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桜の君まで間に合うために

桜の君まで間に合うために(下)

(上)からお読みください

「ごめんみやこくん、また取り乱したりして……」


まだ涙が止まらないのか、メガネを外し袖で拭っている。もう一度ハンカチを渡した。


「ううん。僕のほうこそ……僕がしっかりしてたら、椿姫は何もしなくてよかったんだから」


その言葉を聞いて、椿姫の肩がびくりと震えた。そういえばさっきから真剣になりすぎて、いつの間にか名前で呼ぶようになっていた。


「ご、ごめん。名前で呼んだら馴れ馴れしいよね」

「そんなことない!わたしは、嬉しいから……」


いつもなら冗談の一つでも言ってくるのに、今日はおとなしかった。いや、今日だけではない。昨日だってこんな風にしおらしくて、泣いていた。

今日は昨日より早くに泣き止んで、僕にハンカチを返してくれる。


「君、案外泣き虫なんだね。ちょっと意外だったかも」


昨日今日で、もう二度も泣いている。何事も笑って吹き飛ばす人だと思っていたから、こんな風に泣きの感情を爆発させる人だとは思わなかった。

顔をみるみる真っ赤に染める。


「お、女の子だから泣きたい時は泣くの!」

「ごめんごめん、からかってるわけじゃないよ。泣きたい時は泣いてもいいと思う」


また真っ赤に顔を染めて、僕の肩をパカパカ叩く。そんな椿姫が面白くて、声に出して笑ってしまった。こんな風に笑ったのはいつ以来だろうか。


「またみやこくん笑ってる……」


これ以上は嫌われてしまいそうだから、無理やりに笑みを抑える。だけど抑えきれなかったものはわずかに開いた口の端っこから声となって漏れ、それを聞いた彼女が再び赤面する。抑えることは無理だったらしい。

クスクスと僕は笑ってそれがようやく収まった頃、壁に寄りかかる彼女の隣に僕も座った。

程なくして、昼休み終了のチャイムが鳴る。


「昼休み終わっちゃった……」

「別にいいんじゃない?次は英語だし、一時間ぐらいサボっても取り返しはつくよ」

「みやこくん、もしかして不良?」

「そんなんじゃないけど。ただ、今戻るのは勇気がいるなって思ったから」


食べかけのお弁当が唯一の心残りだけど、それはカンナさんが片付けておいてくれるのを祈ろう。あの人なら、気を使ってやってくれそうだから。


「ごめんね、みやこくん。わたし不器用で……」

「僕も君も昨日から謝りすぎだよ。何度も謝罪するのは良くないんじゃなかったっけ?」


自分で言ったことを思い出したのか、口を真一文字に結んだ。謝らないように堪えているのかもしれない。


「それに、君だけが悪いんじゃないよ。僕だって知ってたのに行動しなかったんだから。怖かったんだよ、人に踏み込むのが」


昔からそうだった。自分は何をされても言い返さずに、結果的に周りの人に迷惑をかけてしまっている。小学校の頃は美園に、今は椿姫に。


「みやこくんは、強い人だよ。それはわたしがよく知ってるから」

「ううん、僕はずっと弱い人間なんだよ。昔から、ずっと」

「昔から?」


彼女には話してもいいと思えた。いや、聞いてほしいと思っている自分がいる。慰めてほしいとかじゃなくて、勘違いしている椿姫に本当の自分を知ってほしかったから。


「小学校の頃にもイジメられてた時期があるんだよ。今と変わらず何も行動に移さなくて、それで美園にも迷惑をかけたんだ」

「小学校の頃って……わたしそんなの聞いてない!」

「本当のことを話すのが怖くてずっと黙ってたんだよ。全然隠してたつもりはなかったんだけど」


嫌われるかもとも考えたし、一番は本気で心配されるかと思った。彼女は優しいから、わざわざ僕のことで心配なんてしてほしくなかったんだ。


「友達の間に、そういう隠し事とかしちゃいけないんじゃないの?」

「ごめん……」

「ふふっ、冗談だよ。何回も謝ったら、価値が下がっちゃうよ?」


いつの間にかやり返されていて、僕は恥ずかしくなる。


「でも、本当のことを話してくれて嬉しかったよ。これで、知ってるのはわたしと美園ちゃんだけ?」

「そういうことになるのかな」


進んで話すような話題じゃないけど、当時のクラスメイトなら誰もが知っている話だ。

椿姫は冗談を言えるぐらいには元に戻っていて、僕はやっぱり安心する。


「でも、これで隠してることは何もないと思うよ」

「まだ隠してること、あるよね?」

「隠してること?」

「ほら、美園ちゃんが好きなんでしょ?」


こんな時まで彼女は勘違いをして僕を困らせる。何度も何度も答えているのに。

そうと思いこんだら中々見方を曲げない人なんだろう。

いずれ美園にも迷惑が降りかかりそうだから、そろそろ勘違いを訂正してあげる。


「好きだけど、恋愛感情とかそんなのじゃないよ。って、これも何回も言ってるよね」

「本当に恋愛感情とかないの?」

「少しはあるかもしれないけど……でも歳の同じ妹みたいな物だし、向こうも僕のことは弟みたいに思ってるから」

「じゃあ他に好きな人はいる?ほら、カンナとかどうかな?あの子ならみやこくんのこと助けてくれそう!」


この人はどうにかして僕に彼女を作りたいと思っているらしい。


「カンナさんは良い人だと思うけど、たぶん向こうがお断りだと思うよ。それに僕もそんなに話したことないから、告白したりするのは迷惑だと思う」

「それじゃあ、他には……」


思考を巡らせて、僕にそれほど知り合いがいないという事に思い至ったんだろう。悲しい話だ。


「みやこくん、もっと友達増やそうよ……」

「そんな哀れみの視線向けないで」

「だってこれまで時間はたくさんあったのに、今までの友達は美園ちゃんだけなんだもん。悲しすぎるよ」

「僕としては頑張ってきたつもりなんだけどね」

「頑張りが足りません!」


なぜか怒られてしまう。


「みやこくんは今日から……いや、今からいろんな人とちゃんと話すべきだと思う!」

「別にいいよ。今は美園と……椿姫がいるから」

「ダメダメ、わたしだってずっとみやこくんの側にはいられないよ?」


ずっとそばにはいられない。僕としては美園以外だと初めて、これからもこんな風に楽しく話していきたいと思える相手なのに。

こういう関係も、やっぱり高校を卒業すると共に無くなってしまうのだろうか。それとも、二年のクラス編成の時には何事もなかったかのようにリセットされてしまうのかもしれない。

今はこんなにも仲良く話しているのに。


「ずっとこのままじゃ、ダメなのかな……?」

「ダメだよ。大人にならなきゃ」


厳しいことを言っているけど、それでも彼女の顔は優しかった。僕のこれからを考えてくれていて、そのために何ができるかも真剣に考えてくれている。

……彼女の心の中に、僕と一緒の未来はないのだろうか。仮に椿姫とこれからを歩めるなら、僕はこれからも前向きに生きることができる。

それを伝えたら、少しは考えてくれるのだろうか。僕との未来を……

もしかすると、これが彼女の言う好きという感情なのかもしれない。


「でもそっかぁ。大人になるなら、教室に戻ってから二人に謝らなきゃ」

「椿姫は何も悪くないよ」

「悪くなくても怒鳴っちゃったから。喧嘩したままだと後味悪いでしょ?」


たしかに、二人は椿姫のことを友達だと思っていたんだから。その友達からキツイことを言われれば、誰でも傷ついてしまうと思う。


「怒ってる君、すごく怖かったしね。たしかに後味悪いかも」

「うそっ、そんなに怖かった……?」

「びっくりしたよ。何かが降りてきたのかと思って心配したんだ。これも演技が上手いからなのかな」

「それはどうかなぁ、関係ないかも。みやこくんのことで必死だったからね。みやこくんも必死になったら怖くなるんじゃない?」

「どうかなぁ。僕って怒ったことあんまりないから」

「そういう人が一番怖いんだよ」


なぜか椿姫はニコニコしていて、わたしは分かっていますよ感を出している。何を分かっているんだろうか。

ちょっと指摘してあげようと思ったけど、椿姫は唐突にぐったりと僕の肩に寄りかかってきた。その身体は軽くて、あんなにはしゃいでいたのが嘘みたいだ。


「どうしたの?大丈夫?」

「大丈夫、かな……ちょっと疲れたのかも」


どこか上の空の返答。本当に大丈夫なのだろうか。

もしかして、また夜ふかしをしたとか?

あんなにきつく言い聞かせたから、大丈夫だとは思っていたけど。


「少しだけ寝ても大丈夫かな……?」

「うん、時間になったら起こしてあげるよ」

「ありがとね、みやこくん……」


その言葉を最後に椿姫は目を閉じた。そういえば最近、やけに疲れた目をしている時がある。図書室で眠る時は電池が切れたようにプツンと眠ってしまうし、態度とは裏腹に疲れやすい体質をしているのかもしれない。

肩を貸してあげていたけど、それだと寝にくいだろうから頭を膝に乗せてあげる。頭を撫でると、サラサラと髪の毛が揺れた。くすぐったそうに身をよじる。


しばらくそうしていると、階下の方から誰かが上ってくる足音が聞こえてくる。先生に見つかったらまずいと思って身構えていたけど、屋上前にやってきたのは美園だった。

何も言わずに、椿姫とは反対の方向へ座ってちょこんと座る。


「授業サボったりしたらダメだよ?」

「京くんもサボってる。授業時間に逢い引きなんて、不良」


言い返せないのが歯がゆいけど、これは決して逢い引きなんかじゃない。


「僕たちのこと、探してくれたの?」

「あんなに必死に走ってたら、誰だって心配するよ」

「ありがとね」


素直に感謝を述べると、恥ずかしいのか膝に顔を埋めた。そういえば、美園と会話をするのは久しぶりな気がする。ちなみに、以前一方的に通話を切られてからずっと、糸電話は僕の部屋にある。

美園は、隣で僕に見えないように携帯を操作し始めた。もちろん、校内の携帯使用は校則に引っかかる。こんなところで三人揃ってサボっているから、もうそんなこと気にするのもおかしな話だ。だから特に注意もしない。

携帯の操作が終わったらしいけど、それからしばらくは動かなかった。どうしたんだろうと覗き込むと、ちょうどこちらを見た美園と目が合う。


「京くん、携帯は?」

「生徒手帳に書いてあったよね?授業中はロッカーの中にしまわないと」

「そんなの守ってたの?」

「一応校則だから……」


最低限のことは守らないといけない。

美園は仕方ないといった風に、僕にその画面を見せてくれた。そばにいるんだから、声に出せばいいのに。


『羽前さんのこと、好きになったの?』


好きなの?ではなく、好きになったの?

やっぱり、幼馴染には全部バレている。長い間ずっと一緒なんだから、隠し通すなんていうのは無理な話だ。たとえここで運よく隠し通せたとしても、僕ならきっとどこかでボロが出る。

それなら、今この瞬間に伝えてしまったほうがあとくされもないしスッキリするだろう。

改めて美園の目を見ると、少しだけ目の周りが赤く腫れていた。その意味がわからない僕は、彼女への想いをそのまま口にする。


「好きになったのかも……」


どうせ寝ているから意味のないことだと思ったけど、一応椿姫の耳に手のひらを被せておいた。彼女には聞かれたくない。たとえ夢の中でも、この想いは知られたくなかった。

たぶん自覚したのは先の教室。いや、もっと前からそうだったのかもしれない。内向的な僕に真正面から向かってきてくれて、いろんなことを学ばせてもらった。前向きに生きるための手助けをしてくれた。

本気でぶつからないと、自分の想いは伝わらない。そういう当たり前のことを、彼女は自身で表現してくれた。

美園は再び膝に顔を埋める。どんな表情をしているのかは分からない。だけど笑ってはいないのだということは、なぜかすぐに分かってしまった。


「……そっか」


ただ一つそう呟いたその言葉は、悲しみの色を帯びている。


「京くん、成長したね……」

「成長したって、何が?」

「成長したよ。私にはちゃんとわかるから……」


また、何もかもを察したように話してくる。僕は何もわかっていない。


「私、嫌な女だよね。今まで京くんと羽前さんの邪魔ばかりして……」

「邪魔なんかじゃないよ。三人でいるときは楽しかったし、そもそも今日になるまでこの気持ちには気付かなかったんだから」


本当にそう思っているのに、美園は俯かせた顔を上げてはくれない。


「ごめんね京くん……ごめん……」

「美園……」


どんな言葉をかければいいか分からない。どうして美園が悲しんでいるのか、どうして謝っているのかも分からない。

だから僕はきっと酷い人間なのだ。幼馴染の気持ちもわからない、酷い人間だ。

しばらく僕らは会話を交わさずに、ただ時間が流れるのに身を任せていた。これは時間が解決してくれることなのだろうか。

今までは小さな喧嘩も翌日になれば綺麗さっぱり忘れていたけど、今回のそれはたった一晩じゃどうしようも出来ない気がする。僕がその理由に気がつかなければ、おそらくいつまでもどこまでも波及するのだろう。

美園が悲しんでいる理由、それを数十分考え続けて、しかし答えは思い浮かばなかった。いくつかの仮説が思い浮かぶことはあっても、美園だからそれはありえないと否定してしまう。

またしばらく時間が経ち、授業が終わりそうな頃、膝の上の椿姫がピクリと身体を震わせた。怖い夢でも見たのだろうか、その瞳からは小さな涙が一筋こぼれていた。彼女が完全に覚醒する前に、その涙を拭いてあげる。

身体を起こした彼女は、しばらく自分のいる場所を理解できなかったのかキョロキョロと辺りを見渡していた。そしてここに来た経緯を思い出したのか、納得のいった表情を浮かべる。


「わたし、眠っちゃって……」

「よく眠れた?」

「うん。久しぶりによく眠れた気がする。ありがとねみやこくん」


お礼を言った椿姫は反対側にいる美園に気付いたのか、柔らかい笑みを浮かべた。


「美園ちゃんもサボり?」

「うん……」

「ダメだなぁ、ちゃんと授業出ないと」


そう言って彼女は立ち上がった。僕はその身体が小さく揺れたことを真っ先に気が付き、慌てて立ち上がって抱きとめる。


「ちょっと、大丈夫?!」

「ごめん……立ちくらみしたみたい……」

「やっぱり体調悪いの?」


その問いに彼女は顔をそらした。答えたくないということは、そう言うことなんだろう。

美園も心配して立ち上がり、椿姫のそばへと近づく。


「体調悪いなら、保健室に行ったほうがいい……」

「大丈夫大丈夫、これぐらい本当に大丈夫だから。大げさだなぁもう」


きっと無理に笑わせてしまっている。それが分かってしまったから、僕は彼女の肩を離さなかった。


「体調悪いなら、すぐに保健室に行こう。もっと悪いなら病院まで連れてくから」

「だから、大げさだって……」

「大げさか大げさじゃないかは、検査をしてみればすぐにわかるよ」


僕はいつになく真剣で、その真剣さが伝わったのか彼女は少し大人しくなってくれた。しかし自分の意見を曲げるつもりはないらしい。


「ほんとに大丈夫だよ……それに、そろそろ演劇も頑張らなくちゃだし」

「悪いけど、君の体調が万全じゃないなら、何があっても僕は止めるから」


それは脅しのつもりだったけど、彼女は少しも焦ったりしなかった。演劇を引き合いに出せば素直になってくれるかも、と考えたのは我ながら卑怯だと思う。


「……そんなこと言ったら、わたしみやこんのこと嫌いになるかもよ?」

「何もしないで君の体調が悪くなるくらいなら、僕は別に嫌われてもいい。君のことが本気で心配だから」


その言葉が少しは響いてくれたのか、今度の彼女は少しだけ思案してくれた。これで病院へ連れて行ける、そう思った。

だけど彼女はどこまでも強情で、隙を見て僕の手から抜け出してしまう。それから一歩分離れてぎこちなく微笑んだ。


「ほんとに大丈夫だから。わたし、すごく元気だよ?みやこくんは心配性だなぁ」

「心配性にもなるよ。だって僕は、君のことが……」


その言葉は言い終わることができずに中途半端な部分で途切れてしまう。僕はたぶん、美園よりも早くそれに気が付き、だけど遅かった。

椿姫は突然倒れこみ、胸のあたりを押さえながら苦しそうに呻き始めた。それからは考えるよりも先に彼女へ駆け寄っていて、慌てて彼女を抱き起こす。


「椿姫?!」


その言葉は聞こえていなかったのか、未だ胸を押さえながら呻いていて、呼吸をしているのも苦しそうだった。

こんな時、どうすることが正解なのか僕は知らない。だけど彼女を助けたいという気持ちは確かにあって、そのおかげか先ほどの出来事をすぐに思い出せていた。

振り向くと、美園は涙を溜めながら呆然としていた。目の前の出来事が理解できていない、といった風だった。


「美園、今すぐ携帯貸して。救急車呼ぶから」

「えっ……?」

「はやく!」


焦りから大声を出してしまい、美園はびくりと小さく震える。申し訳なかったけど、今はそんなこと気にしちゃいられない。

震える手で取り出した携帯を半ば奪い取るように受け取って、彼女の心配をしながら電話をかけた。

それからしばらくすると遠くから救急車の音が聞こえてきて、事情を知らない何人かの教師と救急隊が僕らのところへすぐに駆け上がってきた。

その頃にはもう椿姫はぐったりとしていて、目を閉じて眠っていた。死んだというわけではなく、目を閉じて気を失っていただけだ。

僕も彼女のところへ着いて行きたかったけど、それは教師に止められた。当たり前だ。

本来ならまだ授業中で、僕らは今までの経緯を説明しなきゃいけない。

事情を説明している間、僕の頭の中では椿姫の表情や仕草が何度も何度もリフレインされていた。

ここに至るまでに、彼女は何らかの兆候を見せていたか。おかしなところはなかったか。

どうして僕は気付いてあげられなかったんだろう。

僕は一番椿姫のことを見ていたはずなのに……


※※※※


桜の君まで間に合うために


先天性の心疾患。

心臓移植は成功したけれど、異常が見つかった。もっと早くに見つかっていれば、少なくとも延命の処置は施せた。

そんなような言葉を医師から説明された。だけど理解できたのは、『次の桜を見ることはもう叶わない』ということだけ。

その事実を知った僕は、椿姫の病室の前で立ち尽くしていた。あんなにも元気だった彼女がそこでどんな姿をしているのか、僕はそれを知るのが怖かった。

あまりにも突然すぎる出来事に、僕の思考はついていけない。ただ異様なほど心臓の鼓動は荒ぶっていて、あの時の彼女を否応なく思い出させてしまう。

彼女は、大丈夫なのだろうか……


「みやこくん!お見舞いに来てくれたんだ!」

「うわぁ?!」


僕は驚いて、声のした方へ振り向く。そこには病院服を着てメガネをかけた椿姫がいた。

そして、僕の驚きようを見て頬を膨らませる。


「なに死人を見たような顔してるの?わたしはまだ死んでませーん」

「そんな縁起でもないこと言わないでよ……」

「じゃあ、みやこくんもそんな顔しないで」


唐突に僕の頬を両手で挟み込み、ぐにゃぐにゃとこねてきた。その手のひらさえも、とても冷たい。

僕の表情が変わらなくて諦めたのか、彼女は一つため息をついた。


「病室入りなよ。ずっとここにいても仕方ないでしょう?」

「……うん」


言われて僕は病室の中へ入った。中は普通の病室で、とても空虚だった。これから彼女がここで寝て起きるのだと思うと、途端に胸が苦しくなる。

疲れたような足取りで、彼女はベッドまで歩き腰を落ち着けた。


「体調が悪いなら起き上がってなくてもいいよ。横になって」

「ん、そうする」


普段はなにかしら言い返してくるのに、今日はやけに素直。その素直さが彼女の辛さに直結しているのだと分かって、僕はいたたまれない気持ちになった。

横になった彼女は、僕の顔を覗き込んでムッとした。


「わたしの一挙手一投足を見て表情沈めないでよ。そういうことされると、こっちまで気分が沈んじゃうんだから」

「ごめん……」

「まあ、そんなに怒ってないけど。みやこくんだから仕方ない部分もあるし」


そう言ってメガネを外した。

僕は何もできずにまた立ち尽くしていると、今度は椅子を勧められる。それに座って、彼女の表情を真正面から見ることはできなかった。


「ほんとにもう、よりにもよって今日わたしの病室に来なくてもよかったじゃん」

「心配だったんだよ。それに、君がいなきゃ演劇も出来ないんだから」

「それでも文化祭には参加しなよ。って、もう終わっちゃう時間か」


彼女が時計を見て、釣られて僕も見る。おそらく文化祭は後片付けへ入っていて、もちろん僕たちの演劇の順番は飛ばされただろう。


「美園ちゃんは?」

「たぶん自分の部屋にいると思う。あれから学校にも行ってないし」

「……そう」


こんな時まで美園の心配を出来るなんて、彼女はどれだけ強い人間なんだろう。きっと僕だったら、目の前にある現実に押しつぶされている。


「たぶん、お医者様から全部聞いたんだよね?」


曖昧に頷く。その大半を僕は理解できなかったから。


「お医者様の言ってたことは全部事実だよ。わたしはもう、次の桜を見ることはできないの」

「そんなこと、時間が経ってみないとーー」

「わかるよ」


彼女は言葉を遮った。それは、自分が死ぬことを確信しているかのような響きだった。

だけどあくまで、僕には柔らかい笑みを向ける。


「自分の身体のことは自分が一番よく分かってるよ。気のせいかと思ってたけど最近やけに疲れやすいなって思ってたし。でも、もうちょっとだけ持つかなとも思ってたの。せめて、文化祭が終わるぐらいまでは。アテが外れちゃったなぁ」

