目覚めた幼女
今まで男性主人公の作品しかなかったので、女性主人公の作品も書いてみました。
規則的な秒針の音が響く中、透明の管を流れていく赤い流れを見ている。
腕に刺さった針の鈍い痛みには、もうすっかり慣れていた。
「実験開始から経過15日目、気分はどうだい?」
呼び掛けられた声で、ぼんやりとした思索が中断される。
年の頃は三十に少し足りないくらいだろうか、色気の無い白衣に黒縁眼鏡という、如何にも研究者然とした格好の女性が、こちらをじっと見つめていた。
「……最悪だな、博士」
身なりにこだわりは持たないのか、博士の白衣はあちこちがほつれ、金髪は無造作に伸ばされており、両の目は長い前髪に隠されて殆ど見えない。
「それはご愁傷様だね」
言葉とは裏腹に、博士の口調にまるで悪びれる様子は無い。
「ったく、いつまでこんな事させる気だよ」
「精神崩壊の兆しも無し、経過は極めて順調……と」
こちらの怒りを全く意に介さず、博士は膝の上に乗せたカルテへ何かを記入していた、
「では、何時もの質問だ。ここは何処かな?」
「だから覚えてるって、オレがいた世界じゃないんだろ?」
「詳細な説明は出来るかな?」
何度も同じ内容を話させるのも、ここで行っている実験とやらの一つらしい。
苛立ちを覚えるが、今は従わなければどうにもならない。
「ここの世界はイルフェシア、今いる場所はドーンクロイツ帝国のなんとか研究所、だろ?」
いきなり帝国による次元転移実験とやらに巻き込まれ、訳も分からないまま帝国の研究所に確保された。
身寄りも何も無い異世界人を守るものはおらず、今は異世界人の標本として様々な実験を受けさせられている。
何でもこの体は、博士が行っている研究とやらにとても有益らしい。
思わぬ形で有用な素材が手に入ったと、博士が上機嫌に呟いていたのを聞いている。
「ふむ、記憶の定着に以上も無し」
カルテに記を付けながら、意味深な笑みを浮かべる博士。
その怪しげな様子は、いわゆるマッドサイエンティストと呼んで差支えないものだった。
「さあ、今日も楽しい実験を始めよう」
カルテを置いた博士は、楽しそうに立ち上がる。
「またか……」
実験と銘打っているが、実際は退屈な作業の繰り返しだ。
血を抜かれたり、元の世界について何度も質問されたり。
こう毎日標本扱いされていると、まるで檻の中の鼠になったようだ。
「安心してくれ、今日は特別さ。何せ――」
博士の顔がぐっと近づき、髪の隙間から双眼が覗く。
「君が、完全に生まれ変わるんだからね」
見開かれた金色の眼は、期待と狂気に満たされ爛々と輝いていた。
※
「――っ」
岩のように固いベッドの上で、マツリは目を覚ます。
鉄格子から差し込むおぼろげな光が、冷たい牢獄の中を照らしていた。
「折角見るんなら、もっと楽しいのにしろっての……」
ベッドから起き上がりつつ、誰が聞くでもない悪態をぶっきらぼうに吐き捨てる。
今のマツリは研究所から身柄を移送され、この牢獄に捕えられていた。
帝国軍が管轄する基地の地下に設置された牢獄は、様々な理由で大っぴらに出来ない事情の囚人達が収容されている。
反抗的な態度に対する一時的な懲罰処置だと説明されたものの、この状態で既に一週間は経過していた。
「さぁて、どうするかね」
誰に聞かせるでもなく呟いたが、特に何かやる事がある訳でもない。
狭い牢獄の中には最低限の家具しか存在しておらず、暇を潰すのにも苦労する。
一つ溜息を付いて、取り敢えずベッドから降りようとした、そのとき。
牢の外で、耳を劈く轟音が轟いた。
何かが爆発したような炸裂音に混じって、大勢の人間による叫び声が聞こえてくる。
それと同時に、臓腑に響く重い振動が断続的に牢を揺らしていた。
「おい、何があったんだよ! おい……くそっ!」
異変を察知し廊下へ呼び掛けるが、答える声は無い。
戸惑うマツリへ、爆音と振動は次第に大きくなっていく。
と、廊下が俄に騒がしくなり、幾人かの規則的な足音が聞こえた。
「隊長、ここにも囚人が」
扉を蹴破って現れたのは、統一された服装の男達。
支給品の軽鎧と兜を身に纏い、腰には片手剣か魔導杖を装備している。
制服の胸に刻まれた鷹の紋章は、マツリを捕えたドーンクロイツ帝国兵の証だった。
「おい待てよ、俺は別に逃げようなんて」
「問答無用! 騒乱を避ける為、全ての囚人は処刑が決定された!」
角の付いた兜を被った兵の合図で、周囲の兵士は一斉に魔導杖を翳す。
魔力の輝きによって眩く光る杖の全ては、一人の人間へ向けられていた。
「うわっ!?」
首をすくめた祀の数㎝上を、蛍光色の魔力弾が通り抜けていく。
無数の光球は壁に当たって弾け、衝撃で祀は前方に吹き飛ばされる。
「容赦するな、一斉に撃て!」
蹲った祀へ向け、容赦なくいくつもの杖が向けられる。
