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アストラル・レコード  作者: 藍沢義也
3/21

謎の女性

翌日、僕は仕事をそっちのけで昨日の体験についてネットで調べまくった。


結果、あれは幽体離脱体験だったのだと結論付けた。


よく臨死体験をした人なんかが、自分の体を上から見ていたと報告しているあれである。


調べていくと、臨死体験以外でも幽体離脱をしている人はけっこういるらしいと分かった。


離脱を専門に研究している所もあるし、そういうサークルがあることも分かった。


幽体離脱を楽しんでいる人達がいるのだ。


まったく僕の知らない世界だ。


幽体離脱をする条件として、一貫して言われているのは深いリラックス状態である。


というわけで仮説。つまりは、僕の作ったビールが僕の意思を超えてスーパーリラックス状態を作り出し、それによって離脱が成功した。そういう事だと思う。


初めは怖いと思っていた幽体離脱だったが、そうとも言えないらしい。


もちろん怖い体験をした人もいるけれど、肉体という物理的な縛りを超えることにより、好きな場所に瞬時に移動できたり、時空を超えることも可能であるという。……本当かどうか分からないけど。


時間の制約を受けないという事は、過去にも行けるということではないか。語られている歴史が本当なのかどうか確かめに行くことも出来るし、人類が誰も到達していないような星にも行けるかもしれない。


