1話 Aspirin
静まり返った夜の教室。照明の消えた空間へ月光が淡く差し込み、開いた窓から一人の女がそれを眺めていた。
「今夜は満月なのね」
二十代前半くらいの歳だろうか。
すっと夜風が入り、長い髪がゆっくりと頬を掠めた。
穏やかな香り。それにつられるように一匹の黒い蝶が舞い込み、彼女の肩にとまる。
「決心はつきましたか?」
そんな時、背後から杖をつく猫背の老婆が声をかけ、女を振り向かせた。年の割に衰えを感じさせない老婆の強い目に、蝶が怯えたように飛び立つ。
「あなたが揺らいでいては“彼”を守れません。必要なのでしょ? あなた達はお互いが」
老婆の真剣な眼差しが光に照らされ、女は言葉の深さを垣間見る。
「……分かった、こちらで引き受けるわ。でも」
――彼が、私を必要とするかは分からない。
視線が交じり合い、その頭上を蝶がはばたいた。
ヒラヒラと舞い、月光が反射すると、その羽が幻想的なコバルトグリーンへと輝く。
――私と彼が望む世界は、違うかもしれない。だとしたら、彼は……
美しく光る鱗粉を振り撒く蝶は、夜の世界へと消えていった。
*
「怖い……誰か、誰か助けて」
彼はいつも怯えていた。
なぜなら彼は、他の者とは違っていたから。
周りの者は皆ちゃんとした人間、しかし彼はそうじゃない。
「分からない、何もかも。怖い、誰か助けて」
――誰か、せめて僕の側に……
そう願った時、彼の手を柔らかな感触が包み込んだ。
誰かの手。少し冷たくて震えている。強く縋りつき、まるで救いを求めるかのような手。
「僕を必要としてくれている……?」
――いったい誰の手?
「……ん」
目が覚めた。どうやら夢を見ていたらしい。
ベッドから起き上がり、瞼をこする。レースカーテンが開けたままの窓からふわりと風に靡き、閉めるのを忘れていたことを思い出す。
清々しく、優しい風。
「またあの夢か」
少年が小さく呟きながら、ゆっくりと手を翳す。
夢を見る時は決まって同じ夢。そして決まって同じところで目が覚める。
「あれは誰の手、だったんだろう?」
気になっていつもその先を願うが、叶ったことはない。
今日も駄目だったと彼ががっかりしていると、不意に側の鏡が視界に入り、姿が映った。
通常の人には決してない獣の耳――思わず目を逸らす。
なぜこんな耳なのか、全く分からなかった。そもそも彼は、記憶を喪失してしまっているのだ。考えたところで分かる筈がない。
とりあえず少年は気を取り直して着替えると、最後にキャスケット帽でその不愉快な耳を隠して部屋を出た。
出るとすぐに白い大理石の通路が続き、まっすぐ歩いていくと、一階から天井まで吹き抜けのエントランスホールが広がる。
中央では噴水が心地良い音を奏で、頭上ではシャンデリアがキラキラと輝く。まさに豪邸の華やかさ。すると、
「やぁ、おはようチャン君。よく眠れたかい?」
ホールの一角から声が聞こえ、チャンと呼ばれた少年はそちらを向いた。
窓辺のソファーに腰掛け、優雅にコーヒーを嗜む眼鏡の男性に、チャンは頷く。
「豪華すぎて驚いたけど、ぐっすりと眠れましたよ霧桐さん。けど、その“チャン君”ってどうにかならないんですか?」
チャンは不満そうに頬を膨らませながら彼に歩み寄る。
「仕方ないじゃないか。本当の名前が分からないんだし、君を知る人間もいない。分かったら変更してくれるだろうけど、それまでは不可だよ」
「でもせめて日本人っぽい名前がよかったんですけど……」
少年の名前はチャン・セバス。なぜかここでは勝手にそう登録されていた。
ーーここは日本国の東部に位置するエリア59。
人口密度の高いエリアであるが、そんな街中から外れた丘陵地帯を占領するように建てられたこの豪邸にチャンがいるのは、今日から始めるバイトの為。