「……そうか、お前等はそうなんだな」
「放て!」
隊長の号令で、一直線上に構えられた魔杖からほぼ同時に魔力弾が放たれた。
無煤の光球が、無情にもマツリの体へ殺到する。
轟音が室内を包み、巻き起こった白煙で視界が閉ざされていく。
「杖を降ろせ」
隊長の号令で、兵士達は杖を降ろす。
兵士達の中には、明らかな嫌悪感を浮かべているものもいた。
恐らく、目の前に広がる光景を想像したのだろう。
もうもうと立ち込める煙の先には、最早原型を留めていない無残な死体が転がっている筈だから。
「人の体を勝手に弄んで、挙句の果てがこれか!」
だが、その予想は外れたようだ。
「なっ、何故生きている!?」
隊長の絶叫と共に煙が晴れ、マツリの姿が露わになる。
直撃すれば大の男でも粉々になる魔力弾を数十発喰らっても、マツリに目立った損傷は無い。
服こそ散り散りに焼け焦げているが、体は全くの無傷である。
「こいつは流石に、堪忍袋の緒が切れたぜ!」
激高と共に叫んだ次の瞬間、マツリの姿は隊長の目前に迫っていた。
マツリは、たった一歩で十数mの距離を移動していたのだ。
「待て、我らに危害を加えるという事は、即ち帝国にっ!」
目の前にいる相手が尋常の存在でないとようやく把握し、隊長は冷や汗を流しながら抗弁する。
「知るか馬鹿!」
が、喋り終えるのを待たずに振り抜かれた右の拳で、隊長の体は遥か彼方へ吹き飛んでいた。
直線状に吹き飛ばされた体は凄まじい勢いで壁を貫き、轟音と共に研究所の外へ消えていく。
それは余りに一瞬で、芸術的にすら見える一撃だった。
「た、隊長!?」
目の前で隊長が消失、隊員達の間に動揺が広がる。
理解の範疇を越えた現象を前に、彼らは瞬時にパニックへと陥っていた。
「向かってくるんなら、お前等も」
「う、うわぁぁ!」
「に、逃げろっ!」
マツリがぎろりと一睨みしただけで、兵士達は呆気なく逃げ去っていった。
「戦う気も無いんなら、最初から来るなっての」
元の静寂に戻った部屋の中で、マツリは一人佇む。
と、何とはなしに周囲を彷徨っていた祀の視線が、足元を向いて静止した。
「これが、今のオレか」
割れ落ちた硝子の破片に、マツリの姿が映し出される。
体の線は折れそうなほど細く、身長は大人の腰程度しかない。
肌は透き通るほどに白く、艶のある黒髪は額で切り揃えられていて、あどけない顔つきをさらに幼く見せている。
そこに立っていたのは、どう見積もっても十に満たない幼女だった。
「冗談みてぇだよな、ホントに」
鏡に映る自分の姿を見つめて、マツリは忌々しく吐き捨てる。
以前のマツリを知っている者がもし今の姿を見ても、同一人物だとは全く気が付かないだろう。
研究所で受けた度重なる処置が、マツリの体を変えていた。
まるで彫刻品と見紛う美しいものであったとしても、マツリにとっては忌むべき対象でしかない。
「……オレがやったんだよな」
壁に空いた人型の穴を見て、マツリは呆然と呟く。
マツリ自身も、既に気持ちのどこかでは気付いていた。
変わってしまったのは、外見だけではない。
もっと、人間としての根本的な部分が、どうしようもないくらい変わり果ててしまったのだと。
今マツリが持っている力を最大限発揮すれば、こんな牢獄などすぐにでも脱出できた。
変容した自分を認めたくない足掻きが、無意識に力を押し込めていたのだ。
しかし今、その枷は外れた。
「受け入れるなんて、絶対に御免だ……!」
鏡が思い切り踏み付けられ、軽い破砕音が響く。
マツリは飛び散った破片を踏みつけ、更に砕いていく。
自分の姿を映すものが無くなるまで、ひたすらその作業は続いた。
「オレは、絶対元の体に戻ってやる」
強い決意を秘め、マツリが部屋の外へと歩き出した、そのとき。
「ぐっ――!?」
視界が揺れ、意識を強い眩暈が覆う。
膝を付き、頭を振ってどうにか抗おうとするが、凄まじい疲労と倦怠感が押し寄せていた。
気が付けば目の前が暗く染まり、マツリは地に倒れ伏していた。
※
「ようし、勝ったぞ!」
退却していた帝国軍を見送り、兵士達から歓声が上がる。
前線から離れた補給基地を襲い、苦戦続きの解放軍は久方ぶりの戦果を挙げていた。
全体から見れば小さな戦果とはいえ、勝利を収めて喜ばない兵隊はいない。
浮かれ気分の兵士達は、思い思いに砦の中を物色していた。
と、地下の牢獄を警戒しながら探索していた兵士の一人が、廊下の一角を見て声を挙げた。
「君、大丈夫か?」
そこにいたのは、戦場には似つかわしくない幼女。
地面に寝そべったまま動かない幼女を見て、兵士は周りに声を掛ける。
「おい、子供が倒れてるぞ!」
「衛生兵を、速く担架を持ってこい!」
その叫びを聞きつけた他の兵達が、幼女の元へ慌てて駆け寄る。
周囲の喧騒を他所に、マツリは穏やかな寝顔を浮かべていた。