3:シマトラ
徐々に日が傾き始めてきた。一応、“夜になったら冷え込むかな?”とか“星とか月が出なかったら、位置が分からなくなるな”とか色々と問題があるので、そろそろ何処かに拠点を作るべきかを悩んでいた。だが、だだっ広い草原で未だに動物、ましてや昆虫にすら会っていないので、果たして拠点なんぞを作る必要性があるのか分からなかった。
拠点というものは、帰ってくる場所であったり敵の攻撃から身を隠す場所であったりいするわけで、今の俺にはとてもじゃないが必要性を感じられなかった。それよりも、少しでも歩みを進めて水源なり食料なりを手に入れた方が賢明だと考えていた。正直、草原に落ちてから飲まず食わずのため、少し気が立っている。おかげで、少し許してもいいと思っていた神が俺の中でクソ野郎呼びに戻りつつある。
身体が非常に丈夫なせいか意識はそれなりにはっきりしており、歩みもゆっくりにはなってきているものの足取り事態はしっかりとしていて、着実に木々のある方へと進んでいた。
“ガサッ”
日がそろそろ落ちるかという頃、近くで草を踏む音がした。瞬間、俺は死を覚悟した。その時の俺は、近づいてくる足音の主を確認するために上体を後ろに向けようとした、が脳がそれを目の当たりにすることを拒否し身体を固定しようとしている。それでも、その本能を押さえ込んで足音のする方に無理矢理身体を向ける。そのせいで、まるで油の切れた絡繰り人形のような動きになってしまい、もし俺がこれを客観的に見ていたら笑っていたかもしれない。
だが、今は笑っている場合では無いことを、人生で一度も使うことが無かった自身の“直感”が教えてくれた。
目の前にいたのは、シマウマの姿をした肉食獣らしき生物であった。胴体や足はシマウマに近かったが、頭部はトラの鼻にサイのような角が短く生え、首はシマウマよりもかなり短かった。尻尾は二股に分かれ、多少離れているにもかかわらずそれは、動く度に風を切る音が不気味に聞こえてくる。
日は完全の落ちきり、草原には俺とシマウマのような猛獣が一体いいるだk
(ア、アハハハ...嘘だろ。これ、どうしようもねぇじゃねぇか...。)
そう嘆く俺の視線の先には、同じ生物が一体、二体、三体...少なくとも五体はいる。いや、目の前にいる奴も合わせると六体か。だが、何となく背後にもいる感じがして、それを合わせると十体くらい居るんじゃないかと思わせる。それくらい、今の俺には絶望しか感じられなかった。
“逃げられない”“喰われる”
そんなマイナスな考えしか浮かばない俺を、誰が責められるのか。いや、責める必要も無い。どうせ俺は、この場で名前も知らないような珍獣に喰われて死ぬ。ただ、それだけだ。
どうしてだろう。なぜだろう。あんなにも辛い思いをして、泣いて、悲しい気持ちを経験して、やっとそれから解放されたらよくわかんないところに連れて行かれて。そこでよく分からないままこんな場所に来て、そして特に何の感動も思いも無いまま、また死んでいく。
俺はどうすればいい、どうすれば良かったんだ?誰も傷つけずに過ごしてきたかた思えば、理不尽に癌にかかるし、そのせいで家族に迷惑もかけたし辛い思いもさせた。俺だってやりたくてやったわけじゃ無いのに...。それがなにか?今度は喰われるものの立場でも味わえってか?...ホント、冗談きついぜ。
珍獣たちは、俺が逃げもせず、ましてや刃向かってくる様子も見せないことに戸惑っているようで、牽制するように足踏みをしたり喉を鳴らしたりしている...ん?
