第一一話
いつの間にか背後に近づいていた白人の男。その男の顔に浮かぶ笑みの中に深い悪意を感じた瞬間、駆は持っていた紙袋を手放して、エレナを護るように前に立つ。
男はそんな駆を物珍しげに見ると、ハッ、と吐き捨てるように笑った。
「変だな。人間はこの空間に入らないって聞いていたんだが……叶の開発品にも欠陥があるってことか」
(コイツ……何言っているんだ?)
駆はそう一人愚痴る男を睨みつける。酒に酔っているのかとも思ったが、呂律や立ちふるまいを見るに、そうは見えない。
この男がただの酔っ払いであるのなら対処する方法はいくらでもある。しかし見るからにこの男は理性的だ。如何にしてこの場を揉めることなくきり抜けるか――
「駆……お主は家に帰るのじゃ。あの男の相手は儂がする」
「え……エレナ?」
そう考えを巡らしていると、エレナが裾を掴んでそう呟く。エレナの顔を見た駆は、その表情に言葉を失った。
エレナはその男をじっと見ていた。睨むでもなく、目を逸らすでもなく。ただその顔に浮かぶのは恐怖と絶望、そして怒りと憎しみが混ざり合った混沌とした感情。
「お願いじゃ……駆、帰ってくれ」
「あの男と……知り合いなのか?」
動かない駆にエレナがもう一度「帰れ」、と口にする。その言葉にはまるで祈るような感情が籠っていた。駆がやっとのことでそう口にすると、その問いに答えたのはエレナではなく男だった。
「ああ、知り合いだよ。――って言っても、二年前にチラッと見ただけだがな」
「――っ! やはり……お主!」
エレナが牙を剥いて唸る。男はそんなエレナの視線を受け流すと、駆に顔を向けて口元を悪意に歪めた。
「しかしお前も災難だな。この化け物に関わったばっかりに」
「……なに?」
「ま、待て――」
男の言葉に駆は訝しげに顔をしかめ、エレナが目を見開いた、その瞬間――
「ぐぉッ!」
駆の頭を衝撃が襲い、駆は横へ大きく吹き飛ばされた。そのまま為す術なく地面を転がる。
「駆っ!」
自分が殴られた。そう理解したのはエレナの悲鳴交じりの叫び声と、鈍痛で滲む視界に腕を真横に振り切った男の姿を捉えた時だった。
「悪いな。……いや、そんなこと思ってないが――まぁ、このことを見られると色々厄介なんだわ。――って事で、死んでくれ」
まるで友人に話しかけるように軽い口調でそう言って、男が一歩一歩と近づいてくる。形を持った死神に、駆は全身の力を使って抗おうとするが、
(立て! 立ち上がらないと……俺だけじゃなく、エレナがッ!)
しかし、先ほど受けた男の攻撃の影響だろう。駆の視界は歪み、腕は力を伝えられずプルプルと震える。地面に顔を向けて腕に力を込める駆の耳に、段々と大きくなる死神の砂を踏む音が聞こえ、焦りと恐怖、そして絶望感を急激に大きくしていく。
「……させぬ」
だが、あと数歩というところで死神の足音が止まる。不審に思った駆が顔を上げると、駆と男の間に、エレナが入り込んでいた。
その小さな身体は恐怖、それとも怒りの為だろうか、小刻みに震えている。
自らの目の前に立ちふさがったエレナに、男は面倒そうに肩をコキコキと鳴らした。
「そこをどけ。お前は大事なモルモットだからな、無傷で捉えたい」
「退かぬ。これ以上……儂の大事な人はお主らに奪わせぬ!」
自分の前に立ちはだかるエレナに、初めて男が不快感を顔に表す。エレナは身体を低くすると、駆に申し訳なさそうな表情を向けた。
「……すまぬ、駆。巻き込むつもりはなかったのじゃが……結果的に巻き込んでしまったな。儂が時間を稼ぐから……できる限り遠くへ逃げてくれ」
「え……エレ――」
エレナのその言葉に一抹の不安を覚え、駆はエレナを呼ぼうとする。しかしその声は不意に吹いた生温かい風に掻き消された。
それと同時に、男に向き直ったエレナに起きた変化に駆は言葉を失った。
エレナの頭の頭頂部、たなびく金髪の間からまるで生えるかのように現れた獣耳。今にも男に飛びかからんとばかりに、力が籠る指から伸びる鋭利な爪。そしてドレスの裾から覗く頭髪と同じ黄金の尻尾。
そんなエレナに、駆は産毛が逆立つのを感じた。
華奢な身体つきは駆の知るエレナと変わらない。だがその身に悍ましい殺意と憎しみを纏うエレナは、駆の知っているエレナではなかった。
そして駆にとって、驚くことは続く。
「……面倒くせぇ」
男はそんなエレナを見ても驚く様子もなく、ただ目を閉じてため息をつく。しばらくして目を開いた男は、身体の前で何気なく左腕を振った。
男の不可解な行動にエレナは眉をしかめる。しかしその腕がメキメキと音を立てて、武骨な刃物に変わるのを見てエレナは顔色を失った。
「異能ッ? お主も……妖魔なのか?」
「いいや、元々は只の人間さ。今はどうだが知らないけどな」
エレナはその言葉にギリッ、と歯ぎしりをして、男を睨みつけた。
「イリスが只の人間にやられるわけがないと思っていたが……こういう事だったとは」
「あ? イリス?」
エレナの言った「イリス」、という名前に男は眉を曇らせ、だがすぐに再び悪意にコーティングされた笑みをむけた。