「……君はすごく元気だったよね」

「ほら、わたし演技が上手いから。そういうの全部、表に出さないようにしてたの」

「……いつも眠そうにしてたのは?」

「あれは演技とかじゃなくて、ほんとに眠たかった。さすがに睡眠まではコントロールできないからね」


どこか腑に落ちなかったけど、ただ一つわかったのは彼女が隠し事をしていたということ。隠し事をしていたということは、嘘をついているのと同じことだ。

彼女はずっと僕に嘘をついてきた。

それは、僕も過去を隠してきたから人のことを言えないけど。

あくまでいつも通りに、彼女は笑った。


「せっかく来たんだからゆっくりしていきなよ。ほら、冷蔵庫の中にイチゴ味のゼリーがあるよ。君がくると思ってお母さんに買ってきてもらったの」

「僕がイチゴ味が好きだって話したっけ」

「君が話したことなくても、わたしは分かるよ。イチゴが好きそうな顔してるから」


どんな顔だと思ったけど、とりあえず冷蔵庫を開けた。中にはイチゴのゼリーとみかんのゼリーが入っていて、僕はその両方を取り出す。


「二つも食べるの?すごくお腹空いてるんだね」

「違うよ。君も食べるかと思ったんだ」

「んー、食べさせてくれるなら食べようかなぁ」


その言葉を無視して、僕は二人ぶんをしっかり持ってきた。隣に腰掛けて、みかんのゼリーを開ける。スプーンですくって、彼女の口もとへ寄せた。


「うわっ、ほんとに食べさせてくれるんだ」

「嫌なら自分で食べて」

「そんなことないよ、嬉しい」


彼女は少し頬を染めながらパクリとゼリーを口にした。何度も口の中で咀嚼して、そして飲み込む。

次のゼリーを待っていたけど、僕はその前に口を開く。


「手術をしたらーー」

「治らないよ。それこそ奇跡が起きない限りね」

「……奇跡が起きる方にはかけたくないの?」

「そんな都合のいい奇跡が起こるなら、わたしの病気はとっくの昔に治ってるよ。だから、そんな奇跡は存在しないってわたし自身が一番わかってる。わたしは死ぬの」


僕がこんなにも胸の内側を黒くして、悩んで、考えて、どうしたら救うことができるのかと考えているのに、当の彼女は諦めにも似た言葉で僕の言葉を切っていく。

僕はまだ、彼女のそばにいたいのに。やっぱり彼女の中には、僕との未来は存在しないのだろうか。僕はこんなにも君のことが好きなのに。


「僕は、君のことがーー」


その言葉は、突然の来訪者によって遮られた。病室のドアが開いて、彼女はそちらへ視線を向けてしまう。どうしてこんなにもタイミングが悪いんだろう。


「あら、お邪魔だったかしら?」


椿姫と似てるけど、少しだけ大人びた声。振り向くと、椿姫が十歳ほど歳を重ねたらこんな風な優しそうな美人になるんだろう、という人が立っていた。

きっと母親だ。


「もう!入ってきたらダメだって言ったのに!」


彼女は子どもみたいに怒って、両手で布団の上を叩いている。お母さんは苦笑していた。


「みやこくんって人がどんな人か見てみたかったの。漫画を持ってきただけだから、すぐに出てくわよ」


そう言って備えられた机の上へ数冊の漫画を置いた。表紙を見る限り、どれも少女漫画だった。

僕は家族同士の会話を邪魔してしまったと思い、病室を出るべく立ち上がる。


「ごめん、お邪魔だと思うし帰るよ。また来る」


彼女の方を見ない。きっとそちらを向けば、離れたくないと思ってしまうから。

だけど予想外なことに、彼女は僕の服の袖を掴んで離してはくれなかった。そっぽを向いたまま、きっと彼女も僕の方を見ていない。


「まだ、全部ゼリー食べてない……もう少しここにいて……」


甘えられたのだろうか。彼女の心境は分からないけれど、少し照れているようだった。その証拠に、お母さんは口元を押さえて笑みをこぼしている。

僕はストンと、再び椅子に腰を預けた。

お母さんはそんな僕へ近寄ってきて、そっと耳打ちする。


「椿姫に解放されたら、一階のロビーに来て。話したいことがあるの」


僕がそれに頷くと、満足したのか部屋を出て行った。彼女は未だ袖を離してくれない。


「あの、そばにいるから。掴まれてると、食べさせにくい……」


本当は甘えて掴んでいてほしかったけど、僕はこんな空気に耐えることができない。彼女は名残惜しくもようやく袖を離した。

再びみかんのゼリーをすくって、彼女の口へ運ぶ。素直に食べてくれた。湿った唇はどこまでも扇情的で、僕の視線を離してはくれない。

僕は新たな会話の糸口を探した。


「君がインドアだったのって、もしかしてずっと入院してたから?」


謎が解けた気がする。彼女がインドアだった理由も、友達がいなかったというワケも。


「たはは、バレちゃった?恥ずかしいなぁ、こういうこと知られるのって」


自嘲気味に笑って、どこか辛そうだった。たぶん知られたくなかったんだろう。知られないまま、僕の前を去っていくつもりだったのかもしれない。


「これからは、なるべく僕に嘘をつかないようにして」

「……うん」


控えめに頷いたのを見て、口元へゼリーを運ぶ。

しばらくそれを続けて、やがて空になってからゴミ箱へ捨てた。彼女はまだ隠し事をしているのだろうか。

隠し事をしていたとして、僕に教えてくれるのだろうか。

次の春までには死んでしまう、僕の好きな人。本当なら今すぐに泣き出して何かにすがりたいけれど、好きな人の前で取り乱すわけにはいかない。


「イチゴのゼリー、食べないの?」

「あぁ、うん……」


僕は彼女の用意してくれたゼリーを食べてから、短い会話を交わして病室を出た。扉を閉めた瞬間に胸の奥が張り裂けそうになり、胃の中から何かがせりあげてくる。

涙が溢れていた。

彼女が側にいたのに、よく耐えたと自分でも思う。病を背負う彼女の前で、こんな感情は邪魔以外の何者でもない。せめてもっと普通でいられたら、残りの余命を笑顔で過ごせるはずなのに。

僕の心はとても弱い。彼女なしじゃ、もう生きていけない。

彼女がいなくなった後のことを考えてしまった僕は、どれだけ酷い人間なんだろう。まだ死ぬとは決まっていないのに。

僕は病室の前で、数分の間声を押し殺して泣き続けたーー


※※※※


涙を無理矢理にでも止めて、トイレで顔を洗ってからロビーへ向かった。僕と同じく面会へ来た人や、マスクをした人たちが、連なる椅子に腰掛けている。

その中に、彼女のお母さんがいるのを見つけた。似た容姿をしているから気付かないはずがない。お母さんも僕に気づいて、にこやかに手を振ってきた。

こんな仕草も、どことなく彼女に似ている。


「あの、先ほどはご挨拶が遅れました。椿姫さんの友達の長岡京と申します」

「そんなにかしこまらなくていいわよ。椿姫からあなたのことは何度も聞いてるから」


そう言ったお母さんはとても嬉しそうだった。隣の椅子を勧められて、僕は腰を落ち着ける。幸い泣いていたことは悟られていないらしい。


「本当はもっと早くに会ってこうやって話したかったんだけど、私もなかなか忙しくてご挨拶が遅れちゃったわ。椿姫と仲良くしてくれて、本当にありがとう」

「……いえ、むしろ仲良くしてもらっているのは僕の方です。椿姫さんの方から、僕へ話しかけてくれたんです」

「へぇ、椿姫がねぇ」


どこか嬉しそうに両指を絡めている。椿姫と話しているような錯覚に陥りそうになったのを、慌てて引き戻した。


「みやこくんから見て、椿姫ってどんな女の子?」


その質問の意図が分からなかったけど、僕は正直に答えることにした。


「とっても元気な女の子だと思います。何をする時も僕を引っ張ってくれて、いつでも支えてくれて、笑顔が眩しいとても魅力的な人です……」


言い切って、僕は顔が焼けるみたいに熱くなった。僕の隣にいる人は椿姫の母親なのだ。こんなにべた褒めしたら、彼女のことが好きですと宣言しているようなものだ。

事実、お母さんはそのように受け取ったのだろう。椿姫のように、くすりと笑った。


「椿姫のこと、好きなんだ?」

「……はい」

「素直なんだね」


僕を素直にさせてくれたのは、椿姫がいたからだ。彼女に出会えていなかったら、今の僕はなかった。


「でも、僕は椿姫さんのことを何も知りません。病を患っていることだって、つい先ほど初めて知りました……」

「それは仕方ないわよ。椿姫はそういうところ、隠しちゃう子だから。みやこくんは悪くない」


そう言って、僕の右手に手のひらを重ねてくれた。いつの間にか強く握りしめていたらしい。自分でも気付かないうちに感情が高ぶっていた。


「そうだなぁ……いくつか口止めされてることがあるんだけど、椿姫と仲良くしてくれたみやこくんには特別に教えてあげようかな」

「特別、ですか……?」

「そうだよ。たぶん、私しか知らない椿姫のこと。もちろん、口止めされてることは話せないけどね」


聞きたかった。彼女が敢えて、僕に話さなかったこと。

それがたとえ、話してくれなかった彼女を裏切る行為だったとしても。

彼女のことを分かりたかったから、お母さんが話し始めるのを僕は待った。


「学校へ入学するちょっと前だったかな、突然椿姫が私のところへやってきて、コンタクトに変えたい!って言ってきたの」

「たしか、以前はメガネをかけていたんですよね?」

「そうそう、子どもの頃からメガネをかけてたわ。今までずっと病院にいたから、見た目とか気にしない子だったの。だからコンタクトに変えたいって言った時はびっくりしたわ。でも、それだけじゃなかったの。入学する前までは人見知りで、ちょっとしたことで泣いちゃう子で、控えめな性格をしてたのが急変しちゃったから 」


まるで今とは対照的なその姿に、僕はそれほど驚きはしなかった。彼女は何度か、その姿を僕へと見せていたから。

でも、その姿が本来の羽前椿姫だということを初めて知って、多少の驚きはあった。


「勉強も全然出来ない子で、学校だってギリギリの点数で入学したの。だからかは分からないけど、毎日夜遅くまで勉強をしてた。毎日少女漫画を読む子だったのに、それも押入れの中にしまいこんだの。それで入学して二日目ぐらいの時に、ふと覗いてみたら自分のノートを丁寧に写してた。気になって聞いてみたら、入学式からずっと休んでるバカな人のために書いてるんだって言って、とっても嬉しそうにしてたわ。そういうこと、めんどくさがってしない人だったのに」


それは、たまたま学校を休んだ僕に恩を売るためやったことだ。だからただの偶然で、そこに好意は無い。


「それからしばらく経ってからね、椿姫がみやこくんの話をするようになったのは。毎日笑顔でみやこくんに数学を教えたとか、みやこくんと一緒に学校へ登校するんだとか。正直鬱陶しいなって思ってたんだけど、あんなに嬉しそうな顔をする椿姫を見たのは初めてだったから私も嬉しくなっちゃって」


お母さんは子どもみたいに口元を押さえながら笑った。

自分に対して向けられている好意を、他の人から聞くということがこんなにも嬉しいことなんだということを知らなかった。もしかすると彼女は、最初から打算的に僕へと接触してきたのではなく、好意的に近寄ってきたのだろうか。

僕にどんな魅力があったのかは分からないけど、もしかすると彼女には見えていたのかもしれない。

お母さんは、今思い出したというように小さく手を叩いた。


「そうそう、みやこくんって椿姫の料理食べたんでしょう?」

「はい、食べました」

「私が手伝ったのもあるけどね、ほとんど椿姫が頑張ったのよ。あの子料理もからっきしだったんだけど、勉強と同じく料理も夜遅くまで勉強してて、みるみるうちに上達したの!」

「えっ、椿姫さんは料理が出来なかったんですか……?」


僕は本当に驚いて、少し失礼な反応を取ったかもしれない。その驚きようが嬉しかったのか、お母さんは嬉々として話を続けた。


「あの子強がりなところあるから、きっと隠してたんだと思うわ。気を悪くしないであげて」

「そんなことは……むしろ僕は嬉しかったので」


僕のために料理を作ってくれた。毎日夜遅くまで起きて、僕のためだけに。料理に限らず、彼女は勉強も教えてくれていた。

何も知らずに夜ふかしはしないでと言っていた自分が恥ずかしい。もし知っていたなら、もっと早くにありがとうと言ったのに。

だけど、それでも体調のことを考えたら止めさせてあげたかった。自分の素直な感情と素直になれない心のジレンマが、僕のことを離してくれない。


「うちはね、普段はだし巻き卵しか作らないの。私も椿姫もだし巻き派だから。でも、みやこくんのために砂糖味を何個も何個も作って練習してて……」


お母さんは言葉を止める。

僕は不甲斐なくも、また泣いていた。もう泣かないと決めていたのに。彼女がこんなにも僕のことを考えてくれていたのだと知って、涙が溢れてきた。

僕はまだ、何も返せていない。彼女に返すことができるのだろうか。

いつか彼女の言っていたことを思い出す。

良いことをすれば、いずれ必ず巡り巡って自分の元に返ってくる。そういう風にして、世界は回っている。だから以前ある人に助けられたから、今度は他の誰かを助けてあげるんだと。

僕は多分、彼女に一生かけても払えないほどの物を貰ってしまった。それは、彼女なしに返せるものなのだろうか。


「泣きたい時には泣けばいいわ。まだ子どもだもの。いえ、大人になるということが泣かなくなることじゃないわ。誰だって、そういう日もある」

「すいませんっ……」


僕は彼女のことを知って、少しは前向きに話せる気がした。


※※※※


日が落ちて、もう時間が遅いからと言われたから車で送ってもらうことになった。車内へ向かう僕の足取りは、まるで憑き物が落ちたかのように軽かった。

運転中、僕はお母さんへと話しかける。


「あの、いつか椿姫さんのお父さんにもお礼が言いたいです。会わせていただけないでしょうか?」


おそらくそれを聞くのはまずかったのだろう。お母さんは唇を引き結び、視線をわずかにハンドルへと下げた。

だけどそれは一瞬のことで、すぐにいつも通りの表情へと戻る。


「数年前に椿姫と同じ病気でね。お墓は実家の方にあるの」

「すいません、本当に何も知らなくて……」

「いいわよ、気にしないで。もし時間があれば手を合わせに来てくれると嬉しいかな」

「……はい」


わずかな間の後、お母さんは再び話し始めた。


「ネグレクトってわけじゃないんだけどね、母子家庭だったからあの子を一人にさせてしまう機会が多かったの。病院でも、家でも。だからちょっとだけ……寂しがりやな性格なの。これからも仲良くしてあげると嬉しいかな」

「僕の方から椿姫さんを嫌いになることはありませんよ。だから、安心してください」


バックミラー越しにお母さんの微笑んだ姿が見えた。

それからは本当に何も話さずに、いつの間にか家の前へ着いていた。美園の部屋の明かりは消えている。


「ありがとうございます。わざわざ送っていただいて」

「いいのよ、椿姫の数少ない友人さんなんだから」


友人という言葉で、また思い出したことがあった。聞いてもいいのか迷ったけど、やっぱり少しでも彼女のことを知りたい。


「あの、姫子さんって方、ご存知ですか?椿姫さんの以前の友人だったって聞いたんですけど……」


お母さんは姫子という名前が僕の口から出たことに驚いたのか、少しだけ固まっていた。


「椿姫から、その子のこと聞いたの?」

「はい、名前だけしか教えてくれなかったんですけど……」


それと、今はもういないということを。しばらく思案したお母さんは、結局曖昧に微笑んで頬をかいた。


「ごめんなさい。それは椿姫に口止めされてることだから話せないの」

「いえ、気にしないでください。僕が勝手に聞いたことなので」

「でも、いつか椿姫の口から話してくれると思うわよ。そう遠くない未来に」


そう言ったお母さんは、最後に手を振って夜の路地に車を走らせた。

僕は緩んでしまった涙腺を引き締めるべく、両頬を手のひらで叩き喝を入れる。誰かの前で泣くことはあっても、美園の前で泣くわけにはいかない。

美園の前では、あくまで強い人間でいなくちゃいけないから。もう心配をかけさせるわけにはいかない。

インターホンを押してしばらく待つと、美園の母親が応対してくれた。僕と分かると玄関先まで出てきてくれて、だけど側に美園はいなかった。


「ごめんなさいね。あの子、ずっと部屋から出てこなくて……」


分かっていたけれど、たぶんあの日からずっと部屋から出ていないんだろう。椿姫とは一定の距離を取っていたけど、美園は美園なりに彼女のことが好きだったのかもしれない。


「美園と話したいことがあるんです。もしよければ、家に上がってもいいですか?」

「もう京くんしか頼れないから全然構わないけど……でも出てこないと思うわよ?」

「伝えたいことを伝えるだけなので、それが終わったらすぐに帰ります」


美園を僕に任せてくれたお母さんは、すぐに家の中へ上げてくれた。信頼されていなかったら、こうもあっさりいかないだろう。昔から美園のお母さんとも仲が良いし。

だけど、浦和家に上がったのは小学生以来の事だと思う。学校へ一緒に登校することは何度かあったけど、やはり成長した異性の部屋というのは幼馴染であっても緊張する。

だから今の美園の部屋がどのようになっているのかは知らない。昔は性格に似合わずぬいぐるみとかがたくさん置いてあったけど。ただ一つわかることは、おそらく本がたくさん置いてあるのだろう。

