第一三話
色とりどりの花が咲く小さくも美しい花畑。周囲には花が虫を誘う蜜の甘い香りが広がっている。その色鮮やかな庭園の中心に置かれたテーブルでは、二人の少女がお茶を楽しんでいた。
(ああ……これは)
見覚えのある懐かしい景色。
その景色を私はまるで空中に浮いているかのように、見下ろしていた。
テーブルに置かれたクッキーを美味しそうに頬張っているのは自分だ。そしてそんな自分と向かい合うように座っている腰ほどの長さの銀髪を持つ少女は……王となった時から共に過ごしてきたイリスだった。
今はいない親友の姿に、心が波打つ。
(懐かしいな)
もう決して戻ってこない城での日々。あの頃は人狼の王族として生まれ、自由の少ない毎日に嫌気がさしていた。
この日もそんな王族の職務から抜け出して、人狼の将軍として兵士の鍛錬をしていたイリスを半ば強引にお茶に付き合わせていたのだった。
「エレオノーラ様……こんなところで油を売っていてよろしいのですか?」
じっと美味しそうにクッキーを摘まむエレナを見ていたイリスが、渋い顔でそう口にする。その瞬間、エレナはイリスに手に持っていたカップを突きつけた。カップに入っていた紅茶がその動きに合わせて揺れる。
「二人の時はエレナと呼ぶ約束じゃろ。あと、敬語も駄目じゃ」
「……分かった、エレナ」
そうエレナが含み笑いを浮かべて口にした言葉に、イリスはやれやれと諦めた様子で頷く。眉を寄せたイリスの顔に、エレナが口元に手を当てて含んだように笑うと、イリスもつられるように頬を緩ませた。
「それでお茶に誘うってことは、本日の職務を終わらせたってことだよね? エレナ」
「う、うむ。今は……そう休憩、休憩中じゃ!」
「……つまり、執務室から抜け出してきたってことだね?」
「む……まぁ、そうとも言う」
王族であるエレナよりも優雅な所作で、イリスはティーカップを口に運ぶ。エレナは言葉に窮すると、自分に言い聞かせるように口にした。
その言葉にイリスは口に運んでいたティーカップを下ろす。イリスの咎めるような視線に耐え切れなくなったエレナは、目を逸らし肩を落とした。
そんな主君を見て、イリスは腕を組む。エレナは「嫌々」、というように首を振りながら、テーブルに突っ伏した。
「だって、じいたちがどんどん仕事を持ってくるんじゃもんっ! 儂が終わらせても、終わらせても、仕事が増えていくんじゃ!」
そしてそのまま駄々をこねる子供のようにテーブルを叩く。
イリスは紅茶を飲むと、ため息をついた。
「手伝ってくれと言ってくれれば、手伝うのに……」
「駄目じゃ、イリスにはイリスの仕事があるじゃろっ! そんなこと頼めるわけがないではないか」
「……一応、私は兵士の訓練の途中だったのだけど」
「儂の愚痴を聞くのも、立派な仕事じゃ」
そう言うとエレナはクッキーを口に入れる。イリスはこめかみに人差し指を当て、困苦の表情を浮かべて呻いた。
「全く……変なところで律儀なんだから」
「ふふ……っ」
イリスのその言葉にエレナは笑いを噛み殺し、ティーポットを手に取る。そのまま紅茶を注ごうとして中身がないことを知ると、エレナは席を立った。
「お茶がないなら、私が淹れて来るよ?」
「駄目じゃ。イリスが淹れると色のついたお湯が出てくる」
エレナは首を横に振る。
「いつもイリスの作るモノは味がしないのじゃ」
「日本の侍は薄味を好むと聞いたから……」
「だからと言って、お茶まで薄くしなくても良いじゃろうが……」
イリスを半眼で見ながら、呆れたように呟く。そして後ろを向いたエレナは、
「うげ……」
背後から近づいてくる白毛の杖をついた老人と、腰に煌びやかな剣を帯びた壮年の男を見て、エレナが顔を曇らせる。
「父上ッ?」
そしてお茶を飲んでいたイリスも二人の姿を見た瞬間、素早い動きで席を立ち、エレナの横に並んだ。
老人と男はエレナとイリスの前で足を止める。老人の顔には柔らかい笑みが浮かんでいたが、男の瞳には冷厳な光が宿っていた。