それまでは記憶喪失で身寄りもない為、とある施設に保護されていたが、ある時院長に仕事を紹介されて、この霧桐 舞依の案内のもと、ここにやってきたのだ。
仕事の内容は、この豪邸の館長を補佐することと聞いているが。
目の前に広がる眩いばかりの朝食に、チャンは鼻をぴくりとさせる。
「遠慮しないで君も食べるといい。この後は仕事が待っているからね。しっかり力をつけておかないと」
「はぁ」
霧桐の言葉にチャンは渋々承諾しつつも、芳しい匂いに誘われて、あっさり食事を始めた。
焼きたてのトーストに、幾つもの種類を兼ね備えたジャムの中からブルーベリージャムをつけ頬張る。側にはほんのりと湯気を醸すホットミルクティー。
他のサイドメニューも、白で統一された食器にたくさん並べられ、どれも目移りしてしまう。
そんな幸せそうに食べるチャンの向かい席で、霧桐はちらりと壁時計を眺め、そっと窓の外を見る。そこは植物達が青々と生い茂る暖かな風景。
「これからどんどん暖かくなっていく。春ももう終わりだな」
「え」
「いや……」
霧桐が呟いた言葉にチャンはキョトンとしていると、パタッと微かな羽音が聞こえた。
一匹の黒い蝶。どこから入り込んだのか、二人の方へ向かって飛んでくる。
「時間通りだな。“彼女”にしては珍しい」
「え?」
霧桐はなぜか苦笑しながら立ち上がると、人差し指を伸ばし、ちょうどその先端に黒蝶がとまった。まるで彼の意図することが分かったように。
「霧桐さん、その蝶は?」
「うーん、遣い魔っていうのかな。そんな大層なモンじゃないけど」
「遣い魔……?」
そんなものがこの世に存在するなんて、チャンは知らなかった。いや、彼の記憶が喪失しているだけで、一般的には認知されているものなのかもしれない。言葉や常識的なことは覚えていると思っていたのだが。
「悪いけどチャン君、ちょっと急いでくれるかい? “彼女”がお呼びなんでね」
「もしかして、その人が館長?」
「そういうこと」
チャンは霧桐の返答にゴクンとトーストを飲み込むと、リラックスしていた背をビクッと伸ばし、勢い良く立ち上がった。
つい先程まで名前の登録に関して文句を言ってやろうと思っていたのだが、途端に緊張が走り、朝食どころではなくなっていた。
「僕は大丈夫です。行きましょう、霧桐さん!」
二人はホールを後にし、外へと出た。黒蝶が先導し、それを追うように歩く。
チャンは歩くにつれ、ここはなんて広いのだと痛感した。雑木林の中庭と入り組んだ道。そして木々の隙間から時折見える幾つもの建物。先程までいた豪邸はただのゲストハウスで、本館ではなかったという事実。彼は驚きでいっぱいだった。
「ところで、チャン君はここがどういうところなのか知ってるのかい?」
「いえ、詳しいことは何も」
霧桐の問いかけに、チャンは周りを見渡しながら答える。
確かに訊こうとしたのだが、当の院長の様子がどうも変で、訊くに訊けなかったというのが正しかった。けれど院長の紹介ならそう悪い所ではないのだろうとチャンは何となく思っていたし、何より他に理由があった。
――あなた自身のことが分かるかもしれません。
「ここはね、珍しい物品や建物なんかを管理している場所なんだ。まぁ珍しいといっても、危険なものや機密とされているものがほとんどだけど」
「え……?」
ぼんやりと回想していた中で、霧桐の言葉があっさりとチャンの思考を引き戻した。
今、聞き捨てならない単語が聞こえたのだが。
「一言で言えば、決して表に出してはならない重大なものが保管されている場所だ。君の仕事はかなり大変だよ?」
「えぇっ!? なんでそんなところに僕が!?」
「さあね。それは俺には何とも」
いったい院長はどういう考えがあってここを紹介したのだろう?
