第一四話
凛音が帰宅し、駆はエレナが風呂を終えていることを確認して浴室に入る。
「痛……」
熱いシャワーが頭から降り注ぐ。浴室はその途端、白い雲霧に覆われた。
駆はズキン、と痛みを訴えたこめかみをとっさに触れながら、浴室につけてある鏡を見る。触れているこめかみ部分が若干紫色に腫れているのを見て、駆はため息をついた。
「あの男……ヴォルフラムだったか? まさに化物だったな」
そう呟いた瞬間、シャワーを浴びているにもかかわらず駆の身体を悪寒が走る。
エレナを研究の為の実験体として攫おうとしたあの外人。腕を刃物に変化させる異能という冗談にしても笑えない力を持つ襲撃者は、圧倒的な存在だった。
理屈ではなく直感……肌で悟る。今のままでは、あの男には勝てない。
一見粗暴で乱雑に見えるあの男の動き。だがあの動きには巨大な図体には考えられない細かな技術が隠されていた。更に戦闘時の敵を傷つけ、倒し、そして殺すことへの躊躇いのなさ……その割り切りの良さは少なくとも駆には無いものだ。
そして一瞬の判断が生死を分ける戦いにおいて、それはとても大きな要因だった。
(まぁ……当分はエレナが狙われる心配はないだろう)
そう考えながら、駆はシャンプーを泡立てる。
ありがたいことに、理由は分からないが研究所は自分には関わりを持ちたくないようだ。しばらくはエレナが狙われる心配はないだろう。
いつ研究所がその方針を変えるかは分からないが――
「とにかく、今の問題は……」
頭の泡を流しながら、駆は口の中で呟く。閉じた瞼に浮かぶのはあの男との戦闘中に憤怒の感情をむき出しにしたエレナの姿だった。
敵討ちはしない……エレナは凛音とそう約束はしたが、あれほどの怒りがそう簡単に収まるはずがないし、感情をコントロールできるとは思えない。
凛音の帰りぎわの一言……凛音も同じように考えていたようだ。
(多分……エレナは敵討ちを行うだろう)
そうだとしたら、きっとエレナは自分に迷惑を掛けないように密かに出て行く。自分が無防備な時……例えば睡眠中などを狙って。
親友や多くの仲間を殺され、復讐に走ろうとする気持ちは同情できる。だが――
エレナではあの男を倒せない。先ほどの戦いの様子からそれは明らかだ。
そのことに気づかないほどにエレナの感情は煮えたぎっているのか。それとも自分の力が不足しているのを分かっていて、敵討ちに向かうのか。
「どっちにしても……もし、敵討ちに行くようなら止める」
その為には前もって、エレナが家を出る時に通る玄関などで待ち伏せをしておいた方がいい。
もしエレナが敵討ちに向かう心配が杞憂で終わるのなら、それに越したことはないし、その時は、明日は日曜で学校は休みだ。たまには真昼に惰眠を貪るのもいいだろう。
(でも……朝になったら、眠気が飛びそうなんだよな)
朝の五時になると、嫌でも目が冴えてしまう自分の体質を思い出し苦笑する。
シャワーを止めて、駆は額を拭った。
バスタオルで濡れている身体と頭を拭くと、脱衣所に出て、カゴに入れてあった剣道の試合で使う袴を手に取る。
凛音の話だと、研究所にとってエレナは興味深い実験対象のようだ。
今は自分が近くにいる為、研究所もエレナには手を出さない。しかし、この状況がいつまでも続くとは限らない。いつか研究所が自分やエレナに害を与えるという可能性も考慮しないといけないのだ。
今の自分の実力では、エレナは疎か、自分の身を護ることも不可能に近い。
あの男には到底敵わないだろうし、研究所にはあの男以外にも人工妖魔と呼ばれる存在がいる可能性が高い。クラスメイトの凛音でさえも研究所に所属する人工妖魔だったのだから。
今は味方のようだが、凛音が襲ってくる可能性も考えておかないといけない。
そしてその時、今のままでは自分は何もできない。むしろエレナとあの男の人の常識から大きく逸脱した戦いを思い出す限り、自分の実力ではエレナの足を引っ張るだろう。
「鍛錬あるのみ……か」
もしエレナの役に立ちたいのなら、強くならないといけない。それも異能などという常識外れの魔法のような力を使う敵と戦えるほどに。
上衣と袴を着終えて脱衣所から出た駆は、離れにある道場に向かう。
道場はシン、と静まり返っていた。足を踏み入れると、冷たい床に足の平が張り付く。
