、そんな光景生前ですらこの目で見たことは無いが、本などで見た人の手が加えられていない森というのは、
『原生林とは、高くそびえ立つ大樹のせいで光が地面に届かず辺り一帯は昼間でも薄暗い。故に、地面には殆ど草が生えず、落ち葉か苔があるのみ。また、寿命を迎えた大木が折れ地面に倒れていたり成長した大木の根が地面から飛び出していたりと、地形の起伏が激しい。そのため、そこに住む動物たちは木々やその根を縫うように地面を移動している。』
といった感じだったはずだ。いや、記憶が間違っているかもしれないから、自信はあまりないが。とりあえず正しいということにして考えると、今俺の目の前に広がる森は政にその言葉通りであった。そんなわけで、先ほど見つけた鳥は運が良かっただけのようで、俺は森で生き物を見つけることを断念した。流石に、自分一人で入るには若干抵抗がある。
そこで俺は後ろを振り返り、そこに流れる川に焦点を絞ることにした。しかし、蚊や蟻のような小さい虫達にも催眠が効くか少し気になる...時間があるときにでも試してみよう。まぁ、それまで死なないように気を付けなければ。
そんなこんなで、川を泳ぐ魚を見つけた。見た感じ二十センチ無いくらいの、おそらく鮎とか岩魚に近い川魚の一種だろう。魚は川の流れに逆らうように泳いでいるようで、俺の視線の先で流されないように必死に踏ん張っている。そのため魚は、その上から俺が見下ろしていることに全く気づいていない様子だ。ちなみに、俺が川の魚を真上から見下ろせているのは、川の中央まで点々と置かれている石の道を飛び移ったからである。
というわけで、俺はさっそく先ほどの鳥にやったように両手の人差し指を魚に向けると、ある言葉を念じた。それは
『泳ぐのを止めろ』
魚はそこにいた。つまり、魚は未だに川の流れに逆らって泳いでいるのだ。...ということは、だ。この魚には、俺の催眠が効いていないのだ。もし仮に効いているのならば、魚は川の流れに身を任せ“どんぶらこ、どんぶらこ”と下流に流されていくはず。それなのに流されないということは、この魚には今行った催眠が効果を発揮していないという結論に結びつくわけだ。
ここで一つの可能性が出てきた。というか、この可能性を確固たるものにするためにこの実験を行ったわけなのだが...。
『催眠の能力は、相手が自分の方に視線を向けていないと発動しない』
これが二つの検証から生まれた、催眠能力のもう一つの条件である。これは読んで字の如く、催眠をかける相手...つまりは催眠対象が俺を視認しているかが重要なのだ。これは、対象が俺の姿を目を通し『像』として認識出来ていることが前提となり、おそらく目が退化していたり暗闇で俺の姿が見えない場合は、催眠は不可能だと考えられる。
鳥と魚の違いは、俺の姿を見ていたか否かであり、それが催眠をかけるにあたり非常に重要だと思われる。...まぁ、催眠自体が魚には元々効かないとか、催眠にかけたと思っていた鳥が元々弄ばれることに慣れていたとか、考え出したらいくらでも否定出来る考えではある。が、そんなことを一々気にしているほど、俺は神経質では無い。違ったら...その時はその時だ。
石を伝い川辺に戻った俺は、次に透明化の能力を試してみることにした。