今日は部屋を覗くために来たわけじゃないから、そんなことはどうでもいいんだけど。

二階へ上がって美園の部屋の前へ向かう。昔と同じくドアプレートが下がっていて、可愛らしい文字でみそのと書かれていた。懐かしい気持ちになったけど、気を引き締める。

ドアを三回叩いた。


「僕だけど、今起きてるかな?」


向こうから衣擦れの音が聞こえて、次いでわずかだけどこちらへ歩み寄ってくる足音が聞こえた。しかし返答はなく、部屋は開けてくれない。

とりあえず起き上がる元気はあってよかった。聞いてくれていることを祈って、僕は勝手に話を続ける。


「今日、病院へ行ってきたんだ。椿姫に会ってきた。体調は……たぶんあんまり良くなかったんだと思う」


追い詰めてしまうかもしれないと分かっていても、伝えなきゃいけない。美園には知る権利がある。僕らは三人で文化祭の舞台を目指したんだから。

一つ深呼吸をして、僕は告げた。


「先天性の心臓の病気らしいんだ。それで、お医者様からは次の桜を見ることはできないって言われてる」


初めてそれを聞いた時。病室で彼女を見た時。堪え切れないほど胸が締め付けられて、逃げ出したくなった。

だけど今はしっかり向き合おうと思っている。文字通り、彼女は命を削ってまで僕のことを支えてくれたから。今までの僕のまま、何もできずにその瞬間が来たとしたら、本当に何も返すことができなくなる。

それは嫌だ。

ひとつひとつ、ゆっくりでもいい、何かを返していきたい。何も返せなかったとしても、せめてしっかりと向き合いたい。

彼女が僕から離れるその瞬間まで……


「今すぐにじゃなくてもいいから、落ち着いたら椿姫のところへお見舞いに行こう。きっと椿姫も喜んでくれるから……それと、僕も美園とまた話したい」


たぶん、こんなにも美園と会話を交わさなかったのは初めてのことだ。早く話して、元気じゃなくてもいいから、無事であることを確認したい。


「朝、七時には家の前にいるから。放課後は、四時に家を出て病院へ向かうよ。夜の九時には窓を開けて電話を待つから。椿姫と会うのが辛いなら、学校だけでもいい。学校へ行くのが辛いなら、椿姫と会うだけでもいい。どっちもダメなら、気が向いた時でいいから電話やメールをしよう」


伝えるべきことは全て伝えた。無理やり引っ張り出しても、美園が嫌がるだけだ。それなら傷が癒えるのを待つしかない。

そのためなら、僕はなんだって出来る。美園が今まで、僕にしてくれていたことなんだから。

重たいドアから離れる。

向こう側から、小さな声が聞こえた気がした。


「……ごめんなさい。私の……」


それはたぶん、僕に対して投げかけた言葉ではなかった。だからそれ以上は言葉を吐き出さなかったし、僕も言葉を返さなかった。


『僕は今でも、美園の書いた脚本を読みたいと思ってるよ』


そうメールを出して、浦和家を出た。美園がそのメールを見ていたのかどうか、僕にはわからない。


※※※※


夏休みに入る二日前まで、美園は学校へ登校しなかった。椿姫の入院している病院へも行かず、だけどごくたまにメールのやり取りはしていた。

そのメールも一言二言会話を交わす程度のものだけど、無事であることを確認できるだけで今は十分だ。美園の母親とも毎日連絡を取り合い、ちゃんとご飯は食べていると伝えられている。

今日は終業式だから登校してほしかったけど、美園がダメなら仕方がない。学校へ遅刻しないギリギリの時間まで待ったけど、僕は仕方なく一人で登校することにした。

歩き出すと、しばらくしたらポケットに入っていた携帯が鳴った。メールではなく電話だ。登録しているアドレスなんて本当に少ないから、それが美園からのものだと確信してすぐに電話に出た。

慌てさせないよう、美園から話してくれるのを待つ。わずかな呼吸音の後、糸電話より正確な音声が耳へ届いた。


「……ごめん京くん。今日も学校行けなくて……」

「気にしないで。明日から夏休みだから、ゆっくり休もう。休みが明けたら、また通えばいいんだから」

「……うん」


通話口の声は、涙のせいか震えていた。それが心配だったからかは分からないけど、僕は学校へ遅刻していくことにした。今まで優等生だったんだから、一日ぐらい不良を演じても笑って見逃してくれるだろう。

とりあえず腰を落ち着けたくて、僕は自然とその場所へ足を向けていた。初めて三人で会話をした場所だ。あの頃はピンクの桜が咲き乱れていたけど、今は青い葉が生い茂っていて、やがて春に芽吹くのを準備している。

蝉の音が聞こえてきて、もう季節は夏だった。


「……京くん、学校サボったの?」

「サボりじゃないよ。後でちゃんと行くから」

「やっぱり、不良になったんだ」

「そんなんじゃなくて、最近思うんだよ。美園と椿姫のいない学校に一人で通う意味があるのかなって」

「私が行かなくても、京くんは行かないとダメ」

「だけど、全然学校が面白くないからさ」

「友達作ればいいじゃん」

「僕なりに頑張ってるよ。最近、神奈さんって友達が出来たんだ」

「へぇ、女の子と仲良くなったんだ」

「椿姫のおかげだけどね。椿姫がいてくれたから、きっかけが掴めたんだ」


茜さんと光さんとは仲良く出来るか分からないけど、あの一件があってから改めてしっかり謝ってくれた。それを椿姫へ報告すると、やはり渋い顔をしていたけど許すと言ってくれた。二人はまだ椿姫と仲良くしたいらしく、だけど罪の意識を感じているからお見舞いには行けないらしい。

いつか、本当の意味で仲直りできたらいいなと思う。


「美園はちゃんとご飯食べてる?」

「……それなりに」

「ダメだよ、ちゃんと食べなきゃ」

「……うん」

「まさか毎日本を読んで夜ふかししてないよね?」

「小説はお昼に読んでる」

「それならよかったよ。最近どんな本を読んだの?」

「SF小説だよ」


それからしばらく、美園の読んだ本の話に耳を傾けた。それは千年後の日本を舞台にしたお話で、未来の世界は科学ではなく、魔法に似た力が発達しているらしい。

魔法が発達しているなら未来は幸せな世界が広がっているんだろうと思ったけど、どうやら今と同じく各地で争いが起きているらしい。きっと人がいる限り争いごとはなくならないんだろう。

人智を超えた力があるなら、もっと有用なことに使えばいいのに。たとえば僕なら、真っ先に椿姫の病気を治すだろう。だけどこの世界はどこまでも現実的で、そんなに都合のいいことは起こらない。


「京くんもそのうち読んでみるといいよ。貸してあげるから」

「貸してくれるのは嬉しいけど、今全部ネタバレされたよね……?敵対生物の秘密とか」

「細かいことは気にしないで」

「結末の知ってる物語を読んでも面白くないと思うけどなぁ……」

「じゃあ別の本貸してあげる。何かない?」


と聞かれても、美園からオススメされた本は大抵全てネタバレされている。オススメされたもの以外に気になっている本があるにはあるけど、美園がそれを持っているとは限らない。

しばらくどうしようかと考えていると、唐突にちょうど四月あたりの会話を思い出した。美園が酷評したあの小説だ。


「じゃあ、前に読んだっていうライトノベルを貸してよ。ほら、異世界のお姫様と異文化交流することになりましたってやつ」


普通の小説はいくらか読んだことがあるけど、僕もライトノベルというものを読んだことがなかった。面白くなかったと言っていたけど、ライトノベル自体には興味がある。

二つ返事で貸してくれるかと思ったけど、しかし美園はしばらく黙ったまま返答してこなかった。何かあったのかと耳をすますと、通話口から美園の声が響いた。


「……あれ、ほんとに面白くないよ?」

「別に構わないよ。ライトノベルっていうものに興味があるだけだから」

「……そう」


変な人だと思われたのだろうか。面白くないと言った小説を進んで読む人なんていないだろうし、もしかするとドン引きされたのかもしれない。


「……じゃあ、京くんが帰ってくるまでに家のポストに入れておくね」


その遠回しな渡し方は、まだ僕と会うのが気まずいと思っているからだろうか。素直に同意してもよかったけど、今日は久しぶりに話すこともできたから、少しだけ踏み込んでみることにした。


「帰ったら、美園の家に寄るのはダメかな?」


僕の返しの意図をすぐに掴んだのだろう。やはり、電話口の美園は押し黙り、少しだけ思案を始めた。いつまでもこのままじゃいけない。それは美園も理解しているはずだ。


「……窓から渡すのは?」

「それじゃあ大事な本を落としちゃうかも。僕キャッチボールは苦手だからさ」

「京くんの意地悪」

「久しぶりに美園の顔が見たいんだよ」


気持ちが伝わったのか、それからもしばらく考え続け、僕はそれを辛抱強く待った。

そして待ち続けた結果、


「……わかった」


という同意をもらえた。

本当は大声を出したいぐらい嬉しかったけど、それをしたら美園に引かれるからぐっとこらえる。

これはたぶん、大きな一歩だ。

それからもしばらく会話を続けているも、美園が「そろそろ学校へ行ったら?」と提案してくれた。時計を見るとすでに十一時を回っている。体感的には一時間程度だったけど、もうそんなに経っていたらしい。もし美園が会話を止めてくれなかったら、日が暮れるまで話し込んでいたかもしれない。

最後に美園は「お話に付き合ってくれてありがとね。久しぶりに話せて、ほんとに嬉しかった」と言ってくれた。今まで毎日話せるのが当たり前だったから、僕の方こそ嬉しい。幼馴染と話せることがこんなにも嬉しいことだなんて、僕は今まで知らなかった。

別れの挨拶を交わし、どちらからともなく通話を切る。その瞬間はとても切なかったけど、また会えるのだということを考えればそれぐらい耐えられる。

そして放課後。

美園は僕が帰ってくるのを玄関前で待ってくれていた。その手には書店の袋が握られている。僕へと手渡してくれて、中には『異世界のお姫様と異文化交流することになりました』というタイトルが書かれた本が入っていた。美園は几帳面だから、その本に傷は一つもない。借りた本を傷つけようものなら、丸一日ほど不機嫌になってしまうから気をつけなきゃいけない。それは中学の頃に漫画を借りて経験した。

約束の品を渡してくれた美園は、一歩下がって小さく手を振った。


「じゃ、それじゃあね」

「ちょっとまって?!せっかくだから何か話そうよ」

「ん、私こう見えて忙しい……それにたくさん電話したよね」

「そう言わずに、ちょっとだけ、ちょっとだけだからさ……」

「その言い方気持ち悪いからやめて」

「ごめん……」


気分を害させたかもしれないと思ったけど、美園は立ち止まってくれた。僕から若干目をそらしているのは、きっとまだ会うのが気まずいからだと思う。


「今日はあの後何してたの?」

「……脚本書いてた」

「ほんと?!見せて!」

「まだ完成してないからダメ。あと、今日の京くんほんとに気持ち悪い」


胸にグサリと棘が刺さったけど、僕はめげない。だって、美園と対面するのは本当に久しぶりのことだから。


「京くん、ちょっと変わったね」

「え、どこが?」

「なんか、明るくなった気がする。前はもっと暗かった」


美園から見ても明るく見えるなら、たぶん本当に明るくなったんだと思う。幼馴染の目は誤魔化せないし、僕自身も少しだけ変われたと思っているから。

それが良い方向へ変われたのかは分からないけど、暗いよりは明るい方が全然いいだろう。


「美園は、どっちの僕の方が好き?」


そんな恥ずかしいことを聞けてしまうぐらい、美園と話せているこの瞬間が嬉しかった。

美園は僕の顔をまっすぐに見て、恥ずかしくなった僕は視線を美園の口角あたりにそらす。口元が少しだけ緩んだ気がした。

自分のポケットに手を突っ込み、美園は何かを探し出す。だけどお目当てのものが見つからなかったのか、少し残念な表情をした。


「……携帯部屋に忘れてきたみたい」


何をしようとしていたのか、僕はなんとなく察する。


「そばにいるんだから、携帯なんて必要ないでしょ?」

「ダメ、私は必要」

「声に出して伝えるのはダメなの?」

「……ダメ」


この半年の間美園と接してきて、どうしてたまにメールを介して言葉を伝えてくるのかが分かった気がした。

たぶん、ただ純粋に恥ずかしいんだろう。

自分の思っていることを素直に伝えるのは勇気がいることだから。僕自身も椿姫に本当の気持ちを伝えられずにいる。


「あとで絶対返答するから……」


素直になれない幼馴染を見て、今の僕と重ねてしまう。僕らはどこか似ている。それがなぜかたまらなく嬉しくて、同時に少しだけ気恥ずかしかった。


「じゃあ、部屋に戻ったらすぐにメールしてよ?」

「うん、必ず」


はっきりとその言葉を聞いて、それから二言三言話した僕らはそれぞれの家へと戻っていった。部屋へ着いてベッドへと腰を下ろしたタイミングで、ポケットへ入れていた携帯が振動する。

はやる気持ちを抑えて受信ボックスを開くと、やはり送信先は浦和美園だった。


『京くんは京くんだから。私はどんな京くんでも好きだよ。明るい京くんも、控えめな京くんも』


たぶん顔が真っ赤になっている僕は、無意識のうちにそのメールをお気に入り登録していた。すると携帯が振動して、また美園からメールが届く。


『でも、たまに気持ち悪いところがあるからそこは直した方がいい。まあ、そこも良いところなんだけど……』


僕はなるべく、美園が気持ち悪がらないように気をつけようと思った……


※※※※


夏休みが半分ほど過ぎた頃、僕はいつも通り病室へお見舞いに来ていた。

メガネをかけていない椿姫は、病室のベッドに座って少女漫画を読んでいる。僕はそのベッドの隣に腰掛けて、持ってきたリンゴの皮を果物ナイフでむく。

こういうことは慣れていないから、集中してないと怪我をしそうだった。

彼女は少女漫画を読みながらケタケタ笑っている。


「……その漫画、そんなに面白いの?」

「面白いよー!だって少女漫画なのに、主人公は漫画を描くことしか興味無いんだよ!それを手伝ってるヒロインが面白くてさー!」


普段漫画を読まないからよく分からないけど、彼女がそう言うのならきっと面白いんだろう。こんな元気な姿を見ていると、次の桜を見ることができないと言う言葉は夢だったんじゃないかと思えてくる。

彼女はただ貧血で倒れて、念のため検査入院している。そういうシナリオを考えてみたけれど、醜い現実逃避だから思考を止めた。

一度演技をしていると知ってしまえば、辛そうにしているとすぐに分かってしまう。今は比較的元気だけど、目に見えて口数は減ってしまうし。

彼女の愉快な笑い声をBGMにしながら、僕はリンゴをむいていく。デコボコだけど許してほしい。

気付いたらいつの間にか、彼女は別の少女漫画を読んでいた。今度は笑えるお話ではないのか、どこかしんみりしている。


「ごめんね、みやこくん」


普段とは違い真面目なトーンで謝罪の言葉を発したから、暑さで頭をやられたのかと思い顔を上げる。彼女は汗ひとつかいていないし、空調はしっかりと効いていた。


「どうしたの、いきなり」

「思えばしっかり謝ってなかったなって」


そう前置きして、彼女は薄く申し訳なさそうに微笑んだ。


「みやこくんに手助けしてもらったのに結局演劇出来なかったからさ、僕が手伝った意味ないじゃんって怒ってるよねきっと」


普段より真面目なトーンで至って真面目なことを口走ったから、本気で今の体調を憂う。しかし彼女はたぶん、元からそういう人だ。数秒前の彼女こそ、殻を被っていた。


「本当に僕が手伝った意味なかったよね。君の夢だった劇が出来なかったんだから」

「たはは、ほんとにそうだよね……」


自嘲気味に笑って、視線を漫画へ落としている。僕は一つため息をついた。


「文化祭だけが演劇のステージじゃないよ。君の体調が少しでも良くなったら、また一緒に考えよう。そうすれば、僕らのやってきたことは無駄じゃなくなるんだから」


沈んでいた顔を上げて、わずかだけど微笑んでくれた。正直言うと僕はそれほど怒っていないし、残念だとも思っていない。いつだったかカラオケボックスで彼女は、生きていればなんとかなると言っていた。その寿命が尽きない限り、僕らに出来ないことはない。


「ありがとね、みやこくん……」

「それは演劇が成功した時にまた聞かせてよ」

「ううん」


そう言って、彼女は小さく首を振った。そして小さく「ありがとね」と呟く。

僕はたぶん動揺してしまったんだろう。ナイフを持っていた手を滑らせてしまい、ザックリと手のひらを切ってしまった。わずかだけど、傷口から鮮血が溢れる。


「わぁ?!みやこくん怪我!」

「落ち着いて、そんなに痛くないから」

「ダメ!血が溢れてる!」


落ち込んでいた空気はどこへ行ったのか、彼女は手近なティッシュ箱から何枚かティッシュを取り、溢れる血を拭いてくれた。傷口にティッシュが当たるとピリッとした痛みが走るけど、僕は我慢する。

やがて血が止まらないと悟ったのか、しばらく傷口を見つめたあと、何を思ったのか唇を手のひらへ近づけてきた。


「ちょ、ちょっとなにしてるの?!」

「くすぐったいかもしれないけど、我慢してて」


言うが早いか、彼女は猫のように手のひらを舐めてきて、僕はその気持ちよさに全身を身震いさせた。何度も何度も舐めてきて、いつの間にか溢れていた血は止まった。

その代わり僕の動悸は激しくて、彼女の顔をまともに見ることができない。彼女も、やっぱり恥ずかしいのか頬を染めていた。

唇を離す。


「ご、ごめん……止めなきゃって思って……」


たぶん、彼女の素の行動だったんだと思う。いつも余裕ありげな表情なのに、今は乙女のように恥じらいを見せている。いや、傷口を舐めて恥じらいを見せるのは普通なんだけど。

僕が今まで見てきた彼女なら、からかいの言葉を浴びせてくるはずだ。それを理解できたから、僕は案外冷静になれた。


「口の中に血の味が残ってるでしょ?今リンゴ切るから口直ししなよ」

「うん……」

「ありがとね、僕のために血を止めてくれて」

「うん……」


きっちり絆創膏を貼って、しおらしくなってしまった彼女に笑みを浮かべる。たとえば心臓を舐めることで病気が治るなら、僕はたぶん先の彼女と同じくなにも考えずにそれを舐めてしまうだろう。

リンゴをむくのを継続して、それを見た彼女は少しだけ元気になって目を細めていた。


「みやこくん、リンゴ切るの下手すぎ。デコボコだね」

「僕料理とかしないから、こういうの慣れてないんだよ」

「料理、案外楽しいよ?」


そうこう話しているうちにリンゴはむけて、彼女が食べやすい大きさにカットした。それを手で掴んで、最初はその歪な形に口角を緩めていたけど、嬉しそうに口に入れて美味しそうに微笑んでくれた。