(足踏み...クレーター...ワールドクラス......あっ。)
俺がある重要なことを思い出した瞬間、しびれを切らしたのか俺の背後にいたらしい珍獣が、俺目がけて突っ込んできた。その動きを俺は見ることは無かったが、それは一匹の狩りをする猛獣が見せる自然の脅威であり、もしその瞬間を写真に収めることが出来たならば、きっと動物を研究する者達から賞賛を浴びていたであろう瞬間だったはずだ。だが、そんな写真を撮るくらいなら
「なめんじゃねぇぞ...こんの馬面がぁあああ!!」
と珍獣の方に振り返り、その無防備な顎に食い込む俺のKOキックの方が、数段上だ。ちなみに、馬面と言うよりも虎面だった。
俺が蹴り上げたシマトラ(暫定の呼び名)は、空中で一回転するとそのまま重力に従って落下し、その後痙攣するような動きしかしなくなった。おそらく、運良く脳震盪でも起こしてくれたのだろう。そうでなければ、素人の蹴り一つで野生生物が倒れるなんて有り得ない...はず。
俺がシマトラを一体倒したことで、他のシマトラ達も少しばかり動揺したのか中には後ずさる仕草を見せる固体もいた。しかし、俺から見えない位置にいた一体のシマトラが短く鳴くと、他のシマトラは俺に対し明らかな殺意を持って正対し直した。どうやら、ボスの一声で気を引き締めたらしい...これは、非常に困ったことになった。
一体を気絶させたものの、今の俺ではこの数相手に生き残ることは不可能だろう。それこそ、完全に仕留める体勢に入った猛獣の群れに丸腰の人間が一人で敵うはずが無い。とはいえ、一体のシマトラを打ち負かしたことは、少なくとも俺の心に雀の涙程度のゆとりを与えた。そのお陰で俺は、自身の能力に関してある仮説を思いついた。
(そういえば、あのクソ野郎俺に能力を伝えるとき指を変に立てていたような...たしか...)
そう考えていたとき、俺から一番近い位置にいたシマトラが俺に向かってきた。俺は、先ほどの蹴り二度も通用しないことを察し、一か八か自分の能力にかけてみることにした。今考えてみれば、本当に危ない橋...というよりも、危ない綱渡りをしたものだと自分で自分が怖くなる。
向かってくるシマトラに向けて、俺は両手の人差し指を向けある言葉を念じた。すると、シマトラの動きは徐々にゆっくりになり、そして俺の一メートル手前で完全に止まったのだ。これには、知性などさほど無いであろう他のシマトラ達も驚いており、俺に突っ込もうとしていた第二陣の三匹がその行動を躊躇っていた。
俺はこれを好機と考え、未だに俺の目の前で止まっているシマトラに向けてもう一度同じことをし、今度は心の中で違う言葉を念じた。するとシマトラは、俺の背後にいたシマトラに向かって駆け出し、そのままの勢いで噛みついたのだ。その光景には、流石にあのボスらしきシマトラも動揺したらしく、群れ全体の殺気や統制が薄れていた。それを確認すると、俺は次に背後にいたシマトラの残り一頭にダッシュで近づき、先ほどのシマトラにしたように両手の人指し指をそのシマトラに向けて言葉を念じた。するとそのシマトラは俺に対して頭を垂らし、そのまま俺に対し身体の側面を向けた。そのシマトラの動きを見て俺は、
(勝った...!)
と確信すると、そのままそのシマトラの背中に飛び乗り腹を足で軽く小突くと、シマトラは鳴き声も発さずに群れから走って逃げたのだ。勿論、他の群れのシマトラは俺達を追いかけようと迫ってきたが、そこに最初に俺が指を向けたシマトラが立ちふさがり、シマトラ達の動きを僅かに止めた。その隙を狙い俺は、自身の左右の瞼にそれぞれ左右の人差し指中指をおき上から下になぞるように一回だけ擦った。そしてゆっくり目を開けると、そこには高速で移動する草原の風景だけが見え、シマトラも俺自身の身体も見えなくなっていた。
暫くして後ろを振り返ると、遙か遠くの方でシマトラ達が争っており、一瞬だが一頭のシマトラが地面に倒れ込むのが見えた気がした。だがそれも、遠く地平線の彼方へと消えていき、最早肉眼では分からないほどに小さくなっていた。
ふと空を見上げると、満点の星空が広がっていた。
珍獣に名前があるのに、男の名前が...。それと、頭はライオンっぽいので馬面では無い。