ブラック企業辞めます
会社帰り、俺はいつもこの道を通る。
JR 大阪環状線 福島駅より北へ徒歩1分
右手に見える『関西将棋会館』の看板が架かった古ビル
それを毎日素通りし、迎いのファミリーマートで買い物をしてすぐ隣のマンションへ帰っている
毎日毎日、仕事でくたくたになって帰ってくる為、寄り道をしない。
だから、18歳で就職し、3年間毎日終電間際に帰って来ている間、その『看板』を一瞥するだけの生活だった。
そんな生活に疲れた、、、
俺、向井隼人はブラック企業につかまってしまったのだ
今日も出勤日、普通なら仕事に向かわないといけない。
しかし
嫌になった
完全にブラック企業に使い潰された新社会人である。
買った当初は『綺麗に着こなしてやる』と息巻いていた新社会人には不釣り合いな紺の高級スーツもいまやクタクタになっている
クリーニングに出す回数も毎週から隔週になり、ついには月に一度、最近はいつ出したかも忘れてしまった
就職してから3年間
色々と不始末をした
取引先を怒らせること12件
重要書類の未提出や紛失が6件
遅刻が5件
学生時代はこうじゃなかった
成績は特別良かった訳ではないが上位30%以内に常に居たし
提出書類も忘れた事もなければ
無遅刻無欠席だった
友達は多い方ではなかったが、大体の人間と上手い事コミュニケーションを取れて、本当の友達と思える人はかなり大事にした
しかし、俺が就職した会社では上手くいかなかった
ブラック企業では、入社したての新社会人を洗脳し
あたかも他の会社では通用しないところ、自分の所で『働かせてやっている』
という強迫観念を植え付けながら、求人票の待遇通りでないと発言する新人も劣悪な待遇で社員が定着するようにしているのだ
その状況の中で、同期達は上手く立ち回り
権力や発言力のある先輩・上司に取り入り可愛がってもらえることだけに心血を注いで
『成功』していった
かくいう俺はなんの正義感か、『実力だけでのし上がってやる』という決意に燃え
最初の1年程は猛烈に仕事をした
しかし、先輩・上司はそんな俺が気に食わない
『他の奴らのように自分に尻尾をふらない生意気なガキめ』
そんな思いからパワハラ・モラハラ・嫌がらせありとあらゆる方法で俺を疲弊させようとしてきた
そうこうしている内に、明らかに俺より仕事をこなしていない同期が俺よりもずっとボーナス査定の評価が良かった事を知った
その事実を知った直後は強がって
『査定だけが全てじゃない』と自分に言い聞かせていたが
ふと、俺はなんの為にこんなに辛い思いをしているのかと疑問に思った
俺の態度・仕事振りを見て、会社・上司・先輩は目を覚ますのだろうか
いや、この会社はこれで上手く回っているんだ
そこを俺が勝手にかき回しているだけなんじゃないか
色々考えだしたら、もう駄目だった
俺の中の熱意が持たなくなった
それからは俺も急にヘマを多数やらかす様になった
元々、好きで就職した職種じゃない
求人票を見て待遇を天秤にかけ、ランキングを作り
上位から片っ端から面接を受けただけの就職だった
…もうどうでもいっか
出勤の為に家を出てJRのホームで電車を待っていたが
会社へ行く気が無くなった
とぼとぼと、ホームから改札方向へ歩きだし、途中の売店で新聞と文庫本を購入した
そのまま改札からふらふらと歩き、数分した所に喫茶店を見付けた
こんな所に喫茶店なんてあったのか
就職して一人暮らしの為のマンションに移り住んで3年になるのに
家から会社までの道程以外の風景を全く把握していなかった
なんとなくその喫茶店に入る
カランコロンカラン…
店内は、まだ朝早いこともあって4人しか居なかった
グレーのスリーピースのスーツのジャケットをカウンターに掛け、パンツ・シャツ・ジレというラフな格好な割にかなり渋い店主が一人
そして薄い水色と白を基調としたメイド服風な制服のウエイトレスが一人
それと二人組の中年が一組奥の座席に向い合せで座っていた
「いらっしゃい」
店主が低い声で歓迎した
「お一人様ですか?こちらへどうぞ」
可愛らしいウエイトレスが案内に来た
女子高生くらいだろうか
歳の頃を推察した後、制服に目が行く
もし女子高生なのであるならば、『そういうお店』と勘違いされて摘発もありうるような『コスプレ』感が物凄くする制服だった