「友達にむいてもらったリンゴって特別美味しい気がするよ」

「たぶん錯覚じゃない?気のせいだと思う」

「えー、そんなことないよ?」


確かにそんなことないのかもしれない。彼女のお弁当は、今まで食べた料理の中で一番美味しいと思えたから。過剰表現のようにも聞こえるが、それぐらい本当に美味しかった。

しばらくリンゴを食べ進める。再び殻を被る前に、色々と話を聞いておこうと思った。普段ならはぐらかされそうな話も、今なら話してくれるかもしれない。

たとえば、姫子さんという友人の話とか。

話が切れた頃を見計らって、自然な風に話を振ってみた。


「そういえばかなり前に言ってたけど、姫子さんってどういう人だったの?」

「えっ、姫子ちゃん?どうしたの急に?」

「いや、ふと気になっただけだよ」


すると、彼女は口角を釣り上げて小悪魔みたいに笑みを浮かべた。


「もしかして、独占欲ー?」

「……なんの話?」

「照れなくてもいいよー。以前のわたしの友達に嫉妬してるんでしょ?」

「聞いた僕がバカだったよ。いや、君もバカだけど」

「バカっていう方がバカなんだよ!」

「だから、僕もバカだって言ってるじゃん」

「あっそっか!」


いつの間にやら普段の姿へ戻ってしまったらしい。これははぐらかされるパターンかと思ったけど、彼女は姿勢を正して仕切り直し、昔を思い返すように話し始めてくれた。


「姫子ちゃんはねぇ、とっても元気な子だったよ。いつも一人でいるわたしに話しかけてくれたの」

「じゃあ、その姫子さんも入院してたってこと?」


彼女は病院へいることが多かったと聞いていた。誰かと仲良くなるとすれば、それは同じ病院の中だろう。

そう予想したけど、彼女は少しだけ返答を迷ったのか考える仕草を見せた。


「んー、入院してたってことになるのかな?」

「なにその曖昧な返答」

「まあまあ気にしない気にしない!」


どこか腑に落ちなかったけど、彼女がそう言うならそうなんだろう。となると、姫子さんはそのまま退院したのだろうか。それとも……その先を聞くことはさすがに躊躇われた。

たぶん僕にとっての美園みたいな存在だったんだろう。幼馴染で、とっても心の支えになっている。以前ある人に助けられたというのは、姫子さんのことなのかもしれない。


「今まで三人友達がいたって言ってたけど、姫子さんの他にはどんな人がいたの?」

「そんなにわたしのことが知りたいの?」

「知りたいよ。僕たちって半年も一緒にいたのに、お互いの事をあまり話してこなかったから」


僕が小学生の頃にいじめられていたという話も、つい先月にようやく話した。たまにはお互いの事を知る機会を設けてもいいと思う。

彼女は左手で右の指を一つずつ折っていき、その三人の友達の名前を順に述べていった。


「姫子ちゃんでしょーそれと浦和美園ちゃん、最後に長岡みやこくんだね」

「……からかってるの?」

「からかってないよ。だってみやこくんに嘘つかないでって言われたから」

「嘘をついてないってことは、僕たち中学より前に出会ってるってことだよね?君って高校からここに引っ越してきたはずだから、そんなこと絶対にありえないよ」

「んーなんのことだろうなぁ」


シラを切るつもりらしい。僕は手のひらを額に当てて顔をすくめてみせた。はぐらかされているということは、やっぱり話したくないということなんだろうか。

それなら僕は嫌われたくないし、これ以上のことは追求しない。彼女もこれ以上僕が質問してこないと分かったのか、再び少女漫画へ視線を落とした。

だけどその顔は、パッと明るいものになる。こういう時の彼女は、大抵突拍子のないことを口走る。


「今から二人で演劇しようよ!」

「ごめん、何言ってるかさっぱり分からないんだけど。僕にもわかるように説明してほしい」

「だーかーらー、二人で演劇するの!これが脚本ね!」


そう言って、手に持っていた少女漫画を僕に見せてきた。タイトルは、君に届きすぎた。


「……僕こういうの恥ずかしいから、やるなら一人でーー」

「じゃあみやこくんは主人公役ね?わたしはヒロインやるから!」


全く聞いていない。

彼女は僕にも見えるように身体を寄せてきて、そのページを開いて見せてきた。ちょうど、主人公がヒロインへ告白する場面らしい。

よりにもよってどうしてその場面なんだと抗議しようかと思ったけど、僕は仕方なく流されてあげることにした。こうなった椿姫を止めることはできないし、それにあまり乗り気じゃないと不機嫌になるかもしれない。

演劇の舞台は校舎の屋上だった。


「どうしたんですか?急に呼び出したりして」


さすがは演じるのが得意と自負するだけのことはある。たったその一つのセリフだけで、僕は物語の世界へ引き込まれた。


「えっと……じつはつたえたいことがあるんだよ……」


僕の大根役者っぷりを見て、頬を膨らませながら睨みつけてきた。もっと上手くやれということだろうか。あいにく僕にそんな演技力はない。


「おれ、まえからしろぬまさんのことが好きなんだよね……」

「は?無理ですごめんなさい」

「……セリフ全然違ってるんだけど」


脚本通り進むなら、ヒロインは瞳をキラッキラに輝かせて「ほんとに私でいいんですか……?」と言うはずだ。アドリブにもほどがある。

彼女はこれみよがしに大きなため息をついた。


「そんなオドオドした話し方じゃ、女の子はときめいてくれないよ?これはみやこくんの予行演習でもあるんだから」

「予行演習?」

「ほら、いずれみやこくんにも好きな人ができるでしょ?そんな時に今みたいな告白の仕方じゃ、絶対オーケーしてくれないもん」


好きな人なら、僕の目の前にいる。当の本人がそう言うのなら、僕が告白したとしても撃沈するだけなのかもしれない。


「今は脚本があるんだから、その通りに演じようよ。僕のことはまた今度でいいから」

「じゃあせめてもっと感情込めて」

「わかりました……」


仕方なく、僕はちょっとだけ頑張ってみようと思う。


「どうしたの?急に呼び出したりして」

「実は、伝えたいことがあって……俺、前から白沼さんのことが好きなんだよね……」

「まだ弱いかなぁ。そもそもこのキャラクターってイケメンな好青年だから。その演技だとオドオド系になっちゃうよ?」

「……だから途中で演技するのやめないでよ」


彼女はようやく諦めてくれたのか、少女漫画を閉じてくれた。僕は漫画の主人公なんかにはなれない。


「みやこくんのこの先が心配だなぁ……夏休みが終わった後、みんなと仲良くできるの?」

「一応頑張るつもりだよ。神奈さんとは仲良く出来そうだし」

「わたしがこういう質問する時、絶対神奈の名前出すよね。仲良くなるのはいいことだけど、神奈とだけじゃダメなんだよ?」

「……がんばるよ」


自信のない返事だったけど、僕の言葉を信じてくれるらしい。

それから彼女は疲れたのか、ベッドに横になった。入院したての頃は座っていることが多かったけど、最近は日が経つにつれて寝転がることが多くなった気がする。点滴を打っている時間も伸びて、そのたびに僕の胸はどうしようもなくチクリと痛んだ。

この先、谷へ下っていく姿を見ていくことができるのだろうか。もし少しでも目をそらしてしまえば、彼女は一人になってしまう。

椿姫は寂しがりやだから、それだけはさせたくなかった。


「なにしょぼくれた顔してるの?」


いつの間にか、彼女に顔を覗き込まれていた。僕は心配させないように、無理に笑う。


「みやこくんが強がっても、わたしにはすぐわかるよ。美園ちゃんの次ぐらいにはみやこくんのこと知ってるつもりだから」

「ごめん……ちょっとだけ不安になってた」

「素直でよろしい」


彼女が僕に手招きしてきたから、少しだけ椅子を寄せる。手のひらを重ねてきた。その手はやっぱり冷たい。


「なるようにしかならないから、みやこくんが心配する必要はないよ。みやこくんは自分のことを考えて」

「でも、僕に何か出来ることはないかな……?」

「強いて言うなら、打たれ弱いわたしを支えてほしいかな」


以前と同じお願いだったけど、僕は彼女を支えられるように頑張りたいと思う。具体的に何をすればいいかは分からないけど、絶対に何も言わずに彼女のそばから去ることはしないと思う。

「がんばるよ」そうハッキリと口にしたら、彼女は安心したように微笑んでくれた。

休ませてあげるためにもうそろそろ帰ろうかと思っていたけど、こんな約束をした手前すぐに帰るのは失礼だと思った。

あくびをして眠そうにしているから、せめて彼女が眠るまでと思い、持ってきたカバンに入っている本を取り出して読み進めることにした。


「へぇ、みやこくんって小説とか読むんだ」

「僕はあんまり読まないよ。美園が結構読むんだ」

「美園ちゃんから借りたんだね」


美園の近況はすでに伝えてある。

夏休みに入るまで学校へ行くことが出来なかったけど、糸電話やメールは時折交わしている。以前より元気になったことを知った椿姫は、やはり安心したように胸をなでおろしていた。

今はその美園の本に興味があるらしい。


「どんなの読んでるの?見せて見せて」

「美園は面白くなかったって言ってたけど」

「面白いか面白くないかはわたしが決める」


彼女らしいなと思い、小説を手渡した。それをすぐに開いた彼女は、大きな目を薄めてパチクリさせている。


「うっわ細かいなぁ。何書いてるか分かんないや」

「君って遠視なんだね。メガネかけなよ」

「あーそっか。そういえばコンタクト外してたよ、みやこくん取ってー」

「自分で取りなよ……」


そう言ったものの、彼女は取る気配が全くなかったから、仕方なく机の上にある赤いメガネを取ってあげた。手渡すと、彼女は一瞬かけるのをためらう。


「メガネかけたら可愛いとか言わないでよ。あれ結構恥ずかしいから」

「わかったから早くかけなよ」

「絶対の絶対だよ?」

「わかったって」


ぶすっとしつつも、素直にメガネをかけた。正直メガネをかけた彼女は可愛いけれど、それを口に出すと怒るから心の中に留めておく。

彼女は小説を開き、そこに書かれている無数の文字に目を滑らせていく。たぶん会話文だけを拾って読んでいるんだろう。彼女がそんなに早く読めるはずがない。

適当に流し読みした後、彼女はパタンと小説を閉じた。そしてまっすぐと、僕の目を見る、


「みやこくん、この本しばらく貸して」

「君、小説読む人だったっけ?」

「普段は読まないけど、なんだか面白そうだなって思ったの。文字ばっかだけど漫画みたいだね。こういうのってライトノベルっていうんだよね」


なるほど、普段漫画を読んでいるからライトノベルはスラスラと読めるのかもしれない。元々そういう層の人のために売られているものだと思うし、彼女みたいな人が気になるのは理屈にかなっている。


「別に僕は貸してもいいけど、美園から許可もらわないと貸せないよ?」

「それはわかってるよ!元々美園ちゃんのものだからね!」


病院で携帯を使うのはマナー違反だと思ったけど、彼女は今すぐに結果を知りたそうだったから確認のメールを送った。

美園はメールの返事がバカみたいに早いから、送ってから一分も経たないうちに返ってくる。内容は『別にいいよ』という簡潔なものだった。

そういうわけで彼女へ本を貸したら予想以上に喜んでくれて、僕は美園に感謝した。彼女はすぐに小説を開いて読み始める。

しかし、やはりこういうものに慣れていないのか、一ページを読むのに結構時間がかかっていた。これは一冊読み終わるのに長い時間がかかると思う。

僕はしばらくそれを眺めて、やがてお母さんと入れ替わりで病室を出た。病室を出る際お母さんに「椿姫と仲良くしてくれてありがとね」と言われた。

僕の方こそ、仲良くしてくれてありがとうございます。そう言ってから、僕は病院を出た。


※※※※


夏休みも終盤に差し掛かり夏の暑さが和らいできた頃、ようやく椿姫は小説を読み終わった。美園ならその間に三冊は読破しているけれど、普段小説を読んでいないから仕方がない。

僕は朝早く彼女から呼び出され、病室の丸椅子に座らせられていた。


「この本、全部読み終わりました」

「それは今朝メールで聞いたよ」

「すごく面白かったの!」


身を乗り出してくる彼女は少し興奮気味だった。


「……ちょっとだけ読んだけど、僕には合わなかったかな」

「この小説の面白さがわからないなんてありえない!みやこくん全然わかってないよ!」


それからしばらく、彼女からその本のネタバレをされ続けた。お姫様の妹が実は血が繋がっていなかったとか。その妹が実は日本人の生まれ変わりだとか。

たぶんもう、僕がその本を読む必要はなくなったと思う。

面白くなかったはずの本なのに、彼女が解説を加えるとなぜか面白そうだなと感じてしまった。どうしてそう思ったのかを考えて、すぐにその理由が思い当たる。

たぶん彼女が話しているからだ。彼女と話していると、僕はとても楽しい。どんなものでも楽しめてしまう魔法のようなものがかかっているのかもしれない。


「みやこくん、ちゃんと聞いてる?」

「聞いてる聞いてる。聞いてるよ」

「じゃあ、お姫様の名前は?」

「……マリー」

「違いますーそれは妹の名前ですー!」


時折、めんどくさい人だなと感じる時はあるけれど。


「みやこくんも絶対最後までこの本を読むべきだよ!」

「といっても、今君に全部ネタバレされたからね」

「ネタバレされても絶対面白いから!わたしが保証する!」

「わかったから、ちょっとクールダウンしてよ。そんなに興奮したら身体に悪いよ」


僕は座っている彼女の肩を掴んでベッドに寝かせた。抵抗されるかと思ったけど案外素直で拍子抜けした。しっかり毛布をかけてあげる。


「ごめん、ありがとね」

「僕の方こそ話の腰を折ってごめんね。続けていいよ」


とはいえ彼女もしっかりクールダウンしたのか、先ほどの興奮はどこかへ飛んでいってしまった。


「あーあ、ライトノベルがこんなに面白いなら、今までたくさん読んでおけばよかったなぁ」


何気なく呟いたであろうその言葉が、僕の胸にチクリと刺さる。だけどあくまで平常を装った。


「まだ時間はあるんだから、これからたくさん読んでいこうよ」

「でもわたし読むの遅いんだよね。物語はとっても面白いけど、疲れるのが早いからすぐに本を閉じちゃうの」

「それは仕方ないんじゃない?自分のペースで読まなきゃ」

「いっぱい読みたいんだけどなぁ……」


僕は彼女のために何が出来るかを考えて、冴えた方法を案外すぐに見つけてしまった。


「じゃあ、疲れたら僕が声に出して読んであげるよ。それなら寝転がりながらでも読めるでしょ?」

「えっ、いいの?」

「君のためだからね。だけど夏休みが終わったら放課後しか来れなくなるよ?」

「それでもいいよ!じゃあさっそくもう一回これ読んで!」


そう言って、つい先ほどまで絶賛していた本を僕に渡してきた。


「……これもう一回読むの?」

「面白かったから!たぶん何回読んでも面白いと思う!」

「君がそこまで言うなら」


僕はその本を声に出して読み始めた。黙読と声に出して読むのとじゃ、全然進むスピードが違うけど、彼女は文句を一つも言ってこなかった。むしろ真剣に耳を傾けてくれて、彼女の支えになっていると言う実感が持てた。

それに、僕も具体的な本の内容が知れて一石二鳥だと思う。


「みやこくんって演劇は下手くそだけど、読むのは上手いんだね。わたし感心しちゃったよ」

「それ結構失礼だよ?」

「ごめんごめん、でも褒めてるから気にしないで」


合間合間に軽い会話を交わすのも、僕はとても楽しかった。楽しくて楽しくて、こんな時間がずっと続いてくれればいのにと思う。

だけど、時間は容赦なく僕らを襲ってきて、いつの間にか日が暮れ始めていた。もうそんなに時間が経っていたのかと驚く。それは彼女も同じだったらしい。


「早いなぁ、日が沈むの。もっと一日が長ければいいのに」

「明日もまた来るからさ。それに、帰りに本屋に寄って面白そうな小説買ってくるよ」

「あっ、それならその小説の二巻が読みたい!最近発売されたんだよね!」

「えっ、最近?」


何気ない彼女のその言葉が、僕の頭の片隅に引っかかった。なぜか足元の方から寒気のようなものが這い上ってきて、僕の全身を捉える。

その違和感のようなものの正体が知りたくて、だけどどうしてか言葉が喉の奥に引っかかった。

僕の同様には気付かず、彼女は本のページの最後の方を開いて見せた。そこにはおそらく二巻の宣伝と、その発売日が掲載されている。


「だってほら、ここに二巻の宣伝があるよ?八月の上旬に発売って書いてあるから、たぶんもう書店に並んでるんだよね?」


彼女は何も間違ったことは言っていない。それは全て正しいことで、僕が何か勘違いしているのかもしれない。

おそらくそうだと思い、彼女から本を借りてページをめくり始めた。しかし、確かに最終ページの方には二巻の発売が今月の上旬であることが間違いなく記載されている。

いや、それはおかしいのだ。僕の記憶とこの発売日が正しければ、それは絶対にありえない。

あれは四月の上旬。僕は美園が話していた言葉を思い返した。


『でもあのシリーズ打ち切りだと思うよ。二巻まで出たけど、発売一週間経ったばかりで目立たない棚の隅っこに置いてあったし』


この本によると、一巻が発売したのは四月の下旬。そもそもあの時点で美園がこの本の内容を知っているはずがないし、二巻が出ているはずもない。

じゃあこの本はいつ刷られたものなのかと思い、それが刷られた日にちを確かめた。重版されればその日にちがちゃんと記載されているはずだからだ。

しかし、またもやそれは僕の予想を裏切って、頭の中を混乱させた。

この本が重版されたのは七月の上旬。ということは、美園がこの本を買ったのはそれよりも後ということになる。

事実を知った瞬間に、身体の寒気は確かなものになった。

どうして、美園は未来に発売されたはずの本の内容を知っていたんだ……?