チャンはそんな考えがぐるぐると回って、いっそう不安に駆られた。
果たしてこんな大変なところで、上手くやっていけるのだろうか。
あからさまに自信の無さを顔に出す彼を、霧桐はじっと見ていた。
「……ま、理由は何となく分かるけど」
「え?」
チャンの隠された帽子の中身を見通すかのように視線を向ける。
「チャン君、“四季の黄昏”って聞いたことあるかい?」
「え? 何です、それ」
「ここで管理されている遺跡のことで、特に重要視されているものなんだ。そもそもここは、その為に作られた場所でね。しかも政府からの極秘の依頼で」
「政府!? なんで?」
「ちょっと訳ありの遺跡なんだよ」
霧桐はそう言うと、ふと視線を遠くに向けた。
チャンもそちらを向くと、少し距離を置いた別の道を一人の青年が歩いている。
切迫した雰囲気で、何かに挑むような目をして何処かに向かっているようだ。
「あれは?」
「懲りないねぇ。今月で四人目だったかな」
「四人目?」
チャンは気になって足を止めた。
緑の向こう側に長く巡らす鉄製の高い塀が見え、中央の頑丈なゲートの前に青年が立つ。
ゲート内は塀で覆われて見えず、チャンが確認することは出来なかったが、地響きと共にゲートが開き、青年は大きく深呼吸すると中へと入っていった。そしてあっという間に扉は閉じられる。
「あれじゃ今回も見込みなしだね」
「え?」
霧桐がぼんやりと様子を眺めながら呟いた。
心なしか、どこかホッとした表情に見えるのは、気のせいだろうか?
「あの中に何があるんですか?」
「遺跡だよ」
「四季の黄昏っていう? どうしてあんなに厳重なんです?」
「聞きたいかい? 政府の極秘機密だよ?」
「……」
そう言われると、チャンは急に聞くのを躊躇った。
聞いてしまえばとんでもない事態に陥りそうな気がして、つい首を横に振る。
けれど気にはなっていた。好奇心もあるが、とても大切なことのような気がして惹きつけられる。
――あの扉の向こうはいったい……
二人は再び歩き出し、しばらくして目的の場所に着いたのか、黒蝶が二人を囲むように一周した。
眼前に圧倒されるくらい大きな洋館が現れる。
黒い洋瓦の屋根にグレーの壁。屋根と同色の正面扉には、深く印象付けるかのように大きく蝶の紋様が刻み込まれていた。
どこか不思議で異質な気配を漂わせる館。建物の規模だけではない、何か得体の知れない存在感が館全体を覆っているようだ。
「ここは……」
チャンは訝しげに見上げながら、扉に手を添える。すると……
「……っ!?」
頭の中を突然セピア色の光景が駆け巡った。
木製の扉、ドアノブには一から九までの数字が記されたスイッチが見えた。恐らく暗証番号を打ち込んで解錠するものだろう。そして隣には知らないロングヘアの女。その女がメモ紙を手渡してくる。それに書かれた四つの番号。
――何だ、これ……
「チャン君?」
「わっ!?」
霧桐に肩を揺さぶられて、チャンはハッとした。
視界に色が戻り、洋館の大きな正面扉が映る。白日夢でも見ていたのだろうか。
「どうしたんだい? 中に入るよ」
「あっはい」
霧桐が扉を押すと、鍵はかかっていなかったのか簡単に開いた。
中は想像していた通りヨーロッパ風の豪勢な玄関ホールが広がり、赤いカーペットが敷き詰められた中央には大きな階段がどっしりと待ち構えていた。
「ここには誰もいないみたいですね」
辺りを見回しながらチャンは呟く。静まり返った一階は、たくさんの大きな窓からの光を浴び、明るさから全体をはっきりと見ることが出来た。
ところどころに高そうなアンティークが飾られ、一般庶民のチャンにとっては更に緊張を煽られる。
「おや? “彼女”からの手紙があるよ」
そんな時、霧桐が階段の手摺に挟まれた白い封筒を見つけ、チャンに差し出してきた。
「どうやら君宛てのようだね」
「僕に?」
受け取ったそれには“チャン・セバス様へ”と書き記されていて、チャンは手に汗握る思いで手紙を開いた。
――二階にて、適性審査を開始する。
手紙にはそう記載されていた。適性審査とはいったいどういうことだろうか?