エレナが掃除をしていたのか、窓から差し込む光に照らされた床にはチリの一つも落ちてはいない。
駆は道場の奥まで進み足を止める。そこには一振りの刀が飾られていた。
黒塗りの鞘に白い桜の花が彫られていて、小さな傷が無数につき、一目で年代物だと分かる刀。
「桜襲……」
桜襲……祖父から死ぬ間際に渡された、桜木家に代々引き継がれてきたという刀。
駆はその刀を手に取ると、柄に手を掛けてスルリ、と刀身を鞘から抜いた。
「……っ」
刹那、駆は声を失った。抜き放たれた刀身は傷だらけの鞘とは打って変わり、傷やくすみ一つない、新雪のような純白の輝きを纏っていた。
「まるで……この刀自身が光を放っているみたいだな」
一振りし、違和感なく手に馴染むことに驚く。
(刀身も……問題はなさそうだな)
駆は刀の腹を指でなぞりながらそう思う。
祖父が死んでから手入れもされていない年代物の刀。錆びついて使い物にはならないのではないかと心配していたが、その心配はいらないようだ。
(この刀を持ちだしたら……もう戻れないかもしれない)
一瞬、そんな考えが頭を過るが、駆は頭を振って、その考えを振り払った。
「……今さらか」
自嘲気味に駆は呟く。
エレナのことだけではない。研究所は自分に対して何故か関わることを嫌っている。それには理由があるはずだ。きっと――自分が想像もできないような。
自分はその理由を知りたい。死んだ祖父や、晴樹叔父さんは決して自分の生まれに関して話そうとはしなかった。一度、祖父に聞いたことはあったが、その時、祖父は気まずそうに顔を曇らせて、話を変えた。駆も祖父のその反応から聞いてはいけないのだと思い、それから興味を持っても二人に聞くことはなかったのだが――……
興味はあったが知る事ができなかった答えが研究所にあると気づいたのに、何もアクションを起こさないことなどということはできない。
刀身を鞘にしまい駆は刀を手に外に向かう。
庭に出た駆は刀を抜く。その場に鞘を置いて、駆は正眼に刀を構えた。
「あの男……」
その構えのまま、駆はエレナと戦っていた男の動きを思い出すため目を閉じる。
エレナの人間離れした動きを冷静に分析して、効果的な攻撃でエレナを倒した男。自分よりも遥かに戦闘慣れしていることを、そして実力があることを嫌でも理解する。
あの男を倒す。その為に自分はどう動き、どう攻撃するべきなのか。あの男はどう動き、どんな攻撃を放ってくるのか。駆はイメージする。
目を開けた時、駆の目にはあの男が不敵な笑みを浮かべて立っていた。
「――ッ!」
それは自分の想像力が生み出した幻の存在。駆は声にならない気勢を上げて、男のイメージに斬りかかった。
自分の生み出したイメージと戦い始めてどれくらいたったのだろう。それは一時間にも半日にも思える。
すでにイメージでは何度も男に駆は殺されていた。もしこれが実際の戦闘だったのなら、庭は自分の血で染まっていただろう。
男の幻が刃物に変化させた腕を袈裟斬りに振るってくるのを見て、駆は踏み込もうとしていた足に力を入れ、強引に横に跳ぶ。そのまま刀を腕の力だけで振るうが、その攻撃は男に余裕をもって躱された。
その時、駆は何者かの視線を背中に感じ、直感的にその人物を悟る。
攻撃を避けた体勢のまま駆が男の幻と距離をとると、男の幻は虚空に溶け込むように消えていった。
駆は刀を持っていた手を下ろす。
「やっぱり……敵討ちをするつもりだったんだな」
その言葉に、背後に立つ人物が息を飲む気配がした。駆はゆっくりと背後に顔を向ける。
そこに立っていたのは予想通りエレナだった。
駆は何も言わず、ただエレナの言葉を待つ。
駆が庭にいたことが予想外だったのか、しばらく目を見開いていたエレナだったが、やがてため息をつくと微苦笑を浮かべた。
「なんじゃ……気付いておったのか」
「当たり前だろ。言っておくけど、凛音も気付いていたからな」
「……そうか」
駆の言葉に、エレナは視線を落とす。だがすぐに顔を上げた。
「それで……駆はこんな時間まで鍛錬をしていたのか?」
エレナの顔に隠見する自嘲の影。それは駆が敵討ちを行おうとしている自分を止めようとしていることを知っていて、なお問いかけている証だった。
「鍛錬もだけど、それだけじゃないさ」
駆は首を横に振る。それを見てエレナの顔が曇った。
