目標の前の目標の前の現実的な目標
今日も今日とて銀将に通う向井であったが、今日は普段と様子が違っていた
言峰さんが小学生くらいの男の子に指導対局していたのだ
「こんにちは」
入店し挨拶をしても男の子は盤上に集中しこちらに気付かない
「やぁ来たね」
言峰さんは余裕そうだ
そしてその顔は普段とは違い、俺を待っていたかの様に思われた
「この子はオガタタケル、『一緒のしょ』に『方角のほう』『健康のけん』で、緒方健と言うんだ」
男の子は言峰さんが紹介をしてくれて初めてこちらを一瞥し
「どうも」
とだけ言ってまた盤上に視線を戻した
俺も、彼の集中の邪魔をしては悪いと、それ以上は声をかけず将棋の定跡本を読みながら検討用に盤と駒を並べ、しばらく一人で研究していた
それから30分程経った後
「負けました」
小学生くらいの男の子、緒方健君が負けたようだ
そのまま感想・検討に入った
それを流し見程度に見ながら俺は自分の研究を続けた
そしてそれからまた30分程経った頃
「ありがとうございました」
緒方健君が頭を下げ、礼を言い帰ろうとした時に言峰さんが止めた
「緒方、少し残りなさい」
そうして言峰さんは俺の方へ寄って来て
「向井君どうだい?緒方と一局指してみないか?」
意外だった
言峰さんはこの店のオーナーでありながら、客にあまり対局を推奨したりはしない人だったからだ
この店のシステム的には、ウエイトレスとの対局を大いに推奨した方が売り上げ的には良いはずなのに、それをしないのは『棋力の向上には人それぞれの効率的なやり方がある』という言峰さんの考え方からなのだろう
実際に、数多くの対局をこなした方が棋力が伸びる人と、自分一人で研究し検討している方が棋力の伸びが早い人もいる
「はぁ…言峰さんが言うなら」
俺はせっかくの申し出なので受ける事にした
「緒方、向井君と対局してみなさい。互先だ」
これには、二人とも驚愕した
21歳の俺と12歳くらいの男の子との互先?
この子、そんなに強いのか?
正直、将棋界の常識は未だに慣れない
将棋は『勝ち・負け』『段位・級位』『勝率・負率』等
全ての結果が明瞭に現れる
勝率や段位が高ければ偉い、そこに年齢等の人間らしい情念が入る余地はない
こんな小さい子が俺と同扱いか
と考えるとなんだか腹が立つやらプライドが傷つくやら
俺はまだそのあたりの心構えがなっていないようだった
緒方君は驚いていたみたいだがすぐに表情を戻し
「はい」
とだけ答えると俺の席の向かいに座り
「駒、並べて良いですか?」
と聞いてきた
「あ、ああ…うん」
と飲まれながら返答するも、緒方君の方はすぐさま駒を並べ出したのに対し俺は動きをしばらく止めてしまった
これではいけないと思い俺も並べ始める
互いに無言のまま駒を並べ終わる
「振り駒は省略する。向井君の先番で、持ち時間は20分切れ負けで対局しなさい」
並べ終わったのを見届け、言峰さんが宣言する
対局の際、明らかに棋力の差がある場合、前述の通りハンデ戦をする
棋力の差により落とす駒の数と種類を変えるものだが、こういう初対面の棋力の知れぬ相手と対局する場合は互先となることが多い
そして公平を期す為『振り駒』をする
振り駒とは、自陣の歩兵を5枚手に持ち、手の中で混ぜてサイコロの要領で振る
歩兵…つまり表が多ければ振った方の先手
と…つまり裏が多ければ振った方が後手となる
そして、プロ棋士の公式戦の手合いを見る限り、先手番の勝率は後手番の勝率よりほんの少しだけ高い
その先手番を振り駒をせずに俺にさせる
つまり、俺と緒方健君の両方の棋力を知っている言峰さんの中では俺より緒方君の方が僅かに棋力が上である
と判断したことになる
「はぁ…わかりました」
なんだか釈然としないが了承する
見た目が幼くとも棋力は別物だ、仕方がない
と自分を納得させる
緒方君が対局時計をセットするのを見守り頃合いを見て対局の挨拶をする
「お願いします」
「お願いします」
▲2六歩、△3四歩、▲2五歩、△3二銀、▲2四歩、△同歩、▲同飛、△3一金、▲3四飛、△4四角、▲2四飛、△3三銀、▲2三飛成、△2四歩打、▲4八金、△2二金、▲同龍、△同飛、▲7六歩、△8八角成、▲同銀、△6二玉、▲2三歩打、△5二飛、▲4一角打、△4二飛、▲3二金打、△4一飛、▲同金、△5一金、▲3一金、△3四角打、▲2一金、△6七角成、▲7九金、△2三馬、▲6八歩打、△1二香、▲1一金、△2七飛打、▲1二金、△2九飛成、▲4九金、△1二馬、▲3二飛打、△4二金、▲1二飛成、△4五角打、▲2三角打、△同角、▲同龍、△2二金打、▲3八角打、△1九龍、▲2二龍、△同銀、▲4六歩、△3三銀、▲8三角成、△7四角打、▲8四馬、△4七桂打、▲6九玉、△3九桂成、▲5九金、△4九成桂、▲同金、△同龍、▲7八玉、△4七角成、▲8五桂打、△8二香打、▲7三桂成、△同桂、▲7四桂打、△同馬、▲同馬、△9五桂、▲2七角打、△8七桂成、▲同銀、△同香成、▲同玉、△8六歩打、▲7七玉、△7九龍、▲7八香打、△6四金打、▲6三角成、△同金、▲同馬、△同玉、▲7五桂打、△5二玉、▲3一金、△8七飛打、▲6六玉、△6五金打まで98手にて後手の勝ち
先手、残り時間2分15秒
後手、残り時間7分51秒
「意外と差があったな」
対局が終わり
挨拶の後、一拍置いて言峰さんが息を吐くように言った
それに反応し緒方君が言峰さんを振り返る
「先生、なぜ僕と向井さんと対局させたんですか?」
明らかに見下したような表情で言峰さんに尋ねる緒方君
それに対し、少し考えた後
「実力が拮抗しているからだ」
キッパリと言う言峰さん
緒方君はそれに納得いかないような顔
「緒方、お前将棋初めてどれくらいだ?」
言峰さんに聞かれ、きょとんとした顔になる緒方君
「1年半です」
「向井君は2か月前に初めて将棋を覚えた」
緒方君はあんぐり口をあける
2か月で2級は早いのか?
他の例を知らないから分からない、それに俺の場合は他にやることがなかったからほとんどの時間と気力を将棋に向けられた
でもほとんどの人はそうではないだろう
学校があったり、仕事があったり、悩みがあったりしつつ将棋に向かう
人より上達速度が速いのは当たり前なのかもしれないな
「じゃ…あ、検討しますか?」
緒方君が俺と言峰さんを交互に見ながら、気を使いながら聞いてきた
「十五手目▲4八金、三十手目△5一金、三十三手目△3四角打、四十四手目△1二馬、五十七手目▲4六歩、七十六手目△同馬、が検討手だ。ま、あとは二人で頑張ってくれ」
言峰さんは緒方君の言葉を聞いて、10秒程考えこんだ後
すばやくこう言い、サッと店の奥へ歩いて行ってしまった
その後、俺と緒方君は2時間半、言峰さんに言われた検討手を検討したのち
新しく、現実的な小さな目標を定めた
『緒方君に対し勝率6割の実力をつける』と