チャンは首を傾げていると、黒蝶が彼の左手首にとまり、突然身体を輝かせ始めた。コバルトグリーンの光に包まれそれが治まると、蝶の姿ではなく、チャンの手首にしっかりと固定された黒のレザーブレスとして現れる。
「これはっ!」
チャンが驚いて目を瞬きさせていると、装飾の石がグリーンに光り出し、細い光線となって階段の先を指し示した。どうやらここから二階へ向かえということらしい。
「それじゃ、いってらっしゃい」
「え?」
チャンが階段を上がろうというところで、霧桐が立ち止まって手を振ってきた。
「審査の邪魔は出来ないし、それに俺はこれから仕事だから」
「えぇっ!」
霧桐は笑顔でそう言うと、チャンがあたふたと引き止めようとする中さっさと外へと去っていった。伸ばされた手が行き場を失くして、チャンはそのまま固まる。
「てっきり僕の案内が彼の仕事だと思ってた」
期待外れの思い込みにチャンはがっくりと肩を落として、二階を見上げた。
「……行くか」
急にたった一人となって心細く思うが、チャンは光の導くままに歩き出した。
階段を上がると、薄暗く細い通路が現れ、窓もなく、石の光が明かりとなって辺りを照らす。それを頼りにチャンは歩いた。
「電気くらい付けてくれてもいいのに」
ぶつぶつと小言を言いながら壁に手を触れ、照明スイッチがないかを探す。
この状態では肝試しをしているようなものだ。何かが出てきそうな気がして、身震いする。
――ズルズル……
「ん?」
そう思っていると、どこからか擦れる音がしてチャンはギクリと足を止めた。
何だろう? 何かいるのか?
その音はだんだん大きくなって、近づいてくる。
チャンは嫌な予感を全身で感じながら、ゆっくりと音のする方を向いた。
徐々に生臭い匂いがする、背後から。と次の瞬間。
「シャアアァッ!」
暗闇の奥から、巨大な蛇が大きな口を開けて鳴き声を轟かせた。
その体は怪物並の大きさで、頭だけでもチャンの身長くらいある。
「……へ?」
それはあまりにも唐突で非現実的だった為か、チャンは理解に遅れ硬直する。と。
「シャアアァッ!」
もう一度響き渡るその声にハッとして慌てて走り出した。
「なんでこんなところに、こんなデカイ蛇がぁぁっ!?」
幸い後方から追われている為、光の導く方へと逃げる。
蛇はその大きさからか、壁や天井の至る所に身体をぶつけながら追いかけてくるが、チャンはどうしてこんな状況になったのか全く分からず、とにかく全力で駆け進んだ。
「死ぬっ! 僕、死んじゃう!」
チャンが半泣きになりながら力一杯走っていると、前方に広い空間が現れ、その中に扉が見えた。彼の表情に少しの希望が映る。
暗くて気味悪いが、光の先もそれを示している。後ろを一瞥すると、蛇との距離も少しずつ開いてきていて、なんとか逃げ切れそうだった。
チャンは一直線に目指すと、迷わずドアノブに手をかけた。だが。
「あっあれ?」
どんなにドアノブを回しても、扉は開かない。
ガチャガチャと慌ただしく音が響き、しばらくするとそれをかき消すようにだんだん嫌な音が近づいてくる。
「なんでだよ! 早くしないと……っ」
振り返ると蛇がすぐそこまで迫り、チャンに更なる焦りが色づく。
何なんだよ、これは!? これが適性審査だっていうのか!?