「みやこくん、どうしたの……?」

「え……?」


いつの間にか彼女が僕のことを見ていた。その目は不安の色に彩られていて、僕自身がそうさせてしまっているんだとわかった。


「すごく気分が悪そうな顔してるよ?もしかして、疲れちゃった……?」

「いや、そんなことはないよ……」


グルグルと答えの出ない疑問が回り続けて、余計に頭の中が混乱する。仮に美園がもう一冊この本を持っていたとしても、辻褄は全然合わない。だって、美園は発売前に本の内容を説明してみせたのだから。


「みやこくん、ちょっと落ち着いて」


しっかりとした声音で、僕は名前を呼ばれた。いつの間にか彼女に手のひらを重ねられていて、僕の目をしっかりと見ている。

そのおかげか、少しだけ動揺が和らいだ。


「ごめん、考え事してて……」

「わたしに何か出来ることはない?」

「ううん、心配しなくても大丈夫。ただの思い過ごしだと思うから」


そうだ、ただの思い過ごしだ。仮に、美園が未来に発売した本の内容を知っていたからなんだと言うんだ。たとえ、美園が未来のことが分かったって……


「本当に大丈夫?わたしなら、みやこくんの力になれるよ?」


僕は気付いてしまった。

もし、美園が未来に起きる出来事を知っているのだとしたら、椿姫がこの先どうなってしまうのかも知っているかもしれない。

それを聞きたい自分と、聞きたくない自分が同時に存在していて、どうしようもないジレンマに陥っている。

この幸せはいつまで続くんだ。

悪魔がゆっくりと、僕の後ろをついてきていた……


※※※※


僕にしては上手く立ち回れた方だと思う。彼女ならもしかすると僕の異変に気付いてるかもしれないけど、今はそんなことどうでもよかった。仮に後で何があったか追求されたとしても、ただの思い過ごしだと答えるはずだから。

そう、ただの思い過ごしだ。

だけど僕は彼女に対して嘘をついてしまった。それだけが、心の中にどうしようもなく痛く残る。嘘をつかないでと言った僕が嘘をつくなんて、彼女はやっぱり怒るだろう。それでもやっぱり僕はそれが知りたくて、美園にメールを出していた。


『今から大事な話があるんだけど、二人で話せない?』


もう日が落ちているから迷惑かと思ったけど、だからといって明日まで待つことは出来なかった。美園に心の中で侘びを入れる。僕は勝手な人だ。

数分も経たないうちに、美園から返信が来た。


『いいよ、どこで話す?』


僕はメールを打つ。


『じゃあ、家の近くの公園で』


それから数秒後、『了解』というメールが返ってきた。公園へ向かう足取りはどこか重くて、だけどどうしようもなく前に進ませた。


※※※※


街灯の明かりしか照らされていない薄暗い公園のベンチに、僕らは座っていた。夏といってもそろそろ秋へ移り変わって行く時期だから、風が吹けばそれなりに肌寒い。

僕も美園もパーカーを羽織っていた。


「大事な話って、なに?」


単刀直入、というわけではない。しびれを切らしたという感じだ。僕は美園をここへ呼び出して、このベンチに座って、十分ほどなにも話さずにだんまりしている。その間なにも言わずに待ってくれていたのは、美園の優しさだ。

ここに来て、僕は聞こうか聞くまいか迷ってしまった。


「愛の告白ってわけでもないんでしょ?」

「まさか、そんなわけないよ」


美園が少しムスッとしたのが伝わってきた。気に障らせてしまったのだろうか。


「……だよね。みやこくんは羽前さんが好きなんだもんね。じゃあ、なに?」


さすがにこれ以上だんまり、というわけにもいかないだろう。呼び出してしまった美園にも悪いし、そもそも僕がこんなに優柔不断でいてはいけない。椿姫のそばにいると決めたのだから、どんなことがあっても目をそらさない人でいなきゃいけない。

そうでないと、僕は大事な時に、大事な人から目をそらしてしまうかもしれない。

僕は、覚悟を決めた。


「……前に美園から借りた小説のことなんだけど」

「羽前さんに貸したっていう、あの小説?」

「そうだよ。椿姫に貸した、あの小説」


呼吸を整えるために、一拍置いた。そして僕は美園へ問いかける。


「美園は、どうして未来のことを知ってたの……?」


夜風が吹いて、桜が咲いていたはずの枝葉を揺らした。その揺れる木々のさざめきや、僕らの間に落ちた沈黙が永遠のようにも感じられる。だけど時間は容赦なく僕らを攻め立ててくる。実際に美園が黙っていたのは、たぶん十秒ほどだった。


「……どうしてそのことに気付いたの?」


もはや事実は確定的だったけど、僕は先ほど起きた出来事を整理し直した。


「あの小説の二巻は、今月の上旬に発売されたはずだった。それなのに、美園は四月の上旬にはもう発売していたって言ってた。それならまだ勘違いしていたって可能性もあったけど、決定的だったのが一巻の発売日。美園が感想を教えてくれた日には、まだその小説は発売されてなかったんだ」


僕がその小説に興味を持っていれば、おそらくもっと早くに気がつけた。椿姫が興味を持ってくれなかったら、これからも気づけなかったと思う。

きっと平常なら一笑に付されるであろう問いかけを僕はもう一度投げかけた。


「美園は、どうして未来が分かったの?」


逃れられないと分かったのか、それとも最初から逃げる気なんてないのか分からないけど、美園はベンチへしっかりと座り直す。

どうしてか、優しくて内気な幼馴染が、僕の目にはどこか別のものに映った。


「夢を見たの」


それは、僕の予想した答えより少しだけズレたものだった。


「夢……?」

「そう、多分あれは夢だったんだと思う。未来に起きることの夢。予知夢みたいなものかも」


嘘をついているとか、冗談を言っているようには見えなかった。美園は至って真面目で、表情を崩さない。


「だって、たとえば未来から飛んできたなんて都合の良い奇跡、起きるわけないでしょ?」

「それはそうだけど……」

「だから、私の見たものは全部夢。その夢の中にあの小説が出てきたから、私はそれを知ってたの」


突拍子も無い話だ。だけど理屈じゃ通らない話じゃないと、未来を知っていたことにはならない。


「じゃあ、美園はどうして僕に小説の話をしたの?」

「それは、京くんも私と同じ夢を見ているかと思ったから試してみたの。夢の中で私は京くんに同じ小説の話を語って聞かせた。もし同じ夢を見ていたなら、京くんは知ってるはずだった。だけど、京くんは知らなかった」

「それなら、僕に教えてくれれば……」

「ずっと黙ってたのは、ごめんなさい……」


素直に謝られて拍子抜けしてしまい、話そうとしていたはずの言葉が喉の奥へ引っ込んでしまう。

僕は話してくれなかったから怒ってるんじゃなくて、相談してくれなかったから怒ってるんだ。相談さえしてくれれば、少なくとも美園の力にはなれたのに。

でも、美園が僕に相談しなかった理由もなんとなくわかる。僕だって不安をかけさせたくなかったから、クラスメイトに仕打ちを受けているのを黙っていた。僕たちはよく似ているから、たぶん不安にさせたくなかったんだろう。


「ほんとにごめんなさい……」と、美園はもう一度謝る。僕は一つため息をつき、「怒ってないよ」と言った。僕のことを考えてくれている美園に怒れるわけない。


「じゃあ夢を見たってことは、これから先に起こる出来事も美園には分かるの?」

「……わからないよ。私の見た夢と現実は、ちょっとずついろんな部分が違ってるから」

「違ってるって?」

「些細な行動で未来は変わるんだと思う。だって、この時間にはもう羽前さんは私たちの前から姿を消してるはずだから」

「それって、どういう……」


僕の全身に寒気が走って、その異変に気付いたのか美園は慌てて訂正した。


「京くんが考えてるようなことじゃなくて、転校したの。文化祭が終わったその日に、私たちに何も告げずに」

「あぁ、そういうことなんだ……」


もしこの時間に椿姫が亡くなっていたとしたら、いつ容体が急変してもおかしくないということだ。事実、椿姫はだんだんと前の溌剌さが無くなってきているし。夢の内容がそのまま現実に反映されるとは考えにくいけど、発売されてない書籍の内容を知っていたんだから用心するに越したことはないだろう。


「僕は文化祭の日に椿姫のお見舞いに行ったけど、じゃあその日にはもう会えなかったんだね」

「それもちょっと違うの。夢の中の私たちは、ちゃんと文化祭に参加してたから」

「……それってどういうこと?」

「あの日に羽前さんは倒れなかったってこと。あの後私の脚本が完成して、たった数日の間に羽前さんが完璧に演じられるようになって、私たちは無事に演劇を成功させたの」


あの日に文化祭で演劇をするという夢は絶たれてしまったから、にわかには信じがたい話だった。だけどこんなことで美園が嘘をつく必要なんてないし、メリットもない。


「じゃあ演劇が終わった後、椿姫は僕たちに何も言わずに転校したんだね」

「そういうことになるね……あの時の京くん、すっごく落ち込んでたよ」


落ち込まないわけがない。僕は椿姫のことが好きで、これからも一緒にいたいと思っているんだから。その椿姫が何も言わずにどこかへ行ってしまったら、打ちひしがれるに決まっている。

もしかすると、病気のことを理解していたから、椿姫は夢の中で僕たちの前から去って行ったのかもしれないけど。


「……これは言おうか迷ってたんだけど」


恐る恐るといった風に、美園は話し始めた。


「羽前さんが亡くなったっていう報告を、十二月に先生から教えてもらったの。だけど亡くなったのは十二月より前で、それ以上は聞いてないから正確な日にちは分からないの……」

「そうなんだ……」


文化祭前に倒れて入院してしまったから、椿姫が十二月を越えて生きている可能性は少ない。案外残された時間はとても限りがあるのかもしれない。

それこそ、突然僕たちの前からいなくなる可能性だってある。それを知って悲しくなったというより、一日一日を大切にしていかなければいけないと思った。いつ別れが来てもいいように。


「ごめんなさい。こんな大事なことずっと黙ってて。本当ならもっと早くに伝えるべきだったから……」

「そんなに悲しそうな顔をしないで。僕は本当に怒ってないから」


怒ってはいないけど、僕も言おうか迷っていたことを言うことにした。


「でも、そういう時はちゃんと相談してほしい。僕も昔、美園に相談しなかったから人のことは言えないけど。だけど、今も昔も、きっと相談しあえばお互いに苦しまずに済んだと思うんだ。少なくとも、今の話をもっと早くに知ってたら、美園のことを気遣ってあげられただろうから」

「ごめんなさい……」

「だから、怒ってないよ」


僕は隣にいる美園の頭に手のひらを乗せた。今はこういうことをしたら怒るから次第にやらなくなったけど、子どもの頃はこんな風に励ましていたんだ。


「僕たちは、これからお互いに図々しくいようよ。少なくとも、僕は美園にもっと図々しくなってほしい。美園からの相談なら、なんでも聞きたいから」

「迷惑にならない?」

「迷惑だって思ったことは、今までだって一度もないよ」

「……ありがとう」


幼稚園から小学校に上がって、それから中学生になって高校生になった。僕らは同じ進路をずっと隣で歩んで来たけど、たぶんいつもどこかですれ違っていた。

それが今、ちょっとだけ近付いた気がした。


「やっぱり、京くん成長したね」

「そうかな?」

「ちょっと男らしくなったよ」

「それはやっぱり、男として少し恥ずかしいかな……」

「喜んでいいと思うよ。そういう京くんも、私はやっぱり好きだから」


美園もちゃんと成長している。言葉に出して本心を伝えるのは簡単なようでいてとっても難しい。

それを美園はちゃんと言葉にして伝えることができるようになった。たぶん、美園はそれに気付いていない。


「いつか……話すね」


美園が小さくそう呟いた。それはたぶん、僕に聞いてほしくなかった言葉なんだと思う。だから、僕は聞こえなかった。

いつか、それはいつになるか分からないけど、美園の決心がついた時に全部聞きたいと思う。内緒にしていることを含めて、これからのことも話し合っていきたい。


「明日は椿姫のお見舞いに行こうよ。きっと喜んでくれると思うから」

「私が行ったら、嫌な顔しないかな?」

「そんな顔するわけないよ。椿姫は美園のことが大好きだから」

「……あんなに私が邪険に振舞ってたのに?」

「美園が本当は優しい子だって椿姫は分かってるよ。カラオケに行った時だって、二人とも仲良かったじゃん」


どうしてツンツンしていたのか、距離を取っていたのかは分からないけど、椿姫は一度もめげずに美園と向き合おうとしていた。嫌いな人なら、わざわざあんなに必死に話しかけたりしないだろう。


「京くんがそう言うなら……」

「じゃあ、明日は楽しくなりそうだね」

「……うん」


控えめだけど、美園は明日の光景を思い浮かべて笑みを作った。どこか後ろめたい気持ちもあるのかもしれないけど、そんなものは三人で話せば吹き飛んでしまうだろう。

僕も明日のことを思い浮かべてみて、次第に笑顔になっていた。


「なに一人で笑ってるの、京くんちょっと気持ち悪い」

「本当に引かないでよ……」


元気になってくれたみたいでよかった。

夜はだんだんと更けていく。


※※※※


椿姫の病室前に僕らは立っていた。何度もここへやってきたけど、未だにこの空気感は慣れてくれない。扉を開くというたった一つの行為が、果てしなく大変なことのように感じる。

それでも初めて来た美園よりは幾分か落ち着いていて、扉をノックするべく右手を近付けた。


「待って京くん」

「どうしたの?」

「まだ心の準備が……」


美園にしては珍しいなと思い、僕が初めてここに来た時のことを思い出した。たぶん椿姫がいなかったら、今の美園と同じく立ち尽くしていたと思う。

彼女が半ば強引にしてくれたから、僕はここへ入ることができた。そして話しているうちに、これからの身の振り方の決心もついていた。美園もここへ入ることができれば、次第にそれは解決してくれると思う。

だから今度は、僕がその一歩を踏み出させてあげようと思った。

「大丈夫だよ」と微笑み、僕は構わずノックする。制止の声が一瞬だけ聞こえたけど、僕が止まらないと分かったのか喉の奥へ引っ込んだらしい。


「僕だけど、入るよ」

「うんー」


扉を開くと、寝転がったままこちらを向く彼女の姿があった。いつもは座ったまま出迎えてくれていたから、体調が芳しくないのかもしれない。

キャスターに点滴の薬液が吊るされていて、管が彼女の体へ伸びている。僕はその光景に目を背けてはいけない。

椿姫は僕のやや後ろにいる美園に気が付いたのか、一瞬だけ驚いた表情を浮かべた。その後、いつもの快活な表情ではなく、ふにゃりと嬉しそうに小さく笑う。


「美園ちゃんだぁー久しぶりぃー」

「久しぶり……」

「嬉しいなぁ、美園ちゃんの顔を見たのも久しぶりだね」


美園が不安そうにこちらを見てきたから、僕は微笑みを返した。椿姫が美園のことを邪険に扱うわけがないし、何も心配することなんてない。

僕らはベッドの隣に椅子を置いて腰を落ち着ける。


「あの、羽前さん……」

「椿姫でいいよー美園ちゃんも、友達でしょ?」


僕と同じく友達の少ない美園は、素直になれずにたじろいでしまう。こういう時、どうしたらいいか分からないんだろう。名前で呼べば馴れ馴れしいと思われるかもしれないし、かといって名字で呼ぶと相手の機嫌を損ねてしまうかもしれない。

僕は助け舟を出してあげることにした。椿姫に聞こえないように耳打ちする。


「名前で呼びなよ。そっちの方が、椿姫は喜んでくれると思うから」


美園は口元を一文字に引きむすんだ後、覚悟を決めたのかそれを緩めた。


「……椿姫、ちゃん」

「どうしたの?美園ちゃん」


彼女はどこまでも優しい人間だ。美園が話しやすいように笑顔を向けて、決して急かしたりはしない。


「謝りたいことがあるの……」

「謝りたいこと?」

「私が七夕の日に遊びに行きたいって言ったから、椿姫ちゃんが倒れちゃったんだよ。椿姫ちゃんの体調に私が気付いてたら……」

「美園ちゃんは何も悪くないよ。私がずっと隠してたのが悪いんだもん」

「それでも前の時だって……!」


それ以上は言わせないとばかりに、椿姫は美園の手に手のひらを置いた。僕も何度かそれをされた覚えがあるけど、体温は冷たいのにどこかとても暖かかった気がする。


「美園ちゃんは何も悪くないよ。だから、あまり自分を責めないであげて。私は美園ちゃんが優しい人だってこと、ちゃんと分かってるから」

「優しくなんて、ない……ずっと脚本を書きたくないって言い続けて、二人に迷惑かけて……」

「美園ちゃんが脚本を書きたくなかった理由も、わたしはちゃんと分かってる。だから、むしろわたしの方が美園ちゃんに迷惑をかけていたんだよ?」


隣の美園を見ると、驚いた風に目を丸めていた。僕は二人の会話の意味がよく分からなくて、置いてけぼりだった。

美園が脚本をやりたくなかった理由、結局一度も聞いていなかったけど、なんだったんだろう。


「美園ちゃんはね、みやこくんと同じで友達を一番大事にする素敵な人だよ。わたしはね、それが分かってて自分のやりたいようにやってきたの。ほら、わたしの方がひどい人間だよね」

「そんなこと、ない……」

「そんなことあるんだよ。わたしは、ずっと美園ちゃんが傷付いてたのを知ってたから」


椿姫は美園の手のひらを優しく握り、しっかりと目を見据えた。美園の潤んだ視線は、その瞳から逃げることができない。


「ずっと、苦しい思いをさせちゃってごめんね。勝手だと思うし許してほしいなんて言えないけど、これからは前みたいに美園ちゃんとも仲良くしたいって思ってるの。美園ちゃんは、こんなわたしでも仲良くしてくれるかな?」


真っ赤に腫らした瞳から涙を流した美園は、椿姫の手を握りながら何度も何度も頷いた。それはたぶん、今まで堪えていたものが爆発したからだと思う。

泣き崩れた美園の頭を椿姫は撫で続け、美園はただ「ごめんなさい」と謝り続けた。それがようやく収まったのは、美園が泣くことをやめて眠ってしまったから。

美園は疲れたのかお腹の上に頭を乗せたまま寝てしまい、それを優しく椿姫が撫でている。窓からは夕焼けが差し込んでいて、もうそんなに時間が経ったのだということを実感させた。


「ごめんね、みやこくんの大切な人を泣かせちゃって」

「いじめたとか、そんなんじゃないから気にしなくていいよ。それより、やっぱり体調悪いの?」


寝転がったままの彼女は、美園の頭を撫でたまま困ったように笑った。


「ちょっと……ううん、最近はずっと調子悪かったの。やっぱり無理をしたツケが回ってきてるんだと思う」

「それは、大丈夫なの……?」

「今すぐ突然、なんてことはないと思うよ。だけど何が起こるかは分からないかな。病気って、そういうものだから」


今まで元気に振舞っていたから時折忘れかけることがあったけど、彼女は病人なのだ。だから、次の桜を見ることが出来ない。

それが分かっていてずっとそばにいると決心したのに、いざ弱っていく彼女を見ていくのはこんなにも辛いのだとようやく実感した気がする。たぶん、頭のどこかで考えないようにしてきたんだ。


「……美園ちゃんには、やっぱり悪いことしちゃったな」

「美園は許してくれるよ」

「美園ちゃんが許してくれても、わたしは自分を許してあげられないの」


そうと決めたのなら、彼女は曲げないんだろう。きっと、死ぬまで背負っていくんだと思う。


「……今から話すこと、全部みやこくんに話さなかったことなの。ちょっと長い話になるかもしれないけど、聞いていてくれるかな?」


何かを隠しているということはお母さんとの会話で知っていた。だからこそ、僕はそれほど彼女の言葉に動揺しなかった。


「どうして、今になって話そうと思ったの?」

「美園ちゃんの一件でようやく分かったの。隠し事をするのって、相手を傷つけちゃうんだって。だから、自己満足かもしれないけど本当のわたしを、みやこくんに知ってほしいと思ったの」


それならと思い、僕はしっかり姿勢を正した。僕は彼女の言葉に耳を傾ける。

「何から話そうかな……」と呟いた彼女は、とりあえずの言葉がまとまったのか話を始めた。


「おしゃべりなお母さんのことだから、もういくつか聞いてるかもしれないけどそれは許してね。まず、うちは母子家庭なの」

「数年前に、お父さんが同じ病気で亡くなったんだっけ?」

「そうだよ。わたしがまだずっと幼い時だから、顔も薄っすらとしか覚えてないの。優しい人だったってお母さんには聞かされてるけど、わたしは写真で見たお父さんのことしか分からないわ」


その話をして、彼女はそれほど表情を沈めなかった。たぶん父親というものに実感が湧かないんだろう。僕の両親は健在だけど、彼女は人生の大半を母親と二人で生きてきたからだ。


