飛行訓練
「おい」
同僚に肩を叩かれて、僕は我に返った。
「大丈夫か?」と訊かれて、
「何が?」と尋ね返すと、同僚は僕の手元を指差して、
「一口も口に入ってないぞ」
そこには、口まで運んだものの箸からこぼれ落ちたと思われる昼食の残骸が大量に転がっていた。
「人はここまでぼーっと出来るもんなんだな」
同僚はどこか感心するように言ってから、食器を下げに去っていった。
朝からこんな調子である。
気を抜くと、昨夜の出来事が記憶が擦りきれてしまうのではないかと思えるほどにリフレインしている。
幽体離脱だけだって相当に衝撃的な体験なのだ。
そこにきてあんなに神秘的な女性が空から現れたら、僕の脳は完全に処理不能に陥ってしまう。
年はいくつくらいだろう。十代ではないと思う。多分、二十代。
年上のような気もするし、年下かもしれない。
そもそも月の光が反則だ。ただでさえ綺麗な人がより美しく見える。
そう言えばワンピースを着ていたな。白だったかな?水色だったかもしれない。どんな柄だったかな。
顔や飛ぶ姿はくっきり記憶に残っているけど、細部はあやふやだ。
あれ、そういえば裸足だったな…。
どこに住んでいるんだろう?
新人なのかって訊いていたな。ということは、幽体離脱者同士の交流みたいなものもあるのかもしれないな……。
「あのさ」
気がつくと、また同僚が目の前に立っていた。
「昼休みとっくに終わってるんだよな」
幽体離脱三日目。
僕は幽体離脱記録なるものをつけはじめた。
せっかく類いまれなる経験をしているのだから、それを書き記しておこうと思ったのだ。
それが誰かよそ様のお役に立つのかと言ったら、イエスと言える確率はゼロに等しいだろうが。
三日目ともなると、離脱自体はだいぶスムーズになった。
今日の目的は、もちろん飛行訓練だ。
一緒に夜間飛行しましょうか、という天女の言葉が頭から離れない。
絶対に成功させてみせる。
四日目。
なんとか思う方向に飛べるようになってきた。
が正直、飛行というよりは浮遊だ。タケコプターで飛んでいるようなスタイルである。
にくたいを離れていられる時間も段々と長くなってきた。
五日目。
飛行速度はまだまだだが、憧れのスーパーマンスタイルで飛べるようになった。
これはとんでもなく快感だ。
夢の中でしか味わえない体験、いやもちろんそれ以上だ。
1年365日、どこを取り出しても代わり映えしない平坦な僕のモノクロームな日々が、いま急速に色をつけている。
毎日が楽しくなってきた。夜限定ではあるけれど。
マンションのベランダから外に飛び出して、ゆっくりと周りを旋回する。
今日はどこに行こうか。
まだ街の外には出たことがない。
とりあえず西にむかってみよう。
僕は方角を定めると、船を出すようにゆっくりと空を漕ぎ始めた。
たくさんの屋根の上を通りすぎ、ビルの隙間をすり抜け、歓楽街を越え、市街地を抜ける。
森が見えてきた。ここまで来たのは初めてだ。
森の上空近くまで進んでいると、
「ずいぶん上達したじゃない」
突然耳元で声をかけられて、
「うわっ」と僕は方角をバランスを崩した。
そのまま下降して森に突っ込んだ。とは言っても、木をすり抜けただけだけど。
「びっくりした……」
体勢を立て直して再び上昇すると、ケラケラ笑いながら例の彼女が漂っていた。
三日前に、月から舞い降りたようなあの女性だ。
僕は再びポーッとなった。
「まだまだね」と彼女が言った。
夜の闇に、そこだけ華が咲いたようだ。
また会えた…。
みっともない姿を見られたけれど、何よりまた会えた事が嬉しかった。
少なくとも、彼女が幻でも僕の妄想でもなかった事は証明された。
「初心者をおどかすなんてひどいな」と僕は文句を言った。
全然怒っていなかったけど。
彼女はいたずらっ子みたいな顔をして笑っている。
「全然気が付かなかったよ」と僕。
「注意力が散漫なのよ」
なかなか手厳しい。
「どうすればいいのかな」
「飛ぶことだけに集中しないの。自分の体よりもっと大きな意識でいるのよ」
「なるほど」
目を閉じる。
自分の意識が、体の外側にも広がっているようなイメージをしてみた。
俯瞰、とでも言うのだろうか。
自分で自分を見ているような……。
「悪くないわね」と彼女が言った。
「先生がいいみたい」
「それは確かね」
彼女は頷いて、「で?どこに行こうとしていたの?」
「うん、この先の川に行ってみようかと」
「いいわね。行きましょう」
こうして僕達は並んで夜を飛んだ。
これは素敵な体験だった。
開放的で、刺激的で、そして横を見れば夜の妖精みたいな女の子が、滑るように薄闇を抜けていく姿が見られる。幸せだ。
すぐに川が見えてきた。大きな川。
ひとまず橋に降り立つ。
「見てて」と彼女が言った。
そして橋から身を踊らせると、そのまままっすぐに急降下した。
高さは、多分三十メートルくらい。
そして水面すれすれで、まるで水を撫でるように下流に飛んだ。最速のツバメみたいだ。
その動きに息を飲んだ。
あっという間に戻ってくると、
「どう?」と彼女が訊いた。
「すごい……」
僕はため息をもらすように言った。「すごくて……」
「すごくて?」
「あ、いや」
僕は慌てて言葉を飲み込んだ。「すごくて……すごい」
「なにそれ」
すごくて……美しかった。本当はそう思った。
しなやかな、何かの神話に出てきそうな生物のように思えた。
「じゃあ、次はあなたやってみて」
彼女がさらりと言った。
「ええ!?」
「これはいいコントロールの練習になるわよ。それに、もっとスピードも出せるようにならないと」
「スピードか…」
「そうすれば、次は海だって行けるわよ」
海!
「いいね、それ」
まんまと乗せられたような形で、僕の飛行訓練が始まった。
もちろん、結果は燦々たるものだ。
それでも彼女のアドバイスは的確だったし、正直に言えば一緒にいられるだけで満足だった。