「ん……!」
そんな時、扉に一から九までのスイッチが埋め込まれているのにチャンは気づいた。
どうやらそれによってロックされているようだが。
――そういえばこれ、どこかで……
チャンは扉を見てハッとした。これは木で出来ている。
「さっき見たのと同じだ」
セピア色に映っていた光景、それは間違いなくこの場所。
どうしてここの情景が見えたのかは分からないが、チャンはとにかくスイッチを見ると、すぐさま番号を打ち始めた。
だとすればコードは、手渡されたメモに記されていた番号かもしれない。
「えっと確か……」
チャンは全神経を脳に集中させるようにして記憶を搾り出し、最初の二つの番号まで打ち込んだ。しかし、残りの番号が思い出せない。
「えぇっと、何だっけ? 四つだったのは覚えてるんだけど」
頭をかかえながらも必死に思い出そうとするが、それを邪魔するかのように背後から大きな影が被さり、間髪入れずに大きく開かれた蛇の口が彼の頭上目掛けて落ちてきた。
チャンはギリギリ避わして横に飛び退くが、風圧で体勢を崩し地面を転がる。
いったいどうすればいい? 思い出せないなら一か八か、勘で押してみるか?
しかしスイッチを押すにしても、蛇がそれを阻み、容赦なく襲いかかってくる。チャンはひたすら攻撃から逃げるしか出来なかった。
どうする!
そんな時、チャンはまた見た――セピア色の光景。
突然切り替ったように、ボロボロに崩れていた天井や壁が綺麗な形で再生され、情景が扉の方へ向かうように動く。
そして誰かの指がスイッチを押した――四つの番号。
ドォーーーン!
大蛇が放つ轟音でハッと我に返ると、チャンは暴れる尾を避けながら、扉へと滑り込んだ。
なぜだろう? 身体が軽くなったような気がする。
さっきまで苦戦していたのが嘘みたいに、すんなり扉の前へと辿り着く。
四つの番号。今度はしっかり頭の中に記憶されていて、悩むことなく思い出された。
チャンは残りの番号を打ち込むと、一気にドアノブを回して引き開けた。
バンッ!
勢い良く開いた扉は、彼を風圧で包み込むと素早く中へ招き込む。
「うわぁっ!」
チャンはいきなり身体の自由を奪われると、吸い込まれるようにして扉の中へと消えていった。
*
「……う」
チャンが目を開けると、気を失っていたのか仰向けに倒れていて、視界いっぱいに真っ青の空が広がっていた。
上半身だけを起こすと身体が少し重い。チャンは気怠く思いながらも周りを見渡すと、そこはただただ草原が続いていた。建物もなければ、人一人いない。そんな開放された場所にチャンはたった一人でいた。
「外……なんで?」
確か洋館の中にいた筈。状況が理解できなくてチャンは頭をかいた。
あの扉は外に通じていたのだろうか?
「……あぁっもおっ!」
考えるのが億劫になって、チャンは再び寝転がり空を眺めた。とりあえず危機を回避したことに安堵するものの、じわじわと怒りが込み上げ、気持ちが落ち着かない。
「いったい何なんだ、ここは。化物並みの蛇が出てきたり、妙な光景を見たり。館長は何をさせたいんだ?」
チャンは腕を伸ばし、レザーブレスを見上げた。
「蝶がこんなものになるし。何だよ、遣い魔って」
愚痴をこぼしながら睨みつけるように見ていると、光の筋がまだ続いているのに気づいて何気なくそちらを向いた。
するとそこに枯れ果てた大きな木が一本立っていて、その周辺だけなぜか雪が降っている。
「……なんであそこだけ? だいたい今の時期に雪なんて……」
その異様な光景に、チャンは呆然とする。
そもそもあの木、さっきまであっただろうか?
不可解なことが多過ぎて、全身の力が抜けるようだった。もしかしたら、今後何が起きてももう驚かないかもしれない。
チャンはそんなことを思い、乾いた笑い声を漏らす。するとその時、
「シャアアアァァッ!」
「え……?」
突然、大きな蛇の顔が目の前に現れ、空気が一瞬止まった。それも今度は一体ではなく数体。
もう驚かないと思ったことなどあっさり忘れ、チャンは開眼して凍りつくように固まった。とその時、
――バァァンッ!
