銀将に新たな訪問者
緒方健君との戦績は今の所、勝率7割である
緒方君の
まぁ初戦の感じからもう少し健闘できそうな気はしていたのだが上手く行かないものである
緒方君は奨励会には入っていないものの、将来プロになるつもりで兄の師匠である言峰さんに弟子入りし指導してもらっているようだった
緒方君の兄は現在奨励会2段の中学2年生
店内のウエイトレスの石上静香ちゃんと同じ歳だ
緒方健君は小学5年生の10歳
言峰さんに聞いてみると「才能はあるが、ムラッ気があり、プロになれるかは本人次第」との事
そうだよなぁ…
10歳なんて、これから無限の可能性を秘めた年齢だしなぁ
そんな思考の最中に言峰さんがポロっと言葉を零す
「才能だけで先に進める人なんてほんの一握りだからね…」
いつもなら聞き流す雰囲気だったが妙に気になった
「それって誰の事です?」
言峰さんは俺の言葉にハッとし、なんでもないと言葉を濁した
しかし、そこに横入りしてきた者が居た
「言峰先生と同じ年齢の芳賀先生の事じゃないですか?」
美緒ちゃんが仕事をしながら会話に横入りしてきた
「ああ、あの三冠の…」
俺は顔を思い出しながら返事をする
芳賀 誠、生まれつき目が見えなかった彼はあらゆる分野において差別され続けた
しかし、芳賀少年14歳の時、ある棋士との出会いで彼の人生は変わった
かつて江戸時代に実在した盲目の棋士、石田検校との出会いであった
石田検校の指した新手『石田流3間飛車』はアマチュア棋士の間で大人気である
石田検校の実在する『石田流に関する』棋譜は全て石田検校の敗北に終わっている
しかし、プロ棋士達の切磋琢磨により常に進化を進めている将棋において現在もなお、指されている有力な振り飛車戦法の一つである
現在において、石田流3間飛車がアマチュア間に人気がある理由
それは、振り飛車中『最強』といっても差し支えない『攻撃力』にある
3間に振った飛車をさらに4段目に繰り出し、飛車の後ろに桂馬を設置し、更に端から角行を覗かせる
見た目からしても堅牢そうな『攻め姿勢』である
一般的に、分かりやすい石田流3間飛車の攻略方法といえば、桂馬の後ろに銀将か角行を打つか、端攻めである
それはさておき、こうして石田検校という盲目の棋士が実在し、今現在も将棋界において多大なる影響力をもたらすほどの存在であるという事実
それに加え、将棋というゲームにおける盲目であるか無いかの差異
これに知った芳賀少年は初めて
『盲目であることがハンデにならない』
と知った
そして知ってしまった以上、芳賀少年は立ち止まってはいられなかった
その後の芳賀少年の行動は常軌を逸していた
石田検校の存在を知り、2週間足らずで将棋を覚え、親を説得しプロ棋士に教えを請い
その後、プロ棋士のもと、7か月間もの間、睡眠・食事・入浴…等々、およそ生活に必要な生理的行動を碌に取らず将棋の研究に明け暮れた
もちろん将棋を覚えてからは学校には一切通えていない
そうして万全の態勢を整えた後、日本各地で開催される子供向け・大人向け問わず、あらゆるアマチュア将棋大会に出場し連続で36回も同時連続的に優勝した
このことは一般新聞の一面も賑わせた
その後、当然の流れで教えを請うたプロ棋士の弟子となり、奨励会に入会しただの一敗もせずにプロ試験に合格したかと思えばプロ棋士2年目にして初タイトルである『王位』を奪取
これまた、新聞の一面をデカデカと飾った
プロ入りからの通算成績は勝率7割5分以上をキープし
そのまま王位を保持しつつ、プロ入り4年目にして『王座』を獲得
その翌年に王位を奪われるも王座を堅守しつつ『棋聖』を奪取
プロ入り4年目にして2冠となり、その後2冠未満に落ちる事無く今年までタイトルを保有し続けるという将棋界の伝説的存在である
「言峰先生のライバルですもんね」
美緒ちゃんはニコッと笑顔で言峰さんに話しかけるも言峰さんに表情は暗い
「ライバルなもんか、雲の上の存在。格上さ」
言峰さんは自嘲気味に吐き捨てる