「やはり止める気か?」
「ああ、絶対に止めるよ。敵討ちには行かせない」
「絶対か……それは奇遇じゃな」
低い声でエレナはそう呟くと、その身を人狼へと変えた。そして獲物に飛びかかる獣の様に前傾の姿勢をとる。
「儂も絶対、討たねばならぬのだ。研究所に殺されたイリスやじいたちの敵をッ! それを止めようとするなら……たとえ駆でも容赦はせぬ。力ずくで押し通るッ!」
その姿に駆も刀背をエレナに向けて、八相の構えをとる。
「悪いけど……どうしても敵討ちに行くと言うなら、俺も実力行使で止めるよ」
二人の間をピリピリとした電流が走る。
(こうなる事は……予想していた)
今、いくらエレナに対して、敵討ちを行う事の無謀さを説明しても、きっとエレナは聞く耳を持たないだろう。エレナの敵討ちに対する想いはこの様子だと「執着」と言ってもいいレベルだ。
敵を討つことが正しいとエレナは思い込んでいるようだが、それは間違っているという事を理解させなければいけない。その為には少々手荒いことをしてでも、エレナを冷静にしなくては……
「……行くぞ、駆」
「――ッ!」
(速いッ!)
そう考えた途端、エレナが人間離れした速さで駆に迫る。反射的に足を狙った爪の攻撃を避けた駆だったが、一拍遅れて爪が掠った袴が破けた。
エレナの攻撃を目で追い切れなかった事実に駆の顔が歪む。エレナは攻撃が避けられたのを確認すると、猫のような跳躍で庭に生えている木の枝に飛び移った。
「やっぱり……速いな」
「当たり前じゃ。儂は戦いに関しては不得手じゃが、元々人狼の一族は数多い妖魔の中でも屈指の運動能力に優れた種族……いくら駆が侍でも、只の人間では儂に勝つことはできぬ」
そう言うとエレナは苦しげに眉をしかめる。エレナが口を開くたび、乗っている木は揺れ葉っぱが擦れる悲しげな音が聞こえてきた。
「だから、何も言わずに儂を行かせてくれぬか? 儂は駆と傷つけ合いたくはない」
「そうだな。俺もエレナとは戦いたくない……だけど――」
エレナの言うことに駆は頷く。しかし駆は木の枝に乗るエレナを正視すると、はっきりとエレナが聞き漏らすことが無いように自らの思いを口にした。
「間違えたことをしようとしているエレナを、止めないわけにはいかない」
「儂が……間違えたことをしていると言うのか? 研究所によって殺されたイリスやじいたちの敵を取ることが……駆は間違いだと言うのかッ!」
「ああ、その考えは間違っているな」
言下、エレナの瞳に激情が燃え盛るのを駆は見た。
木の枝が軋む音がした瞬間、エレナの姿が消える。視界の端で何かが月明かりを反射したのを見て、駆は刀を真横に振るった。
刀とエレナの爪がぶつかり、甲高い音が庭に響く。爪での攻撃を防がれたエレナは大きく後ろに跳ぶ。
「儂は――間違ってなどいないッ!」
「いいや、間違っているよ。エレナだってそう思っているから、俺に内緒で敵討ちを行おうとしたんだろ?」
「うるさい、うるさいっ、うるさ――いッ!」
地面に着地したエレナは、間髪を入れず駆に爪撃を続ける。駆はエレナの爪を避け、避けきれないものは刀で受け流す。
(速い……エレナの動きは確かに速い)
人狼たちが妖魔たちの中でも身体能力に優れている種族であるのは、攻撃を行っているエレナの姿が捉えきれないことから分かる。「スピード」、ただその一点だけを見れば、エレナはヴォルフラムよりも遥かに優れている。だが、
(戦闘慣れしてないからか、動きも単調。それに……)
エレナが執拗に狙ってくるのは足や腕の部分ばかり。身体や頭は一切攻撃してこない。それはエレナなりの自分に対する配慮なのだろう。
エレナを説得するにはまず動きを止めて、冷静にさせないといけない。このまま攻撃を受け流し続けてエレナを疲労させてもいいが、それには一つ問題がある。
(異能……アレを使われるとキツイ)
妖魔たちが使うという魔法のような力。駆はエレナがヴォルフラムとの戦闘の際に、エレナが地面を盛り上げたり、虚空から剣を出したりするのを見ている。
その異能の能力が未知数であることを考えると、エレナが異能を使う前に勝負を決めたいところだった。
駆はエレナの攻撃を受け流すと、体勢を整えるかのように後ろに下がる。対してエレナは駆が下がるのを好機と思ったのか、間合いを詰めた。
(掛かった!)