どこからともなく銃声が響き渡り、その瞬間、目の前の蛇がズルズルと太く長い身体を崩し、倒れていった。
チャンは何が起こったのか分からず、とりあえず首を銃声のした方へぎこちなく向かせる。
すると枯れ木の側に銃を握る女を見つけ、チャンはハッとした。
それはセピア色の光景で見た女。
――ドクン……
目が合った瞬間、チャンの心臓が大きく跳ねた。
何か普通の人とは違う、ゾッとする気配。冷たい視線。
彼女の鋭い瞳がそう思わせるのか、かち合っただけで屈服させられるような恐ろしい威圧感があった。
なんだ、この感じ……
女は長い髪を左右に揺らし、歩いてくる。
すると突然、彼女は銃口をこちらに向け構えた。
「え……?」
バァンバァンバァンッ!!
考える間もなく撃たれると、弾丸のいくつかがチャンのすぐ側を通り過ぎ、背後のソレに当たった。
振り返ると、残りの大蛇達がまさにチャンを襲おうとしていたところで、大きな口をぱっくりと開けたまま地に落ちていく。
気づかなかったというより、忘れていた。こんなにも大きな化け蛇の存在を。
それほどまでに彼女へ意識が傾き過ぎていたのか、チャンの額から冷や汗が流れた。
すると、レザーブレスが急に蝶へと戻り、チャンの手から離れて彼女の方へ飛んでいく。そして彼女の肩にとまると、蝶はパンっと弾けるようにして消えた。
おそらく彼女が黒蝶の主人。
「……ということは、この人が館長……」
「殺風景な割に、随分と蛇が多いのね。あなた、そんなに切羽詰ってるのかしら?」
「え?」
そんな時、彼女は呟くと、機嫌が悪そうにつりあげた目を周囲に向けた。
ガサガサと草むらに潜む蛇の音が、至るところから聞こえてくる。
まだいるのか……!? 四、五匹……いや、もっといる。
しかし遠い距離であった為か、襲ってくるような気配はなかった。だからといって安心は出来ないが。
「ま、こんなものかしら」
「え?」
「ギリギリ合格よ、チャン君。足速そうだし、それだけ動けるならとりあえず何とかなるわ」
「え? え!?」
彼女はそう言うと、指でくるくると銃を回しながらチャンを見る。
「私は館長の佐央 しん。この二階は、最初にあの階段を上った者の心の内を映像化するプログラムが組み込まれているの」
「プログラム……?」
そもそも“この二階”ということは、ここはまだ洋館の中。
しかも館長・しんの口ぶりからして、一部始終見られていたようだ。
「プログラムってことは、本物の蛇じゃないってことですよね?」
それでもチャンはホッとして肩をなで下ろした。
しかし、そんな彼の様子を見当違いのようにしんは話す。
「危険であることには変わりないけどね」
「え……?」
「たとえ実際には存在していなくても、あなたの脳は今そこにあると認識してしまっている。それは視覚、聴覚、嗅覚……あらゆる感覚が反応して脳に伝達してしまっているからよ」
それを聞いてチャンはハッとした。
もし仮に襲われていて、死に至る幻覚をみせられていたとしたら……?