「……イリス」
「はっ!」
男に名前を呼ばれたと同時に、イリスはその場に膝をつく。
「お前は兵士たちの指導をしていたはずだ。こんなところで何をしておる?」
「お……お茶をしておりました」
「ほう……お前の仕事には茶を楽しむことも含まれていたのか」
男の目が細められる。その言葉には一切の妥協を許さない厳格な意志が含まれていた。
イリスの肩が小さく震える。
いくら主君であるイリスに半ば強引にお茶に誘われたからといって、それが自らの仕事を放置する理由にはならない。父、パロウディの言う事に、イリスは何も言えなかった。
「ま……待て、パロウディ卿。イリスを強引に誘ったのは儂じゃ! 怒るのはイリスではなく、儂に――……」
「エレオノーラ様……イリスが任じられている将軍と言う職は、兵士たちをまとめる職務。将軍は兵士たちの見本、手本にならないといけないのです。そんな将軍が職務を放棄し、茶を楽しむ……そんな将に一体誰が付き従うというのですか? あと私は怒っているのではありません……叱っているのです」
エレナの言葉は、パロウディの厳しい視線に遮られる。
すると隣でその様子を黙って見ていた老人が、男を手で押しとめ前に出る。その視線が頭を垂れるイリス、そして立ちすくむエレナを見た。
「じい……」
「エレオノーラ様、これは貴女様にも言えることですぞ? 怠惰な、自らのやるべきことも為さない王に、民は付き従いませぬ。確かに職務は多く、逃げ出したい気持ちは分かります。だがそれが職務を放棄する理由にはなりませぬ。出来ぬ時は手伝ってくれと周囲の者たちに申せばよろしいのですよ?」
「…………」
エレナは老人……元老院議長イコルニアの諭すような言葉に俯く。イコルニアは皺だらけの手でエレナの頭を撫でた。
「一人では事を為すことができない……そんな時は、我々やそこのイリス将軍を頼ればよろしいのです。遠慮はいりませぬ、私は貴女の臣下なのですから」
「……うむ」
エレナが頷き、イコルニアは笑う。イコルニアは後ろで成り行きを見守っていたパロウディに顔を向けると、長い顎鬚を弄びながら口を開いた。
「さて、パロウディ卿。儂は、この二人には相応の罰が必要だと思うが、貴殿の考えは如何かな?」
「異論はありません、イコルニア議長」
イコルニアの言葉にパロウディは淡々と同意を示す。イコルニアは深く頷くと、膝をついたまま動かないイリスを俯瞰した。
「イリス将軍……立ちなさい」
「……はっ!」
イリスはその言葉に恭しく立ち上がる。
イコルニアは二人を交互に見ると、ドン、と持っていた杖を地面に突き声を張り上げた。
「エレオノーラ様は執務室に戻って今日の仕事を終わらせること、イリス将軍はエレオノーラ様の仕事を一緒に手伝う事」
考えていたよりもずっと軽い処分に、イリスは目を瞠る。
「言っておきますが、職務が終わるまで夕食はお預けですからね。ではパロウディ卿、我らは行こうか」
「愚女にご寛大な処分……ありがとうございます」
そうウインクをしながら去っていくイコルニアとその後に付き従うパロウディに、エレナは呆然と、イリスは深く頭を下げて見送る。
やがて互いに顔を向けたエレナとイリスは、どちらからともなく苦笑を浮かべた。
「怒ら……いや、叱られてしまったな」
「そうですね」
「イリス……敬語」
「……そうだね。夕方には終わらせて、夕食に間に合わせようか」
エレナは身を翻すと、テーブルの上に置いてあったクッキーの入ったカゴを持つ。そんなエレナの行動に、イリスは顔に疑問を浮かべた。
「そのカゴ……どうするの?」
イリスの質問にエレナはにやける。
「執務室で食べる」
「まさか……仕事をしながら食べるつもり?」
「クッキーを食べるな、とは言われてないからの」
その言葉を聞いた瞬間、私の視界が白く濁っていく。
夢が覚める。そう悟り、残念な気持ちが心を覆う。
真っ白に塗りつぶされていく世界。最後に見たのは、大切な親友の手を掴んで、執務室へと向かう自分の背中だった。