「病気のこともあったけど、わたしはそれ以前にもともと身体が弱かったの。幼い頃はちょっとしたことで風邪を引いちゃう子で、幼稚園とか小学校の頃は病気に関係なく休みがちだった。もちろん、入院期間もそれなりに長かったんだけど」

「それで、友達ができなかったの?」

「そういうことになるのかな。あんまり想像できないと思うけど、わたしって結構内気な人だったから、そもそも話しかける勇気もなかったの」


それはなんとなく分かってたよ、とは言わなかった。余計な口を挟むのはよくない。


「お母さんはわたしに気を使って、空いた時間を見つけては一緒にいる時間を増やしてくれてたんだけどね、やっぱりお仕事とかで忙しかったの。家で休んでる時も入院してる時も、わたしは一人でいることが多かった。それで、いつか友達が欲しいって思うようになったの。一人でも寂しくないように、いつでも話を聞いてくれる元気なお友達が」

「それが、姫子さん?」


彼女は頷いた。

たぶん話していなかったこと、というのは大部分が姫子さんに関することなんだろう。意図的にかは分からないけど、彼女は姫子さんに関しては極力情報を出さないようにしていたから。

彼女は、それから僕の目を不安そうに見つめた。


「今から話す内容はね、もしかするとみやこくんが聞いたら気持ち悪いって思うかもしれないの。だから……」

「大丈夫だよ。僕は君にちゃんと向き合うって決めたから。気持ち悪いとか、嫌いになったりなんてしない」


その言葉に安心したのか、不安そうな表情は消えてくれた。そもそも僕は彼女のことが好きだから、こちらから嫌いになるなんてことはありえない。

「姫子ちゃんはね……」と、彼女は話し始めた。


「姫子ちゃんは、わたしのイマジナリーフレンドだったの」

「……イマジナリーフレンド?」


その聞きなれない単語を、おそらく僕は聞いたことがなかった。直訳すると、空想上の友達だろうか。

その字面だけで、その単語の意味することは理解できなかった。


「イマジナリーフレンドっていうのは、自分の空想の中に存在する友達のことなの。でも、わたしの場合はちょっと違ったんだけどね……」

「違うって?」


その先を話すのが恥ずかしいのか、それとも話すのを躊躇っているのかは分からないけど、口元をもごもごさせて迷いを見せている。僕は急かしたりせずに彼女の言葉を待った。


「……一人でいることが多かったから寂しさを紛らわせるために、よく鏡を見てそこに映っている自分と会話してたの。鏡の中の自分は姫子ちゃんっていう女の子だって言い聞かせて、わたしは鏡の中の姫子ちゃんの演技をしてた……」


つまり、こういうことだろうか。

一人で寂しかった椿姫は、鏡の中の自分に話しかけるようになった。その鏡の中の自分は姫子ちゃんという友達で、空想上の友達を作っていたと。


「おかしいことだってわかってたから隠れてやってたんだけど、家でも病院でもそんなことをやってたから、しばらくするとお母さんにバレちゃったの。それで、何度も何度も泣きながら謝られたわ。その時はどうして謝ってくるのかよく分かってなかったけど、今ならちゃんとわかるよ。娘が鏡の前で元気な女の子を演じてたら、気味が悪いって思うもん。みやこくんも、そう思うでしょ?」


僕は当時の彼女を見ていなかったから分からないけど、おそらくお母さんは君が悪いなんて思っていなかったと思う。その理由は、彼女自身が説明していた。


「お母さんは、気味が悪いなんて思ってなかったと思うよ」

「……どうしてそんなことがわかるの?」

「だって、たぶん僕もそれを見て気味が悪いって思わないから。一人にさせてごめんなさいって、僕は考えると思うよ。お母さんも、きっとそう思ってたんじゃないかな?」

「そうなのかな……」

「そうだよ。前にお母さんと話したことがあったけど、子どもの頃に一人にさせて申し訳なかったって言ってたから」

「そうだったんだ……」


ようやく過去のわだかまりが一つ解消されたからかは分からないけど、彼女は小さく涙を流していた。あのお母さんは彼女のことを一番に考えてくれている素敵な人だから、その思いを改めて理解できたんだと思う。


「じゃあもしかして、椿姫の演技が得意な理由は昔にそういう出来事があったからなの?」

「そういうことになるのかな。昔から自分じゃない誰かを演じて友達を作ってたから、そういうのが得意になったのかも」


きっと、今の彼女の姿こそが本当の姿で、普段の溌剌な姿は自分で姫子の演技をかぶせていたんだろう。どうしてそうしていたのかは分からないけど、たぶんそのせいで彼女の負担は大きくなっている。


「お節介かもしれないけどさ、僕たちの前では無理をしない素顔の椿姫でいてほしいな」

「……わかってたの?」

「気付いたのは出会った時からだいぶ経った後だけどね。もちろんどんな振る舞いをしていても椿姫は椿姫だけど、ずっと姫子さんでいたら疲れちゃうでしょ?」


それは彼女にしてみれば、常に舞台に立っているということと同じ意味だ。そんなの疲れてしまうに決まっている。どれだけ演技が上手かったとしても、どこかで必ず無理は出てくる。

彼女は綺麗な顔をうつむかせて、儚げな表情を作った。やはりその意味が僕には分からない。


「……わたしが頑張らなくても、もう大丈夫?」

「どういうこと?」


その声の儚さは僕を不安にさせてしまう。まるで今すぐに僕のそばから消えていくんじゃないかという感覚に囚われて、全身に寒気が走った。

だからといって、彼女を引き止めるために嘘をついてはいけない。僕は彼女を安心させなきゃいけない。それに、もうそれは嘘なんかじゃなくなっている。彼女のおかげで、僕は成長できたんだから。


「前にも言ったけど、神奈さんとは上手くやっていけそうだよ。クラスメイトとも以前より話すようになったし、喧嘩した二人とも仲直りできたんだ」

「そっかぁ……」

「君のおかげだよ。君がいてくれたから、僕はまた人を信用することができるようになったんだ」

「うん……ありがとね」

「お礼を言いたいのは、僕の方だよ……」


満足そうな表情をしているけれど、それでも僕はまだ弱いんだ。僕はたぶん、君がいてくれなきゃずっと弱くなってしまう。それを伝えないことは、嘘をついているということになるのだろうか。この気持ちを伝えてしまえば、きっと君は困ってしまう。

彼女が安心するためには、僕が彼女なしで生きていくという覚悟を持たなければいけない。でも、そういうことを考えるだけで僕の心はどうしようもなく苦しくなる。

僕は彼女に与えられてばかりで、まだ何も返すことができていない。せめてそれを返す時間だけは残っているのだろうか……


「もう、わたしがいなくても……」


その言葉の先が聞きたくなくて、僕は彼女の腕を強く掴んでいた。どこにも行って欲しくない。ずっとそばにいたい、そういう気持ちの表れだったけど、彼女が戸惑ってしまうだけだった。


「どうしたの?」

「……なんでもない」

「変なみやこくん」


そうは言ったけど、嫌がりはしなかった。強く掴んでいると彼女は痛がるだろうから、手の力を抜いていく。ついでに場所も変えて、代わりに彼女の手を握ることにした。

強く掴んでしまった細い腕に、僕の手の痕がついてしまっている。白い腕が薄っすら赤くなっていた。


「本当に今日のみやこくんは変だね」

「そう?いつも通りだと思うけど……」

「変だよー自分からこういうことするの、今まで無かったから」


たしかに、彼女から手のひらを重ねられることは何度かあったけど、それを自分からしようと思ったことは一度もなかった。僕は彼女への気持ちを気付いているから、照れ臭さがあったんだと思う。


「やっぱりあったかいなぁ、みやこくんの手……」

「やっぱり?」

「なんでもないよ、こっちの話」


彼女はいつもの笑顔を見せてくれる。小さな疑問はいつの間にか消え去っていた。

その代わり、彼女への愛しさがどうしようもなく募っていく。今ならどんな恥ずかしいセリフでも言ってしまえそうだ。


「君の手は冷たいから温めてあげるよ」

「ありがとね」


両の手の平で彼女の手を温める。僕が彼女にしてあげられることといえば、こういうことしかない。


「君は、後悔とかやり残したこととかないの?」

「何言ってるの?わたしまだ死なないよ?」

「そういうことじゃなくて、叶えてあげられるなら叶えたいって思ったんだ」

「変なみやこくん」


そうは言ったものの、彼女は僕の質問を真剣に考えてくれた。

出来るだけ、生涯を振り返った時に後悔のない人生だったって思ってほしい。彼女への恩返しのために、その努力は惜しまないつもりだ。

そうすることで、どれだけの恩を返せるかは分からないけど。

彼女は僕の真剣な顔を見た後に、安心したような笑みを浮かべた。後悔が思い当たったのかと思い、僕は質問してみる。


「そろそろ決まった?」

「うーん、無いかなっ」

「無いって、何が?」


聞き返すと、また彼女はあっけらかんといった風に微笑む。


「後悔は、何もないってこと。わたしとしては満足できた人生だったよ」

「そんな……」

「そんなってなに?わたしに後悔してほしかったの?」

「そういう意味じゃないよ……」

「じゃあ、どういう意味?」


照れくさかったけど、答えないわけにはいかない。そうしないと、彼女は納得してくれないから。


「君に与えてもらったぶん、僕も何か返したいって思ったんだよ。まだ、何も返せていないから」


驚いた、といった風な表情をする。だけどそれは一瞬で、いつもの微笑みへと戻していた。


「なーんだ、そんなこと考えてたんだねっ」

「そんなことって……僕としてはとっても大事なことなんだけど」

「みやこくんはそういうこと、全然これっぽっちも考えなくていいよ。わたしは、もう君にたくさんのものを与えてもらったから」

「僕はまだなにも……演劇の舞台にだって立ててないし、それだって君に引っ張られてばかりだった。こんなダメな僕に分からないところの勉強を教えてくれたり、お弁当を作ってくれたり、クラスメイトに怒ってくれたり、僕が前向きに生きれるように励ましてくれた。この四ヶ月、全てが君に与えられてばかりだったんだ。なにも返せてないし、返す暇もなかったっ!」


久しぶりに僕は感情的になってしまい、恥ずかしいセリフを一息で言ってのけた。それすらも恥ずかしいことだと思っていた。

でも彼女のおかげで、言葉にすることの大切さを学んだんた。どんなことでも、相手にぶつからなきゃ絶対に伝わらない。そういうことを、身をもって教えてくれたんだ。こんな僕に本気でぶつかってくれて……


「こんな、なんて言ったらダメだよ。みやこくんは素敵な人なんだから、もっと自分に自信を持ちなさい。わたしにも、そう言ってくれたでしょ?」

「僕は、素敵な人なんかじゃ……」

「ダメだよ、そんな顔したら。みやこくんはこれからも、いろんな人と関わっていくんだから。まず自分に自信を持たないと、周りの人は好きになってくれないよ?」


別に周りの人が僕を好きになってくれなくてもいい。たった一人、君が僕のことを好きでいてくれれば後はどうだっていいんだ。だけどそれすらも曖昧で、君は僕のことをどう思っているのか知らない。

好意的な感情を持っているのか、落胆しているのか。いつだって君は本当の素顔を隠してきたから。

泣きそうになったのを慌てて堪える。彼女の前で涙を見せてはいけない。

それを悟られてしまったのかは分からないけど、彼女はやっぱり微笑んでくれた。


「君はわたしになにも返す暇が無かったって言ったけど、それは大きな間違いなんだよ。そもそも、前提が間違っているんだから」

「いったい、何を言ってるの……?」

「物事を一方的に見たらダメってことだよ。わたしはどうして最初、みやこくんに話しかけたと思う?」


恩を売っておけば後から得をすると思った。彼女は実際そう言って、僕に接触してきたんだ。


「それは……」

「恩を売っておけば得をすると思った。それは間違ってないよ。だって今はこんなに仲良くなってるんだもん。でもそれなら、最初から一人でいる君じゃなくてもよかった。もっと別の人でもよかったわけだね。それなのに、わたしは君に近付いたの。どうしてだと思う?」


言っている意味がよくわからなかった。彼女は演劇を成功させるために、一人でいる僕を誘ったはずだ。最初はそれに好意的なものは存在しなかった。彼女はあの時点で、僕のことを初めて知ったんだから。

いや、あそこが初めてではない。彼女のお母さんから聞いた話によると、それより前から僕のことを気にかけてくれていた。

でもその条件があったとしても、あまり状況に変わりはない。


「頭が固いなぁみやこくんは」

「君の言ってることの意味がわからないよ……」

「そう?結構わかりやすいと思うんだけど」

「それは……今教えてくれないの?」

「もうちょっとだけ、考えてみなよ」


これで話は終わりなのか、彼女は僕が握っていたのとは反対の手で、眠っている美園の身体を揺すった。まぶたを上げた美園は一瞬自分がいるところを理解できなかったのか、キョロキョロと周りを見渡す。

やがて椿姫と目が合い、申し訳ないといった表情を浮かべた。


「ごめん、眠ってた……」

「気にしないでいいよ。そういう日もあるから」

「本当にごめんなさい……」

「もう、その話は美園ちゃんが眠った時に終わったよ?わたしたちはずっと友達、そうでしょ?」


コクリと美園は頷いて、そして何かを思い出したのか持ってきていたカバンの中を漁り始めた。どうしたのかと思い見守っていると、そこから出てきたのはクリップで留められた数枚のコピー用紙だった。

それを、椿姫へと手渡す。


「これ、遅れちゃったけど演劇の台本。もう意味ないかもだけど、ずっと書いてほしいって言ってたから……」


僕が脚本を読みたいと言ったからというのもあるだろうけど、本当は美園も椿姫と仲良くしたかったんだろう。もしかすると、夢の中では二人とも仲が良かったのかもしれない。

もちろん、今も仲が良いけど。


「わぁ、嬉しいなぁ。今ちょっと読んでみていい?」

「恥ずかしいけど、いいよ。でも台本の書き方あまりわからなかったから、不出来な小説みたいだけど」

「そんなことないよ。美園ちゃんが書いたんだから、きっとよくできてるよ」


そう言って、椿姫は台本を開いた。


「へぇ、タイトルは……」


そこで、言葉が止まる。どうしたのかと思い椿姫のことを見ると、不意を突かれたという表情をしていた。


「どうしたの?」

「えっ?ううん、なんでもない」


それから彼女は急いでページをめくっていき、内容を軽く確認している。僕もその内容を知りたかったけど、いつになく真剣にそれを読んでいるから口を挟むことはできなかった。

やがて最後のページまで読み終わった椿姫は、優しくその台本を閉じる。そして、クスリと笑った。それはどこか、僕の目に儚げに映った。


「……この台本で演劇したかったなぁ」


それは彼女が最後に作ってしまった後悔だった。後悔なんて何もない人生だと言っていたのに。

僕はその後悔を叶えてあげたい。だけど悲しいことに、もう文化祭は終わっていて、彼女は舞台に立って演技が出来るほどの元気は残っていない。

僕は彼女に、どうしてあげればいい……

やがて面会時間の終わりがやってきて、僕と美園は病室を出た。病院を出るまで一言も会話を交わさず、最寄のバス停まで行き停車したバスに乗って僕らの住んでいる市街地へ向かった。

辺りは暗いから、美園が危なくないようにと車道側を歩く。


「今日……」


ようやく美園がそう呟いたから、僕は黙って耳を傾けた。


「病院誘ってくれてありがとね。椿姫ちゃんと話が出来てよかった」

「それはたぶん、椿姫もそう思ってくれてるよ」

「そうかな?」

「きっとそうだよ」


眠っていた時、椿姫は美園のことをすごく心配していた。それをわざわざ伝えなくても、今の美園なら分かってくれているだろう。


「体調、悪そうだったね」

「最近疲れやすいって言ってたよ」

「やっぱり、病気のせいなのかな」

「そうだと思うよ。前はもっと元気だったから」


そんな短い会話をいくつか交わしていると、いつの間にか家まですぐそばの場所に着いていた。会話に弾みがないのは、やはりお互いに思うところがあるからだろう。それはたぶん共通して、椿姫に関することだ。

これから先、体調が回復することがあるのか。それとも下って行くだけなのか。

そういうことをずっと考えていて、僕は気の利いた会話を振る余裕なんてなかった。

だから美園が立ち止まったのに遅れて気が付き、僕は後ろを振り向く。

街灯は美園を照らしていないから、どういう表情をしているかは読み取れない。


「……京くんは、今でも椿姫ちゃんのことが好き?」


どうしてそんな確認をしてくるのかと思ったけど、僕は質問に素直に答えることにした。


「好きだよ」


その質問にどれほどの意味があったのかは分からない。だけど、自分の気持ちが一つも風化していなかったということを知れて、僕は安心した。

美園は小さく「そう……」と呟く。それからしばらく沈黙した後、半歩ほど僕の方へと近づいた。

街灯に照らされた美園は、穏やかな表情をしていた。


「じゃあ、告白しなよ。椿姫ちゃんに」

「えっ、告白?」

「だって好きなんでしょ?」

「……好きだけど、たぶん迷惑だよ」


たとえ彼女がどう思っていたとしても、どちらにしてもそれは迷惑な話だ。

もし仮に了承してくれたとしても、彼女の人生はもう短い。

そもそも僕のことをどうも思っていないのだとしたら、それこそ本当に迷惑なだけだ。

こんな気持ちは、彼女へ伝えず心の中にとどめておいた方がいい。


「嫌いな人ならともかく、好きな人から想いを伝えられたら嬉しいと思うよ。たとえもう時間が短くても、残りの日々を笑って過ごせるようになるんだから」

「椿姫が僕のことを好きって……」

「椿姫ちゃんは京くんのことが好きだよ」


ハッキリとそう言われてしまい、僕はたじろぐ。冗談を言っているようには見えないし、美園はいたって真面目な表情をしていた。


「今まで一度も気付かなかったの?椿姫ちゃんの気持ち」

「いやいや、そんなわけ……」

「そんなわけ、あるんだよ」


それから真面目な表情を崩して、ようやく美園は僕へと笑いかけた。


「何度も言ってるけど、京くんは自分にもっと自信を持ちなよ。椿姫ちゃんは、私と同じぐらい京くんの素敵なところを知ってるよ」


以前言っていたことだろうか。

確か美園は、僕の友達を大切にするところが素敵だと言っていた。小学校の頃に美園をいじめていたクラスメイトに対して怒鳴ったことがあったらしいけど、僕はいまいち覚えていない。

そもそも僕は椿姫に関係することで怒鳴ったことはないし、むしろ怒鳴ってくれたのは向こうだった。今までに何度か素敵な人だと言われたことがあったけど、その理由も一度も聞いたことがない。聞かなかったのはたぶん、聞くのが怖かったからだと思う。

今までの言葉がお世辞だったとしたら、僕は立ち直れなくなる。頭の中で彼女はお世辞を言わない人だと分かっていても、もし万が一の可能性を考えてしまう僕は積極的になれない。


「……告白は、考えておくよ」


結局そういう曖昧な返事をして僕らは別れた。逃げ道を用意するのは我ながら卑怯だとは思うけど仕方がない。今まで一度も告白をしたことがないんだから、相手が椿姫じゃなかったとしても緊張はすると思う。


それからはゆっくりと、だけど確かに時間は過ぎて行き、いつの間にか夏は終わっていた。美園は夏休みが終わると何事もなかったかのように学校へ復帰して、僕と一緒に登下校している。