「な……ッ?」
エレナが空けた間合いを詰めようと肉薄したのを確認した駆は、手にしていた刀を空中に投げた。武器を捨てた駆の行動にエレナの瞳が驚きに見開かれ、一瞬その視線が空中の刀に向かう。
駆の想定外の行動によってエレナに生まれた隙。駆は足に力を込めると動揺しているエレナに肉薄した。
「っ……!」
これまでの行動から一転、迫ってくる駆の姿に、エレナの顔に驚愕が浮かぶ。駆はエレナの手首を掴むと、エレナの力に逆らわず流れるように関節を極めようとした。
関節が極められかけていることを悟ったエレナは、ほぼ反射的に矮躯を捻り、駆の胴体に蹴りを加えようとする。しかし――
「くぅ……ッ?」
再びエレナの目が見開かれた。駆はエレナの蹴りを空いている手で叩き落とすと、エレナの身体を支えていた軸足を足で軽く払った。
柔道で言う大外刈りにエレナの身体がバランスを失い傾く。
駆は倒れながらも爪を振るおうとするエレナの腕を掴み、一緒に地面に倒れ込んだ。
「放せ! 放すのじゃッ!」
「絶対に……放さねぇよ」
駆は地面を転がりながら放たれるエレナの蹴りに顔をしかめつつ、駆はエレナに馬乗りになる。掴まれている手首を振りほどこうと無茶苦茶に動かすエレナだったが、やがて諦めたのか静かになった。
駆をしばらく睨み続けていたエレナだったが、やがてエレナの瞳がゆっくりと閉じる。
その瞳から一筋の涙が頬を伝った。
「エレナ……」
「……分かっている。駆の言いたい事は分かっているし、理解もしているのじゃ。儂だってあの男に勝てるとは思ってはおらぬ。だが、儂がやらなければ……一体誰があの戦いで死んだイリスやじいたちの無念を晴らせるのじゃ」
エレナから燃えるような闘争心がスゥ、と引いていくのを感じて駆はエレナの両腕を放す。エレナは解放された両手で抱くように顔を隠した。
「生き残った民たちと一緒に城まで戻った時……城のあった場所に残っていたのは、瓦礫と多くの民たちの死体じゃった。損傷が酷くて身元が分からない者も多かったが、その中にイリスの死体は無かった。きっとあの戦いから逃れ、我らの行方を捜している……そう考えて、儂は生き残った民たちの反対を押し切り、イリスを探して旅に出たのじゃ」
そうエレナは口にした。その声音は不安定に揺れている。
「幸い蓄えていた金銭は残っていたから、そのお金を持って各地でイリスを探し続けた。人間に騙されて殺されかけたこともあったし、何日も歩き続けて飢えたこともあった。でも何処かでイリスが生きている……そう思っていたから、儂は旅を続けることができたのじゃ」
エレナの頬に止めどない透明の滴の流れができる。駆はその美しくも悲しい光景を声も出せずにただ見ていた。
慰めの言葉ならいくらでも言える。だが、エレナがそんな安っぽい言葉を求めていないのは明らかだった。
「でもそう思い続けるのも、旅を続けるのも限界だった。儂は行き倒れていたところを駆に助けてもらって……しばらく駆の下で身体を休ませ、二年前に飛び出してきた民たちの元に帰ろうかと考えていたのじゃ。だが……」
「ヴォルフラム……城を襲った敵が目の前に現れた」
エレナは言葉を切る。駆が言葉を続けると、エレナはしゃくり上げながら頷いた。
「儂は思った。これはイリスやじいたちの敵を討つチャンスじゃ、無念を晴らす好機をイリスが与えてくれたのじゃと……だが」
そう言うと、エレナは腕の隙間から駆を見つめる。その瞳は涙で潤み、絶え間なく滴が溢れていた。
「この状況を見るに、それは勘違いじゃったようじゃ」
そう自嘲気味に笑う。エレナの身体はまるで冬の寒さに凍える小鹿のように震えていた。