「……はぁ」
目を開けた瞬間、真っ先にエレナの視界に入ったのは橙色の光を放つ豆電球だった。
エレナは乱れた浴衣を直すと、身体をゆっくりと起こした。
(ああ……本当に懐かしい)
忘れもしない。あの後、自分はイリスと協力して仕事を終わらせたが、クッキーの食べ過ぎで夕食が喉を通らなくて、再びイコルニアに叱られたのだ。
「決して頭がいいとは思ってなかったが……儂もずいぶんな馬鹿じゃな」
人狼の王族として過ごしたあの日々が、何にも代えられないほどに大切なモノだったと、失ってから気付いた自分に嘲笑が浮かぶ。
エレナは壁時計を見た。黄色豆電球の微かな光源では、普通の人間はその時計の針を確認することはできない。しかしエレナは只の人間ではない。人々から化物や悪魔として恐れられてきた、人狼の血を継ぐ者だ。
本来の力を使えば野生の獣ほどではないにしても、人間が見る事ができない暗闇を見通し、人間が感じることのできない匂いを嗅ぎとる事ができる。
エレナは目を閉じて、抑えていた力を解放した。流れるような金髪の間から獣の耳が生え、尻尾が現れる。
目を開けると、先ほどまで見えなかった時計の針がくっきりと見えた。
「二時……か。流石に駆も寝たじゃろう」
そう口にすると、エレナは枕元に置いていた昼間、駆に買ってもらった服に着替える。一張羅だったグレーのドレスは恐らく駆が洗濯しているため、着ることはできない。
脱いだ浴衣は布団と一緒に綺麗に畳んで床に置いた。
(凛音には悪いが……儂はイリスやじいたちの敵を討たねばならん)
敵討ちはしない……凛音とそう約束した。しかし、その約束を守ることはできない。
(それが――民を犠牲に生き残った王族としての償いだから……)
敵討ちを行う、その事を知ったら駆はきっと全力で止めるだろう。その為に駆が寝るのを待っていた。
恩人に何も言わず去るのは心苦しいが、この方法しか考えることはできなかった。
襖を開けて廊下に出る。何も物音は聞こえない。
エレナは隣の部屋……駆の部屋の前で立ち止まった。
「…………っ」
最後に一目、駆の姿を見ようと襖に手を掛けようとして動きを止める。
(下手したら起きるかもしれない……)
そう考えてエレナはゆっくりと出し掛けていた手を戻した。
「世話になったな。……ありがとう、駆」
ボソボソとお礼を言い、エレナは玄関に出る。
玄関では平八が丸まって眠っていた。エレナが近づくと目をうっすらと開く。
「くぅん……」
「平八も元気でな。駆なら安心して任せられる」
平八の首筋を一撫でして、靴を履く。平八は飼い主の様子がおかしいことを敏感に感じ取ったのか、エレナに身体を擦りつける。
「……駄目じゃ。これは儂の戦いじゃ。ついてきたら怒るぞ」
小さな声で、だがきつい口調で言う。平八は悲しげに鳴くとゆっくりと身体を丸めた。
「すまぬ、平八」
そう呟いてエレナは立ち上がる。一度、後ろ髪を引かれるように廊下を振り向いたエレナは、緩慢な動きで引き戸に手を掛け、音を立てないよう慎重に開けて――
「……え?」
庭にいた人物に自分の目を疑った。
月光の微かな光に照らされたその人物は、行き倒れていた自分を純粋な善意で助けてくれた青年……今は自分の部屋で床に就いているはずの駆だった。
何者かとの戦いを想定しているのだろう。白刃を手にしている駆は、前後左右に目まぐるしく動く。その度に着ている上衣は裏地を見せ、風切り音を響かせて刀が振るわれた。白刃の残光はまるで舞を舞っているかのようで……エレナは目を奪われた。
その月光を浴びて輝く白刃……エレナは一目見て背筋が凍った。駆の持っている刀は模造刀などではない。
敵を切り殺す。ただそれだけの為に打たれた真刀だと機敏に感じ取ったからだ。
その時、駆の動きが止まる。駆は刀を持っていた手をだらりと下ろし、エレナに背中を向けたまま口を開いた。
「やっぱり……敵討ちをするつもりだったんだな」
駆はそう言って振り向くと、エレナをじっと見据えた。