とてつもなくワクワクしてきた。


全く何も持ち合わせていない僕に、神様がくれたプレゼントなのかもしれないとすら思った。


少なくとも、大好きな「スーパーマン」の映画のように空を飛べるだけでもとんでもなく素晴らしい体験ではないか。


もちろん、昨夜の事はただの偶然が毛糸玉のようにからまり、偶発的に起こったことかもしれない。でも、そうではないかもしれない。


ポパイがほうれん草を食べて怪力になるように、僕は自ビールを飲めば幽体離脱ができる体なのかもしれないのだ。


こんなにワクワクしたのはいつぶりだろう。昔すぎて思い出せない。童心に帰ったようだった。


さくさくと仕事をこなし帰宅すると、まずは夕食をとり、シャワーを浴びる。後は寝るだけの状態にして、今日は存分に離脱を楽しんでみたい。


昨日と同じように、ローテーブルにビール瓶とグラスを置き、また倒れてもいいように後ろにクッションを用意。準備OK。


まず一杯目。


全身に染み込ませるように、ゆっくりと味わう。


市場に出回っている低温発酵のビールのように上品ではないが、その荒々しい感じが土や微生物、黄金色の麦の穂や、それを揺らせる風や日の光をイメージさせる。


ゆったりとした気持ちになる。


二杯目。


一口ごとにどんどん力が抜けていくのが感じられる。


糸を一本一本切られていくマリオネットみたいに、静かに後ろに倒れる。


ゆっくり呼吸をしていると、昨日と同じように、じーんと痺れるような感覚の後で体が揺れ始めた。


いいぞ、と思う。


揺れに身を任せ、縦に揺れ始めたら、意識的にその揺れを大きくしてみた。


昨日は揺れの反動で上半身が抜け出せたのだから、それをもっと強くすれば全身が抜け出せるのではないか、というのが今日の作戦である。


これが大成功だった。


縦の揺れに合わせて、一気に飛び出した。


まるで、空気の海に飛び込むような感じで。


「おお、やった!」


僕は自分の体の数センチ上を漂いながら、自分の体の見下ろしていた。


拍子抜けするくらいに上手くいった。


昨日は恐怖を感じたとたんに肉体に引き戻されてしまったけれど、今日は大丈夫だ。ドキドキはしているけれど、怖くはない。


さて、移動できるか。


自分の体を見続けていたところで、何も面白くない。


物理的な肉体はないわけだから、歩くことは出来ない。歩く風には動けるだろうけど、床を蹴るという事ができない。


つまり、意識をもって動くしかない。これがなかなか難しい。


いつもなら、何も考えずにただトイレに行こうと思えば肉体が勝手に動いて連れていってくれる。

水が飲みたいと思えば勝手に手がコップに伸びるけれど、幽体では一つ一つの動きをコントロールしなくてはならないのだ。


かれこれ一時間はかかっただろうか。


ようやく上下左右に幽体を動かせるようになってきた。


イメージしていたような、瞬間的に行きたいところにピュンではなく、大昔のゲーム機のコントローラーみたいだ。

右ボタンを押して、ちょっと上ボタン押して……みたいな。


まぁまぁ初心者なのだから仕方ないだろう。何事も訓練である。


なんとか滑らかに移動できるようになってきたところで、床に降りてみた。


全く何も感じないわけではなく、床は薄い膜のように思えた。

ほんの少し抵抗がある。

力を入れたらすぐに破れてしまいそうだけど。


次は壁を触ってみようとするが、腕を上げるという動作がうまくできない。


糸で釣り上げるようなイメージで少しづつ手を持ち上げていき、どうにか壁に触ることが出来た。


こちらも床と同じように膜のような感触がある。


その膜をぐーっと押していくと簡単に腕が壁をすり抜けた。蜘蛛の糸のように柔らかい。


これは面白い、と思った。


「次はベランダに出てみよう」


滑るように床を歩き、ガラス戸に額をつける。


そのまま体を押し込んでいくと、ゼリー状の膜を通り抜けるように部屋の外に出た。


不思議な感じだった。

ひんやりとした夜の外気も風も感じなかった。


僕の部屋はマンションの三階だから、足がベランダの床をすり抜けてしまったらと思うと少し不安になったが、まてよと思い直す。

そもそも重力がないじゃないか。

降りようと思わなければ落ちることはない、万一落ちたところで怪我をするものなのか?多分ないと思う。


夜の街が見えた。


いつもと同じ街のはずなのに、まるで違って見えた。


離脱をすると、とにかく頭の中がクリアだ。聡明、という感じ。

そして、視界も鮮やかである。


街の明かりは宝石のように綺麗だし、家々の黄色い電球の光を見ていると、そこに住む人達の温かいエネルギーまで感じるような気がする。


いつまでも見続けていられる。


視線を上に移すと、月が見えた。これがまた美しい。


どうも幽体の目で見るというのは、同時に何らかのパワーを感じつつな気がする。


月は圧倒的だった。

まるで自分が消えてしまったかのような大きなエネルギーを感じながら、しばらく月を眺め続けた。


そのうちに、月の中に影が見えた。


なんだろう、小さな虫のような影。


それが次第におおきくなっていった。何かが、こちらにむかって飛んでいるみたいだ。


鳥かな?


近づいてくるにつれて、それはもう少し大きなものだと分かった。


やがて、その影は人の輪郭になった。


「人が飛んでいる……」


月光を受けて空を飛ぶその影は、どんどん近づいてきて、やがてはっきりとその姿が見えた。


天使……?


まさかとは思ったが、そう思ってしまうくらい幻想的な光景だった。


月を背に、ふんわりと宙を舞っている女性がいる。


その姿に僕の目は、正に釘付けになった。


呼吸も時間も止まったみたいだった。


生まれてこのかた、僕はこれほど美しい光景を見たことがなかった。


羽もリングもなかったけれど、あれは天使なのだと言われれば納得せざるを得ない。


そのワンピース姿の天使が、


「あら?」と言って、僕の方に顔を向けた。


それからすーっと近づいてきて、ベランダの手すりにトンっと爪先で降り立った。


「見ない顔ね」


陶器のようにつるんとした顔が、僕を見下ろしている。


「…………」


僕はただただ茫然としていた。

こんなにも茫然としたことはこれまでにないだろう、というくらいの茫然である。


「新人?」と彼女が言った。


新人?……それは聞こえるというよりは、声が頭に反響するといった感じだった。


新人?新人ってなんだ?


聡明なはずの思考はどこにいったのだろう。


僕のあまりの茫然ぶりに、彼女の顔が曇る。


「大丈夫?」


大丈夫?大丈夫かと訊かれている。


僕は慌てて首をかくかくと振った。


「そう」と彼女が言った。


そう。彼女の声は、鈴の音のようにきれいに響く。


僕には興味をなくした、といった感じで彼女が再び飛び立とうとした。


「あ、待って」と僕は初めて声を出した。


「なに?」


「あの…あなたも幽体離脱してるんですか?」


当たり前じゃない、といった表情で彼女は訝しげに小さく頷いた。


「あ、僕まともに離脱できたの今日初めてで……」


なるほど、という感じで彼女の口元が少しゆるんだ。


「それじゃあ、上達したら一緒に夜間飛行でもしましょうか」と彼女が言った。


「え……」


「機会があればだけど」


そう言って、謎の女性はふわりと浮き上がると、また月の光をまとう様にして飛んでいってしまった。


その飛び姿といったら、べらぼうに美しかった。


僕は破滅的なダメージを受けながら、その姿が完全に闇に紛れてしまうまでアホみたいに眺め続けていた。


これは一目惚れと呼んで差し支えないだろうと僕は思う。

少しばかり劇薬的ではあったけれど。


ほんの数分間の出来事だ。

そのわずかな時間で、僕は魂を抜かれてしまったような気分だった。


この日の離脱体験はこれで終わり。


この後すぐに、また肉体に引き戻されてしまったから。

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