「ああ、勘違いだな。それも酷い勘違いだ。敵討ちなんて、犠牲になった人たちが望んでいるわけないのに」
「……何故そう言い切れるのじゃ?」
駆の言葉にエレナは眉をひそめる。
「簡単だよ。エレナなら冷静だったら、すぐに気がつくはずだ。研究所に攻撃された時……彼らはどうして戦ったんだ? 話だと彼らは生きようと思えばエレナと一緒に逃げる事ができたはず、何故彼らはエレナと一緒に逃げずに戦う道を選んだんだ?」
「それは――……」
「これは俺らの予想だけど、彼らには自分が生きるよりも大事なことが……自分が命を懸けてでも護りたいモノがあったんじゃないのか? 例えば――エレナとか」
「…………」
「もし彼らが護りたいモノがエレナだったとしたら……命を犠牲にしてまで護ったエレナが、自分たちの敵討ちの為に研究所と戦おうとすることは望んではいないと思うよ」
命を懸けて研究所……あのヴォルフラムと戦った彼らのことを知っているのはエレナだけだ。彼らを知らない、所詮第三者である駆では、エレナの話から予想することしかできない。
「儂は幼い頃に親を事故で失っているのじゃ。儂は大好きだった父上と母上を失って、部屋の中で一人ずっと悲しくて泣いていた。儂には兄妹などおらず、人狼の掟では人狼の王族を束ねる者は代々、王家の直系と定められておる。人狼の王である父上が無くなった以上、唯一の直系の血を引く儂が王の位に就くのは必然。でも儂はずっと部屋に籠って、外との接触を断った。外に出るのは風呂や用を足すときだけ、食事も使用人が部屋に置いてくれる料理を食べて……一日中をカーテンの閉め切った暗い部屋で過ごしていたのじゃ」
「……そうだったのか」
「うむ。そんな儂をイリス……一人の親友が変えてくれたのじゃ」
しばらく沈黙していたエレナだったが、やがて口を開いた。それは人狼の王族として生まれた一人の少女、エレナの過去。
駆は何も言わず、その話を聞き逃さないよう耳を立てる。
「そんな生活を一週間ほど続けていたある日、一人の同じ年くらいの少女が大きな鉄の塊みたいな剣で部屋の扉を壊して入ってきた」
「すごい……奴だな。それがイリスなのか?」
エレナはコクン、と小さく頷く。
「そうじゃ。それがイリス・マンネルハイム……儂の唯一無二の親友じゃ。イリスは代々人狼の王族……ラーティヴィネン家を護る将軍の家系の娘だった。イリスの存在は知っていたが、それまでお互い話したことはなかった」
そう言うとエレナはクスッ、とその時の事を思い出したのか息を吐き出して笑う。その目は思いを馳せるかのように遠くを見ているように、駆には見えた。
「そんなイリスが、曲がりなりにも王だった儂に初めて口にした言葉――駆は分かるか?」
「いや、想像もつかないな」
両親を失い、更に王という重責を負って、部屋に閉じこもったエレナ。そんなエレナに一体イリスという親友は何を口にしたのか。
駆の言葉にエレナは口元を綻ばせて、駆が耳を疑うようなことを口にした。
「『哀れな姿ですね。これが誇り高き人狼の一族の王ですか。私は貴女のようなボロ雑巾を護るために、自らを鍛えているわけではないのですが』……じゃよ」
「……マジか?」
「マジじゃよ。忘れぬ、思いっきり汚物を見るような目で睨まれて言われたからな。最初は何を言われているのか儂は理解できなかった。王族の人間だったから、これまで暴言も悪口も儂は言われたことがなかったしの」
そこまで言ってエレナは息をつく。
「だから悪口を言われたと気がついた瞬間、頭の中が真っ白になって……気がついたらイリスに飛びかかっていた。後は只の団子状態になっての殴り合いじゃ。喧嘩の音を聞きつけて、じいたちが止めに入った頃には二人はひっかき傷や打撲で傷だらけだった」