ウエスト周りをコルセットで絞り体のラインに沿わせ、胸元と腰回りでふんわりとする印象を持たせている
腰回りのスカートは薄橙と茶のボーダーに足も茶のストッキング
そして胸元はフリルの様なゆったりした素材にコルセットの前部分から伸びた紐を首の後ろで結ぶ事によりコルセットを固定しているようだが、その紐の位置が脇辺りからではなく胸の下辺りから伸びているのでちょど胸が強調されるような恰好になっている
しかし、『そういうお店』には似付かわしくない程、清純そうに見えた
長い肩甲骨辺りまで伸びた後ろ髪に前髪は目の上辺りで切りそろえられ、所謂『黒髪ぱっつん』に、柔和そうな垂れ目に幼さを残した可愛い目鼻立ち
これが俗に言う『清楚系ビッチ』というやつだろうか
なにはともあれ案内された席へ腰かけ、アイスコーヒーとサンドイッチのセットメニューを注文した後、鞄から先程購入した新聞と文庫本を取り出しテーブルの端に置いた
そうこうしている内にセットメニューが届いた
アイスコーヒーにミルクを入れ、かき混ぜた後
恐々と鞄からケータイを取り出す
そろそろ上司から鬼の様に電話がなりだすだろう
俺はケータイを操作し、サイレントマナーモードにし再び鞄にしまい込んだ
もう取り返しがつかない
遅刻は確定だ
また数十分間も怒鳴られるのだろうか
いやもう関係ないか…
もう辞めるから関係ない
ふと目が覚めると、もうお昼だった
注文したサンドイッチとコーヒーは既に完食している
手に持っていた文庫本もテーブルに落としていた
ふぅ、、ああ、、、、やっちまったな
サボっちまった、、、
大きな溜息を一つ、寝起きという事を差し引いても澱んだ目
ビジネスバックへ文庫本を直す
ついでに携帯を取り出す
着信14件
はあぁぁぁ…
一応、会社に掛けなきゃマズいよな…
はぁぁ…
Plllllll
ケータイを操作している最中に電話が鳴るとビックリするが、今は更に後ろめたい事をしているからなおさらだ
電話越しにどんな罵声を浴びせられるのかと逡巡したが仕方がない
鞄や新聞をテーブルに置いたままにして置いて、後で戻るという意思表示をして店の外で電話に出る事にした
ピッ
「はい向井です」
「やっと出やがったかこの馬鹿野郎!何回電話したと思ってんだ!今どこにいる!?」
思った通りの罵声
「すいません課長、あと自分、退職したいのですが…」
「た、退職?」
意外な事に退職の意を伝えると課長の方がひょうきんな声を上げた
「…そうか…退職するのか…」
俺の言葉を反芻し一拍開けて
「わかった。しかし、退職するならするで手続きが必要だ。今日はもう出社しなくて良いから明日また会社に来なさい」
「えっ、…あ、はい。分かりました明日は会社に行きます」
ピッ
良かった、無事理解してくれた
案外簡単に話が進み、肩透かしを食ったよう
しかし、前進できて良かった
軽い足取りで店内へ戻り、自席へ座る
そのまま、ボーっと壁を見つめていると声をかけられた
「なにかいい事あったんですか?」
振り向くと先程のウエイトレスが笑顔で聞いてきたのだった
その笑顔がこの喫茶店に入った時よりも何倍も可愛く見えた
さらにその胸元に目が行く衝動を必死に堪える
開かれた胸元は強調されているにしては膨らみは控えめであった
「いや、ちょっとね…」
そんな事を考えていると勘繰られたくなかった俺は慌てて後頭部に手をやり言葉を濁した
「でもなんで?」
「入店してきた時より、今の方がさっぱりした顔をしていますので」
そうか、俺はこんな女子高生まで心配させるような顔をしていたのか
「もう大丈夫だよ。ありがとう」
笑顔を作り、そう答える
「そうですか」
女子高生も笑顔で答える
その雰囲気が恥ずかしくて、何か違う話題を探した
店内に目をやると、入店した時に居た中年二人組がまだ向かい合っていた
しかし、互いの視線はテーブル上に注がれている
パチッ
なんだか木と木がぶつかる音がした
「あの二人は何をしているの?」
気になった俺はウエイトレスに聞いてみた
そうするとウエイトレスは少し驚いたようだった
「お客さん知らないんですか?」
「なにを?」
「ここ、将棋喫茶ですよ?将棋好きの人が将棋を指しに来るんです」
ウエイトレスはテーブルにあったメニューの表紙のモチーフ指差した
そこには『銀将』とかかれていた