「でも芳賀先生から『王位』を奪取した事があるのは言峰先生だけでしょう?」
そうなのだ、本人から聞いた事はあまり無いのだが、目の前の人物
言峰8段の経歴も、物凄いものがある
日本将棋連盟のプロ試験は毎年4月~9月までと10月~翌年3月までの二回行われ、トップ2名ずつが晴れてプロ棋士である『4段』へ昇段することができる
言峰が昇段した時のプロ試験はまさにギリギリの合格
1名は全勝で勝ち上がったので文句なしの昇段だったので、もう1名の枠を奪い合い言峰と他に2名の成績が並んでいた
3名でのプレーオフの結果は、一番昇段が見込まれていた人物が言峰と対局し
先手番にも関わらず千日手という結果になった
その結果調子を崩し、2番目に昇段が見込まれていた人物にも敗北
続く言峰との指し直し戦にも敗北
言峰は2名との対局を辛くも勝利を手にできた
ちなみに、普段の奨励会での対局では大幅に負け越している状況だった
誰もが言峰が勝ち上がるとは予想していなかったので、その後の取材などもおざなりになってしまい、将棋界に身を置く人物でないと言峰新プロの事を知る人はいない、といった状況であった
しかし、その状況は3か月後全く変わったのだった
【言峰新プロ、プロ入り3か月でタイトル『王位』を神童芳賀王座・棋聖から奪取】
当時の将棋新聞の見出しはこうデカデカと貼り出された
当然連日連夜取材の日々、日本将棋連盟の『アイドル』が芳賀から言峰へ移ってしまっていた
だが、当の本人の言峰は『人当たりの良い言葉』を並べる
という事が大の苦手だった
取材に次ぐ取材により疲弊し、戦績は悪化
翌年の王位戦では勝ち上がってきた芳賀を3連敗してからの4連勝にて辛くも防衛を果たすも、その最中の言峰の扱いも
【天狗の鼻が折れたか?】というような当たりの強い物になっていた
その翌年、さらに調子を崩している言峰にまたもやリーグ戦を勝ち上がって来た芳賀に2勝4敗でタイトルを奪われると
【奇跡の少年、芳賀三冠同い年の芳賀5段を下す】
と再び『アイドル』を芳賀へ転換した連盟や取材陣に叩かれた
しかしそれ以降、芳賀は王位のタイトルを現在まで保持し続けている
一方言峰は、A級を固持しつつ、各タイトルの挑戦者になる事はあるものの
奪取することはなかった
カランコロンカラン…
記憶を追想していると、銀将の入り口が開いた音がした
「師匠、ご無沙汰してます」
入って来たのは中学生程の少年
髪は肩に掛からない程度の長さの男にしては長い
線の細い中性的な男の子であった
学ランの袖も少し長く、母親が「3年生になったらぴったりになるから」と選んだようなサイズ感
「ああ、優か。どうした?」
「いやぁ、ここ最近銀将に顔を出していないなぁと思いまして、久しぶりに師匠に指導をお願いしたくて…」
「そうか…、ああ紹介しよう。こちら最近常連になった向井君だ、将棋を始めて2か月で2級だ」
言峰さんが右手を開いて俺の方を示し、少年に紹介する
「2か月で2級って早いですね」
少年は愛想笑いのような笑顔で驚く
「そして彼が、さっき話した緒方優だ、優しいと書いて『すぐる』と読む」
奨励会2段の緒方健君のお兄さんか…
「どうも」
俺はなんだかどう挨拶したらいいか分からずぶっきらぼうな返事になってしまった
「そうだ、優、お前向井君と対局してみるか?」
言峰さんは、さも名案だ
と言いたげに手を打った
「ええ、かまいませんよ」
優君は笑顔のまま了承した
俺も断る理由もなく、テーブル席に着く
駒の準備をしている最中に言峰さんはテーブルの横に立ち、ニヤニヤしながら準備を見ていた
準備が終わったのを見計らい言峰さんが口を開いた
「棋力差は歴然だが、向井君の勉強の為に互先で指そうか、健の時と同じ、向井君の先番で20分切れ負けで指しなさい」
両者、無言で頷き、対局時計をセットする
「よろしくおねがいします」
両者の挨拶が重なり、優君が対局時計の針を進めるボタンを押す
そして、言峰さんがニヤニヤしたまま対局が始まった