「ああ、あのガキか。その辺の雑魚と何ら変わらなかったアイツのことだろ?」
「あぁぁあああああああッ!」
その言葉を聞いた瞬間、駆はエレナが抑えていた感情が爆発するのを見た。エレナは叫び声を上げながら、肉食獣を思わせる跳躍で男に躍りかかる。
今のエレナは間違いなく、この日本、いやこの世界で最も凶暴な獣だった。しかし男はそんなエレナを、刃物に変化していない右手で無造作に薙ぎ払う。
「大地よ!」
力の向きを変えられたエレナだったが、空中でしなやかに身体の向きを変えると、そう叫ぶ。すると半瞬ほどの間に地面から土の塊が飛び出した。
その塊を足場にして、エレナは再び男に跳びかかる。そのスピードはすさまじく、駆は目で追うのがやっと、男も時折避けきれずに爪跡がその身体に刻まれていく。
しかし――
(駄目だ。このままじゃ――)
常識を大きく逸脱した両者の戦い。駆は頭を押さえて立ち上がる。
一見、男の方がエレナの動きについていけずに押されている印象を受けるが、駆には男がエレナを捕まえるタイミングを計っているように思えてならない。
「しっかりしろ……! 歩くだけ……じゃないか」
フラフラと歩く自分に活を入れて、駆は二十メートルほど離れたベンチに辿り着く。
「ぐぅ……ッ!」
駆は木製のベンチの背もたれを渾身の力で剥がす。手にはベンチの木片が刺さり、血がぽたぽたと地面に落ちるが、そんなこと気にならない。
「許さぬ! 儂から全て奪ったお主らを……絶対にッ!」
エレナの叫び声に振り返ると、エレナのスピードについてこれなくなった男の背中に、エレナが躍りかかるところだった。
「刃よ!」
その叫びと共に、エレナの手元に黄金に輝く剣が現れる。
エレナはその剣を掴むと、がら空きの男の背中に突き立て――
「馬鹿が」
――る事は出来なかった。男は振り向くと同時にエレナの持つ剣を刃物に変化した左腕で叩き落とし、右腕でエレナの細腕を掴んだのだ。
「な――ぐぅッ!」
「あのなぁ……普通、そう簡単に背中なんて見せるわけねぇだろ」
そのまま男は背負い投げの要領でエレナを地面に叩きつけると、仰向きに倒れたエレナの身体を踏みつける。そのまま男はエレナが苦しむのを楽しむかのように、踏みつける足に体重を加えていく。
「あ、あぁ――……」
「ははッ! そういや、殺すなとは言われたが、痛めつけるなとは言われてねぇな。 丁度いい、俺が躾してやるよぉッ!」
そう顔を歪めて話す男と、男に掴まり為す術なく苦しげに口をパクパクとさせるエレナ。
その苦痛に歪んだ表情を見た瞬間、駆は二人に向かって走り出していた。
「エレナを……っ、放せぇ――ッ!」
走る勢いそのままに、駆はベンチからむしり取った木材をエレナに気を取られていた男の後頭部に叩きつけた。
一片の技術も、理性もない、ただ力任せの衝動的な一撃。その攻撃によって、叩きつけた木材が粉々になる。だが、その衝撃によって男はよろめいた。
駆はエレナを助け起こすと、その小さな身体を背中に隠す。
「か……駆?」
「……大丈夫か、エレナ?」
エレナが背中で頷くのを感じながら、駆は正面に立つ男を見据える。見れば感じるほどの膨大な怒気。震える男の身体を見れば、その怒気がまさに火山のように噴火寸前なのが誰にでも分かる。
駆はエレナの落とした金色に輝く剣を拾うと、正眼に構える。だが、どう戦ってもこの目の前にいる男……人間なのかもわからないこの化物を倒せるとは思えない。
できる事なら逃げ出したい。しかし背中で荒い呼吸を続けるエレナに走ることなど不可能なのは明らかだった。
「ふふ……、まさか只の人間に一撃入れられるなんてな……」
その火山が明確な殺意を持って駆を見た。男は腕の形を保っていた右腕も刃に変えると、
「舐めんなよぉぉぉおおお! このクソガキがぁぁぁぁあ――ッ!」
文字通り、怒気を爆発させた。
その声量にエレナは駆の服を掴み、駆は足を震わせる。
男はただ殺意を撒き散らしながら一歩一歩近づいてくる。
「死ね」
「……ぁ」
駆が気づいた時、男は目の前に立って左腕を振り上げていた。公園の街灯の光を反射して、刃物に変化した腕が鈍く光る。
男の目に浮かんでいるのは見た者を凍らせる殺意。その目に理性は無く、駆ごとエレナを殺すつもりなのがはっきりと分かった。
迫る刃。それはまるで死神の鎌を連想させ、駆は剣を捨て男に背中を向けると、エレナを包み込むように抱きしめた。
「――で、貴方は何をやっているのかしら? 警備部長さん」
しかしいつまでたっても死神の鎌は振り下ろされない。そして横から聞こえてきた、どこか聞き覚えのある声に駆はゆっくりと目を開いて、
「なッ?」
そこに広がっていた光景に駆は現実を疑った。
男は腕を振り上げたまま動きを止めていた。男が見ているのは駆でもエレナでもない。自らの頭に突きつけられた銃口だった。
そして射殺すような視線で男に銃を突きつけている人物。まるで焔を思わせる鮮やかな髪を持つその少女は、
「りん……ね?」
今日一日を駆とエレナの用事に費やしてくれたクラスメイト、司馬凛音だった。