「あー……よくそのエピソードがあったのに親友になったな」
エレナの話を聞いて、駆の頭に地面を転がりながら殴り合う二人の少女と、そんな二人を必死に引き離そうとする大人たちの姿が目に浮かぶ。
エレナは笑って言っているが、その時の当事者たちからしたら両親を事故で亡くして気落ちしていた幼い王様と、王様を護る家の子供が殴り合いをしている光景に、笑うどころでは決してなかっただろう。
「口は悪かったが、イリスの言った事は正しかった。儂だってこのままでは駄目だとは気づいていた……気付いていただけに、それを指摘され悔しかったのじゃ。それからはイリスと共にじいたちから色々と学んだ。礼儀作法や王族の仕事、儂は決して優秀な王ではなかったが……じいたちは根気強く教えてくれた。イリスとは――……」
エレナは目元に浮かんだ涙を腕で拭うと、照れくさそうに頬を赤らめて笑った。
「気がついたら、いつの間にか親友になっていたのじゃ」
駆はそう口にしたエレナの表情を見た瞬間、二年前に亡くなったという彼らは研究所の魔の手からエレナを護るために戦ったのだと確信した。
研究所の攻撃から自らの身を犠牲にしてエレナたちを逃がした者たち。彼らには自分の命よりも大切なモノ……護るべきモノがあったのだと。
(悲しいな……)
きっとエレナはこの家で暮らすことにした時に、イリスという親友を探すという目的を諦めたのだろう。二年間探し続けた親友の捜索を諦める……その事がエレナにとって一つの大きな決断だったのは想像に難くない。
そんな時、城を襲った一人であるヴォルフラムと出会った。親友たちの敵であるヴォルフラムの予想外の出現にエレナが混乱したのは間違いない。
そしてエレナは勘違いを起こした。不可能で無謀なのは理解していたはずなのに、一人で殺された親友たちの敵である研究所を襲おうとしたのだ。それを研究所に襲われたときに亡くなった者たちが望んでいると思い込んで……。
それが大切な人を殺したヴォルフラムに対する憎しみや怒りが原因なのか、親友の捜索という目的を諦めたことでポッカリと空いた隙間に、敵討ちという目的が新たに入り込んだことが原因なのか、その両方なのか、それとも全く異なる理由なのか、それはエレナにしか分からない。
「そう……か。イリスやじいたちは――敵討ちを望んでない……か」
エレナは顔を隠していた手を下ろし、困惑の表情から皮肉気に笑った。
「儂は駆が思っているほど頭が良くないようじゃな」
「そうかもな」
「……むぅ」
駆が頷くと、エレナは少し不満そうに頬を膨らます。駆が苦笑を浮かべると、エレナもつられるように失笑した。
「少なくともしばらくはこの家にいれば研究所に狙われることはないさ。研究所は俺を嫌っているみたいだしな。それに明後日からはエレナも学生だ。エレナの親友だって、エレナが自分の敵討ちの為に生きる事よりも、エレナ自身が幸せになることを望んでいると俺は思うよ」
「そうであれば……よいな」
そう言いながらエレナは背についた芝を手で払う。
エレナの目元はまだ薄らと赤く腫れていたが、いつの間にかエレナの身体の震えは止まっていた。
「さて……と。俺はもう一度、シャワーを浴びて寝るかな」
「……そうか」
エレナから先ほどまでの燃え盛るような怒気が無くなったのを感じて、駆はその場から立ち上がる。立ち上がった駆は、エレナの腕を掴むとその軽い身体を引き上げた。
「儂は……周辺を歩いてから寝ようと思う。少し一人で気持ちを整理したい」
「分かった。気をつけろよ」
「――え? よ……良いのか?」
エレナの言葉に駆が刀を拾い、鞘に戻しながら了承する。あっさりと駆が許可したことに、エレナは目を点にして、おずおずと口を開いた。