……しかし椿姫は一応休学という扱いになっていた。

全ての事情を知っているのは僕と美園だけで、表向きは家庭の事情ということになっている。しかし一度椿姫が倒れた時に学校へ救急車が来たから、みんな薄々気付いてはいるんだと思う。

制服が夏服から合服へ変わる時期になっても、僕はほぼ毎日彼女の病室へ足を運んだ。美園は気を使ってくれているのか、一週間に一回程度様子を見に来てくれている。

今日も病室では、ほぼ日課となっている小説の読み聞かせを行なっていた。彼女はライトノベルが好きだから、切らしたりしないようにいくつか病室にストックしてある。

しかし病室にライトノベルを置いておいても、僕がいないときは彼女も本を読まない。読めないと言った方が正しいのかもしれない。

日に日に体調は衰えていくばかりで、もう一日のうちに座っている時間よりも寝転がっている時間の方が多くなってしまった。そんな状況だから、起き上がって小説を読む気力なんてないんだろう。

あるとき彼女が言っていたけど、僕が小説を読み聞かせている時が一日で一番楽しい瞬間らしい。だからその楽しみを守るために、ほぼ毎日病室へ通っている。

僕はまだ、椿姫への想いを伝えられずにいた。


「不意に放たれた結乃の言葉を、僕は理解することが出来なかった。だってそれは……」

「みやこくん」


突然名前を呼ばれて、僕は活字に落としていた視線を彼女の方へ向けた。目を閉じて音読している小説を聞いていたはずなのに、いつの間にかその顔は僕の方へと向けられている。

彼女の顔は、夏休み前よりも明らかに痩せこけてしまっていた。


「もしかして、面白くなかった?」

「ううん、とっても面白いよ。みやこくんも読むのが上手になったから、頭の中で想像もしやすくなったし」

「じゃあ、どうしたの?」


彼女は首を窓の外へ向けて、秋に入り始めている景色を見た。もう木々の葉は落ちかけていて、やがて冬がやってきて、桜を芽ぶかせる準備を始める。

もう一度彼女は僕を見た。


「ちょっと、屋上に行かない?」

「えっと、急にどうしたの?」

「久しぶりに外の空気を吸いたくなったの。それに、二人で病室を抜け出すのは漫画とか小説の定番でしょ?」

「勝手に抜け出したら怒られないかな?」

「ちょっとだけだから大丈夫だよ。しばらくお医者様も来ないだろうから、今がチャンスだと思う」


彼女がそう言うならと思い、僕は車椅子を持ってくる。自分で車椅子へ乗ろうとしていたけど、何も言わず背中と足に腕を回して持ち上げてから乗せてあげた。

持ち上げた彼女はビックリするほど軽かった。


「みやこくん、王子様みたいだね」

「からかわないでよ」

「からかってないよ、ほんとにそう思ったの」


どこか気恥ずかしくなって、それを悟られたりしないように車椅子を押し始める。病室を抜け出しているのは僕と彼女ぐらいで、通路を歩いているのは見舞いに来た数人の客だけだ。

二人で悪いことをしているけど、不思議と罪悪感は湧いて来ない。これはきっと、彼女のためになることだから。

僕は最近彼女から頼みごとをされると、叶えられる範囲なら叶えてあげている。といっても彼女がお願いしてくるのは本当に些細なことだけで、こんな風に思い切ったことを言って来たのはおそらく初めてだった。

だから少し、彼女のことが心配になる。

病院の通路を歩いてエレベーターに乗っている時、彼女は「そういえばさあ」と前置きしてから話しはじめた。


「美園ちゃん、学校ではうまくやれてる?」

「女の子の友達ができたんだって。名前は教えてくれなかったけど」

「そっかぁ」

「本の趣味が合うらしいよ」

「美園ちゃん、本が好きだもんね」


聞きたいことはそれだけだったのか、彼女は再び車椅子の背もたれに背中を預けた。嬉しいのか、エレベーターの壁に張り付いている鏡越しの彼女は微笑んでいた。

やがてエレベーターを降りて、しばらく通路を歩いて屋上へ出た。今日は晴れているけど、秋の屋上は肌寒い。風邪を引いてしまわないように、着てきたパーカーを彼女に羽織らせた。


「さっぶいねぇ」

「秋だからね」

「もうすぐ、雪が降るのかな」

「雪はまだまだ先じゃないかな」

「じゃあ桜は?」

「それはもっと先」


クスリと笑って彼女は大きく伸びをする。風が吹きぬけて、長い髪がサラサラとなびいた。言葉を交わさずに景色が見える場所まで移動して、僕らは眼下を眺める。

遠くには大きな白塗りのお城があって、その周りには昔ながらの城下町が広がっていた。大きな庭園があり、そこにはまだまだ緑が残っている。


「素敵な町だよね、ここ」

「そうかな?」

「だって、みやこくんがいるんだもん」


平然と、それが当然であるかのように彼女は言う。僕は照れ臭くなって頬をかいた。少し下の目線から覗き込んできた彼女は、そんな僕を見て柔らかく微笑む。


「また学校へ通えることになって、この街に来てよかったよ」

「そういえばどうして引っ越してきたの?」

「お母さんの仕事の都合だよ。親戚の人の家から通う事も出来たけど、前に住んでたところに友達はいなかったからね。心機一転ってやつかな」

「ずいぶんと思い切ったんだね」

「これぐらいやらないと、演劇の舞台に立つのは夢のまた夢だって思ったから」


だけど結局、僕は彼女を演劇の舞台に立たせてあげることはできなかった。

彼女の体調を気遣ってあげれば。夜遅くまでやっていた勉強と料理の練習をやめさせていれば。僕がもっと強くて、クラスメイトからのイジメを一人で対処できていれば。

その全てをこなせていたら、彼女を演劇の舞台へと連れて行けたのかもしれない。でもそれはやっぱり過ぎ去ってしまったことで、今更過去を変えたりはできない。

しばらく二人で景色を眺めていると、再び彼女は話し始めた。


「わたしさぁ、実は死ぬのは怖くないんだよね」


締め付けられたように胸が痛み出し、喉の奥には異物が挟み込んだような不快感があった。そんなこともおかまいなく、彼女は話を進める。


「一人だったら怖くて震えてたかもしれないけど、今はみやこくんがそばにいるから。でもそれは同時に、みやこくんにも辛い思いをさせてるってことなんだよね」

「そんなこと、僕は……」

「強がらなくてもいいよ。みやこくんが悩んでいるの、わたしには痛いほど伝わってくるから」


やはり、彼女に隠し事はできない。僕は思っていることがすぐに表情に出てしまうから、時間が経つに連れて険しくなっていくのをなんとなく察していたのだろう。


「人は支え合って生きていく、なんてありきたりな言葉だけど、真実だとわたしは思うよ。悩みも辛さも葛藤も全て分け合って、わたしたちはずっとそばにいたんだもん。もし出来るなら、君が死ぬまでわたしはそばで寄り添い続けたかった。わたしにも、みやこくんの辛さを分けてほしかった」

「やめてよ、そんなこと言うの……」

「わたし、君の支えになれたのかな。君は、これから先わたしがいなくても大丈夫?みやこくんを支えてくれる人は出来たのかな」


耐えきれなくなった僕は、車椅子の後ろから彼女の身体を抱きしめていた。すぐ横、僕の頬には彼女の綺麗な髪の毛が当たっていて、甘い匂いが鼻腔をくすぐっている。


「……今日の君はおかしいよ」

「みやこくんも、いつもよりおかしいよ」

「僕は、おかしくなんてない」

「おかしいの」


彼女は僕の腕を優しく掴んで、だけどそのままでいてくれた。思い切った行動を許してくれたらしい。

僕も彼女も、今日はちょっとずつおかしい。


「死ぬのは怖くないけど、わたしが死んだ後が一番怖いな」

「僕も怖いよ。君がいなくなった後のことを考えると、夜も眠れなくなる」

「それでも、みやこくんは頑張らなきゃ」

「……わかってる」

「美園ちゃんと、クラスのみんなとも頑張るんだよ」

「……わかってる」

「みやこくんが元気でいてくれたら、わたしも死んだ後に笑顔でいられるからね」

「……わかってる」


クスリと彼女は笑うけど、僕は涙をこらえるのに必死だった。そして涙声にならないように、僕は気丈に振舞わなければいけない。


「彼女が出来たら、出来るだけ早くに紹介してね」

「どんな人がいいかな」

「みやこくんが決めた人なら、わたしは喜んで祝福するよ。でも、一度そうと決めた人を寂しくさせたらダメだからね。なるべく長生きしてあげて」

「子どもができたら、真っ先に君のところへ紹介しに行くよ」

「嬉しいなぁ。女の子と男の子、一人ずつ紹介してほしいな……って、みやこくん?」


僕はいつの間にか彼女のことを抱きしめる腕を強めていて、涙を流してしまっていた。彼女の前で泣いてはいけないのに、僕はどうしようもなく弱い人間だ。


「また、怖くなった?」

「怖くない……」

「嘘つき」

「ごめん……」

「素直でよろしい」


彼女もいつの間にか、僕の腕を先ほどよりも強く掴んでくれていた。


「こんな話したらダメだよね。せっかく外は明るいんだから、明るい話しなきゃっ」


そう言った彼女は僕の腕から手を離し、隠し持っていた紙の束を取り出した。それは何度もめくったのかしわくちゃになっている。


「これ、何かわかる?」

「美園が書いた脚本……?」

「そうそう。後悔が出来ちゃったから、みやこくんに叶えて欲しいの」


彼女は手に持っていた台本を開いて僕に見せてくれた。ずっと彼女が持っていたから、僕はそのタイトルすら知らなかった。

タイトルは『桜の君まで間に合うために』


「後悔って?」

「この脚本で演劇をすることだよ。でもそのためには、みやこくんの力が必要なの」

「僕の?」

「そうだよ」


彼女はさらにページをめくった。登場人物とセリフがずらずらと書き連ねてあって、歪んだ視界でそれを追って行く。

すぐに、彼女の言わんとしていることが理解できた。


「これって……」

「そう、登場人物がみやこくんとわたしなの」


その脚本に登場する人物は、京という男の子と椿姫という女の子だけだった。おそらく美園の気遣いだろう。


「みやこくんも登場人物だから、わたし一人じゃ演劇出来ないよね。だから一緒にってこと」

「……わかった」


すぐにそう返事をすると、彼女は少し驚いたようだけどすぐに笑みを浮かべた。


「あれだけ演劇は嫌だって言ってたのに、やってくれるんだね」

「……君のためだから。君のためなら、たぶん頑張れる」

「嬉しいなぁ」


本当に嬉しそうに微笑んで、彼女は僕へと脚本を手渡す。しっかりと僕はそれを受け取った。


「約束だからね?」

「わかってる……」

「絶対に、わたしと演劇をすること」

「君と絶対に演劇をするよ」


それから僕たちは、子どもっぽいと思ったけど指切りを交わした。さっきは強がって嘘をついてしまったけど、この約束だけは何があっても守り通したいと思う。

彼女が居なくなるその時まで、笑顔でいられるように……

僕らはその約束を交わした後に病室へ戻った。幸いお母さんにもお医者様にも会わなくて、彼女を無事にベッドへ寝かせる。

その日は彼女が眠るまでそばにいて、スースーと寝息を立て始めた頃に病室を出た。

僕は家に帰ってから宿題もせずに脚本を読み込む。彼女と演劇をするために、何度も何度も読み込んだ。

しっかりと眠らなきゃいけないと何度も彼女に言ったのに、結局僕はその日夜ふかしをしてしまった。仕方ないから、こればかりは許して欲しい。他ならぬ椿姫のためなんだから。

頭に一つも残らない授業を受けた後、クラスメイトとの会話もそこそこに教室を出た。いつも通りまっすぐ病院へ向かい、今日は脚本を全て覚えてきたんだと報告しなければいけない。

きっと彼女は喜んでくれて、その後に病室で二人だけの演劇をするんだろう。

そう思っていた。

いつも通り受付へ寄って面会の手続きを済ませる予定だったのに、今日はやけに時間がかかっていた。待合の椅子に座らされて数分、僕は受付の人に呼ばれてようやく席を立った。普段なら、ここで面会カードを貰って病室へ向かっている。

だけど今日は、普段通りではなかった。

あくまで事務的に、受付の人はそれを告げる。


「申し訳ございませんが、今朝羽前さんの容体が急に悪化して、現在は面会をご遠慮させていただいております。何卒ご了承ください」


僕は文字通り頭の中が真っ白になった。

そして次に、様々な言葉がそこから浮かび上がってくる。

今朝、容体が急に悪化した。今は椿姫に会うことができない。

その事実を頭で理解した時、僕は昨日の出来事を思い返していた。昨日、二人で屋上に上がったこと。もしかすると、あれが容体悪化の引き金になっていたのかもしれない。

そういえば、いつにも増してベッドの上で辛そうにしていた気がした。僕はまた、気付いてあげられなかった。

ぼくは……


「あの、お客様……?」


いつの間にか受付の人に顔を覗き込まれていて、僕はようやく我に返った。「すいません、ありがとうございます……」それだけ言って、もう用はないのにホールの椅子へ腰を下ろした。

そして再び昨日の出来事を思い出す。

もしかすると。いや、もしかしないかもしれない。僕のせいで彼女の容体は悪化して、辛い思いをさせてしまったんだ。

僕は僕の不甲斐なさを呪う。

彼女のお願いを聞いていなければ。お願いを聞かずに、病室で話をしていればこんなことにはならなかったのかもしれないのに。


「みやこくん……?」

「え……?」


椿姫によく似た声が耳に届き、僕は反射的に顔を上げた。もしかしたらと考えたけど、そんなに都合のいいことは起こらない。僕に声をかけたのは椿姫の母親だった。


「すごい顔が真っ青よ……もしかして、体調悪いの?」

「いえ、ただ……」


その先を言うことはためらわれた。目の前にいるのは椿姫の母親で、昨日連れ出したことを話せばきっと怒られてしまう。だって、おそらく僕が昨日椿姫を連れ出したりしなければ、こんなことにはならなかったんだから。

そんな僕の心境を知ってか知らずか、お母さんは椿姫のように柔らかく微笑んだ。


「お礼が言いたかったの。昨日はありがとね、椿姫と仲良くしてくれて」

「……え?」

「昨日、みやこくんが帰った後に病室に行ったら、椿姫がとても喜んでたの。なんでも、二人で屋上に行ったらしいわね」


椿姫はお母さんに話していたのか。あれは、二人だけの秘密だと思っていたのに。


「……ごめんなさい」

「どうして謝るの?」

「僕が昨日連れ出したから、椿姫さんの容体が悪化したんです……昨日は寒かったから、それで……」

「みやこくんは、悪くないわよ」


どこまでも穏やかに、お母さんはそう言ってくれた。だけどそれは気休めにもならなくて、僕の罪の意識は消えてくれない。

お母さんは僕の隣へ腰を下ろした。


「本当にごめんなさい……」

「だから、みやこくんは悪くないのよ。昨日はすっごく元気だったし、今日容体悪化したのはそれとは別の原因だと思うわ」

「違うんです、あれは本当に僕のせいで……」

「椿姫はきっと、みやこくんのせいじゃないと思ってるわよ。それにみやこくんがそんなに落ち込んでると、椿姫も悲しむと思う」


この人は僕とは違ってずっと大人だ。そう考えて、それは当たり前だと自分で納得する。お母さんは僕より何歳も年上なのだ。

椿姫はきっと、僕のせいじゃないと思ってる。僕が落ち込むと、椿姫も悲しむ。

お母さんの言った言葉はおそらく正しくて、だから僕は少しだけ冷静になれた。ちょっとだけ、罪の意識は消えていく。

だけど僕が屋上へ連れ出したことは、少しは引き金になっているんだろう。


「……お母さんは、どうしてそんなに普通でいられるんですか?」

「どういうこと?」

「僕はいつも、胸が張り裂けそうなぐらい苦しいです。だけどお母さんはいつも、椿姫の前ですら笑っているから……」


僕にもその強さが欲しかった。いつでもどこでも、椿姫の前で笑っていられる強さが。僕が笑っていれば、椿姫も笑って過ごせるはずだから。

お母さんは、なんでもない風に僕の問いに答えた。


「だって、母親のわたしがいつも通りでいなきゃ、椿姫は笑って過ごせないでしょう?だからわたしは、いつでもいつも通りにいるって決めたの」


やっぱり、お母さんは強い人だ。そして椿姫に似ている。


「でも、わたしも辛くなるときはあるのよ?」

「そうなんですか?」

「当たり前じゃない。だって椿姫は、わたしのたった一人の家族なんですもの」

「……ごめんなさい」

「みやこくんは、何も悪くないわ」


おそらく、椿姫がいなくなって一番悲しむのはお母さんだ。この人はたった一人の家族がいなくなった後、どうなってしまうのだろう。

そのとき、支えてくれる人はいるのだろうか。

お母さんは両手を一度叩いてから立ち上がった。


「さーて、ここにいても仕方がないわね。家まで送るわよ」

「椿姫さんは……」

「どれだけ待っても今日は会えないかな。また今度、都合がつきそうだったら連絡するわ」

「ありがとうございます……」

「こちらこそよ。最後の年に、椿姫に君という友達が出来て良かったわ」


そしてお母さんは少し顔を伏せて、「ただ、次に会うときは覚悟だけはしておいてね……」と付け加えた。僕も薄々感づいている。きっと椿姫はもう、生と死の狭間のあたりにいるんだろう。

もしかすると、もう二度と会えないのかもしれない。そうなってしまえば、僕は……

考えるだけ考えて、思考をやめた。最悪の結果を考えてしまうのは僕の悪い癖だ。彼女に言われた通り、ポジティブに生きよう。

彼女はきっと、笑顔でいてくれる。また屈託のない笑顔を見せてくれて、二人だけの演劇をするのだ。

時間は無作為に過ぎていく。あれから十日は経って、気付いたら五日過ぎていた。それでも僕は待って、確かに焦りという感情が内から湧き上がってくる。

もう一度椿姫に会いたい。

美園は事情をなんとなく察してくれていたのか、椿姫に関することは極力話題に出さなかった。僕らは毎日学校にいる友達のことをお互いに話して、無理に笑いあっていた。

それでも四月の時より僕らは成長したと思う。美園は毎日笑顔を作るようになったし、大切なことをしっかり言葉で話すようになった。

僕は、また人と触れ合うことを覚えた。彼女と出会っていなければきっと僕は四月のままで、過去に怯えながら過ごしていたのかもしれない。

どうせなら僕ら三人で、もう一度この学校を歩いて回りたかった。仲良く、どうしようもなくくだらない話をしながら笑顔で……

そしてまた、桜の木を君と見たかった……


※※※※


点滴も人工呼吸器も外された椿姫は、空虚な病室のベッドに横たわっていた。ここにいるのは僕だけで、椿姫のお母さんの計らいで二人きりにしてくれたらしい。

それは椿姫の意思でもあると、お母さんは言っていた。

たった数日しか経っていないのに、目の前の椿姫はどうしようもないほどに変わってしまっていた。いや、僕が無意識のうちに目をそらし続けていたから気付かなかっただけかもしれない。