「それ、危ないじゃないですか!! もし最悪なことになってたら、どうするつもりだったんです!!」
「だから助けてあげたでしょ? いちいち吠えないでくれる?」
ことの重大さに気づいて、チャンは慌てた。
脳が本当に死んだと認識してしまっていたら、ショック死する危険性があったのだ。
「別にいいでしょ、最悪なことになってたって。それはあなたがそこまでだったってだけなんだから。使えないようなら、いらないし」
「なっ!? 人の命を何だと思ってるんですか!」
「……人の命?」
チャンの一言を聞いて、しんの眉がピクリと動いた。
冷淡な目が向けられ、先程感じたゾッとする空気が、チャンの中に入ってくる。
――この人と目が合うと、身体が震える。
――怖い。
「そういうことは他所で言ってくれる? ここでは危険物の管理が最優先で、人の命なんて重要視されない。もともと何が起こっても保障なんか誰もしない。そんな場所だもの」
「え……?」
チャンは耳を疑った。
人の命が社会的に保障されない、そういうことなのだろうか。
彼の頬を嫌な汗が流れ始めた。
「でも政府がここを造らせたって。政府が保障してくれるんじゃ……」
「寧ろ政府がここを世間から隔離してるのよ。ここに存在しているもの、ここで起こったことは全て、外部へもらしたくない筈だから」
「どうして?」
「管理されているのは全て、あの遺跡“四季の黄昏”に関係しているものだからよ」
「四季の黄昏……?」
再び不可解な遺跡の名前が出てきて、チャンはたじろいだ。
政府が秘密にしておきたい理由とは何なのだろうか。
嫌な予感しか出来なくて、チャンの動悸が激しくなる。
「政府はどうしてもあの中に眠っているものが欲しいらしいわ。それも自分達の手でね。おかげでいつも政府関係者が訪れて、こっちは大迷惑。お偉い様の身は必ず守るようにって。こっちの身は保障しない癖にね」
「そんなっ」
「でも愉快でもあるわ。無様に悲鳴をあげた時の顔なんて、最高のポジションで見れるし」
しんはそれを思い出してか、見下した表情で楽しそうに笑った。
そんな彼女をあり得ないという目でチャンは見ていると、それに気づいてしんが囁く。
「分かった? ここではそんなものなのよ」
それが当たり前であるように、普通であるように、彼女は言った。
ここでは社会的秩序なんてないのだ。政府がそれを認めている。
チャンはグッと固く握り拳を作ると、震える唇を開いた。
「……そんなの間違ってる。地位のある人だけが助けられるなんて……」
「そうね。そういえばあなたは、人権すらあるか分からないものね」
「えっ」
しんはそう言うと、チャン目掛けて銃を撃った。
まさか本当に撃ってくるとは思わず、身動き一つチャンは出来ず目を見開いていると、それは彼の帽子を掠め、一瞬で吹き飛ばした。
彼女の目に、チャンの隠していた獣の耳がはっきりと映る。
「きっちり帽子で隠しちゃって。自覚があったのかしら?」
「どうして、僕の耳のこと……」
「他の皆と違う。人間じゃない。疎外感? 孤独感? 迫害されたくなくて必死なのかしら?」
「違う!! 僕は……っ」
彼女の言葉がチャンの痛い部分にどんどん突き刺さってくるようだった。
彼の中で、的を射た言葉だったのかもしれない。
更にしんの声から感じる圧力が、チャンの恐怖を煽ぐ。
「良い子ちゃんぶって、人に受け入れられたいの? でも外の世界でも、あなたは守られない。安心出来る居場所がなくてうろつく野良犬なのね、あなた。ようこそ保健所へ」
「僕は人間だ!!」
チャンは気づくと、声を張り上げ怒鳴っていた。
もう全身で怯えている。けれど、ここではっきり言っておかなければ、彼の中で全てが壊れてしまうような気がしていた。
「人の命が大事なのは当たり前のことだ。それに人だけじゃない、生きてる命には必ず価値があるんだ! 必ず」
そんな綺麗事を並べたような台詞しか出てこなかったが、彼にとってそれが精一杯の本音だった。
しかしそれをあざ笑うように、しんは高笑いをする。
「言うじゃない、何も知らない坊やが。……いいわ、だったらそれを証明してみせなさいな」
「え?」
彼女は、鋭い瞳をチャンに向けた。
その視線だけで殺せてしまうのではないかというくらい、恐怖を宿す瞳。
「生きている命の価値を、政府が“物”として手に入れようとしている命を」
――あの遺跡に入って、政府より先に手に入れて救ってみせろ。