第一五話
エレナは深夜の夜道をただ歩いていた。人も動物も何もかもが寝静まった道路に、一定の間隔で乾いた足音が鳴りわたる。
「儂は……本当に馬鹿じゃのう」
エレナは皮肉気に口端を歪める。
只一人、無音の夜道を淡々と歩くエレナの頭を過るのは、イリスやイコルニアと過ごしていた幸せだった日々。全てを失った二年前の悲劇。そして敵討ちを行おうとしていた自分を、身体を張って止めてくれた駆の言葉だった。
「怒りと憎しみに翻弄され、感情のままに敵討ちに走ろうとしていたとは……まるで敵を討つことをイリスやじいたちが望んでいるかのように思い込んで」
まるで溶岩のように噴出した激情。煮えたぎる思いの赴くままに、自分は愚かにも単身で研究所に乗り込もうとしていた。
敵を討つこと……それをイリスやじいたち、あの戦いで散った者たちの求めていると決めつけて。
「苦しかった。いや、今も苦しいのじゃ……あの戦いで散った者たちの想いは――儂には重すぎる」
楽になりたかった。
研究所と戦うことによって、『自分も戦った』、という自己満足が欲しかったのだ。
民の多くは襲撃者……研究所から自分を護るため、逃がす時間を稼ぐために犠牲になった。それが彼らの意志であったことは理解している。そのことで彼らが自分を恨んでなどいないことも。
だからこそ、その事実が、彼らの犠牲に生かされた王である自分の胸を締め付けるのだ。
王として民を……大切な人々を護ることができなかった無力な自分。
民草をまとめ、自ら先頭に立ち、彼らを護るのが王としての自らの責務だったはず。だが実際はどうだったか。
犠牲になったのは、親友であり、恩人であり、護るべき民だった。逃げる時間を稼ぐために城に残った者たちは皆死に、皆を護るべき王……自分は生き残った。
「イリスやじいたちが命を懸けてまで護りたかったモノ……か」
それは駆に言われた言葉。
その言葉を言われて気付いた。
自分はあの戦いで犠牲になった民たちの屍の上に立っていて、自分の背には彼らに託された想いが重くのしかかっているのだと。
自分は一時の激情で、彼らの想いを無駄にするところだったのだ。
冷静になった今だから理解することができる。
もしあのまま敵討ちに行っていた場合、返り討ちにあっていたことは間違いない。下手すれば研究所に捕まっていたかもしれない。そしてその時は、人狼としての尊厳を踏みにじられた生き地獄を味わうことになったのだろう。
研究所にとって、自分は実験体でしかない。
そして言うまでもなく、研究所に捕まり実験に使われる……それは命をかけて自らを守ってくれた彼らに対する最低の裏切り行為だ。
「ふぅ……」
エレナは立ち止まると息を吐き、顔を上げた。
そこにあったのは年月を感じさせる立派な門構え。自分の帰る場所である駆の家だった。
「誰も……おらぬよな?」
横をキョロキョロと見て、周囲に人がいないことを確認する。エレナはやや腰を落とすと、耳と尻尾を生やした姿となりその門を飛び越えた。
扉に手を掛け、横に引く。静かな世界にガラガラと引き戸が開かれる音が響く。
「……ただいま」
玄関の照明を点け、エレナは囁くような声で廊下に呼びかける。もう寝てしまっているのか、駆からの返事はない。
しかしエレナの声に視界の端で丸まっていた毛玉が反応した。
それは先ほど最後を覚悟して別れた平八だった。平八は丸い瞳にエレナの姿を入れると、おずおずと様子を窺いながら自らの飼い主に近づく。
エレナは苦笑いを浮かべると、平八を抱きあげた。
「すまぬ、平八……儂は間違っていたようじゃ」
「くぅん」
そう口にするエレナの頬を、平八は舐める。
「ふふっ……止めよ、くすぐったいぞ」
エレナはくすぐったそうに首をすくめ、平八を床に下ろした。
平八は大きく口を開けて、眠そうに欠伸をする。その姿を見て、エレナは口元を緩めた。
それと同時に張りつめていた気が緩んだのか、ドッ、と疲れが押し寄せてくる。
「そうじゃな。今日は色々な事が起こりすぎた。それにもうこんな時間じゃ、眠くて当たり前……ゆっくりと眠ればよい」
そう口にした瞬間、エレナは玄関の壁に背を預けて、ズルズルと座り込む。気遣うように自らを見上げる平八をエレナは抱き上げると、身体全体で包み込むように抱きかかえた。
「少し……ほんの少しだけ休憩して――……」
呟いてエレナは平八の毛に顔を埋める。
襲い掛かる強烈な睡魔と疲労感。エレナの意識は急速に遠くなった。
時刻はすでに四時に近づいていた。風呂で汗や土汚れを流した駆は髪を乾かし終えると、重い身体を引きずるようにして脱衣所を出た。
喉の渇きを感じ、駆はキッチンに足を向ける。水道水をコップに汲むと、駆は一息に飲み干した。
生温い微かにカルキ臭がする水道水だったが、稽古から何も飲んでいなかった駆の喉は幾分か潤う。駆はもう一杯喉に流し込み、深く息を吐いた。
いつもなら使い終わったコップは洗ってカゴに伏せる。しかし駆はコップを洗うことなく流し台に置く。
(洗い物は……明日、洗うか)
リビングの机に凛音から話を聞いた時に使ったマグカップがあるのに気がつく。いつもであればすぐに流し台で洗う。しかしそれが億劫に感じる程、駆の身体は疲れを感じていた。
リビングを出て、廊下を歩く。
「……ん?」
しかし自室に近づいた時、L字の廊下の先。廊下の角が死角となり見る事ができない玄関の光が付いていることに駆は気付いた。
「入った時に、消し忘れていたのか?」
駆は顔を歪めると、電気を消しに玄関に向かう。曲がり角を曲がり、玄関を視界に収めた瞬間、駆は目を見開いた。
「エレナ……っ?」
「すぅ……すぅ」
玄関では壁に背を向け、平八を抱いてエレナが舟をこいでいた。駆はエレナの肩を軽く揺さぶる。しかし安らかな寝息をたてるエレナに、目覚める様子は全くなかった。
「……わん」
「ああ、そうだな。起こしたらいけないな」
そしてエレナの肩を揺する駆に、エレナの腕に抱かれた平八が咎めるような視線を向ける。駆は微笑むと、平八を指で撫でて立ち上がる。
そのままエレナの部屋の前まで戻ると、部屋と廊下を仕切っている襖に手を掛ける。
「お邪魔するぞ」
一言、そう口にしてエレナの部屋に入ると、綺麗に畳まれていた布団を畳に敷く。
「起きるなよ……っと」
布団をひき終えた駆は、玄関まで戻ると腰を屈めて寝ているエレナの小さな身体を慎重に抱え上げた。
「ん……んぅ」
エレナが駆の腕の中で微かに身じろぎする。
起こさないよう、細心の注意を払ってエレナを先ほど敷いた布団に寝かせる。エレナとエレナの抱いている平八が息をしやすいように、薄い布団を一人と一匹に掛ける。
今日は決して暖かい夜ではないが、室内は外ほど寒くはない。これぐらいの室温であれば、この薄い掛布団でも風邪をひくことはないだろう。
駆は音を立てないようにその場を立つ。
「お休み、エレナ……」
忍び足で廊下に出た駆は、遊び疲れた子供のようにぐっすりと眠るエレナにそう呟き、襖をゆっくりと閉めた。