「ごめんね……こんな時に呼び出しちゃって……」

「僕は、気にしてなんかないよ……支えてあげるって約束したから……」


打たれ弱いわたしを支えてほしい。僕は君の約束を守ってこれたのだろうか。正直、自信がない。

だから僕は、こんな時ぐらいは君の約束を守れる人であろうと思った。


「わたし、ずっとみやこくんにお礼が言いたかったの……わたしのことを……」

「待ってよ」


椿姫の言葉を遮り、小さくなってしまった手を握る。そうしてしまわないと、ここではないどこかへ行ってしまいそうだったから。

手を握られた椿姫は、安心した表情を浮かべていた。


「……やっぱり、みやこくんの手は暖かいね」

「君が望むなら、ずっと暖めてあげるよ」

「ありがとね……」


彼女はそう言って目を閉じた。その瞬間の僕は、どうしようないほど胸が締め付けられて、どうにかなってしまいそうだった。


「椿姫……?」

「大丈夫、ちょっと疲れてまぶたを閉じただけだから」


僕は安心して、さらにその手を強く握った。


「やり残したこと、まだあるでしょ?君のために、台本を全部暗記してきたんだ」

「そっかぁ……」

「今ここで、その演劇をやろう。終わったら君の話はなんでも聞いてあげるから」


持ってきた台本は彼女の身体の上に置いて、僕は一番最初のセリフから演技を始めた。


「僕は……」

「待ってみやこくん……」


突然止められて、僕はセリフを中断させた。


「どうしたの?」

「時間はあんまりなさそうだから、最後のシーンだけでいいかな……」

「……うん、大丈夫だよ」


僕は必死に最後のシーンを思い浮かべた。確かそのシーンは最愛の彼女との別れの場面。何度も何度も今までの部分を読んできたから、今更思い出せないわけがない。

丘の上で彼女が横たわっているシーンだ。


「わたしね、君にずっと隠してたことがあるの……」

「隠していたこと?」

「そうだよ……」

「それを、僕に教えてくれてもいいかな?」


隠していたこと、それは彼女が桜の木だったということ。台本の中の少年は、子どもの頃に伐採していなくなるはずだった桜の木を助けてあげた。助けたのは、少年が桜の木を愛していたからだ。

それから数年が経って、一人でいる少年は一人の少女と出会う。その少女はどこまでも明るい人で、少年のために献身的に尽くしてくれた。ある時、少年は少女に問いかけた。

『どうして君は、そんなに僕に構ってくるの?』

少女の答えはこうだ。

『昔、ある人に助けてもらったの。だから今度は、わたしが他の誰かを助けてあげるの』

少年は桜の木を助けたことを忘れていた。だから少女は誰か別の人に助けられて、その恩返しを少年にしているんだと勘違いした。

本当は少女のしていたことは全て、少年に対する恩返しだったのだ。

その全ての告白をするのが、台本の最後のシーンだ。


「君は忘れてるかもしれないけど。わたしはね、本当は全部君から与えてもらったの……」

「待って、台本とセリフが違うよ。ここは、君が桜の木だってことを告白する場面で……」

「わたしはね、夢を見たんだよ……」


もう、台本なんて存在しなかった。椿姫は勝手にセリフを紡ぎ出し、僕はその先がわからなくて動揺してしまう。アドリブには弱いんだ。

それに、夢を見たって……


「みやこくんと、美園ちゃんと、わたしの、三人の夢だよ」

「いったい、何を言って……」

「本当のわたしは、あの学校へ進学してすぐに浮いてしまっていたの……」

「だから、君は何を言ってるの……?」


僕が止めようとしているのに、椿姫は安らかな表情で語りをやめない。


「今まで出来た友達は姫子ちゃんだけだったから、友達の作り方すら分からなかったの。だから三日間、ずっと一人で席に座ってて、ただ時間が過ぎるのに身を任せてた。もう学校に行きたくないなって思い始めてた頃、ようやく風邪から復帰した君がやってきたんだよ」

「それは違うよ。君は最初からクラスの人気者で。誰からも愛されていて……」

「授業も全然ついていけなくて、数学の時間に指名されても何も答えることが出来なかった。わたしがいるとみんなのペースが乱されて、それでたくさんの人がイライラしてた。だけどそれなのに、君は休み時間にわたしに話しかけてくれたんだよ」


僕は、もう黙ってその話を聞くことにした。椿姫がそれを語るなら、真実なのかもしれない。


「放課後は、ほぼ毎日図書館で勉強を教えてくれた。不出来なわたしのために何回も何回も説明してくれて、諦めずに根気強く向かってきてくれたの。最初は、なんでこんなダメなわたしに良くしてくれるんだって思った。だから一度だけ、君に聞いてみたの。その人は、なんて答えたと思う?」

「見当もつかないや……」


すると、椿姫は小さく笑った。


「昔同じような人がいたんだって。わたしみたいな人がいて、その時に助けてくれた人がいたから、僕も助けてあげてるんだって。わたしはバカだったから、その本当の意味を知ったのはずっと後だったよ」

「ねぇ、辛いなら……」

「大丈夫、大丈夫だから。わたしはまだ、大丈夫だよ」


必死な椿姫を止めることなんて出来ない。僕はその手を握ったまま、再び耳を傾けた。


「それからね、みやこくんは美園ちゃんを連れてきてくれたの。最初は人見知りで全然話してくれなかったけど、次第に打ち解けてきて、こんなわたしとも仲良くしてくれた。そしてわたしは思ったの。この三人と演劇がしたいなって。諦めかけてたけど、ずっと夢だったから諦めきれなかった。だから、二人に演劇をしませんかって話したの」


辛いのか、椿姫は一つ深呼吸をした後、再び話し始める。


「だけど、美園ちゃんは手伝ってくれなかった……それはたぶん、美園ちゃんがみやこくんのことを好きだったからだよ。きっとわたしに取られちゃうって思ったから、手伝ってくれなかったの。だけど、それでもわたしと仲良くしてくれた。パフェに誘ってくれた」

「あれは、仮病だったんじゃ……」

「最初はね、本当に風邪を引いちゃったんだよ。みやこくんにばかり勉強を教えてもらうのは悪かったから、夜ふかししてたくさん勉強したの。だけど体調を崩しちゃって、結局あの時は行けなかったの……」


夢の中の椿姫はそうだったのかもしれない。僕が知っている現実は、明らかに風邪を作っていた。咳もわざとらしかったし、それに反して電話口では元気に話していた。元気に話して、僕と美園との進展を仕切りに聞き出していた。

それでも最初、僕は風邪を引いたんだと思うようにしていたんだ。疑ってかかるのは良くないことだから。

でも、それからの椿姫は僕らを誘うことがあっても、一緒に来てはくれなかった。だから僕は、あれは仮病だったんじゃないかと疑ったんだ。


「わたしは二人のお邪魔虫だって分かってたけど、結局自分の夢を叶えたくて図々しくしてたの。そうしてたら、いつの間にか美園ちゃんが遠慮をするようになってた。もう一度三人でパフェを食べに行こうって誘ったけど、美園ちゃんは来てくれなかったっけ。そういえばあの時は結局、ラーメン屋に行ったんだよね」


僕の頭の中には、彼女とラーメン屋に行った記憶は一つもない。ちょっとずつ、いろんなことが違っているんだ。美園と椿姫の見た夢は、僕の経験してきた現実とちょっとだけズレている。


「君は初めてわたしの手を握ってくれたよね。暗い路地を歩いている時、わたしが怖がっていたら、君が優しく握ってくれたの。とっても暖かくて、すっごく嬉しかった」

「僕は君にそんな大胆なことをしたんだね」

「みやこくんは、友達をとっても大事にしてくれる人だからね。だからそういうところ、自信を持っていいと思う。わたしはね、そんな君にとっても助けられてたんだよ」

「でも僕は、君のことを助けたりなんか……」

「助けてくれたんだよ。わたしが茜と光にイジメられた時、君はクラスの真ん中で大声で怒鳴りつけてくれたんだもん」

「ちょっと待ってよ、それは君が、」

「一番最初は、まるっきり逆だったんだよ」


僕の思考はありえないほどに混乱している。だって僕は、クラスで人気者の椿姫と関わっていたから、それに目を付けられてイジメられたのだ。

だから椿姫はイジメられてなんて……


「わたしはね、クラスの中ではずっと控えめな女の子だったの。それなのに、みやこくんや美園ちゃんの前ではすごく笑顔にしてた。ただ純粋に楽しかったからだよ。不器用なわたしは、オンとオフがしっかり出来ていなかったの。友達の前だけ笑顔な女の子って、嫌な女の子だって思われても仕方がないよね。でもそんな時、みやこくんがわたしのことを助けてくれたの」

「僕が……?」

「そうだよ。二人に怒鳴ってくれて、わたしのことを助けてくれた」

「そんなこと、僕が出来るわけ……」

「でも、あの時のみやこくんはやってくれたの。君は、本当に強い人だよ。そんな君に支えられて、わたしは無事に演劇を成功させたの。ずっと君に、恩返しがしたかった……だけど文化祭の後にわたしはすぐに倒れて、そのまま入院して、それから故郷に戻ったの。ずっと支えてくれた君を置きざりにして……」


ここまで話したことは、美園の話と共通することだった。無事に演劇を成功させて、だけどその後何も告げずに転校した。そして訃報を聞いたのは、十二月。


「それからは、ずっとひとりぼっちで寂しかった……お母さんがそばにいてくれたけど、みやこくんと美園ちゃんがいなかったのが耐えられなかった。わたしにとってはそれほど大切で、だからこそまだ何も返せてないんだって後悔した……だけど身体はだんだん弱っていって……それからのことはよく覚えてない。気が付いたらいつの間にか一年の新学期に戻ってて、みやこくんにまた会えた」


おそらく、今までの話が椿姫の隠してきたことの全てだ。どうしてそんなことが起きたかは分からないけど、僕は一つだけ分かってしまった。

この世界には都合のいい奇跡なんてないのだということを……


「そんな奇跡が起きるなら、僕は君の病気を治してほしかった……君の病気が治るなら、僕は君に会えなくてもよかった。せめて、これからも元気で生きていてほしかったんだ……」

「違うよ、みやこくん」


そう言って、やっぱり椿姫は手のひらを重ねてくれた。それは冷たいはずなのに、どこか暖かい。


「奇跡なんて、この世界には存在しないの。わたしはただ偶然に、未来に起きるはずの夢を見ただけなんだから。わたしたちは奇跡なんてものに頼らずに、必死に生きていかなきゃいけないんだよ」

「必死に……」

「そうだよ。でも、わたしたちの間に一つだけ奇跡が起きていたとしたら、たぶんそれはみやこくんに出会えたってことだと思う。わたしはみやこくんに出会えて、本当に幸せだったよ。わたしを幸せにしてくれたぶんだけ、君に恩返しをすることは出来たのかな」

「僕は……」


僕の方こそ、君に出会えて幸せだった。君のおかげで、僕は幸せになれたんだ。そして、君のおかげで僕は変わることができた。

自分に少し、自信を持つことができるようになった。


「……僕も、君と出会えて幸せだったよ」

「そっかあ……やっぱり、嬉しいな……君に恩返しが出来たんだね……」

「返しすぎだよ……」

「だってそれぐらい、わたしは君のことが大好きだったんだもん……」

「僕も、君のことが大好きだったんだ」

「嬉しいなぁ……」

「冗談じゃなくて本当だよ。僕は誰よりも君のことが大好きで、ずっとこの気持ちを伝えたかったんだ……」


重ねていた手のひらを強く握り、僕の気持ちが伝わるように努める。少しは伝わってくれただろうか。冗談なんかに聞こえていないだろうか。

そう思い、いつの間にか涙で滲んでしまった瞳で椿姫のことを見た。どういう心境かは分からないけど、椿姫も僕と同じく涙を流していた。


「ひどいよ、みやこくん……」

「ごめん……」

「こんな時に、告白するなんて……」

「ごめん、本当にずっと好きだったんだ……」


涙を拭う気力も無いのか、椿姫は溢れるそれを止めたりしなかった。僕はただ、椿姫の手を握り続ける。


「みやこくんにそんなことを言われたら、死にたくないなって思っちゃうじゃん……」

「僕は……」


そこまで言ってしまって、僕はもう僕自身を抑えられないのだということに気付いた。今まで必死に押さえつけてきたつもりだけど、それはもう壊れてしまった。

壊れてしまった僕は、たとえ目の前の女の子が傷つくかもしれないと分かっていても、止めることができなかった。


「僕は君のことがずっと好きだった。きっと初めて出会った時から、君が話しかけてくれた時からずっと惹かれてたんだ!それなのに、いつも君は君じゃない他の誰かを紹介してきて、ずっと辛かった……!何度も何度も、君との未来に僕はいないのかって考えてたんだ!」


君のことが、ずっと好きだった。メガネをかけていない君もかけている君も、溌剌な君も惹かめえな君も全てに惹かれてしまっていたんだ。


「そんな君がいなくなるなんて、僕は考えられない……!君の、君のいない世界なんてっ……!」


涙と嗚咽といろんなものが混じってしまった僕は、もう言葉を発することができなかった。せめて僕の顔が見えないように顔を伏せる。

椿姫は、僕の頭に手のひらを乗せてくれた。


「ごめんね、みやこくん……」

「いまさら、謝らないでよ……」

「ごめん……みやこくんに、寂しい思いをさせちゃうから……でも寂しくても、みやこくんは生きていかなきゃいけないの。また、大切な人に出会うために」


そうだ。椿姫がいつまでも笑っていられるために、僕は生き続けなきゃいけない。それが、病を患った椿姫のためなんだから。

僕は、ただ前を向かなきゃいけない。


「君がいなくても、それでも僕は生きなきゃいけないんだね……」

「そうだよ。それでも君は生きていかなきゃいけないの」

「僕にそれが出来るかな……」

「大丈夫だよ。君なら出来る。わたしが保証する。だって、みやこくんなんだもん」


その根拠のない自信に、ようやく僕は笑みがこぼれた。釣られて、椿姫も微笑む。

微笑んではいるけれど、だんだんと椿姫の生気が薄くなっていくのがわかった。たぶんもう、すべてがいっぱいいっぱいなんだと思う。


「やっぱり、死にたくないなぁ……」

「頑張るよ。頑張って、いつかまた君に出会えた時、その時は笑顔でいられるように」

「みやこくんが頑張ってくれるなら、悔いはないかな……」


それから僕らは、どちらからともなく再び演劇を始めた。


「君が落ち込んで、一人じゃ立てなくなった時……前を向いて歩けなくなった時、わたしを思い出してください……わたしはずっと、あなたのそばにいますから……決して枯れない桜の木になって、あなたの心の中で支え続けます……」

「それならきっと、僕はこれから先も生きていけるよ。僕はもう……怖くなんてない」


まるで恋人同士のように、僕らは指を絡めあう。握り方でこんな風に想いを伝えることができるなら、僕はもっと手を繋いでおけばよかった。

僕は今、桜の木の下にいた。


「わたしちはきっと、最後に手を繋いでくれる人を探すために生きてるんだね……だってあんなに寂しかったのに、今は全然怖くなんてないんだもん」


安らかな表情でそう言って、椿姫は最後に一筋の涙を流した。僕はもう、その姿に目を背けたりしない。


「……もう、後悔なんて何もないや。ありがとね、みやこくん。わたしも、君のことが大好きだよ……」


そう言って、最愛の人は僕の前から旅立っていった……


※※※※


エピローグ


椿姫の葬式に参列した人はそれほど多くなかったけど、皆一様に涙を流していた。あれほど強かったお母さんでさえ焼かれる時は涙を流し、美園は目をそむけていた。

僕は相変わらず泣いていたけど、しっかりと最後まで椿姫のそばにいた。椿姫は寂しがりやだから、少しでも離れると天国で泣いてしまうと思ったから。

葬式が終わり、制服を身に付けた僕らは未だ会場のホールにいる。美園がずっと泣き止んでくれないからだ。先ほどから、僕の腕の中で震えていた。


「大丈夫だよ。椿姫はきっと、笑ってるから」

「椿姫ちゃんっ……!」


安心できるような言葉をかけ続け、頭を撫でてあげる。まず僕は、一番そばにいる美園の支えになってあげなければと思った。椿姫がそうしてくれたように、今度は僕が美園のことを支えてあげようと思う。

頭を撫で続けていると、喪服に身を包んだ椿姫のお母さんがやってきた。もう泣いてはいなかったけど、目元が涙で腫れていた。


「今日は、あの子のために来てくれてありがとね……」

「いえ、招待してくださりありがとうございます」

「きっと、椿姫も喜んでくれていると思うわ」


喜んでくれていたら、僕も頑張れる。きっと笑顔でいてほしい。


「ちょっと遠いけど、いつでも椿姫のところへ遊びに来てね。歓迎するわ」

「ありがとうございます」


丁寧にお辞儀をして、お母さんは離れていった。美園は未だ僕の腕の中だ。


「私も、強くならなきゃね……」

「うん……」

「頑張るから……」

「一緒に頑張ろう」


僕らはもう一度、小さな決意をした。


※※※※


それからも慌ただしく時は流れ、いつの間にか春が訪れていた。桜が綺麗に開花して、それを見るたびにぼくは椿姫を思い出し笑みがこぼれる。

椿姫はきっと、いつでも僕らを見守ってくれている。それは遠い場所からかもしれないし、あるいはとても近い場所にいるのかもしれない。椿姫のことだからよそ見をしているかもしれないけど、そんな時でもきっと笑顔は絶やしていないだろう。


「クラス発表、楽しみだね」


隣を歩く美園は、以前より表情が柔らかくなったような気がする。そのせいか何人かの男子に告白されたらしいけど、すべて断ったようだ。

理由は教えてくれなかったけど、美園が嫌なら無理に恋人を作る必要はないだろう。


「今年は同じクラスになれるかな」

「私は別に同じクラスにならなくてもいいけど、京くんがどうしてもって言うなら考えてあげる」


そんなことを冗談交じりに言いながら、僕らは玄関前に掲示されている張り紙を一緒に見た。それを見て、僕はとても嬉しい気持ちになる。たぶんきっと、隣にいる美園もそう思ってくれているだろう。

僕らはまた、同じクラスになった。


※※※※


二年生の生活にも慣れて来た頃、久しぶりに美園は僕の部屋の窓を叩いた。いつもの美園なら寝ている時間で、だから僕は驚きながらも窓を開けた。

二つの紙コップを持った美園が、少し頬を染めながら僕を見ている。どうしたんだろうと思い理由を聞こうとしたら、その前に美園は紙コップを投げてくる。

危うく取り落としそうになったけど、僕はしっかりと受け取った。

僕が先に紙コップは口を近付けた。


「どうしたの?」


美園が紙コップへ口を近付ける。


「まだ、言ってなかったことを思い出したの」

「言ってなかったこと?」


聞き返すと、やっぱり美園は頬を染めていた。最近の美園は何かに焦っているように見えたから、僕は少し心配になる。


「京くんは、最近誰かに告白された……?」

「全然そんな気配もないよ」

「神奈さんは?」

「神奈は最近同じクラスの男子と付き合ったよ」

「へぇ……」


もじもじと紙コップのふちをいじりながら、美園は視線を左右に行ったり来たりさせている。いったい本当にどうしたんだろうと思ってもう一度聞こうとしたら、意を決したのか再び紙コップへ口をつけた。

僕は右の耳にコップを当てて、美園の言葉を待つ。

とてもとても長い間が空いて、糸が切れたんじゃないかと疑った。それでも根気よく待ったら美園の小さな息遣いが聞こえて来て、ようやくその言葉が僕のところへと届いた。


「京くんのことが、ずっと好きです」


それはもしかすると、美園が送ったメールの内容だったのかもしれない。


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