「儂を一人にしたら――敵を討ちに行くかもしれぬぞ」
「それが馬鹿なことだって、エレナは気付いたんだろう? もしもまた敵討ちに行くというのなら……その時はコレを持って、俺もエレナと一緒に研究所と戦うさ」
刀を持ち上げて駆はそう言う。エレナが声を失う程に驚いているのを悟り、駆は頭を掻きながら、言葉を選ぶように語尾を伸ばした。
「あー……、どう言えばいいんだ? ほら、エレナ一人じゃ無理でも、俺や凛音……いやアイツは研究所の職員だけど――……、俺たちを頼ってくれたらいい。もしかしたら二人なら敵が討てるかもしれないし、俺も研究所には個人的に興味があるし――」
駆はそう言うと、立ちすくむエレナの頭にポンと手をのせた。
「遠慮する必要はない。ここまで来たら、一蓮托生……俺もできる限りの協力をするさ」
「……っ!」
「……ん? どうした、エレナ」
その言葉にエレナが勢いよく顔を上げる。そのいきなりの反応に駆は頭に疑問符を浮かべた。
エレナはハッ、と駆から視線を逸らすと、口元に手を当て儚げに微笑んだ。
「すまぬ。一瞬、じいのことを思い出したのじゃ」
「……そうか」
「昔……じいにも同じようなことを言われたのじゃ。一人でできない時は、じいやイリスを頼れ……と」
「……いい人だったんだな」
「うむ。じいは……いつも儂を支えてくれた」
駆がエレナの頭から手を放すと、エレナは家の外壁にピョン、と飛び移った。
そしてエレナは振り向き、駆を見る。
「では、少し散歩して頭を冷やしてくる」
他の一般人に見られないようにとの配慮だろう。エレナは耳と尻尾をしまい人の姿に戻ってから、道路へと音もなく降りて行った。
「これで良し……と」
エレナが消えてゆくのを見送って、駆は肩の力を抜いた。
少なくともこれでエレナは、一人で研究所に対して敵討ちを行うなどという無謀なことはしないはずだ。
落ち着くと二年前の襲撃の当事者ではない駆の胸にも、研究所に対する怒りが沸々と湧き上がる。エレナを実験の素材と考え、エレナを手に入れるために二年前に人狼たちが暮らしていた城を襲って多くの命を奪った横暴。
どんな研究の為に研究所がエレナを欲したのかは一切分からない。だがどんな崇高な目的があろうとも、そんな非道で成し遂げた結果が素晴らしいものだとは思えない。
そんなことを考えていると、何者かに見られているように感じて駆は背後を振り向いた。
「誰だ……ッ!」
しかしそこには何もいない。駆の視線の先には数本の庭木と大きな岩があるだけだった。
(気の……せいか?)
駆は心の中で首を傾げる。
その時、庭には微風が吹いた。涼しい風が駆の身体を撫でる。
「少し……寒いな。エレナは大丈夫かな」
そして駆は自分の服が、風呂上がりの鍛錬とエレナとの立ち回りによって、汗でぐっしょりと濡れていることに気づいた。
駆は刀を片手に玄関の扉を開け、足早に家へと入る。自らの後ろ姿を、道場の屋根から眺めている人影がいることに気づくことなく。
「引きとめは……何とか成功したみたいだね」
道場の屋根に座る一人の人影。雲の切れ間から差し込んだ月の薄明りに、風になびく特徴的な赤毛が照らされる。
司馬凛音は、駆が自宅へと戻ってゆくのを確認すると、手に持っていた青白い光を放つ五センチ四方の正方形の箱をポケットにしまい込む。
そして手を腰に当てると、呆れたように庭を見下ろした。
「全く、こんな夜中にあんなに騒いじゃって……私が忌諱空間を使ってなかったら、すぐ近所の人が起きだして警察が来てたよ」
そう言うと凛音は道場の屋根から、まるで小学生が水たまりを飛び越えるかのような身軽さで、庭の木へ、そして外壁へと飛び移って姿を消した。